第7章
その年の十一月のある朝、ローラは朝食の席で夫と一緒になった。何かに心を奪われていた。それも少し思い詰めていて、ある問題のことばかり考えていた。もう話さずにはいられないと自分に言い聞かせた。ジャドウィンが新聞を置き、コーヒーカップを自分の方へ引き寄せて、機会が訪れたので、さっそくローラは大きな声で言った。
「カーティス」
「どうしたんだい、奥さん?」
「カーティス、あなた……いつになったら終わるの……あなたの投機は? 以前はこんなことなかったのに。近頃私は全然あなたと一緒だったことがない気がするわ。書類や報告書に目を通しているわけでもないのに、書斎にこもってグレトリーさんと何時間も話しているわけでもないのに……そういう用事を何もしていないのに……あなたの心は私から離れているようだわ……ラサール・ストリートか取引所にでも行っちゃってるんでしょ。ああ、あなたにはわからないんだわ。私は文句を言っているんじゃないのよ。無理強いしたり、わがままを言っているんじゃないの。でもね……時々……私、寂しいの。最後まで言わせて」ローラは慌てて言った。「一度に言っておきたいから。そうすれば二度と蒸し返さないわ。昨夜、グレトリーさんがいらしたとき、あなた、ディナーのあと、話は一時間で終わるって言ったわ。そして、私は待ったわ……。十一時まで待って、それから寝たのよ。あなた、私……私……私、寂しかったわ。夜がとても長かった。一番きれいなガウンを着てたのよ、あなたが大好きだって言ってたやつよ。それなのにあなたは気づきもしなかったみたいね。グレトリーさんは九時までに帰るって言うから、夜をどうやって一緒に過ごそうか、私、計画を立ててあったんだから」
しかしローラはそれ以上言えなかった。夫が抱きかかえて、自責の念と反省の言葉を叫びながら、ローラの言葉を遮ったからだ。ジャドウィンは叫んだ。自分はひどい奴だ、無神経で、身勝手な馬鹿者だ、こんな妻を持つ資格はない。 今までローラのまつ毛で揺れていた涙の一つにも値しない。
「もうこの話はやめましょう」ローラは言い始めた。「私が身勝手なのよ……」
「身勝手、とんでもない!」ジャドウィンは叫んだ。「そんなことないよ。私の方こそ……」
「でも」ローラは言った。「いつかあなたは……この投機から綺麗さっぱり足を洗うんでしょ? まあ、それを楽しみにするわ! だって、カーティス、いったい何の役に立つの? 私たち、今とても裕福よ、お金だって使いきれないわ。何のために増やすの?」
「ああ、お金の問題じゃないんだ」ジャドウィンは答えた。「楽しいからさ、興奮するんだよ……」
「それよ、その『興奮』なのよ。あなたはわかってないわ、カーティス。それがあなたを変えているのよ。あなたは時々とてもぴりぴりしてるし、私が話しかけても時々耳を貸さないことがあるわ。あなたが考えてることはちゃんとわかっているんだから。小麦……小麦……小麦、小麦……小麦……小麦、いつもそればっかり。ああ、私がどんなに嫌な思いをして心配しているか、あなたにわかってほしいものだわ!」
「よしよし、奥さん、わかったよ。もう金輪際小麦のことできみを不幸にしないよ」
「じゃあ、投機をやめるの?」
「まあ、すぐに全部は無理だが、チャンスが来次第、相場から手を引くよ。とにかく、夫婦の間には仕事を立ち入らせない。私だってきみと同じでそんなのはご免だからね。そうだ、きみが私に朗読してくれるときのように、私たちが一緒に本を読むようになってから、どのくらい経つかな?」
「別荘から戻って来てからはないわよ」
「ああ、そうか、そうだな」ジャドウィンは首を振った。「段々やらなくなったからな。きみのいう通りだ、ローラ。でも、小麦の取引ってやつがどんな風に人を支配するものか、きみにはわからんだろう、想像もつくまい。それで、私はどうすればいいんだ? 私たちのような金持ちはどうすればいいんだろう? 私は忙しくしてなきゃいられないんだ。座って親指を動かすなんていうのはご免だからな。それにクラブでぶらぶらする、競馬で遊ぶ、鳥撃ち、哀れで無力な狐を死ぬまで追い回すなんていうのも駄目だ。投機だけが唯一の娯楽というか、やりがいに思えるんだ。私にはそれしか残されてない……それがぴったり合うみたいなんだ。のめり込み過ぎてしまったのはわかってる。やめると約束するよ。でも、ものすごく楽しくてね。取引の進め方を知っていて、他の人たちよりも少し先が読めて、他の人がとらないようなリスクをとって計画を立てて操作して、そしてそのすべてが自分の見越していた通りになるのを見てごらんよ……吸い込まれてしまうんだ」
「でも、あなたは私に話をしてくれないでしょ」ローラは反論した。「私はあなたが何をしているのかわからないわ。コートさんやグレトリーさんを通して聞くことはあるけど、あなたからは聞いたことはないもの。私を信じられると思ってないの? 私はどこからでもあなたの人生に立ち入りたいのよ、カーティス。私にも話してよ」ローラは突然要求した。「今あなたが何をしているのかを」
「いいだろう」ジャドウィンは言った。「じゃあ、話してあげるよ。もちろん、このことは口外しちゃいけないよ。これは秘密でも何でもないんだけど、いつだってこういうことは黙っていた方がいいからね」
ローラは返事をすると、テーブルに肘をついて、夢中になって話を聞こうとした。ジャドウィンはコーヒーカップの内側で砂糖の塊を砕いた。
「うーん」ジャドウィンは始めた。「小麦を買う以外は、これと言って派手なことはしていないんだ」
「何のために買うの?」
「また売るためだよ。私はね、小麦が値上がりしていると信じる側の人間なんだ。私が最初にそれを予見したのは四月だったかな。今年の八月、湖にいってる間に三百万ブッシェル買ったんだ」
「三……百……万ブッシェル!」ローラはつぶやいた。「それで、それをどうするの? そんなもの、どこに置くのよ?」
ジャドウィンは、特定の日に穀物を買う権利を買っただけだと説明しようとしたが、ローラはこれをよく理解できなかった。
「いいから続けて」ローラは言った。
「八月末にイギリスが天候不順で不作になることがわかり、九月にはシベリアがロシア南部地方に供給する十分な量を生産できないという知らせが入った。そうなると、アメリカとアルゼンチン共和国だけで、全世界のほとんどをまかなうことになる。もちろん、そうなれば小麦は貴重になるだろう。どこもかしこも不作になる年らしいからね。私は小麦がどんどん値上がりすると見て、十月にもう百万ブッシェル、今月初めにさらに百万ブッシェル買い増したんだ。以上だよ。イギリス、イタリア、ドイツの人たちは……小麦を食べる人たちは……すぐにアメリカの私たちに高い値段を払うようになると思うよ、だってとても入手しづらいからね。彼らは小麦を手に入れなきゃならないんだ……彼らにとって小麦はバターを塗ったパンだからね」
「それならその人たちにあげればいいじゃない」ローラは言った。「その貧しい人たちにあげましょうよ……あなたの五百万ブッシェルを。だって、それが彼らにとって天の恵みになるのよ」
ジャドウィンはしばらく凝視してしまった。
「ああ、そういうもんじゃないんだよ」ジャドウィンは言った。
しかし、それ以上言う前に、メイドがやってきて、ジャドウィンに三通の郵便物を手渡した。
「ああ、あれね」メイドが出て行くと、ローラは言った。「毎朝受け取っているやつね。それがあなたの仕事に関係しているの? 何て書いてあるのよ?」
「読んであげよう」ジャドウィンはそう言って最初の封筒を破いた。「これはヨーロッパにいる私の代理人からの電報なんだ。これを私に送るようにグレトリーが手配してくれたんだよ。ほら、これはオデッサからのものだ。中身は暗号なんだ」ジャドウィンは胸のポケットから細い手帳を取り出した。「解読してあげよう」
しばらく解読キーを記した手帳のページをめくり、時計の鎖の先にある金の鉛筆で封筒の裏に解読文を書き留めた。
「内容はこうなっている」ようやくジャドウィンは言った。「『リバプールの現物小麦はブッシェルあたり一セント上昇、買い優勢、在庫薄。内陸部への出荷は続いている。欧州価格は売り手に魅力なし』」
「それってどういうことなの?」ローラは尋ねた。
「つまり、ロシアは小麦を輸出しない。自分たちの分しかないからね。だから西ヨーロッパは自分たちの小麦を我々に頼るしかないってことだよ」
「他のは? 読んで聞かせて」
ジャドウィンは再び解読した。
「これはパリからだ。
『小麦百万ブッシェルの希望価格を回答されたし……予想より在庫薄、なくなりかけている』」
「どう答えるの?」ローラは尋ねた。
「先方は私が百万ブッシェルをいくらで売る気かを知りたがっている。現地では現物が入手困難だとわかったんだな……私が言ったとおりになったんだ」
「彼らに売るの?」
「多分ね。サムに話してみるよ」
「いよいよ最後の一通ね」
「リバプールからだ。リバプールはね、きみも知ってのとおり、小麦をいっぱい買ってくれるんだよ。ものすごく影響の大きな場所なんだ」
ジャドウィンは再び解読キーを記した手帳を調べ始めた。一本の指が手紙の一連の暗号化された文字をなぞった。
ローラは見ていて、突然夫の目の色が変わったように見えた。「うーん」ジャドウィンははつぶやいた。「いったいこれはどういうことだ?」
「何なの?」ローラは尋ねた。「重要なことなの?」
しかし、ジャドウィンはすっかり気を取られてしまい、耳を貸さないし反応もしなかった。三度同じ言葉を確認した。
「ねえ、どうしたのよ」ローラはせがんだ。
ジャドウィンは苛立たしそうに首を振り、手を挙げて制した。
「待って、待ってくれ」ジャドウィンは言った。「ちょっと待ってくれ」
解読した電報の文字を一語一語書き出して、それをじっくりと調べた。
「これで合ってるな」ようやくジャドウィンは言った。それから立ち上がった。「朝食はもういい」と言った。腕時計を見て、呼び鈴に手を触れた。メイドが現れると言った。
「すぐ馬車を回すようジャービスに言ってくれ」
「ねえ、どうしたの?」ローラは繰り返した。「教えてくれるって言ったでしょ。ほら」ローラは叫んだ。「言ったとおりだわ。あなたったら私の存在そのものを忘れちゃうのよ。小麦のことになると、私なんかどうでもいいんだわ。そして今だって、電報を読んだとたんに人が変わったじゃない。そう顔に出てるわ。他のことなんかどうでもいいほど夢中で、勝利に酔いしれ、ぎらぎらしてるもの」
「きみだって夢中になるさ」ジャドウィンは叫んだ。「理解できればな。見ろ、自分で読んでみるんだ」
ジャドウィンは電報をローラの手に突きつけた。暗号文の上に解読文が書いてあった。妻はそれを読んだ。
「アルゼンチンの出荷の減少により、こちらの大手商社は品不足、困窮中。価格が満足なら、小麦五百万、交渉可能」
「それで?」ローラは尋ねた。
「うーん、きみにはその意味がわからないか? とうとう『ヨーロッパが需要側』に回ったんだ。先方は小麦を入手しなければならないんだ。私は彼らに提供する分を入手済みだ……買付価格は七十セントだよ! 先方は相場で買うんだ、八十セントでね。いや、もっと出すだろう。私が望めば、八十二セントだって払うだろう。フランスもそいつを欲しがってるんだ。さっき読んだパリからの電報を思い出すんだ。彼らは互いに競り合うことになる。まあ、もしここで手仕舞えばこれは終わりだ……すると」ジャドウィンはローラに話すのと同じくらい自分に語り続けた。この事態の新しい局面がだんだんわかり始めてきたのだ。「何も私がこの小麦を売って価格を下げる必要はないな……それに、グレトリーは倉庫の関係者を通じて鉄道会社と申し合わている。だから我々は大きなリベートを手に入れることができるんだ。この小麦は先方には八十二セントの価値がある。……そこへ『アルゼンチンの出荷縮小』の報告が届いた。向こうで作柄が悪いというのは初耳だ。もしアルゼンチンの作柄が悪ければ、小麦は取引所の屋根をぶち破ることになるぞ!」メイドが入口に現れた。「馬車が来たか?」ジャドウィンは尋ねた。「よし、私は出かけるぞ、ローラ、そして……この件が終わるまで、このことは黙っているんだぞ、いいな。いつかまた私に電報を読んでくれと頼んでくれよ。そいつが幸運を運んでくれるからな」
ジャドウィンは電報と郵便物をまとめて出て行った。一人残されたローラは座ってしばらく窓の外を眺めていた。玄関のドアが閉まる音が聞こえた。やがて車寄せのそばのアスファルトを踏む馬の蹄の音がした。その音が静かになって消えた。とたんにすごい静寂が家を包み込んだようだった。
ローラは座って考えごとをした。ようやく立ち上がった。
「カーティスがお別れのキスをし忘れたのは初めてだわ」ローラは独り言を言った。
十二月にしてはうららかだった。太陽は輝いていた。足元の地面は乾いて固かった。十日前に降った雪はほとんどなくなっていた。絶好の乗馬日和だった。ローラはメイドを呼び、乗馬服を着込んだ。降りてくると、自分の馬と「クルセイダー」を連れて馬丁が待っていた。
昼前にローラは、いつもより遠くまで、長い時間、馬を走らせた。最初は漠然とした不安で頭がいっぱいだったが、それでもすばらしい朝の輝きと湧き上がる力と、強烈な無機質的特徴を持つ緑色の随所に白波が立って、朝の空の下で光るミシガン湖の冷たく清らかなきらめきに、ローラは刺激され励まされずにはいられなかった。リンカーンパークは閑散としていて、静かだった。青い靄が遠くで葉のない木々を覆い、植木職人たちが落ち葉の山を燃やしていた。ローラのまたがるサラブレッドは見事なまでに自由奔放に走った。馬はローラの軽やかな言葉を聞き逃すまいととがった耳を片方だけ後ろに反らした。波打つたてがみは、ローラの手もとから前腕を撫でた。肩を見下ろせば、サテンのような光沢のある皮の下で、細長い筋肉が滑らかに動いているのが見えた。ローラは給水場のところでノースレイクに続く長い直線道に入り、軽く制御しながら同時に鞭でクルーセーダーを撫でた。馬はひょいと頭をあげて急に小走りから駈歩になった。そしてローラが鞍上で前かがみになると、歩幅の広い規則正しい襲歩になった。人は見当たらなかった。ローラは目立つつもりはなかった。手綱を緩めると馬は次の瞬間、目に涙が浮かび、髪が顔にかかるほどの速さで、ローラを運んでいた。ローラは馬を完璧に乗りこなした。轡に触れれば馬を停止させられることを知り、馬が不安や緊張を感じていないことを知り、馬のあらゆる本能が自分の安全のためを思ってくれていることを知り、今朝の襲歩が騎手と同じくらい馬を楽しませたことを知っていた。ローラの足もとと周囲には道路と風景が広がっていた。冷たい空気が耳もとで歌い、真っ白な頬にかすかな色を添えた。濃い茶色の目に冷たい輝きが現れては消え、華奢な体中を血が健康で快活なあふれんばかりの強い流れとなって勢いよく駆け巡った。
ローラはノースレイクを一周し、リンネ像と温室を経由して戻ってきた。もうクルセイダーは静かな歩くような足取りになり、馬丁はぼんやりと早足でその後ろに続いた。ローラは乗馬を楽しんでいる間ずっと、公園の植木職人と、乗馬のたびに出会って通り過ぎるときにいつもヘルメットに触れて挨拶してくれるグレイのコートを着た騎馬警官以外には、誰にも会わなかった。もしかしたら、横断歩道で歩行者に気を配るのが少し不注意になっていたかもしれない。ラサール像のところで東に向きを変えたとき、同じタイミングで道路を横断していた紳士とぶつかりそうになった。
もしやと気になって少しどきどきしながら馬を止めたが、その紳士がシェルドン・コーセルだとわかると、改めてびっくりした。
「あら」ローラは驚きのあまり、礼儀作法などそっちのけで、一気にマサチューセッツ州バリントンの若い少女に逆戻りして叫んだ。「まさかね……よりによって」
しかし、間違いなく、ローラの思い出の中にいるコーセルよりもコーセルの思い出の中のローラの方が大きかった。それにコーセルにとってローラとの出会いは、決して思いがけないまさかの出来事ではなかった。ひと目でカーティス・ジャドウィンの妻だと気づいたが戸惑いより喜びの方が大きかった。
ローラが最後に会ってから四年経つが、このアーティストは少しも変わっていなかった。以前と同じくらい若く見え、その姿には変わらぬ「気品」があった。手は相変わらず細長く、黒い顎鬚は相変わらず立派に尖っていて、口髭は昔と同じフランス風に唇にかからないように手入れされていた。コーセルがよくそうしていたのをローラは覚えていた。いつものように念入りに整った身なりだった。外国風のツイードのスーツを着ていたが、オーバーコートはなく、緑色を帯びた格子縞のハンチング帽を頭に乗せ、両手に犬皮の手袋をしていた。脇にニスを塗った茶色い竹の細い杖を抱えていていた。服装で唯一型破りだったのはネクタイであり、黒いシルクの大きなリボンが、コートの襟からはみ出ていた。
しかし、ローラにはその細かい特徴を素早く印象に刻むだけの時間しかなかった。コーセルは片手を伸ばし、もう一方の手で帽子を持ち、素早く進み出た。
「どれほど嬉しいか、言葉では言い表せないな」コーセルは叫んだ。
間違いなく絶対に昔のコーセルだった。低く緩やかに調子を変えた声の抑揚は一つもなくなっていなかった。話すときに少し顎を傾けたり、瞼を素早くウィンクさせたり、目尻まで狭くして笑ったり、体全体が楽でいられる要領のいい身の処し方にいたるまで、ほんのささいな特徴一つ変わっていなかった。知り合った最初からずっとそうしていたように、ハンカチが手首の袖に押し込まれていた。
「それじゃ、また戻ってきたのね」ローラは叫んだ。「いつよ、お元気だった?」
「そ、そうだよ……また戻ってきたんだ」握手をする間にコーセルは繰り返した。「おとといのことだよ、それもこっそりとね。僕がここにいることはまだ誰も知らないよ。僕は……いや、連れもだけど……夜陰に乗じて忍び込んだのさ。トスカーナから直行したんだ」
「トスカーナから?」
「……庭園と大理石のパーゴラからもね」
「でも、どうしてシカゴの冬なんかのためにトスカーナの庭園や……そういうものをみんな残して行けるのかしら、私には理解できないわ」ローラは言った。
「そう言われるとちょっと返答に困るな」コーセルは答えた。「でも、庭園やパーゴラやその他のものがみんな僕にはつまらないものに思えたんだ……フランス人なら『荷造りしよう』とでも言うところかな。またこの厳しくて世知辛い都会の空気が恋しくなり始めてね。経験を積むには世知辛いのもいいと思ったんだ」
ローラは笑顔で相手を見下ろした。
「もうとっくに経験は積んだものだと思ってたわ」ローラは言った。
「見識は深めていなかったものでね」コーセルは言った。「僕は今、見識を深めるにはいい時期にさしかかったと感じてるんだ」
「私はそんなの感じたことないわ」ローラは打ち明けた。「『厳しくて世知辛い』都会暮らしなのにね」
「ああ、それはきみが見識がないとはどういうことかを知らないからだよ」コーセルは言い返した。「みんなの近況を教えてほしいな」コーセルは続けた。「ご主人は、もちろんお元気だよね、何でも大変なお金持ちだとか。ニューヨークで耳にしたよ。そしてペイジは、僕たちの小さくて生真面目なドレスデン磁器のミネルバは?」
「ええ、ペイジは元気よ。でも見違えるわよ、今じゃすっかり若い女性だもの」
「じゃあ。コートさん、『ランドリー』は? いつ見ても髪を切ったばかりという印象だったのを覚えてるよ。それにクレスラー夫妻、ウェッセルズ夫人、それから……」
「全員元気よ。あなたが戻ったのを聞けばクレスラー夫人は喜ぶわ。ええ、みなさん元気よ」
「じゃあ、最後にジャドウィン夫人は? でも聞くまでもないな。元気で幸せそうだとお見受けした」
「コーセルさんもお元気で幸せかしら?」ローラは尋ねた。
「コーセルさんはとても元気で、まあまあ幸せかな、おかげさまでね」コーセルは答えた。「少し幻想は覚めたが、何とか持ちこたえて年を取り続けているよ。晩年があるからね」
「トスカーナの庭園にいて幻想が覚めるなんて私には想像がつかないわ」ローラは言った。
「まったくだね」コーセルは明るく笑いながら急いで答えた。「トスカーナなら幻想は覚めないな。まだ残っている数少ないものを大切にするために行くんだからね。しかし」コーセルは態度を変えずに付け加えた。「失われた幻想だって時には……シカゴでさえ……とても美しいことがあると信じるようになったんだ」
「うちで一緒に食事をしてほしいわ」ローラは言った。「あなたは私の夫にほとんど会ったことがないんだし、うちの絵だって気に入ると思うわ。あなたの古い友だち、クレスラー夫妻やウェス叔母さんもみんなお呼びするわよ。いつなら来られるかしら?」
「じゃあ、きみは僕の手紙を見てないんだね?」コーセルは尋ねた。「今夜お訪ねしてもいいか、うかがいがてら昨日きみに手紙を書いたんだ。僕はシカゴには二日しかいないものでね。明日はセントルイスに行かねばならないし、一週間は戻ってこられないんだ」
「手紙? あなたからの手紙は受け取ってないわ。そうか、わかったわ。今朝、カーティスが慌てて出て行ったのよ。出かける間際に郵便物を全部ポケットに入れちゃったんだわ。私の手紙も何通かあの人のと一緒になったのね。あなたの手紙はその中だわ。でもいいじゃない。こうして会ったんだからどうってことないわ。いいわ、ぜひ今夜いらっしゃいな……ディナーへ。私たち、遠慮する間柄じゃないでしょ。カーティスはご一緒できないけど。ディナーは六時よ。他の人も呼んでみるわ。でも、ペイジは来ないわ、忘れてた。ペイジとランドリー・コートは、ウェス叔母さんと一緒に食事をするんだったわ。その後みんなで講演会に行くんですって」
アーティストは感謝の意を表して、ローラの招待を受けた。
「私たちがどこに住んでいるか知っているの?」ローラは尋ねた。「あれから私たちが引っ越したのはご存知よね」
「ああ、知ってるよ」コーセルは言った。「今朝はこの公園をずっと散歩してようと決めたんだ。来る途中できみの家の前を通ったよ。手紙を書く前に名簿で住所を調べなければならなかったからね。正直言って、きみの家にはびっくりしたよ。デザインが驚くほどいいよね」
「でも」ローラは尋ねた。「あなたは自分のことを話さないけど、あれから何をしていたの?」
「何もしてないよ。ただぶらぶらして、少し絵を描いて、アヴィニョンとシエナで十三世紀のガラスの研究をしてたんだ」
「それでまた戻るの?」
「ああ、そう考えている、ひと月くらいしたらね。ちょっとした仕事……気がかりなの……を片付けたらすぐにだ」コーセルは腕時計を一瞥して言った。「僕は十一時に約束があるからそっちへ行かなきゃならない」
コーセルは別れを告げて立ち去った。ローラは意気揚々と家路についた。コーセルが戻ってきたのがとてもうれしかったのだ。ローラはずっと彼のことが好きだった。コーセルは自分が話上手なだけでなく、ローラに同じことをさせる能力を持っているようだった。ローラは昔、ジャドウィンに出会う前のことを思い出した。理由はわからないが、このアーティストと一緒にいるとき以上に、考え事や会話がスムーズに、早く進み、効果を発揮したことはなかったのである。
家に着くと(「パーゴラ」の定義を辞書で調べてすぐに)ローラはクレスラー夫人に電話をかけた。
「えっ」ローラがニュースを伝えると夫人は叫んだ。「シェルドン・コーセルが戻ったの! へえ、まさか、あの人がね。あの人がよく色をつけたすてきな窓を覚えてるわ。いつも上品でエレガントな人だったのよね……それに手と声が最高にすてきだったわ」
「彼は今夜うちで一緒に食事をするのよ。夫婦おそろいで来てほしいわ」
「まあ、ローラ、私はちょっと無理だわ。今夜はチャーリーがミルウォーキーから来るお役様を迎えるから、私が食事を用意しなくちゃいけないのよ。それにしても癪じゃない? シェルドン・コーセルが絵画や詩やステンドガラスの話をするのを聞いていたかもしれないのに、私は座ってあの二人が手数料だとか何パーセントだとか、ぐだぐだ言うのを聞かなきゃならないのよ。はっきり言うけど、私ってつくづく運がないわ」
その夜六時十五分前、ローラは黒いベルベットのディナーガウンを着て、書斎の暖炉の前に座り、新しい小説のページを切っていた。手の中で回転し見え隠れする象牙のカッターは、細い指がただ長いだけにしか見えなかった。しかしローラは本のことなど念頭にはなく、時折、神経質に頭上のマントルピースに乗った時計に目をやった。ジャドウィンはまだ帰ってきていなかった。ディナーを待たせることを考えると心苦しかった。いつもなら五時、あるいはもっと早く街から帰って来た。今日は、おそらく朝のリバプールからの電報にあった仕事が夫を引き留めるかもしれないと予想はしていた。しかしこの時間ならもう家にいてもおかしくないはずだった。時間が経つにつれ、ローラは家の脇の車道を走る蹄の音を聞き逃すまいとますます耳をそばだてた。
コーセルの来訪が告げられて五分しても、夫が帰って来る気配はまだ全然なかった。ローラが客間に向かおうと廊下を横切っているときに、使用人の一人が、ジャドウィン氏から三十分後に帰宅するという電話があったと告げた。
「まだ電話はつながっているの?」ローラはすかさず尋ねた。「主人はどこからかけてきたの?」
しかしジャドウィンは自分の所在を告げずに電話を切ったようだった。
「馬車がお戻りです」使用人は言った。「ジャドウィンさまは待たなくていいとジャービスにお命じになりました。市街線でお戻りになるそうです」
ローラは夕食を三十分遅らせればいいと考え、そう指示を出した。
「少し待たないといけないわ」客間で挨拶を交わす際に、ローラはコーセルに説明した。「カーティスは今日、何か特別な用事があって三十分遅れているの」
二人は、ワイン色をした錦織の渋い掛け物と、厚手の絨毯が敷かれた豪華な部屋で暖炉を挟んで座った。コーセルは四十五分以上にわたって、北イタリアの大聖堂の町での生活を叙述に語り、ローラを夢中にさせた。話が終わった頃、ディナーが告げられた。
「主人はまだなの?」 ローラは使用人に尋ねた。
「まだでございます、奥様」
ローラは口惜しそうに唇を噛んだ。
「何でカーティスがこんなに遅くなるのか、想像もつかないわ」ローラはつぶやいた。「まあ」ローラは散々考えた末に付け加えた。「時間は有効に使わないとね。待たないで始めちゃいましょ、コーセルさん。カーティスだってもうじき来るに違いないわ」
しかし、実際には、帰って来なかった。鈍い深紅の光に包まれ、谷間の百合の香りが漂う立派なダイニングで、コーセルとジャドウィン夫人は二人きりで食事をした。
「ジャドウィンさんはとても忙しい人なんだね」コーセルは言った。
「あら、そんなことはないわ」ローラは答えた。「不動産の方はほっといても大丈夫なのよ。取引所関係はだいたいグレトリーさんが管理してるわ。何かの用事で遅くまで街にいるなんてごくたまによ。今朝だって私が投機の件を叱って、あまりやらないように約束させたんだから。私、投機って嫌いよ。あれってある種の人たちをのめり込ませちゃうでしょ。自分を完全に仕事に没頭させちゃうだなんて正しいことだとは思わないわ」
「どうして仕事に限定しちゃうんですか?」コーセルはワインを飲みながら答えた。「芸術にせよ、宗教にせよ、人が何かに『完全に』没頭するのは正しいことだろうか?」
「ああ、宗教って私、わからないわ」ローラは言った。
「それはある種の貢献じゃないかな」コーセルは言った。「僕たちが個人の仕事以上に全体の福祉のためにするものだよ。それがとても大切なんじゃないかな? もちろん、僕たちはそれぞれが自分の小さな畝を耕さなければならないとは思うよ。だけど畑を耕すのに一番役立つのは、隣の家の畝にも一、二回鍬を入れることなんだ……とは思わないかい?」
「でも、宗教って一、二回分の鍬作業よりも大きいんじゃない?」ローラは思い切って答えた。
「僕もあまり自信ないな」コーセルは考え込んで答えた。「鍬作業を一、二回手伝ってもらえるのではなく、自分の仕事から差っ引かれでもしたら。人はまず自分の畑を耕さねばならない。それが物事の基本だよ。隣人の鍬作業に『完全に没頭する』ことを唱えるような宗教は、純粋に有害だろうね、きっと。そんなことしていたら、自分の畑は雑草が伸び放題になるから」
「でも、もし隣の畑に花が咲いたら?」
「残念ながら雑草は花より早く育つんだ。僕の畑の雑草が広がって、やがては隣の畑の花にまで迫って枯らしてしまうだろうよ、必ず」
「でも、それって利己的に思えるわ」ローラは言った。「もし隣の人が怪我をしたり、足が不自由になったり、目が見えなくなったら? その人のかわいそうな小さい畑の作業は終わらないのよ。私が一、二回耕したくらいじゃ大して役に立たないでしょうけど」
「そうだけど、どの畑も他の二つの畑の間にあるんだ。その働けなくなった人の隣の畑の農民が、きみと同じように、一、二回は耕すのを助けてくれるさ。いや、まずは自分の仕事をするのが先決だな。やり遂げられた仕事は比例すれば、全世界の……たくさんの人の……利益になっていると僕には思える。もし自分の仕事を拡大するのではなく犠牲にして他の人を助ければ、その一個人の利益にしかならず、配分し直せばたくさんの人から奪っている。一個人が他の一個人に多大な貢献をするよりも、すべての人間が人類に貢献する小さな善行の方が、よほど、はるかに重要なんだ」
「そうね」やっとわかったのかローラは認めた。「あなたの言っていることがわかったわ。でも、それを理解するには、とても大きく考えなければならないわ。以前は思いつきもしなかったもの。個人って……私、ローラ・ジャドウィンなんて……何の価値もないんだわ。重要なのは、私が属するタイプよ、何十万人ものローラ・ジャドウィンの性格や姿や合成写真のようなもの。そうだわ」眉をひそめ、懸命に頭脳を働かせながら、ローラは続けた。「私であるもの、他の人と私とを区別する小さなもの、そういうものは、またたく間になくなるし、とてもはかないのよ。でも、ローラ・ジャドウィンというタイプは、ずっと残るでしょ? 人は永続的なものだけを積み上げていかなければならないんだわ。やがて、個人は劣化していくかもしれない。でも、タイプは常に向上する……。そうだわ、これは言えると思う」
「少なくとも、タイプは衰えない」コーセルは言った。
「ああ、それって始まるときはよかったのよ」ローラはまるで発見したかのように叫んだ。「そして、その最初の良さより衰えないんだわ。ある水準より下に行かないように何かが支えているのよ。それをどんどん高めることが私たちに委ねられているんだわ。いいえ、タイプが悪いはずはない。当然、タイプはその個体よりも重要だもの。そしてそれが一定の水準以下に行かないよう支えるものが神なのよ」
「あるいは自然だ」
「それじゃ、神と自然が」ローラは再び叫んだ。「一緒になって働くというの? いえ、違うわ、それらは一つなんだし、同じものなのよ」
「ほら」コーセルはそう言って、ローラに微笑み返した。「単純だと思わないか?」
「ああ」ローラは大きく息を吸って叫んだ「すてきじゃない?」少し落胆したように笑って額に手をあてた。「ねえ」ローラは言った。「でもこういうものって考えさせるわね」
ローラが気づかないうちにディナーは終わっていた。テーブルを離れても二人はまだ盛んに話を続けていた。
「アートギャラリーでコーヒーにしましょう」ローラは言った。「タバコもどうぞ」
コーセルはタバコに火をつけた。二人は大きなガラス屋根の円形の建物へと入っていった。
「私が一番好きなのはこれよ」ローラはブグローの前に立って言った。
「そうなの?」コーセルはしげしげとその絵を観察しながら尋ねた。「多分」コーセルは言った。「この絵は、他の絵に比べて、きみに要求するものが少ないからだよ。言いたいことはわかる。簡単に満足させてくれるから楽しくなるんだ。何の努力もせずに理解できるからね」
「さあ、わからないけど」ローラは言ってみた。
「ブグローは『場所を塞ぐ』のにはいい。それならわかる」コーセルは答えた。「でも、僕は彼の絵を称賛する気にはなれない」
「でも」ローラは口ごもった。「ブグローは巨匠……巨匠の一人に考えられると思ったんだけど……色合い、筆使い、色使いがすばらしいわ」
「でも、よく考えてみればわかると思うんだが」コーセルはローラに言った。「彼の絵の中身は……その本質は……立派な掛け軸だよ。美しい花瓶だって壁に飾ればまったく同じ役割を果たす。じゃあ、逆にこの絵をご覧よ」 コーセルは水浴びするニンフの右側にある、黄昏の風景を描いた小さなキャンバスを示した。
「ええ、これね」ローラは言った。「これはアメリカで、ニューヨークで買ったのよ。西部の画家の作品だわ。あまり気にしたことがなかったわ、あいにく」
「でも、よく見てごらんよ」コーセルは言った。「木々や水たまりや夕焼け以上のものを画家が見ているのがきみにはわからないかい? その小さな水たまりの端に置いた自分のイーゼルの前に座ったとき、画家はあんなふうに夜の到来を感じていたんだ。きっとカエルの鳴き声が聞こえて、夜霧の感触が両手に伝わっていたんだよ。そして、とても寂しかった。少し悲しんでさえいた。その木々の下の深い影の中に、自分の分身を、その時感じた憂鬱や悲しみを、置いたんだ。そして、あの小さな水たまりは、静かで黒く物悲しい……うーん、それ全体が暗く隠された秘密に満ちた人生の悲劇なんだな。そして、その小さな水たまりが心なんだ。それがどのくらい深いのか、底でどんな恐ろしいものが見つかるのか、何が希望を沈めたのか、何が野望をくじいたのか、は誰にもわからない。その小さな水たまりは、まるで耳もとで囁かれたかのようにはっきりと一つの言葉を語ってるよ……絶望をね。ああ、そうだ、僕はニンフよりもそっちの方が好きだな」
「そういうのを今まで自分で見抜けなかったことがとても恥ずかしいわ」ローラは答えた。「でも、ようやくわかったわ。もちろん、そっちの方がいいわね。これからは頻繁にここに来てそういうのを勉強します。この家のすべての部屋の中で、私はここがいちばん気に入っているのよ。でも、あいにく、絵よりオルガンが目当てなんだけどね」
コーセルは振り向いた。
「ほお、ものすごく立派なオルガンだね」コーセルはつぶやいた。「きみの宝物の中で、これが一番うらやましいな。演奏してもいいですか? あの絵のひどい絶望に満ちた小さな湖の埋め合わせになりそうなものを」
「ぜひ聞きたいわ」ローラは言った。
コーセルは照明を落とす許可を得て、すぐドアの外に出てボタンを押した。二人のいるごく一部を除くすべての照明が消えた。こうしてからオルガンに戻ると、何も言わずに自動演奏装置を切って、演奏席に座った。
ローラはそばの長椅子に座ってゆったりとした。最高の瞬間だった。オルガンの脇で煌々と鍵盤を照らす照明の影に、アーティストのシルエットが映し出された。その鍵盤の上に、細長い手が、はっきりと影を落とした。室内で動いているのはそれだけだった。コーセルが弾くメンデルスゾーンの『慰め』の和音と小節は、楽器からではなく、目に見えないエーテルのように、指先から流れ出るようだった。
コーセルはローラに言った。「質問と答えのやりとりを聞いているみたいだろ。質問は情熱的で騒々しく変化に富んでいるのに、答えはいつも同じなんだ。いつも穏やかでなだめてくれて堂々としている」
ローラは長いため息をついて、ささやき声より大きめの声で答えた。
「ええ、そうね、わかるわ」
コーセルは弾き終わるとすぐにローラの方を向いた。「多分、芸術性はあまり高くないかもしれない」コーセルは言った。「ブグローのように少し『やさし』過ぎるかもしれない。でも所詮『慰め』っていうものはとてもわかりやすく率直に訴えかけるべきだからね。ベートーヴェンは好きかい?」
「私は……その……」ローラは言い始めたが、コーセルは相手の返事を待たずに続けた。
「これを覚えているかな? 『情熱』、ヘ短調ソナタ、第二楽章」
しかしコーセルが演奏を終えると、ローラは続けるように頼んだ。
「どうぞ続けてください」ローラは言った。「何でもいいから弾いて。聞き惚れているんです」
「今度は僕がずっと好きでいる曲です」コーセルは鍵盤の方を向き直って答えた。「リストの『メフィスト・ワルツ』。リストはね、自分のオーケストラの楽譜をとても巧妙に脚色しているんだ。オルガンで演奏するのは難しいけど、イメージはつかめると思う」コーセルは演奏を始めながら言った。曲のリズムに合わせて頭がほんのわずかだけ動いていた。新しい主旋律が始まるたびに、演奏を中断することなく一言説明を加えた。
「とても躍動的でアラビア風だと思わないかい? そして、この楽章だけど。回りを気にせず、気まぐれで、ためらってから飛び込む女性みたいじゃないかな? しかし、そこにはある種の気高さ、理想への思いがあるんだ。わかるよね、もちろん……。そして全体に、この官能的な流れが根底にあって、次に柔軟で熱烈な感情……そしてここだ、この作品の最も優れた部分だと僕は思うんだが、まさに情熱の本質、心底悩ましい心地よい響きなんだ……。この長くてゆっくりとしたリズムは、散々な使われ方をして、勢いを失い続けて、本当に途絶えていく。それが『フェードル』……『ヴィーナスのすべて』を思い出すんだな。ワーグナーもそうだ。イゾルデのモチーフにも絶えずそれが見られる」
ローラは立ちすくんだ、ひたすら立ちすくむだけだった。ここにはグノーやヴェルディよりも優れたものがあった。ローラが知り演奏したオペラ楽譜の、わかりやすい単調な繰り返しを超えたものだった。ローラは直感的速さで曲を理解した。リストのあの長く続く和音は、重く、悩ましく、情熱に満ちていて、今まで触れてなかった心の糸に届き、抗いきれない力ではじいた。その振動はローラの全身を揺さぶり、そして震わせ続けたまま息をつかせず、目には涙を浮かばせ、指の関節が白くなるほど拳を握らせた。
ローラは突然まるでまったく新しい世界が開かれたように感じた。ピスガーに立っていた。そして、コーセルが機転を利かせて、当然知っているものとして扱ってくれた事柄に対する自分の無知を恥じ、困惑した。何てすばらしい喜びを知らずにいたのだろう! コーセルが属している芸術や芸術家の世界は、自分とはとことんかけ離れたものだった! ああ、今から改めよう。もうヴェルディやブグローはいらないのだ。ローラは『水浴しているニンフ』を取りはずすつもりだった。『アンビルの合唱』は二度と演奏するつもりはなかった。コーセルがローラの絵を選ぶべきだ。そしてリストとベートーヴェンの中からすべての激しい感情を呼び起こす音楽をローラに演奏するべきだ。ローラが感じたすべての衝動、情熱、高揚はローラのものだった。
ローラは自分のことがわからなくなった。確かに、確かに、ローラ・ジャドウィンは二人いた。一人は穏やかで、平凡で、地に足がついていて、静かな生活を愛し、家庭を愛し、主婦の務めに喜びを見出していた。これは、飾りっ気ない地味で無味乾燥なクレスラー夫人のことが好きで、夫を慕い、ハウエルズの小説を喜び、社交や堅苦しい慣習を敬遠し、毎週日曜日に教会に通い、自宅のエレベーターを恐れているローラだった。
しかし、こういう瞬間にもローラはもう一人りのローラ・ジャドウィンがいることを知っていた。大女優になれたかもしれず、「激しい気性」の持ち主で、衝動的なローラ・ジャドウィンである。こっちは広大な屋敷の部屋から部屋を渡り歩く立派な貴婦人の役を演じ、メレディスを読み、黒く尾の長い馬に乗って公園で早駆けを楽しみ、ガウンには黒いベルベット、黒いジェット、黒いレースを好んで着て、自分の真っ白い品のある美肌を意識し誇りにしている『威厳に満ちた態度』のローラである。……そのローラ・ジャドウィンは、薄暗く美しいアートギャラリーの長椅子に寄りかかって、ベートーベンやリストの激しさにわくわくしながら、半分閉じた目を立派な黄金のオルガンに向けて聞くのを楽しんだ。
オルガンの最後の音が小さくなり、静寂の中へと消えた。静寂は流れ星が通り過ぎた後のような暗さを残した。かなり時間が経ってから、ローラはちゃんと座り直して白く長い指で重いほど豊かな黒髪を整えた。ローラは深呼吸して言った。
「ああ、すばらしかったわ、すばらしかったわよ。新しい言葉のようだわ……いや、新しい思考かしら。言葉にしてはすばらし過ぎるもの」
「僕はいつもそう信じてきた」コーセルは答えた。「すべての芸術の中で、音楽が一番身近なんだと思う。その対極にあるのが建築だ。建築を見れば一般市民、国民の全体像、大衆がわかるよ、彼らの好みなわけだからね。小説や絵画、そして詩さえもが、教養人まで含めた階級の問題なんだ。しかし音楽は違う。一つの魂が他の魂に語りかけるものだ。作曲家はきみと自分のために作曲したんだよ。他の誰もそれとは関係がないんだ。魂が悲しみに打ちひしがれて砕けるか、情熱ではちきれるか、不信で苦しむか、得体の知れない理想を探し求めるかするものだから、作曲家はきみのもとへ……世界中の人の中からきみを選んで……メッセージを持ってやって来て、自分の望みや悲しみをきみに語りかけるんだ。きみなら共感すると知っているからだ。きみの魂なら自分の魂と同じように悲しみや喜びに通じていることを知っているんだよ。そして音楽の中で作曲家の魂がきみと対話し、拍子を取り、融合し、そう、精神的に結ばれさえするんだ」
コーセルがそんな話をしていると、ギャラリー中の電気が一斉に灯った。そしてカーティス・ジャドウィンが部屋に入って来るなり叫んだ。
「ここにいるのかい、ローラ? やったぞ、ローラ、私たちはやり遂げたぞ。五……十……万ドル、儲かった」
ローラとアーティストは、突然のまぶしさに目をぱちぱちさせながら、すばやく向き直った。ローラは手で目を覆った。
「ああ、眩しくさせるつもりはなかったんだ」夫は進み出ながら言った。「しかし、良い知らせを暗闇の中で伝えるのも何だなと思ったものでね」
コーセルが立ち上がった。ジャドウィンはその姿を初めて見とがめた。
「こちら、コーセルさんよ、カーティス」ローラは言った。「もちろん、彼を覚えているわよね?」
「ああ、もちろん、もちろんだとも」 ジャドウィンはコーセルと握手をしながら言った。「また会えて嬉しいですよ。あなたがここにいるとは思いませんでした」ジャドウィンは興奮し、舞い上がっていて、やけに饒舌だった。「私としたことがとんだお邪魔をしましたね。家内がここにいると聞いたものでね。良いニュースが山ほどあったんですよ。ところで、今思い出したのですが、今朝、街に行く途中で郵便物を見たら、今夜いらっしゃるという、あなたからの家内宛ての手紙を見つけました。私宛だと思ったので、間違いに気づかず開けてしまいました」
「どうせあなたが持って出たんだろうと思ってたわ」ローラは言った。
「今朝、自分の郵便物と一緒に混ぜてしまったんだろうね。そのことを電話で知らせるつもりだったんだけど、日中ずっと忙しかったから、すっかり忘れてたんだ。そういうわけなんですよ、コーセルさん、こうなっては全部話した方がいいかもしれませんね。今日はリバプールの人間とちょっとした取引がありましてね。今夜は電報を受け取るために街で待機してなくてはならなかったんですよ。私からの電話があっただろ、ローラ」
「はい、でもあと三十分かかるっていうお話でしたから」
「わかってる……わかってる。でも、リバプールの電報が何時まで経っても来なかったんだ。さっき言ったように、コーセルさん、仕事があったものでね……例の小麦だよ、ローラ、今朝きみに話していたやつだよ……五百万ブッシェルの。イギリスの代理人からの報告で、条件さえ合えばそいつを先方に叩きつけてやれるとわかったんだ。ちゃんと折り合いがついたんだよ。私はね、あの小麦の一部を一ブッシェルあたり十五セントの利益を出して売ったんだ。ブローカーと私とでついさっき帰る前にはじき出したんだが、さっき言ったとおり、五十万ドル儲けたんだよ。他人よりも少し先を見るというのは、こういうことなんだ」ジャドウィンは椅子に腰かけて、両手をいっぱいに広げた。「うぉー! 疲れたよ、ローラ。一日中立ちっぱなしだったような気がする。メアリーだかマーサだかマギーは、名前なんか何だっていいが、おいしい濃い紅茶をいれられるかな」
「食事はとったの、カーティス?」ローラは大きな声で言った。
「ああ、サムと立ち食いでランチをとったよ。でも、二人とも興奮していたから、おがくずを食べても同じだったかもな。あーあ、ほんと疲れたよ。あなたに言うのも何だか、コーセルさん、十時間で五十万ドル稼ぐのは大変でね」
「そうでしょうね」アーティストは同意した。ジャドウィンは妻の方を向いて、しばらくじっと見つめていた。彼は勝ち誇っていた。成金的なアメリカ人の柄の悪さが全面に出ていた。
「ねえ?」ジャドウィンは言った。「どう思う、ローラ」椅子の肘掛けを叩くように大きな手をおろして言った。「五十万だぞ……それも一度にだ? たぶんラサール・ストリートにいる連中は今、私は小麦のことを知らないと言うだろう。実は、サムが……グレトリーのブローカーなんだけどね、コーセルさん、グレトリー・コンバース社の……そのサムが私に言ったんだよ、ローラ、『ジェイ』……みんなは私をそう呼ぶんですよ、コーセルさん……『ジェイ、きみには脱帽する。私は最初からきみが間違っていると思っていた。だが、私よりもきみの方がこのゲームをよく知っていそうだな』ってね。そうなんです、彼がそう言ったんですよ。サム・グレトリーはかれこれ三十年近く小麦の取引をしてきたのにね。なのに、私にはそれがわかった」ジャドウィンは素早い身振りを加えて叫んだ。「小麦が値上がりするのを見通したんです。他の連中がみんなして私を笑ったときから、最初から、見通していたんだ。この時期にヨーロッパの需要が逼迫するのが私にはお見通しだった。小麦を買うのは正しいとわかっていた。ヨーロッパに選りすぐりの代理人を配置するのが正しいとわかっていたんだ。これからはみんながこぞって買いに回るだろうな……私が彼らに道を示したわけだからね。随分長いこと、こんなにたくさん喋ったことはなかったな。お許しください、コーセルさん。毎日五十万ドルも稼ぐわけじゃないのでね」
「でも、これが最後なのよね?」ローラは言った。
「そうだよ」ジャドウィンはすかさず深呼吸して認めた。「もう終わったからね。投機はお終いだ。これからは誰か他の人にやってもらおう。その連中が必要とされるまで五百万ブッシェルを抱えきれるかどうか見物するよ。さっきも言ったが、疲れたよ。お茶はまだかな、ローラ?」
「手に持っているのは何かしら?」ローラはにこにこして答えた。
ジャドウィンは言われるがままに、持っていたカップとソーサーを見つめた。「おやおや」ジャドウィンは叫んだ。「私としたことが慌ててるな。コーセルさん」ジャドウィンはお茶を飲む合間に言った。「アドバイスしよう。五月小麦を買いなさい。芸術どころじゃなくなるぞ」
「いや、とんでもない」アーティストは答えた。「勝てば正気を失うし、負ければ金を失いますからね」
「それもそうだな。手を出さないに限るか。これは金持ちの遊びだからな。それに、手に負えないリスクを負わなければやったって楽しくはない。まあ、金儲けの話はよそう。あなたは芸術家ですからね、コーセルさん。我が家のご感想は?」
やがて、コーセルに別れを告げ、ジャドウィンが書斎、アートギャラリー、客間を回って……彼は夜の戸締まりを使用人任せにはしなかった……照明を落とし、窓がしっかり閉まっているかを確認していると、妻が言った。
「じゃあ、もうあなたはやめたのね……永久に」
「一粒の小麦も持っていないよ」ジャドウィンは妻に保証した。「私は足を洗ったんだ」
翌日ジャドウィンは午後の二、三時間だけ街に出かけた。しかし、取引所の建物には近寄らなかった。不動産会社の社長と少し仕事の話をして、大して重要でもない手紙を一、二通書き、注文書にサインをして、五時までに帰宅し、夕方にはローラ、ペイジ、ランドリー・コートを連れて劇場に行った。
翌朝、朝食を済ませて新聞を読み終えると、ジャドウィンは立ち上がり、ポケットに手を突っ込んで、テーブル越しに妻を見た。
「さてと」ジャドウィンは言った。「これからどうしようか?」
ローラはすぐに読みかけの手紙を置いた。
「公園を馬車で回るのはどう?」ローラは提案した。「すてきな朝だわ」
「ああ……そうだね」ジャドウィンはゆっくりと答えた。「よし、公園を馬車で回ろう」
しかし、そうは言ったものの夫が乗り気ではなのがローラにはわかった。
「やっぱり」ローラは言った。「よしましょう。あなたが行きたがっているとは思わないもの」
「私も行きたいとまでは思ってないよ」ジャドウィンは認めた。「だって、ローラ、あの公園なら知りつくしているからね。今月の雑誌に何かいいことは載ってないかな?」
ローラは夫に雑誌を持ってきた。ジャドウィンは手の届くところに葉巻の箱を用意して書斎でくつろいだ。
「ああ」深く座れる皮椅子に寄りかかって大きく息を吐きながらジャドウィンは言った。「こうしていると体の芯まで休まるな。ラサール・ストリートで、責任やら何やらを背負ったまま、ぐだぐだ話を詰めたりやきもきしているより余程いい。これこそ人生の理想の姿だ」
しかし、一時間後、朝の乗馬をやりそこねたローラが部屋をのぞき込むと、そこにジャドウィンの姿はなかった。雑誌が床やテーブルに散乱していた。ページをめくったはいいが次々に放り投げたのだ。使用人がローラに、ご主人様なら厩舎に出ていると告げた。
窓から見ると、ジャドウィンは帽子をかぶり、大きなコートを着て、御者と話をし、馬の一頭を見ていた。しかし少ししてから家に戻った。ローラは夫が小説を片手に喫煙室にいるのを見つけた。
「あら、それなら先週読んだわ」ローラはタイトルをちらっと見て言った。「それって面白くない? いい作品だと思わない?」
「ああ……そうだね……なかなかいいよ」ジャドウィンは認めた。「そろそろランチの時間じゃないか? 午後はお昼の部でも劇場へ観に行こうよ、ローラ。ああ、そうか、今日は木曜日か、忘れていたよ」
「それを読んで聞かせてあげるわ」ローラは本に手を伸ばしながら言った。「もっと先に進んだら、面白くなるから」
「正直なところ、そうなるとは思わないな」ジャドウィンははっきり言った。「先の方を見てみたんだ。ものすごくつまらなそうだよ」ジャドウィンは突然言った。「法律違反でなけりゃ、ジュネーブ湖へ行って氷に穴をあけて釣りをするんだがな。ローラ、フロリダに行くのはどうだろう?」
「そうね、そうしましょうよ」ローラは叫んだ。「クリスマスはジュネーブ湖に行きましょう。家をあけて、使用人も連れて行って、ハウスパーティーをやりましょうよ」
結局、これは実現した。クレスラー家とグレトリー家が招待されて、シェルドン・コーセルとランドリー・コートが加わった。ペイジとウェス叔母さんも当然やってきた。ジャドウィンは馬を数頭とそりを持って行った。クリスマスの夜に立派なツリーを用意して、コーセルがキャロルを作詞作曲して、大成功を収めた。
約一週間後の年明けの二日、シカゴから午後の列車やって来たランドリーが、取引所でのすごい一日の話に花を咲かせた。ディナーの直前に居間に降りて来たローラは、大きな丸太がシューシューと音を立てて燃えている暖炉の前に人が集まっているところに出くわした。そこには、夫とクレスラー、そしてさっきの列車で来たグレトリーがいた。そのとき場の中央にいたランドリーの話に熱心に耳を傾けながら、ペイジが顎を手のひらに乗せてすぐそばに座っていた。部屋の奥では、シェルドン・コーセルがディナーコートを着て黒いエナメル革のパンプスを履き、指の間にタバコを挟んで、イタリアの詩集を読んでいた。
「そうなったのはアルゼンチンの不作のせいですよ」ランドリーは喋っていた。「それと旺盛な外需が重なったんです。相場は八十三セントで堅調な滑り出しでした。しかし鐘が鳴ったとたんに買いが始まりました。買い、買い、買い一色です。今はみんなが取引に参加してます。一般市民が投機をしてるんです。売り一人に対し、買い一ダースですよ。今朝の立会場は僕が今まで覚えている中で一番熱い時間でしたね」
ローラはジャドウィンの目が生き生きするのを見た。
「だからこれは買いだって言っただろう、サム」ジャドウィンはブローカーにうなずいてみせた。
「まあ、小麦はいくらでもあるさ」グレトリーはあっさりと答えた。「小麦が一ドルになったらすごいよな……なったらな……まあ、高みの見物といこう。農家はまだ全部売っちゃいないよ。古い保管場所に物を隠し持っている昔ながらの農民っていうのがいつもいるんだ……そいつらはな、もしきみがちゃんとお金を払いさえすれば、いくらでも出して来るぞ。小麦はたっぷりあるんだよ。前にも同じことがあったんだ。十分値段が高くなったところで、あいつらは倉庫をかき集めてきみに放り投げてくるぞ! どんな片田舎から出てくるのか、きみには想像もつかんだろう」
「いいかい、サム」ジャドウィンは言い返した。「余剰分の小麦はこの国からどんどん出て行っているんだぞ……しかも急速にだ。そして、売り方の中には、すぐにでもそれを狙って売り浴びせるのが出るに違いない」
「クルックス一味は」ランドリーは言った。「相場が崩れることをかなり確信しているようです。きっと今朝は空売りしていましたよ」
「まさかな」ジャドウィンは耳を疑うかのように叫んだ。「アルゼンチンの不作と、需要の拡大を示すヨーロッパのニュースがこれほどあるのに、空売りをするとはな!」
「ああ、かなり売り越してるんだよ」グレトリーは力説した。「かなりな」
やろうと思えば、昼夜を問わず毎時間、立会場の喧騒はそのままジャドウィンのところへ届くのだった。大きな波乱が、今、ラサール・ストリートの入口で、この数年来にない強力な勢いで渦を巻いていた。雷鳴をとどろかせ、煙を上げる渦は、太平洋から大西洋またぐ国中を隈なく渦中に巻き込み、潮の満ち引きのような巨大なリズムで、小麦をその流れの中に巻き込み、吸いあげ、再び吐き出していた。
そして、そのあらゆる渦を知り、そのあらゆる波紋を予言できたジャドウィンは、その外に、圏外にいた。立会場の喧騒が日に日に大きくなる中、ジャドウィンは何するでもなく無為にそこに座っていた。他の連中は、頭の足りない想像力の貧困な連中は、ひねくれ者なのか、目が見えないのか、増していく水嵩に目を閉ざしてしまい、ジャドウィンであれば扱い方を知っていたこれほど大きな、これほど膨大な結果が出るチャンスをなおざりにしていた。だいぶ前にジャドウィンが準備が進んでいると感じたその未知の出来事は、まだ始まっていなかった。最後にこの混乱から出てくることになっている大きな真実、大きな結果は、まだ出てきていなかった。万能で大胆不敵な凄腕が、立会場に押し寄せる激流の水門のレバーを握るまで、出現を拒んでいるのだろうか? ジャドウィンにはわからなかった。いよいよ大物の出番なのだろうか?
この波乱は、ナポレオン的存在を声高に呼ぶ革命だろうか? 多くの人が目を閉じている現状を横目に、最終的には彼ではない別の人間が、最高司令官の席につくのだろうか?
ジャドウィンは手をこまねいている自分に腹が立ち、いらいらした。ハウスパーティーが終わる頃には、じれったさがうるさいハエのように執拗にジャドウィンを悩ませた。考え事をしたり、心ここにあらずのまま、寂しい田舎道で延々と馬車を走らせたり、丘や凍った湖を散策した。取引所の会員権はまだ持っていた。ヨーロッパにはまだ代理人を置いたままだった。毎朝、最新情報が特電で届き、毎夕、新聞が彼の予測を裏付けた。
「ああ、私は永久に足を洗うよ」ジャドウィンは妻に言ったのだ。「しかし、私なら知ってるぞ、あのクルックスの一味のかき集めたものをすべて片手で一つかみにして」……その言葉を口にしたとき、彼の大きな拳は素早く握られた……「卵の殻のように、ぎゅっと握りつぶしてしまう男をな」
ランドリー・コートはよくペイジに取引所での出来事を話して聞かせた。ジャドウィン夫妻が街の自宅に戻って二週間ほどたったある晩、ランドリーはペイジを訪ね、朝刊を二、三部持ってきた。
「これを見たかい?」ランドリーは尋ねた。ペイジは首を振った。
「ええとね」唇に力を入れ、目を細めてランドリーは言った。「このところ相場は活況なんだ。国中がその話題で持ちきりだよ」
ランドリーは持ってきた新聞のある部分をペイジに読んで聞かせた。最初の記事は、最近シカゴの小麦市場に新しい動きがあったと報じていた。「買い方」の一派が結成されたのは明らかだった。おそらくはニューヨークの資本家たちの集団で、クルックスの一派を一掃し急速に市場を掌握しつつあった。その結果、小麦の値段は再び上昇に転じていた。
別の新聞には、セントルイスの企業連合が価格をつり上げ、強気市場を形成しているとあった。さらに三番目の新聞は、コラムらしい記事の冒頭で論評した。
「今月初めから未知の買い方が一名シカゴの小麦市場に介入し、今の状況全体を支配していることは、もはや誰もが認めるところである。売り手筋はこの謎の敵を恐れていないと公言しているが、先週の火曜日、この大物の買い方が三十分間で二百万ブッシェルも延々と買い続けたとき、大勢の売り方が無念にも買い戻しに追い込まれたのは事実である。利ざや取りとちびちび稼いでいた連中はほぼ全滅し、小口のトレーダーはこの未知の買い方の突き上げを食らうのを恐れている。この新しい相場師の正体は慎重に隠されているが、それが何者であれ、彼は素晴らしいトレーダーであり、よほど図太い神経の持ち主である。ニューヨーク出身で、強気相場を立ち上げている大掛かりな一派の一人に過ぎないと噂されているが、弊社ニューヨーク部門は、この報道をはっきりと否定している。この未知の買い方が現地の人間でシカゴ在住者であることは間違いない」
ペイジは素早くランドリーを見上げた。ランドリーも何も言わずにペイジの視線に応えた。束の間の沈黙があった。
「多分」ランドリーが声をひそめて言った。「僕たちは同じことを考えていると思う」
「でも、彼は姉に、そういうことは全部やめるって言ったのよ。あなたはどう思ってるの?」
「僕がとやかく考えるべきことじゃなかった」
「『考えるべきじゃない』でしょ、ランドリー」
「じゃあ、そういうのは僕がとやかく考えるべきことじゃない。僕の仕事はグレトリーさんの注文をこなすことだから」
「まあ、私が知ってるのは」ペイジは言った。「ジャドウィンさんはまた一日中街にいるってことね。しばらく遠ざかっていたのはあなたも知ってるでしょ」
「うーん、彼があれだけ街にいるのは不動産の仕事のせいかもしれないけどね」ランドリーは答えた。
「ローラはひどく悲しんでいるわ」ペイジは続けた。「そのようだね。夜はよく書斎で一緒に過ごしたのよ。ローラが旦那さんに本を読んで聞かせてね。でも、今はとても疲れて帰ってくるので時には九時に寝てしまうこともあるそうよ。ローラは十一時とか十二時まで独りで本を読んでるの。でもローラも旦那さんへの影響を恐れてるのよ。とてものめり込んでいるんですもの。もう昔のようには、つまりローラが読み聞かせをしていたころのようには、文学に目もくれないし、日曜学校のことだって何も考えていないわ。それによ、クレスラーさんの言う通りだとすれば、投機を再開すれば負ける可能性だってあるわ」
しかし、ランドリーはしぶとく反論した。
「カーティス・ジャドウィンさんが誰かに負けるだなんて一瞬たりとも思わないことだ。彼を倒せる人はいない……いや、人が集まったってできやしない。彼はあそこにいる連中の中でもずば抜けているからね。彼はナポレオンだ。そうだよ、それだ、彼はナポレオンなんだ、控えめに言ってもね。ペイジ」ランドリーは真剣な顔で断言した。「彼は僕が知る中で最も偉大な人だよ」
それから間もなく、夫が小麦市場に戻ったこと、しかも本腰を入れ本気であること、勢いに乗じて騒ぎの真っ只中にいることは、もはやローラ・ジャドウィンの秘密ではなくなった。
今やジャドウィンはどっぷりつかっていた。彼の影響力は実感され始めた。ラサール・ストリートの全世界からは必ずしも注目されず、議論もされない無名の謎の見知らぬ男「未知の買い方」の重要な動きとは目されなかった。
細心の注意を払って極秘裏に行われた彼の最初の一手は、リバプールに売った五百万ブッシェルの替わりに、さらに五百万増やした五月物のオプションを手に入れることだった。これが一月のことだった。二月いっぱいと三月の初旬はずっと、東ヨーロッパの五十の都市と中心地から、アメリカ産小麦を求める声が、執拗に激しくあがった。小麦の立会場でのひしめき合いは、ますます激化して荒れ狂う一方だった。取引所のフロアを覆う大きな文字盤の無表情な針は八十七セントで止まるまで妨げられることなく上がった。ジャドウィンは小麦をどんどん買い集め、買い求め、喜んで引き受けた。アイオワやネブラスカ、ミネソタ、ダコタから、イリノイ州の減りゆく倉庫や、カンザスやミズーリのすぐにでも底を突きそうな貯蔵庫から、洪水のように立会場めがけて押し寄せる分をすべて、正面から諸手を挙げて受け止めた。
そんな騒ぎのさなか、カーティス・ジャドウィン氏が一千万ブッシェルの五月小麦を所有していたときのこと、市場在荷に関する政府の報告書が届いた。
「さて」ジャドウィンは言った。「きみはこれをどう思う?」
ジャドウィンとグレトリーは、グレトリー・コンバース社内にあるブローカーのプライベートオフィスにいた。二人は夕刊に掲載されたばかりの小麦の供給に関する政府の報告書を読んでいた。辛気臭い三月のある午後のとても遅い時刻。オフィスにはガス灯と電灯が灯って随分と経ち、街角の灯りは、水浸しの歩道に落ちて反射し長い光の線を描いた。部屋の窓からは、ラサール・ストリートをまっすぐに見ることができた。ケーブルカーはモンローの角で通りを出入りするときに、赤や緑のまぶしいライトを一瞬霧雨の中に放ち、断続的に騒がしい警笛を宙に響き渡らせた。さらに進むと、雨に打たれた黒い玄武岩の崖のように舗道からそびえ立って、点滅する明かりに照らし出された裁判所と、その細長い景色の行き止まりに、ラサール・ストリート橋の橋桁とケーブルが見えた。
両側の歩道は、オフィスビルの入口から止めどもなく流れ出る『六時の人混み』でいっぱいだった。ほとんど男だけの人混みだった。レインコートのボタンを顎までかけ、傘をひょいと動かし、歩道の窪みにできた小さな水たまりを急いで駆け抜けながら、一方向にしか動かなかった。彼らは、ラサール・ストリートの両側にある仲介業者や委託業者から、絶えず、止めどもなく、大変な一日の仕事疲れの脱力感を引きずるようにして、流れ出た。曇天とぼんやりとかすむ雨のベールの下で、個体ではなくなり、ゆっくりと移動する黒い一つの塊になった。一日中、激流がその通りで渦を巻き怒号をあげた……取引所の中にある、あのものすごい立会場の喧騒からその激流は渦を巻いて引き上げたのである。今、立会場は静まり返り、激流の水門は閉ざされ、何千ものオフィスから、取引所そのものから、黒くて動きの鈍い粕だか生気のない屑だかが流れ出した。流れ出たものは数時間で元のレベルに濾過され、渦が翌朝もう一度回転を始めて再びそれらを巻き込み吸い込むまで、どんよりと滞留した。
雨は延々と降り続けた。風はなかった。ケーブルカーは耳障りな音をあげて窓ガラスを振動させながら激しく揺れて、線路を突き進んだ。取引所の入口のすぐ前の通りでは、珊瑚色の足と虹色の胸を持ち、ガーネット色の目をした、ひきしまった鳩の群れが、羽をぱたぱたさせながら気取って歩き、取引の会場がある階の窓から下働きの者が投げたわずかばかりの小麦をついばんでいた。
「さて」ジャドウィンは唇を動かして火のついていない葉巻を口の端に移しながら繰り返した。「さて、きみはそれをどう考える?」
数字と統計にすっかり気を取られていたブローカーは、頭をぼんやりと動かして答えただけだった。
「なあ、サム」新聞から顔を上げながらジャドウィンは言った。「農家の手元には一億ブッシェルもないのか……。恐ろしく少ないな。サム、恐ろしく少ないぞ」
「ありあまっているわけじゃないな」グレトリーは認めた。
長い沈黙が続き、その間二人はこの報告書をさらに詳しく調べた。グレトリーは机の分類棚から統計資料を取り出し、報告書に書かれている数字と比較した。
外では雨が絹ずれのような静かな音を立てて窓を叩いた。新聞配達がグレゴリオ聖歌を歌いながら通りを駆け抜けた。
「なあ、サム」ジャドウィンはもう一度言った。「七月までに大量の小麦がヨーロッパに移動しなきゃならないことは知っているよな? 出荷はどうなってるだ?」
「一週間に五百万ってとこだな」
「考えてみてくれよ、ひと月で二千万だぞ、そしてそれが……ええと、四月、五月、六月、七月……新作柄までは四か月ある。その四か月で八千万ブッシェルが国外に出るんだぞ……一億もない中からの八千万だ」
「そのようだね」グレトリーは答えた。
「じゃあ」ジャドウィンは言った。「集計してみよう。全体の状況を把握しようじゃないか。『時価表』がこれか? シカゴの在庫がどうなっているか調べてみよう。貯蔵庫がはちきれんばかりだとは思えんし、それと」営業部門の方へ行ったブローカーの後ろから声をかけた。「農産物着荷高と、パリとリバプールの在庫について調べてくれ。どう考えたところで、パリとリバプールを合わせても現地の食い扶持の一千万は捻出できないだろう」
グレトリーはすぐに資料や「業界」誌を両手いっぱいに抱えてまた戻ってきた。
その頃には、オフィスはすっかりひと気がなくなっていた。最後の事務員も帰宅した後だった。外でも、近隣の事務所から急速に人がいなくなっていた。きらきらしている歩道の上を急ぐ人はほんのわずかだった。高い灰色のオフィスビルの正面に、まだ残っている明かりはほんのわずかだった。そして、静寂が広がる中で、取引所の建物の窓棚や窓枠にいる鳩の鳴き声が、次第にはっきりと聞こえるようになった。
グレトリーの机を前にして、二人は散らかった書類の上に身を乗り出した。ブローカーは鉛筆を手に持ち、時々便箋に素早く数字を記入した。
「それとだ」しばらくしてからジャドウィンは言った。「アメリカ北西部の製粉業者は、手当たり次第に穀物をすりつぶして粉にしてるんだ、それをきみは知ってるだろう。どうなんだい?」
「ああ」グレトリーは言ってから付け加えた。 「あと一か月もすれば、海峡が航行できるようになる」
「それもあるな」とジャドウィンは叫んだ。「するとだ、ここにある小麦は出て行く一方なわけだ。私としたことがその点を忘れていた。最近、小麦を空売りしていないのは、幸いなんじゃないか?」
「しかし、売ってる連中はたくさんいるぞ」グレトリーは答えた。「帳簿には売った小麦がたんまり載ってるよ……たんまりとな」
グレイトリーがそう言うと、ジャドウィンは突然驚いた様子で、物問いたげな目で相手を見た。
「おい、そうなのか」ジャドウィンは言った。「空売りをした人間はたくさんいるのか?」
「ああ、いるぞ、クルックスにあやかろうとしている連中がな……それも、かなりいるぞ」
ジャドウィンは口髭を引っ張りながら少し黙っていた。それから突然、身を乗り出して、指をグレトリーの顔ぎりぎりに近づけた。
「じゃあ、ここが正念場だ」ジャドウィンは叫んだ。「わからないか? きみにはわからないのか?」
「何がだい?」ブローカーは相手の勢いに戸惑いながら尋ねた。
ジャドウィンは人差し指で襟を緩めた。
「ああ、息苦しい! 何がだって? 私はすでに小麦を一千万ブッシェル持っている。そしてヨーロッパがこの国から八千万ブッシェル持ち出すんだ。じゃあ、五月までにシカゴから小麦がなくなってしまうぞ! もし私が今介入して、現物小麦を大量に買い付けたら、空売りした連中はどこで小麦を手に入れて、私のところへ持ってくるんだ? なあ、そいつらはどこで手に入れるつもりなんだ? さあ、教えてくれよ、どこで手に入れるつもりなんだ?」
グレトリーは鉛筆を置いて、ジャドウィンを見つめ、机の上の書類をしばらく眺めながら鉛筆でメモした紙を参照し、長いため息をついて両手を深々とポケットに突っ込んだ。戸惑い、まるで麻痺したかのように、再びジャドウィンの顔をのぞき込んだ。
「何ということだ!」グレトリーは最後につぶやいた。
「そうだ、そいつらは小麦をどこで手に入れるつもりなんだ?」ジャドウィンは突如顔面を真っ赤にしてもう一度叫んだ。
「ジェイ」ブローカーはたじろいた。「ジェイ、私が……知るわけないだろ」
すると、同時に、二人の男は立ち上がった。過去十一か月間、ずっと準備中だった出来事が、突然、完成した。突然、正体を現した。まるで、ベールがはぎ取られたかのように、まるで爆発が起こって宙を抜け二人の耳と目を塞いだかのようだった。
ジャドウィンはブローカーの肩をつかんで飛び出すように前に出た。
「サム」ジャドウィンは叫んだ。「いいか……大変だぞ……これがどういうことかきみにわかるか? サム、我々は市場を買い占めることができるんだ!」




