第6章
月日は流れた。あっという間に三年が過ぎ、セント・ジェームズ教会での挙式から三度目の冬が終わろうとしていた。
あの日……フランスの輸入関税を予見して……ジャドウィンが百万ブッシェルを空売りしてから、小麦の価格はどんどん下がり続けた。九十三、九十四セントだったものが八十セント台にまで下落した。世界的な大豊作が、この下落に拍車をかけた。誰も小麦を買おうとしなかった。売り方は強気で、付け入る隙がなかった。価格はどんどん下がり、あれよあれよと七十五セント、七十二セントになった。全国各地から、大量の小麦が……固体のような波一つない潮流となって……絶えず価格を押し下げながら、シカゴの商品取引所へなだれ込んだ。世界中で農家が収穫期を迎えるたびに豊作を目にした。アルゼンチン共和国も、ロシアの大草原も、豊作だった。インドでも、ビルマやマイソールやシンドの小さな農場でも、穀物は毎年、丸々太った重たい立派な穂を垂らした。カリフォルニア州サンホアキン渓谷の牧場はどこもかしこも実りが多かった。ダコタ、ネブラスカ、アイオワ、カンザス、イリノイなど、全米の小麦地帯から、豊作の知らせが続々と届いた。
しかし、同時に穀物の価格低迷で農家は貧しいままだった。すでに多重債務と化した農場に新たな抵当権が設定され、作物にさえも事前に抵当権が設定された。新しい農機具が買われることはなかった。中西部中の農村では馬車や家庭用のオルガンは買われなくなった。世界のどこか遠くでは、安い小麦が、つまり安いパンが、暮らしを楽にして、繁栄を生んだのに、アメリカではビジネスという巨大な機械の歯車や車輪を通して農民の貧困が拡大した。まるで潤滑油が枯渇したかのようだった。歯車と車輪の動きは遅く、ちぐはぐだった。少し調子が狂っていた。ウォール街では株が下がった。一言で言えば「不景気」だった。こうして三年が過ぎた。シカゴの取引所では、手っ取り早く金儲けをするなら小麦を空売りするに限る、が金言になった。十中八九確実に、売値よりも安く買い戻せた。そして、世界で最も感情に左右されない人々の間で「市場心理」と呼ばれているあの得体の知れない不確定なものが、低価格をますます強力に支持するようになった。「市場心理」からするとマーケットは「弱気」だった。トレーダー、相場師、小銭稼ぎ、利ザヤとり、ブローカー、もぐりのブローカーなど……ラサール・ストリートの全員……が、すっかりこの「弱気相場」に慣れてしまい、この状況がいつまでも続かないと信じにくくなった。
ジャドウィンは、必然的に、再び相場の荒波に飲み込まれていった。最初からずっと売り方だった彼は、再び市場を売り崩し、再び成功を収めた。この売り崩しから二か月後、ジャドウィンとグレトリーはさらに別の大勝負、これまでに仕掛けたことがないようなもっと大掛かりなものを計画した。ローラは夫が……めったに口にしないので……やっていることをほとんど知らなかったが、この事件のある段階で「取引」が根底まで揺らいだことを日刊紙で見て知った。
しかし、ジャドウィンはもう「勝負に出て」いた。もはやグレトリーに発破をかけてもらう必要はなかった。図太く、想像を絶する厚顔無恥で、戦いの衝撃を楽しみ、最も無慈悲な猛攻にさらされるときほど、楽しくてリスクを冒したくなることはないという戦略家へと成長していた。このとき「相手側」が自分を相場から追い出そうと常套手段に出たとき、ジャドウィンは敵を誘導して段取りを一つ狂わせた。ジャドウィンは即刻……グレトリーの警告を無視して……全財産をほとんど注ぎ込んで持ちこたえ、大砲で集中砲火を浴びせる将軍のごとく、恐るべき速さで敵を粉砕した。
ジャドウィンは戦いに勝利した。数時間ではあったが、彼が負ける寸前だったことをローラが知ったのはそれからまもなくだった。
そして再び小麦の値段は下がった。ジャドウィンの結婚生活三年目の冬が明けた四月の第一週、シカゴ商品取引所では、五月小麦が六十四セント、七月のオプションが六十五セント、九月ものが六十六セント八分の一で売られていた。同じ年の二月に、ジャドウィンは五月小麦を五十万ブッシェル空売りしていた。彼はグレトリーや本職のトレーダーの大多数とともに、価格が六十セントまで下落すると信じていた。
三月はそれ以上落ち込むことなく経過した。三月いっぱいと四月の初旬はずっと、ジャドウィンはいつになく慎重だった。小麦を空売りしたところでジャドウィンには何の影響もなかった。たかだか五十万ブッシェルくらいでは心配にならないほど今の彼はとても裕福だった。彼の注意を引いたのは「状況」だった。
ジャドウィンは自分を相場の名手にしてくれたあの恵まれた第六感に、何か漠然とした警告を受け、この冬のいつか、どこかで、ある変化が静かに少しずつ起こっていて、今なおも続いているのを感じた。この三年間、ずっと続いてきた状況が、ここに来て少し変化するのだろうか? そんなことはわからないし、言えるものでもなかった。しかし、自分が活躍し生活している金融業界の中で、ジャドウィンは……変化……を感じた。
一つは「時代」が良くなって、景気が良くなった。取引が盛んになっていることを見過ごしにはできなかった。繊維、金物、製造業では景況感が違っているようだった。ジャドウィンはそれが楽観だと想像できた。国の心臓が鼓動していて、時代の景気不景気が瞬時に映し出されるこの大都市で、ジャドウィンは、生活の血液が前よりも速く、スムーズに、滞りなく、流れていることを感じた。実体経済に流動性がある、お金が前よりもスムーズに流れている、ように見えた。人々が豊かになり、銀行が融資を拡大し、債務保証が安定して、堅実になったように見えた。ニューヨークでは株価が急騰していた。みんながお金を儲けていた……儲けて、使い、貸し、交換していた。蔵や金庫や手提げ金庫の中で、しっかり厳重に凍結される代わりに、自由に動くようになってきた。液体のように流れ出て、広く広く社会全体に浸透した。人々はお金を持っていた。チャンスをつかみたがっていた。
それでも景気はここまでだった。
春は逆戻りしてしまい、寒さが厳しく、生育には適さない状況だった。ジャドウィンは、長い間豊作で良質が続いた国産小麦が……可能性は十分にあるように思えるのだが……不作で不良であることが判明するのではないかと疑いを持ち始めた。ジャドウィンは天候を見守り、冬小麦の生産地帯の小さな州都や「中心地」からの報告から目を離さないようになった。これはある程度彼の疑念を裏付けたようだった。
アイオワ州キオクックから、冬小麦が水分不足で困っているというニュースが届いた。カンザス州南東部のベネディクト、イエーツセンター、ダグラスから、乾風が各地で生育中の穀物を枯らしている報告が届いた。中央部の郡でも状況は同じようだった。イリノイ州では、西はクインシーとウォータールー、南はリッジウェイから、凍てつくような天候と身を切るような風についての報告が着々と届いた。州南部はどこも冬の積雪量が蒔かれた穀物を保護するのに十分ではなかった。しかし、オハイオ州の収穫はミズーリ州と同様に十分に見込めそうだった。しかし、インディアナ州では、並の収穫量すら期待できない運命が推測できた。冬がほぼ四月の初めまで続き、ずっと寒かった天候がこの問題にはっきりと決着をつけたようだった。
しかし、ジャドウィンは特に、小麦の一大生産地ネブラスカ州に注目していた。ネブラスカはどうだろう、ネブラスカだけで国全体を養えるだろうか? いろいろな州都が次々に報告書を提出し始めた。冬は今なお州全体をつかんで離さなかった。小麦は絶えず強風にさらされ霜にやられた。いたるところで、成長しかけた若い穀粒が枯れかけているようだった。不作、まさに凶作だった。
しかし、これだけのことがあってもまだ何も決められなかった。他の冬小麦産地は、収穫がまだ限定的だったから、他の産地の不作分まで簡単に補えるかもしれなかった。それに、取引所の売り方が、収穫減のニュースに直面してもなお値動きを軟調なままにしておくかもしれなかった。現に、格上の有力な売り方のトレーダーたちは、すでにいつも調子で取引をしていた。価格は下がるに決まっていた。三年続いた下落局面はまだ終わっていなかった。彼ら、売り方は強すぎた。買い材料のニュースがあっても売り方をひるませることはできなかった。どういうわけか小麦は大量にあることになっていた。不作の噂を前にしても、値動きは鈍く弱含みだった。
四月十日、冬小麦の作況に関する政府報告が届いた。その中で、過去十年の平均値を大きく下回ることが発表された。三月十日付けの同報告書によれば、農家の供給量は一億ブッシェル以下と大したものではなく、市場在荷は四千万ブッシェル以下だった。
売り方のリーダーたちは、すぐにこのニュースの影響力を削ぐための行動を開始した。国外環境がアメリカの不作の影響をどのくらい確実に相殺するかを説明した。そして、政府の報告書は四月一日までの作柄の状況であり、それ以後の小麦生産地の天候は大方の予想よりも良いという事実を指摘した。
四月の報告書は、その月の十日の午後に公表された。その日の夜、ジャドウィンはグレトリー夫妻をノース・アベニューの新居に食事に招いた。食後、グレトリー夫人とローラを客間に残し、グレトリーをビリヤード室に連れて行って対戦した。
しかし、グレトリーが玉をラックに入れたのに、二人はすぐにはゲームを始めなかった。ジャドウィンは、ディナー間すっとお互いの頭の一番上にあった質問をした。
「さて、サム」ジャドウィンは切り出した。「この政府の報告書をきみはどう思うかい?」
ブローカーは落ち着いてキューにチョークを塗った。
「この報告書の影響で少しは反応するだろうが、マーケットは再び下落するだろう。私は小麦は六十セントまでいく言ったが、今でも同意見だ。今から五月までの長期見通しだがね」
「作柄だけを考えていたわけではない」ジャドウィンは言った。「サム、この夏はもっと景気がよくなって、価格だって上昇するぞ」
グレトリーは首を振り、ジャドウィンの間違いを指摘しようとして長い議論を始めた。
しかしジャドウィンは信じなかった。突然、テーブルに手をついた。
「サム、もう底だよ」ジャドウィンは明言した。「大底を打ったんだ。もうひと財産つくろうとしてもたかが知れている」
「私は今後のトレンドについて心配はしていない」ブローカーはテーブルの端に座り、譲らずに言った。「小麦は六十セントまで行くだろう」顎を動かして、玉の入ったラックを示した。「ブレイクするかい?」
ジャドウィンはブレイクショットをして点をとり、コーナーポケットの手前三インチにボールを一個残した。コールショットを宣言して、キューを引く間にわざとらしく言った。
「このポケットに入るのと同じくらい確実に、小麦はもう一セントも安くはならない」
その言葉を最後に、ジャドウィンはボールを打って、背筋を伸ばした。グレトリーはキューを置くと、すぐに相手を見た。しかししゃべらなかった。ジャドウィンは、壁を背に、台の上のまっすぐな背もたれの椅子に座って、膝に肘をついた。
「サム」ジャドウィンは言った。「大きな転換期が来たんだ」キューの先で床を叩いて言葉を強調した。「この三年間続けてきたやり方では、我々は勝負には臨めないぞ。散々小麦を売り叩いてきたものだから、生産コストを割ったのさ。世界中で叩いてももうこれ以上はいかないよ。他の奴らには、売り方の残りの連中には、それがわからんらしいが私にはわかる。秋までに、値上がりするよ。小麦は値上がりする。そうなった時、私はその場に居合わせるつもりだ」
「冬が始まるまで、退屈な相場が続くよ」相手は言い張った。
「じゃあ、そのセリフを冬が始まったら言ってくれよ」ジャドウィンは言い返した。「いいか、サム。私は五月ものを五十万ブッシェル売っている。明日の朝、きみは私のために遣いを送り、この取引を終わらせるんだ」
「どうかしているよ、ジェイ」 ブローカーは抗議した。「もう一月待ってくれ、きみはきっと私に感謝することになるぞ」
「もう一日も、もう一時間も待つ気はない。この空売り祭りは終ったんだ。言ったとおりに頼むよ」
「なぜだ、絶好のチャンスなんだぞ」ブローカーは抗議した。「せっかく三年も頑張ったのに、ここでゲームを降りるなんてないぞ」
「降りるつもりはない」
「え、何だって!」グレトリーは言った。「まさか、それじゃ……」
「鞍替えするってことさ。私がやろうとしているのはそういうことだ。きみが帽子を脱ぐより早く反対陣営に鞍替えするよ。私は売り方を降りる。続いている間はいい時代だったな。しかし我々はやれるだけのことは全部やった。五月ものの売りを買い戻して取引を手仕舞うだけじゃ終わらない……」ジャドウィンは身を乗り出して手で膝を叩いた。「買いに回るつもりだよ。九月小麦を買う。そして、明日、五十万ブッシェル買う。この先、相場が私の思うように推移すれば、もっと買い増すつもりだ。もう売るのはやめた。最後の鐘が鳴るまで、この相場を盛り上げてやるぞ。そしてこれから、カーティス・ジャドウィンは、買・い・か・た、になるからね」
「そんなことしたら一巻の終わりだぞ」グレトリーは言った。「あいつらは冷血漢なんだからな。しかも多勢に無勢だ……相手は喉笛を掻っ切るくらい平気な連中だぞ。売り方は背後に仲間がごまんといるんだ。クルックス老人、ケニストン、リトル・スウィーニー、その他大勢の連中が、きみをつかまえて、少しくらい生きのびるチャンスをくれるとか思ってないよな。売りを買い戻すのは勝手だが、頼むから一足飛びに買いに回るなんてことはしないでくれ。しばらく待つんだ。この相場が底を打ったのかどうかは、数日後には分かるだろう。あくまで議論を進めるためだが、相場が今一服していることは認めよう。しかし、上向くか下向くかは、まだ誰にも分からない。今は手堅く、慎重に行動する時だ」
「もし私が手堅く用心深かったら」ジャドウィンは答えた。「こんなゲームには絶対参加しないよ。四パーセントの国内債権でも買ってるさ。これが大勢の人が犯す大きな間違いなんだ。勝てるのは大きなチャンスをつかむ人だけというゲームに参加しておきながら、慎重に事を運ぼうとする。もしマーケットが好転してみんなが買うまでしばらく待ってたら、どうやって優位にたてばいいんだい? いいかい、きみは明日、私のために九月もののオプションを買うんだ……五十万ブッシェルね。今日の午後、イリノイ信託のきみの口座に証拠金を預けたよ」
長い沈黙があった。グレトリーは指の間で上手に玉を回転させた。
「ふーん」最後に、ためらいながら言った。「……私にはわからんな、ジェイ……きみはナポレオンかな……それとも……とんでもない馬鹿なのか」
「どっちでもないよ、サミュエル。少し常識を働かせているだけさ……。それだけか?」
「私は知らんからな」
「そろそろ、新しいゲームを始めよう。サム、玉を六個にしよう。打ちのめしてやる」……ジャドウィンは腕時計を見た……「九時半までに」
「一ドル賭けるか?」
「賭けはやらないんだ、サム、わかってるだろ」
三十分後、ジャドウィンは言った。
「下に降りて、女性陣に合流しようか? 葉巻は消さなくていい。ここに移る前にローラと交わした約束なんだ……タバコはどこで吸ってもいいってね」
「十分な広いしな」二人がエレベーターに乗り込むと、ブローカーは言った。「ところで、ここは部屋がいつくあるんだい?」
「実は私も知らんのだ」ジャドウィンは答えた。「昨日も新しい部屋を見つけたよ。本当だよ。見回っていたら、ちょっとした喫煙室みたいなところへ出たんだ。誓って言うが、以前は見たことがない部屋だった。ローラをつかまえて教えてもらわないとな」
エレベーターが下の階に降りると、ジャドウィンとブローカーは大廊下に出た。すぐそばの客間から女性たちの声がした。
「入る前に」ジャドウィンは言った。「うちのアートギャラリーとオルガンを見てほしいな。前回来たときは、確か、まだここは作業中だったからね」
二人は広い廊下を進んだ。突き当りの重く渋いカーテンを分ける直前に、ジャドウィンが電気のボタンを二つ押すと、カーテンの上の空きスペースに淡い落ち着いた光が灯った。
中に入ると、ブローカーは長い口笛を吹いた。アートギャラリーは、この家二階分の高さだった。その部屋は円形で、天井は色つきガラスのどでかい風通しのいいドームになっていた。部屋のあちらこちらに、豆本、象牙の彫像、古い嗅ぎたばこ入れ、十六世紀から十七世紀の扇子などがいっぱい詰まったガラス戸棚があった。壁にはたくさんの絵画、油絵、水彩画と、パステル画が一、二枚飾られていた。
しかし、入口の左側に、大聖堂に置いてもおかしくないほどの大きなオルガンが、建物の枠組みにはめ込まれてあり、電気の鈍い白熱灯に照らされて、いくつもの巨大なパイプが見えた。
「ほお、これはすごいな!」ブローカーは叫んだ。
「私はあまり詳しくないから」ジャドウィンは絵を見ながら言った。「ローラに聞いてくれ。このほとんどは、一昨年、海外にいたときに買ったものだよ。ローラはこれが一番いいと言っている」ジャドウィンは、森の池で水浴びをするニンフたちを描いた大きなブグローの作品を示した。
「うーん!」ブローカーは言った。「これは日曜学校の運営陣には見せたくはないだろう。理事会の連中ならこれを酒場の絵と呼びそうだね」
しかしジャドウィンは笑わなかった。
「そんな風に思ったことはないな」ジャドウィンは真面目くさった顔で言った。
「でも、いい作品だよ」グレトリーは慌てて付け加えた。「すばらしい、一流の色使いだ」
「私はこの作品をかなり気に入っているんだ」ジャドウィンはデタイユのキャンバスに移動しながら続けた。それは胸甲騎兵を研究するなら欠かせない一品だった。絵の中で、ラッパ手が片腕を高々と上げ、手にラッパを握りしめ、泡を吹いた馬が必死に走っていた。その後方の土煙の中に、色をいくつかの点状に使い分けて、残りの騎兵隊員が描かれていた。
「うん、なかなかいいね」グレトリーは同意した。「確かに歩いてるよな。フランス人ってやつはよくもまあ、あんなにたくさんの装備をつけるもんだ。うちの子供たちなら、出撃前にあのトラックの四分の三くらいは捨てちまうだろう……。画家っていうのは変わった仕事をするな」近くでキャンバスを覗きながら彼は続けた。「近くで見ると、ただ小さなこびりつきがたくさんあるだけなんだけど、離れてから」首を傾けながら後ろへ下がった。「見てこらんよ。ほら……このまとめ方を見てみろ。きれいにまとまってるじゃないか?」彼は絵から目を離し、部屋を見回した。
「なるほどなぁ」グレトリーはつぶやいた。「これは確かに本物だよ、ジェイ。思うんだが、これは相当値が張るんだろうな」
「そういうことにはまだ慣れてないんだよ」ジャドウィンは言った。「先週の日曜日に入居して、いろんなことを考えていたんだ。新しい家のこともそうだが、お金のことやすべてのことをだ。私にはこういう展開の仕方が奇妙に思えてならない……。サム、きみも知ってるだろうが、ミシガン州のオタワ郡にある親父の農場にいた頃を思い出すよ。あの頃は、家畜の世話をするために夜が明ける前に起きて、妹と私は馬小屋に駆け込んで、仕切りの中にある暖かい乳牛の飼い葉に浸かって素足を温めたものさ……妹は十八歳の時に急性の肺炎で亡くなったが……ああ、あの小さな妹をどれほど愛していたことか! 妹を覚えているか、サム。きみは時々グランドラピッズから来て、そのたびに私とリスを撃ちに行ったけな?」
「もちろんだ、忘れたことはない」
「先日ここへサディを連れて来て、その、何だ……幸せな時間を過ごさせたかったと思ってね。生きているときは、楽しい時間を過ごせなかったんだからね。仕事、仕事、仕事で、朝も昼も夜もなかった。その埋め合わせをしたかった。私は本気で人を幸せにしたいんだ、サム。それが私の楽しみ方だ。でも、今さら手遅れで妹にはそれをしてやれないんだ」
「まあ」グレトリーは言った。「むこうにすてきな奥さんがいるじゃないか……」
ジャドウィンはそれを遮った。突然両手をポケットに突っ込んで、半分背を向けた。一部は自分に、一部は友人に向かってつぶやいた。
「そうだよな、そうだよ。サム」叫んで、また背を向けた。「……ああ、気にしないでくれ」ジャドウィンはつぶやいた。
グレトリーは、どうしていいかわからず、やむを得ず、顎を突き出し、わかったようなふりをして目を閉じた。
「わかってる」グレトリーは答えた。「わかってるって、ジェイ」
「ほら、このオルガンを見てくれよ」ジャドウィンは元気よく言った。「私はこれを弾くのが好きなんだ」
二人は部屋の反対側へ移った。
「はあ、こういう愛蔵品まであるんだね」グレトリーは言った。
「聞かせてやるよ」ジャドウィンは言った。ジャドウィンは手近なケースからミシン目の入ったロールを取り出し、それを調整した。グレトリーは、アメリカの実業家のみんなが機械の発明に対して持っている真面目な関心を抱いてそれを見ていた。ジャドウィンはその前に座り、音栓を一、二つ外して、ペダルに足を乗せた。手始めに轟くような大きな息吹が、威勢のいい振動を伴ってパイプを鳴らした。そして、低音の豊かな唸り声が聞こえ、急に抗いようのない魅力が備わって、力強い十分な音量で『カルメン』序曲の最初の部分が始まった。
「すごい、大したもんだ!」グレトリーは自分に聞こえるように声を張り上げた。「すごいったらないな」
すごい肺活量のハーモニーがギャラリー全体を包み込み、一音一音の輪郭をはっきりさせ、くっきりと、機械的ではあるがそれでも効果的な精度で処理された。ジャドウィンは、音栓に目をやり、今度は楽譜をずらす作業に目をやり、演奏を続けた。パイプの響き渡る大音響の中でも、グレトリーには相手の話し声が届いたが、一言、二言しか聞き取れなかった。
「闘牛士……馬力……マダム・カルベ……電気モーター……名曲……蓄電池」
テンポはまばらになり、繊細な軽さを持つ旋律へと弱められ、一番小さなパイプで続けられて、新しい主題を展開していた。これが二回繰り返されてから、間近に迫った大きな効果に備えて予兆を奏でる一連の和音と小節になった。短い休止があって、突然ものすごい音が一気に放たれ、音量と強さを増してメロディーを元のテンポへ押し戻した。
「これはすばらしい、すばらしいな!」グレトリーは手を叩いて叫んだ。部屋の向こう側の動きに目がいって振り向くと、ローラ・ジャドウィンが入口の開け放ったカーテンの間に立っていた。
こうして思いがけず目にしたわけだが、ブローカーはジャドウィンの妻の美しさに再び度肝を抜かれた。ローラは黒いレースのイブニングドレスをまとい、腕と首を露わにしていた。黒髪が頭の上に高く積まれ、素肌の肩にはアメリカン・ビューティー・ローズが一輪揺れていた。依然として華奢だがとても背が高く、相変わらず持ち味である異常に白い顔をしていた。細い首のまわりは何連にもなるすばらしい真珠の首飾りが深い位置で、ダイヤモンドのバックルに引き立てられて留められていた。
ローラはグレトリー夫人とペイジを連れてやってきた。ブローカーの妻は快活で、小柄な、なかなかかわいらしい金髪の女性だった。少し骨ばっていて、みずみずしさを失いかけていた。おしゃべり好きで、口は達者だが、はしたない言葉を使いがちだった。昼夜を問わず耳にトルコ石を付けていた。
三年の歳月はペイジ・ディアボーンにも大きな変化をもたらしていた。もうすっかり若い女性だった。寸胴で頑丈な小柄な体型は発育を遂げ、腕は丸みを帯び、目は落ち着いた感じになった。背も伸び、体格も良くなっていた。かつての優雅な美しさは、確かそれほど繊細ではなく、上品で、純真で、魅力的に骨ばった少年らしいものだった。その中に限りなく女性らしさがあった。それのせいなのか、ペイジはこれまでよりもローラに似ていた。とは言っても、その表情には沈痛で生真面目なところがあった。ペイジにはいつもどこか人と距離を置くところがあった。世の中を厳粛に見ていた。まるでその明るい側面から切り離されたようだった。ユーモアを、人間という動物の不可解な気まぐれとしか感じなかった。
「オルガンの音が聞こえたから来ちゃった」ローラは言った。「グレトリー夫人にも聴いていただきたいわ」
この三年は、ローラ・ジャドウィンの人生の中で最も重要な年月だった。結婚してから、驚くほどのスピードで知的にも道徳的にも成長を遂げていた。実際、その変化はあまりにも速かったので、成長というよりは変貌だった。彼女はもう、三人の恋人の言い寄られることに喜びを見出し、ステート・ストリートの古い家で床に座ってランドリー・コートに手を握らせていたのと同じ中途半端で直情的な少女ではなかった。あの頃のミス・ディアボーンを、まるで別人であるかのように振り返った。あれから随分と成長したものだ! 随分と変わったものだ! あれ以来、彼女の人生は、まったく別のものに、限りなく真剣で甘美なものに、なっていた!
大きな現実がローラの世界に入り込んだ。大きな新しい要素が、他のすべての考え方や、他のすべての考慮すべき事情を小さなものにした。それは夫に対するローラの愛だった。結婚するまでローラは、暗闇の中を、昼だと思っていた暗闇の中を、歩いていた、それも意地になって、注意を払わずに、不心得と言ってもいいほど軽薄に、歩いていた。しかし、突然、すごい光を見てしまった。愛が彼女の世界に入ってきたのだ。ローラの新しい天国では、新しい光は動かなかった。他のすべてのものはこの光があるからこそ見ることができた。他のすべてのものは、この光に触れられ、この光に和らげられ、この光によって暖められて元気づけられた。
それは、ローラが夫と新婚時代を過ごしたウィスコンシン州ジュネーブ湖畔の別荘で、ある晩から始まったように思えた。結婚して十日くらいのことだった。七月のある晩、小さな蒸気式ヨット「テティス号」の船上で二人っきりだった。ローラはそれをはっきりと覚えていた。その日はとても暖かかったので、ローラはディナーが済んでも服を着替えなかった。灰色がかったピンクのシルクにホニトンレースをあしらったもので、カーティスが今まで見た中で一番きれいだと言ってくれたことをローラは思い出した。時刻は真夜中の一時間前、湖は静寂に包まれ、見るからに固体のようだった。さざ波一つない水面に月が映し出されて、その姿をおぼろげに見せていた。空は灰色で星が光り、星のきらめきと薄暗い水面の間にぼんやり広がる帯状の黒が海岸線を示すだけだった。その夜以来、夜鷹や夜蛙の鳴き声や夜蛙の鳴き声を聞いて、その光景がよみがえらないことはなかった。小さなテティス号は順調にポンポンと蒸気を吐き出していた。機関室の入口で、白髪のマッケニーという機関士が気を利かせて背中を向けていた……座ってパイプをくゆらせ、外の空気を吸っていた。時々機関室に入っていくと、燃料をくべるときにシャベルがあたって擦れる音が聞こえた。
ローラは籐製の長いデッキチェアに座って羽根を伸ばし、帽子もかぶらず、くすんだ色のコートを肩に羽織り、夫の近くに座った。夫は片手で舵輪に届く位置にキャンプスツールを置いて座っていた。
「どうだ」ジャドウィンは最後に言った「私と結婚してよかったかい、ミス・ディアボーン?」ローラは夫の首に手をかけて顔を自分の顔のところへ引き寄せた。そして頭を後ろにのけぞらせ、唇が触れ合う寸前のところで繰り返しささやいた。
「愛してるわ……愛してる……愛してる!」
その夜は決定的だった。結婚生活の最初の一週間はずっと、結婚式であろうが、自分の部屋で夫が自分を抱きしめ、初めて心に愛の感動を覚えたあの瞬間であろうが、ローラにとってはすべてが目まぐるしく、ぼんやりしたものだった。ローラは自分のことがわからなくなっていた。夫への愛情は気分次第で生まれたり消えたりした。自分が本当に不幸だと思う瞬間もあった。そんなとき、突然、ローラは目が覚めた気がした。セント・ジェームズ教会での挙式ではなく、その覚醒が彼女の結婚だった。もう取り消すことはできないのだ。自分は夫のものであり、永遠に、いつまでもずっと夫のものだった。降伏は栄光だ。そのときローラは、愛は、女の人生における最高の勝利は、勝利というより降伏であることを知った。
それ以来、ローラの幸せは完璧だった。文字通り、そして本当に、ローラの太陽には雲一つ、塵一つなかった。ローラは、すべて……夫の愛情、巨万の富、類まれな美貌、完璧な健康、安らかな心、友人、地位……を手に入れた。夢にも思わないほど、もったいないくらいに、神さまはローラに親切だった。それに見合う行いを何もしていなかったローラのために、あらゆる褒美と報酬を用意していた。
ローラの夫も同じように幸せだった。結婚後の最初の三年間は、いいことずくめだった。二人にとって自分たちの幸福は、すばらしい目の回るもの、眩しいきらびやかなもの、不思議なきらきらする宝石のような不思議な働きをするものだった。それが突然二人の手に渡ったのである。
これに目覚めてまずローラは、ペイジのためにほとんど何もしてこなかった自分を責めた。自分は良い姉ではなかった、自分はしばしば不公平で短気で、自分の気まぐれのためにペイジを苦しめてきた、と反省した。ペイジの小さな悩みを十分にわかってやれなかった……と自分に信じさせた……そして、ペイジのひたむきさや変に少し生真面目なところをからかうことがあまりに多かったことに気がついた。確かにペイジには良い家も良い服も与え、良い教育も受けさせたが、それ以上のものを……単なる義務的な贈り物以上のものを……与えるべきだった。ペイジにとって、ローラはもっと仲間のような存在であり、もっと頼れる人であり、要するにもっと母親であるべきだった。ローラは急に、両親のいない家庭の年長者たるものの責任を感じた。ペイジは急速に成長し、絶世の美人になりつつあった。もう少しで年頃の女性になり、近いうちに、今すぐにでも、必ず結婚という重大問題が持ち上がるに違いなかった。
結婚生活の最初の数年間に、ローラの夫に対する配慮が欠けることがあったのは、ひとえにある種の責任をこうして自覚していたからに他ならなかった。ローラは本物の男の中の男というものがわかり始めた。そういうのは結婚してからでなければわからないことを今になってわかった。夫のジャドウィンは恋人のジャドウィンとはまったくの別人で、はるかにいい人だった。ローラは自分が時々、昔の日々や、自分が一介のミス・ディアボーンに過ぎなかった頃のことを、改めて気にしながら振り返っていることに気がついた。結局、自分はジャドウィンのことをほとんどわかっていなかったのだ! そして、そんなことも知らず、そんなことを気にもせず、相手の本性を見抜く力もないくせに、よくもそんな相手と一生を共にする取り返しのつかない一歩を踏み出したものだった。初期のカーティス・ジャドウィンはまったくの別人だった。彼は悪党だったのかもしれない。しかしローラにそれがわかるはずはなかった。とはいえ、ローラの夫は、ローラにとって、これまでで最高の、最もすてきな男性に早変わりしたのである。しかしそれは簡単に違うものになるかもしれないということだった。
ローラに対するジャドウィンの態度は思いやりそのものだった。ジャドウィンは、たとえ一日でもローラと離れ離れになると、夕方に帰ってきたときに、何か小さなプレゼント、ほんの気持ち……花束とかを持って帰らないことはほとんどなかった。クリスマス、結婚記念日、誕生日などは、いつも盛大にお祝いした。仕事の合間に休日を設け、枕の下やディナーの皿にプレゼントを置いて驚かせ、夜は必ず劇場に連れ出した。
しかし妻に気に入られたのはジャドウィンの長所だけではなかった。ローラの目にジャドウィンは完全無欠の英雄には映らなかった。極めて人間的だった。欠点があり、ある種の愛すべき弱点があり、ローラがとても魅力的に感じたのは、まさにそういう特徴だった。
まず、ジャドウィンは見事なほど矛盾だらけだった。ある時点でいいとは限らない何かの仕事、娯楽、行動方針に彼の気持ちが向いたとしよう。すると、自分を正当化する言い訳の才能は、手の込んだ詭弁を並べ立てた。それでいて、もし後で関心を失えば、前言を棚に上げて、自分の発言を翻した。
それから、重要だが不可欠ではない物や時間の過ごし方を子供のように楽しむこともあった。ジャドウィンはそれに散々のめり込み、義務とは言わないが明らかにもっと重要なことをおろそかにした。
その中の一つが「テティス号」だった。この小さな蒸気ヨットは、考えられるあらゆる点で、最後のボルトやニスの塗装に至るまで完成していた。しかし夏休みの間、本来、ジャドウィンは「敷地」の未完成部分を監督すべきところだが……部下に任せられない監督をすべきだが……帽子もかぶらずシャツ一枚で「テティス」号に乗り込み、白髪のマッケニーと本格的な議論をしたり、掃除用の布切れやレンチやペンキの刷毛を持っていじったり、船を歩き回る姿が、何度も目撃された。ジャドウィンは裕福なのだから、船の乗務員を丸抱えして、ネジや釘打ち作業から磨き洗いまでのすべてを彼らの義務にすることだってできた。しかしジャドウィンにそのつもりはなかった。深刻に憂いながら「コストがかかりすぎる」と言い放つのだ。見よう見まねで工具やペンキの刷毛を使いこなした。真昼の炎天下でも、家からテティス号が停泊している埠頭まで、締める必要のないボルトを締めるというつまらない楽しみのために出かけて行った。かと思えば夜中だろうが目を覚ましてヨットの装備や装飾について思いついた新しいアイデアをローラに伝えた。ジャドウィンは「乗組員」など贅沢だと騒いだ。しかし、磨きあげ、改装、オーバーホール、塗り替え、バラストの積み直し……すべて無用な作業……に要した総額はローラを絶句させた。それだけあれば十二人の船員だって丸一年維持できただろうからだ。
これと同じような矛盾は他にもいくらでもあった。ビジネスにかけては、ジャドウィンの経済感覚は文句のつけようがなかった。五十セントでも多く請求されたらけちをつけただろう。十セントの無駄な浪費を省くために、徹底的に手間暇かけて……それを自慢しただろう。しかしバスを釣るとなると、どんな贅沢も贅沢すぎることななく、どんな時間も大切すぎることはなかった。
ジャドウィンは釣りのことになると言い出したら聞かなかった。ローラは都会では早起きだが、田舎では寝坊しがちで、午後の暑い盛りには二時間の昼寝を欠かすことはなかった。夫の方は、ローラが相手にしてくれない時間を利用して自分の余暇を楽しんだ。早いからといって五時までに釣り糸が水の中にない朝はなく、灼熱の太陽だろうと彼が海岸の日陰にある切り株や葦に「向かって行く」の阻むことはなかった。
これはジャドウィンが妻と分かち合えない楽しみだった。ローラは、ゆっくり進む船の単調さや、何の成果もあがらずに過ぎ去る時間や、強いられる怠惰や、窮屈な姿勢に耐えられなかった。ジャドウィンが説き伏せても時々しか同行させられなかった。そのときの準備ときたら大変だった! 乗船間近のエリザベス女王並の気遣いようだった。マッケニー(時にはガイドにも船漕ぎにもなった)とジャドウィンは、ローラが快適に過ごせるよう知恵を絞った。二人は気を遣って議論を交わした。「ローラはこれを喜ぶかな?」「これの方が簡単に気に入ってくれそうじゃないか?」「前回それでご機嫌だったろう?」 ジャドウィンは自らクッションを並べ、ボートの底にカーペットを敷き、手をとって招き入れ、古い手袋を見つけ、釣り針に餌をつけ、糸のもつれをほどき、アイスボックスのミネラルウォーターが十分に冷えているかを確認し、ローラが快適に楽しくいられるように、小さな気配りを欠かさずに頑張った。なのに徒労に終わった。ついにローラは言い放った。
「ねえ、カーティス、そんなことしても無駄よ。あなたは自分の楽しみをすべて犠牲にして、私が快適に過ごせるように……私が楽しめるように、してくれるけど、私、楽しくないもの。ごめんなさいね、私だってあなたと楽しいことはすべて共有したいわ、でも釣りは好きじゃないの、これから先もずっとね。独りで行ってよ。私が行っても邪魔になるだけだわ」ジャドウィンは最初大騒ぎしたが、ローラは譲らなかった。
この三年の間に、ローラ夫婦は一度だけ海外に出かけた。しかし、イギリスでの体験はローラにとっては期待外れだった……二人は大陸には渡らなかった。ジャドウィンは、美術館、アートギャラリー、聖堂にちっとも興味はなかったが、文句を言うことなく我慢してローラについて回った。ローラはジャドウィンの苦悩を察して、三か月も早く帰国するように仕向けた。
この旅行で、二人はノース・アベニューの家に飾る絵画や調度品をたくさん買い込んだ。ヨーロッパ旅行が短縮されたことに対するローラの失望は、新居に落ち着くことを待ちわびることで軽減された。結婚してもこればかりにすぐには叶わなかった。二年近くもの間この大邸宅は、建築業者、技師、装飾業者、庭師に占拠されていた。キャス・ストリートの旧牧師館をペイジとウェス叔母さんに明け渡してしまい、ローラ夫婦はシカゴにいる間ホテルで生活した。
しかし、やっとの思いでノース・アベニューの家に入居して、そのすばらしさに対する最初の熱狂と興奮が冷めてしまうと、ローラは口では反対のことを言いながらも、必ずしも満足していなかった。表面上、自分が望むものはすべてそろっていた。リンカーンパークに面しており、そこに面した窓のすべてから、最高にすばらしい景色……緑の森、広々とした芝生、パレード会場、リンカーンの記念碑、小さな谷、茂み、平坦な車道、花壇、噴水……が見えた。ローラの居間の大きな張り出し窓からは、ミシガン湖の向こうがずっと遠くまで見渡せ、ミルウォーキーやはるかかなたのダルースや「スー」でお馴染みのスーセントマリーから来た大きな湖上蒸気船が、収穫した小麦をぎりぎりまで満載にして、河口を目指し、堂々と通り過ぎていくのが見えた。夜、気温の暖かい日に窓を開けると、波が堤防に打ち寄せて洗う物悲しい音が聞こえた。
家の周りの敷地は美しかった。馬小屋だけでもセント・ジェームス向かいの古い家の半分ほどの広さがあり、ローラが一番楽しみにしていた温室はすばらしかった……緑色の羽目板造りの大きなドーム型の建物で、冬も夏もそこから家に飾るたくさんの花……スミレ、谷間のユリ、黄水仙、ヒヤシンス、チューリップ、そしてローラの大好きなバラ……を取り寄せることができた。
しかし、家のインテリアは、部分的にではあるが、いささか不満があった。ジャドウィンは結婚が決まるとすぐにこの家を購入し、内部の調度品をインテリア事務所に任せてしまった。無邪気に妻を驚かせるつもりだった。もの選びや設計の責任を妻に負わせるべきでないと自分に言い聞かせていた。しかし、幸いなことに、インテリアデザイナーは趣味のいい人たちだった。機嫌を損なうものは何もなく、ダイニングルーム、朝食の間、客間、居間、寝室で二人が得た結果は喜びばかりだった。そのすべての美しさはローラを魅了したが、これは自分のものではないという気持ちを拭い去ることができなかった。天然木材と単調な「色彩効果」の見栄えや、工夫を凝らした電気機器や、快適をもたらすための機械仕掛けのおかげで、そこはまるで既製の贅沢品や一等車のような感動をローラに与えた。
ローラは早めにいくつかの部屋を自分用に確保した。そしてこれらの部屋……書斎、寝室、そして特に出窓から湖が見えて、今でも昔の家にいる気分になれる「二階の居間」と呼んだあの部屋……は、ローラが自分に合うように家具を揃えた。
ローラはずっと、すべてが自分の決めたとおりになっても、新しく手に入れた富がうれしくてたまらなくても、こんなにスケールのでかい生活環境に自分を順応させるのは大変だと思った。そんなことはもう家政婦の仕事になったのを忘れて、自分がよく翌日の買い物の段取りを考えていることに気がついた。昔バリントンの少女だったころに教えられたとおりに、朝食が済んでから「自分の部屋の片付け」を何か月もやり続けた。エレベーターを怖がったり、家の要所要所と使用人室とをつなぐこじんまりした通話システムの使い方を全然覚えなかった。このすばらしい環境での数か月にローラが一番心配したのは泥棒だった。
ローラの一番の楽しみは、馬小屋と、アートギャラリーの大きなオルガンだった。これだけで他のいろいろなところで感じた居づらさを補って余りあった。
ローラは馬が好きだった……絵で見たような、流れるような尾とたてがみのある黒い馬だ。近頃は例外を除いて、キャリッジ、クーペ、フェートン、ドッグカートなどの馬車に乗る以外は外出しなかった。何よりも自分の乗馬馬を愛し、馬の乗り方を習得していた。その朝は天候が悪かったので、馬丁と斑の二匹のジャドウィンの馬車犬を付き従えて、長い時間公園を一人で散歩しなかった。
最初大きなオルガンはローラを圧倒した。しかし、馴染んでくると、それを心の広い共感できる友人と考えるようになった。ローラはすでにピアノを上手に演奏したので、ジャドウィンの自動演奏「装置」を小馬鹿にした。ストップやペダルの複雑な操作さや、「エコー」オルガン、「グレート」オルガン、「クワイア」「スウェル」の難しい扱いをローラに教えるためにインストラクターが雇われた。これらをマスターしたとたんに、ローラは喜びの新しい世界に足を踏み入れた。音楽がわかるといってもまだ少し未熟なところがあり、グノーやヴェルディでさえもぎりぎりだった。しかし、指先が軽く押したとおりに、その巨大な楽器が「アンヴィル・コーラス」のカデンツを通して鳴り響くのを聞くと、すばらしい力を感じてぞくぞくした。
訓練や指導を受けていないローラの女優の本能は、彼女を変なふうにメロドラマ好きにしてしまった。ローラは壮大なものを好んだ。オルガンが奏でるすばらしい音楽の「効果」を堪能し、その壮大さに惹かれた。その一方、でローラ自身の中で、このすばらしい家を背景とした「貴婦人」の役割が、まったくの無意識のうちに、一種の楽しいゲームになった。
こうやって、ローラは最終的に新しい環境に自分を適合させることに成功した。無邪気に、ほとんど子供のような無害なふりをして、少しポーズをとった。そうすることによって、自分自身……つまり適度な収入と静かな生活をおくるローラと、今自分が囲まれているものすごい贅沢な環境とのずれの解消法を見つけた。知らず知らずのうちに、ローラは立派な貴婦人を演じ始めた……そして上手に演じた。公園に木があるは当然だと考えるように、使用人が大勢いるのは当然だと考えるようにした。本物のローラ・ジャドウィンが、不器用に、経験不足の制約を受けながら、そうするのではなく、自分がステージでその役を演じるとしたらそうするように、気取って、侯爵夫人のような無頓着な態度で……要するに持ち前の「威厳に満ちた態度」を見事なまでに慇懃に発揮して、自分をメイドの手に身を委ねた。
この高慢さを緩めると、使用人が付け込み、付け上がることをよく知っていた。このことでローラは夫の新しい意外な側面を発見した。
使用人は堅苦しい執事から下っ端の馬丁に至るまで、ジャドウィンを慕っていた。ローラがとても明確に指示を出すよりもジャドウィンが頼む気持ちを半分見せただけの方が即効性があった。ジャドウィンはわざわざ使用人と親しくしなかった。現に名前を忘れたり混同するほど蔑ろにしていた。しかしローラが型通りの礼節と薄ら寒い敬意をもってかしずかれるのに対し、ジャドウィンは、へつらうほどの俊敏さと、制服や「礼儀正しさ」でさえ隠しきれないほどのうれしそうな態度で応対された。
ジャドウィンが使用人に起こさせたこの本物の心遣いにローラが初めて気づいたのは、新居に住み始めた最初の数か月間に起きたある出来事がきっかけだった。庭師の一人が、ジャドウィンがコートの折り襟にクチナシを挿すのが好きなことを発見した。それからというもの大変な苦労の末に毎朝温室から新しい花を差し入れた。花はジャドウィンの皿の上に置かれることになった。主人がその花をコートに挿して玄関に現れるときが、老人とっての一大イベントだった。しかし、この件をめぐって庭師と、毎朝朝食の席で執事の代行を務めるメイドとの間に、たちまち確執が生まれた。時々ジャドウィンが花をつけていないことがあったので、庭師は、メイドに花を渡したのに主人の皿に置くのを忘れたとしてその怠慢を非難した。結局、この問題は、ジャドウィン自身が仲裁に入らなければならないほどの大騒ぎになった。庭師が呼び出され、喜んでもらいたい一心でしたことが仇になっただけだとわかった。
「ビリー」ジャドウィンは問題が片付いたところで老人に言った。「愚かな爺さんだな」
すると庭師は、まるでジャドウィンが贈り物でもしたかのように、気持ちを抑えて口ごもった。
「もし私が 『愚かな爺さん』とでも言おうものなら」ローラは言った。「彼はその週が終わるまでずっと不機嫌だったでしょうね」
ローラにとって、一日のうち最も幸せな時間は夜だった。日中はいろいろなことで手がいっぱいだったが、絶えず思いは、夫と一緒にいられる一日の終わりへと馳せていた。ジャドウィンの朝食は早かった。ローラは前夜どんなに遅くまで起きていても、ジャドウィンの相手をした。ジャドウィンは八時半までに家を出て、ニップとタックが引く馬車に乗って出社した。九時までにローラの馬が馬車寄せに回されて、十一時まで公園で乗馬を楽しんだ。十二時にペイジと昼食をとり、午後は「二階の居間」で三時から四時までブラウニングや最近発見したばかりのメレディスを読んだ。その後、馬車で出かけることもあった。買い物のときは、ラサール・ストリートの「ルッカリー」まで行き、買い物を済ませた後は、従者を夫の事務所に行かせて『家まで送ります』と伝言させた。割りと頻繁にクレスラー夫人やウェス叔母さん、グレトリー夫人を訪ねて、絵画や花の展覧会に連れ出し、ごくまれに……ローラは社交界にほとんど興味がなかったので……ティーパーティーなどの催物に参加することもあった。
しかし、夕方、ディナーが済んでしまうとローラは夫を独占した。ペイジはほとんどいつも居間で若い男の一人もしくは数名といた。しかしローラとジャドウィンは書斎に閉じこもった。天井の高い羽目板の部屋で、深く座れる革張りの椅子、高い本棚、銅版画、物憂げな真鍮の像があった。そこでジャドウィンは、葉巻を吸いながら、腕枕をして広いソファで体を伸ばし、ローラが本を読んで聞かせた。
ジャドウィンは明らかに小説好きだった。ローラは最初、自分が大好きなメレディスを紹介しようとした。しかし、三章が終わったところでジャドウィンが『この馬鹿は何を言っているんだ』と叫んだので諦めて、別の本を最初から読み直した。放っておけば、夫は『神秘の島』や『皇帝の密使ミハイル・ストロゴフ』果ては『テキサスのポッター氏』や『ニューヨークのバーンズ氏』にさえ引かれただろうとローラは悲しそうに認めた。しかし、ローラは夫の文学教育を始めることにして、メレディスで失敗し『宝島』と『難破船』を取り上げた。ジャドウィンはその大半を端折らせた。
「さあ、早く『物語』に入ろうよ」ジャドウィンは催促した。「賢く」て「生き生き」していたのでピンカートンはずっとジャドウィンの理想であり続けた。
「私はあまり芸術には興味がない」ジャドウィンは言った。「世界を良くも幸福にもしない芸術は芸術じゃないし、ゴミ捨て場がお似合いだと信じてる」
しかし、ついにローラはハウエルズなら長続きすることに気がついた。
「大したことは何も起こらないが」ジャドウィンは言った。「私はああいう人たちならみんな知っている」ジャドウィンはバートリー・ハバードへの密かな憧れを捨てきれなかった。彼もまた「賢く」て「生き生き」していた。「理解できる」相手だった。「こういう奴はラサール・ストリートに五十人はいるぞ」 と言ってラッファムに弟のような親近感を覚えた。その成長過程で、笑いを欠かさなかったというか笑わずにはいられなかった。ブロムフィールド・コリーは馬鹿にされるか、「怠け者」「半可通」としてまったく相手にされなかったが、ラッファムとは気が合ったのである。
「そのとおりだよ」朗読を中断させて声をあげた。「それしかあるまい。もし私が彼の立場だったら、まさにそうしていただろう。うん、こいつは自分が書いていることがわかっているな……あのミドルトンみたいなやつの『ディアナ』とか『驚きの結婚』とは大違いだ」
ジャドウィン夫妻は時々人寄せをした。ローラの夫は自分の家が自慢で、飽きもせず友人に見せびらかした。ローラはペイジを「お披露目」するダンスパーティーを開催した。ほぼ毎週日曜日にクレスラー夫妻がディナーにやってきた。しかし、ウェス叔母さんは最初のうちめったにこの家を訪問しなかった。あまりに豪華なものだから、この小さな未亡人は不安を覚え、少し疑ってさえいた。叔母はローラに向かって首を振りながら、つぶやいた。
「あらまあ、大したものだこと、でもね、ローラ、支払いはすべてさっさと払って、請求書をためるものじゃありませんよ。あなたの愛するお父さんだったら何と言うかしらね、私は知りませんけど」そして叔母は何時間もかけて電球を数えあげて、これはどうせただの新型のガス器具だと言った。
「この部屋だけで三十三個もあるのね」叔母は言った。「ガスの請求書を受け取るときのあなたの大事な旦那さまのお顔を拝見したいものだわ。それに、仕立て屋が住み込みなんだって……。まあ……とやかく言いたくはないけどね」
こうして三年の月日が流れた。新しい家庭は様になってきた。ジャドウィンはどんどん豊かになった。不動産は値上がりした。家賃も上昇した。小麦に注ぎ込む金は毎回規模が大きくなり、その都度勝利を収めた。常に売り方だった。まれにローラの耳元で、自分がやろうとしていることを話すときには決まって、価格が下がっている、と言った。そして、ようやく春が来て、底を打ったと確信すると、グレトリーと話し合い、いきなり戦略家のように密かに「買い方」に転向した。
みんながアートギャラリーに残っているのに、グレトリーはまだその問題を考えていた。みんなが居間に戻ろうとしたとき、グレトリーはすかさずジャドウィンを引き止めた。
「首を折る気になったのなら、明日、いくらで買ってほしいのか言ってみろ」
「成り行きでいいから」ジャドウィンは答えた。「早く手に入れたい」
少しすると、みんなが居間に集まった。グレトリー夫人が前の晩にイザベルが突然窒息した様子を延々と話していると、使用人がランドリー・コートの到着を告げた。青年はこぎれいな格好で愛想よく、片手に花束、もう片方の手にキャンディの箱を持って入ってきた。
この数日前に、ペイジは、彼が仕事に没頭しすぎて、魂を枯渇させていると本気で苦言を呈した。もっと本を読むべきだと言い、もし今夜訪ねて来れば、読書の手ほどきしてあげると言った。
しばらく居間で年長者たちと歓談してから、二人は書斎に移った。
そこでペイジは手始めに、どんな小説が好きなのか尋ねた。ペイジはラスキンの思想の美しさや、チャールズ・ラムの文体の品の良さについて語った。会話は少し途切れた。ランドリーは、ペイジに遅れをとるまいと現代小説が好きだと言って「最新の本」の話をした。しかし、ペイジは新しい本を読んでいなかった。興味がなかったのだ。二人の会話は共通の話題がなく、途絶えそうだった。そうなってようやく、だんだん、自分たちのことやお互いのことを話すようになった。たちまち二人は盛り上がった。お互いの言葉に一心に耳を傾け、ずっと待ち構えていたかのように即答し、議論、主張、賛成、反対を何度も繰り返した。
ランドリーは言った。
「僕は子供の頃、他の子供たちの上に立ちたいという野心を持っていた。この街で一番の野球選手になりたかった……そしてなったんだ。十五歳のときにはカーブだって三回投げられた。大人になった今も同じなんだと気づいた。僕は何かをするとき、他の誰よりもうまくやりたいんだ。ずっと昔からいつだって僕は野心的だった。それが僕の長所だからね。それでね」ランドリーはペイジの方を向いて続けた。「きみの長所は思慮深いことだよ。きみはいわゆる内省的な人間だね」
「ええ、そうよ」ペイジは答えた。「自分でもそう思うわ」
「きみには競争という刺激が必要ないんだ。独りでいるときが一番いい。群がろうとはしないんだ」
「嫌いだもの」ペイジは叫んだ。
「今の僕には、僕のような気質の人間には、群がるってことは実に刺激的なんだ。みんなが僕の周りで、あるいは僕に向かって話したり、叫んでいるときが、一番気分がいいね。でも」ランドリーは真面目に付け加えた。「それは男性の集団でなければならない。女性の集団には耐えられなくてね」
「女性はおしゃべりだもの」ペイジは同意した。「私も無理だわ」
「でもね、一人の聡明で共感できる女性と一緒にいることは、大勢の男性といるときと同じくらい刺激なんだってわかったんだ。おかしいだろ、僕がそんなふうになるなんて?」
「確かに」ペイジは言った。「おかしいわ……変よ。でも、つきあいって大事だわ。男性と女性の間では、とても大事なものだと思うわ……つきあいとか愛って」ペイジは突然付け加えて深いため息をついて口をつぐんだ。「まあ、私にはわからないけど」ペイジはつぶやいた。「この一節を覚えてるかしら?
男の愛は人生とは別の物だが、
女の愛は一生つづく。
あなたはこれを信じる?」
「うーん」ランドリーは慎重に言葉を選びながら真面目に言った。「そうかもしれないけど、すべてはその男と女次第だよ。ランドリーはかなり深刻ぶって付け加えた。「愛は宇宙で一番偉大な力だ」
「私は恋愛をしたことがないけど」ペイジは言った。「そうね、愛はすばらしい力だわ」
「僕も恋愛の経験はないんだ」
「一度も恋愛したことがないの?」
「ああ、恋をしていると思ったことはあるかな」ランドリーは手を振って言った。
「私は思ったこともないわ」ペイジは考えながら答えた。
「結婚って早い方がいいのかな?」ランドリーは尋ねた。
「妻に良い家庭と良い服と……そういうものを与えられるようになるまで、男は結婚すべきじゃないわ」ペイジは慎重に言った。「私は自分が結婚することはないと思う」
「まさか! きみならするだろう。どうしてしないのさ?」
「しないわよ。そういう気質だもの。気難しくて口べただし。ローラもそう言うわ」
ランドリーは猛然と抗議した。
「それにね」ペイジは続けた。「私は憂鬱になって長い時間考え込んでしまうことがあるの」
「うーん、僕もそうだよ」ランドリーは無造作に言い放った。「夜、時々……目が覚めたときなんかにね。そんなときがっくりして『何になるっていうんだ、まったく!』って口にしてるよ」
「悲観論って信じますか? 私は信じるわ。カーライルはひどい悲観主義者だったそうです」
「まあ……恋愛の話だけど。きみが悲観主義と恋愛を同時に信じられないのは僕だって理解できる。自分が愛を信じなくなったら、きみは不幸だと感じるんじゃないかい?」
「ええ、そうね、相当なものよ」
少し沈黙があって、それからランドリーが言った。
「きみは一度の恋愛しかしないタイプの女性だけど、そういう一度きりの愛はとても深くて強いんだ」
ペイジの目が大きく開いた。ペイジはつぶやいた。
「『女の愛は一生つづく……一生つづく』 そうね、私ってそうなんだと思うわ」
「彼らが結婚したのを知ってイノック・アーデンが身を引いたのは正しかったと思う?」
「まあ、読んだんですか? でも、美しい詩じゃないかしら? 彼は高潔だったんじゃない? 立派だったんじゃないかしら? ええ、そうよ、そうだわ、正しいことをしたのよ」
「僕なら立ち去らなかったろうな。あの家に入り込んで、物事をうまく片付けたさ。僕だったら、他の男なんか追い出したろうね、全部まとめてさ」
「いかにも男らしいわ、身勝手で、自分のことしか考えてない。あなたは愛の意味を知らないのよ……偉大な本物の無私の愛をね」
「僕は自分の愛の意味を知ってるよ。自分が愛した女性を他の男に譲ると思うかい?」
「たとえその女性が他の男性を一番愛していても?」
「まず自分の彼女を手に入れて、その後で他の男をどう思っているかを調べればいいのさ」
「ねえ、でももしあなたが諦めたら、その方が立派だわ。理想のために最も大切なものをすべて犠牲にしたことになるんですもの。もし私がイノック・アーデンの立場で、私が死んだと思った夫が、他の女と幸せに暮らしているのを知ったら、私は喜んで身を引き、自分を犠牲にして、夫が不幸にならないようにするわ。それが私の考える愛よ。そして私は修道院に入るわ」
「それはひどいな。僕なら相手の方を修道院に行かせるよ。もし僕が女性を愛したら、世界中のどんなものが邪魔をしようと彼女を勝ち取るさ」
「あなたは意志が強いのね?」ペイジはランドリーを見ながら言った。
ランドリーは肩を少し怒らせて、首を振った。
「さあ」ランドリーは言った。「僕にはわからないけど、僕は自分が欲しいものを手に入れるためならかなり懸命に努力すると思うよ」
「私は男性のそういうところを見るのが大好きよ」ペイジは言った。「強さとか、決意」
「男が女性の女らしさを見るのが好きなのと同じだね」ランドリーは答えた。「きみは気の強い女性って嫌いじゃないだろ?」
「ええ」
「きみみたいなのを女らしいって言うんだ……僕が知る中で一番女らしい女性だよ」
「あら、どうかしらね」ペイジは少し戸惑いながら言った。
「本当、そうだって。きみは美しくて、女らしいし……とても意識が高くて読書家だ。僕はそういうのがいいんだよな。きみにはそれを知っておいてほしい。そうなんだよ、本当にいいと思ってる。少なくとも、励みになるし、持ち上げてくれるからね」
「そういうことなら、私は読書が好きよ」ペイジはすかさず言った。
「僕も読書をしなきゃならなくなったな。時間を見つけるのは大変だけどね。でも作ることにするよ。きみの言う『ヴェネツィアの石』を買ってきて、眠気覚ましに夜な夜なブラックコーヒーを飲んで、その本を隅から隅まで読むとするか」
「それもあなたの決断力のなせる業ね」ペイジは言った。「それを言うときあなたの目は輝いていたわよ。一度やろうと決めたのなら、あなたはどんなに大変でもそれをやるんでしょ?」
「まあ、僕なら……僕ならやっちまうな」ランドリーは認めた。
翌日はイースターの日曜日だった。ペイジが少し遅れて九時の朝食に下りてくると、ジャドウィンはすでに食べ終えて朝刊のページに見入っていた。ローラはまだテーブルにいて、最後のコーヒーを注いでいた。
彼らは朝食室にいた。こじんまりしたすてきな部屋で、明るくて風通しがよく、たくさんの窓があり、一方の端は家の温室に面していた。ジャドウィンは、後で教会に着ていくフロックコート姿だった。折り襟には有名なクチナシが挿してあった。髭は剃りたてで、高級葉巻が頭上に青い霞をこしらえた。ローラは白いモーニング・ガウンを着て輝いていた。目の前のテーブルには、キャベツほどの大きさの、切りたてのスミレの花束があった。
その光景は、ペイジの心に強烈な印象を与えた。日差しの降り注ぐ立派な部屋には、心がはずむ広々とした空間があり、温室から緑の葉が垣間見え、きれいに手入れの行き届いた芝生がたくさんの窓から見え、公園から迷い込んだ気の早いコマドリがさえずりながら餌をついばんでいた。美しい姉のローラは、見目麗しく影が出来るように髪を結い、肌は白くきれいで、ほっそりしていた。大柄でたくましい仕事人間のジャドウィンは、高級葉巻をくわえ、クチナシの花を挿し、身だしなみをきちんと整えていた。そして、付属的な小物がかなり活躍した……スミレの花や高級タバコやコーヒーがいいかおりを放ち、きらきらするダマスク織や陶器や銀器が朝食のテーブルを飾った。白いキャップとエプロンとカフスで身を飾った清楚なメイドが出入りし、サラブレッドのセッターが日向でうたた寝し、オウムが窓の外のテラスの高いところで笑うように独り喋っていた。
芝生の先には馬小屋があり、大きく開いた扉の前のコンクリート上で、馬丁が馬車馬の一頭にくしをかけていた。ペイジが果物を食べコーヒーを飲んでいると、ジャドウィンは新聞を置き、籐椅子の腕に肘をついて馬を眺めながらしばらく座っていた。やがて立ち上がって言った。
「新しい飼料のおかげで馬が元気だな。ジャービスをバギーの馬車で試してみるように言ってくるよ」ジャドウィンがフランス窓を押し開けて外に出ると、セッターが静かについてきた。
ペイジはスプーンをグレープフルーツに刺したが、突然それを置くと、頬杖をついてローラの方を向いた。
「ローラ」ペイジは言った。「私は結婚すべきかしら……こんな性格なのに?」
「結婚?」ローラは答えた。
「シーっ!」ペイジは小声で言った。「ローラ……そんな大声で話さないでよ。そうよ、で、どうよ?」
「まあ、結婚したっていいんじゃない? 時期が来たら結婚すればいいじゃないの? あなたのような若い娘は、激しい気性の持ち主だって思われないわよ」
しかしペイジは答える代わりに別の質問をした。
「ローラ、私って女らしいかしら?」
「私は時々思うんだけどね、ペイジ、あなたは本や読書を真に受け過ぎなのよ。三日も家から出ていないでしょ。ノートや教科書を手にしていないあなたを見たことがないもの。朝から晩まで、それにかかりっきりでしょ。勉強するのはとてもいいんだけれど……」
「ああ、勉強ね!」ペイジは叫んだ。「勉強なんて大嫌いよ。ローラ、女らしくってどうすればいいの?」
「女らしく?」ローラは繰り返した。「さあ、私だって知らないわよ。親切で、上品で、とっても穏やかで、決して厚かましいとか目立ったりするようなことがなく……自分の家庭を愛し、大切にし、夫や両親や子供たち、姉妹さえも、この世の誰よりも愛し、信じることよ」
「女らしいっていうことは、読書家であることよりも大切だと思うの」ペイジは思い切って言った。
「両方になれるわよ、ペイジ」ローラは言った。「でもね、あなた、さっさと朝食を済ませた方がいいわ。イースターで教会に行くなら早めに出発したいもの。カーティスは三十分早く馬車を手配してくれたわ」
「朝食か!」ペイジは言った。「何もいらないわ」ペイジは大きく息を吸い込み、目を見開いた。「ローラ」ペイジはまたすぐに始めた。「ローラ……。昨夜ここにランドリー・コートが来たわ……それで、わからないけど、彼ったらすごく馬鹿なのよ。でも彼は言ったの……こうよ……ええと、私がね、『成功する』とか清く正しくしているとか、あなたも知ってるようなことばかりなんだけど、それを彼がどう感じているのか、私は理解しているって言ったの。そしたら『ああ、本当に理解してくれる女性の目を見ることが僕にとってどういうことなのか、きみにはわからないんだ』って言ったのよ」
「あの人が言ったの?」ローラは眉を上げて言った。
「そうよ、とても立派で真面目に見えたわ。ローラ……」ペイジは後頭部のヘアピンを直すと、目を伏せたままローラに近づいた。「ローラ……彼ったらどういつもりなのかしら……そんな話をするなんて馬鹿だと思わない?」
「そんなことないわよ」ローラはきっぱりと言った。「もし彼がそう言ったのなら……それは彼があなたをとても大切に思っているという意味よ」
「ああ、そんなつもりじゃなかったのに!」ペイジは甲高い声で言った。「でもランドリーは、私たちが思っている以上に大きいのよ。彼は単なる金儲けの機械以上のものになりたいと言ってるわ。心を豊かにして芸術や文学なども理解したいそうよ。私に協力してほしいって言うから、するって答えたの。それで、あなたさえよけければ、毎週決まった夜にここに来て、私がその……彼に本を読んであげようと思うの。まずは『指輪と本』から始めるわ」
五月下旬、異常に暑い天候が続いたので、ジャドウィン夫妻はペイジを連れてジュネーブ湖に避暑に出かけた。リンカーンパークに面した大邸宅は無人になった。
ローラは、これで夫がずっと自分と一緒にいられると思っていたが、そううまくはいかなかった。最初のうち、ジャドウィンは週に二日だけ街に出かけたが、すぐに一日置きに回数が増えた。グレトリーが頻繁にこの別荘に訪れた。彼とジャドウィンはよくポーチの片隅にロッキングチェアを並べて、夜遅くまで声を潜めて「仕事」の話をした。
「あなた」ついにローラは言った。「私は日に日にあなたに会えなくなってるわ。ずっと一緒にいるつもりでこの夏を楽しみにしてたのに」
「私もきみと同じくらい残念だよ、ローラ」夫は言った。「しかし、今は現場にいなければならない気がするんだ。数か月後に活況を迎えるという展望を頭から払拭できなくてね」
「でもグレトリーさんも言ってたけど、四六時中事務所に詰めている必要はないって。取引所関係の仕事はここからでもできるけど、あなたはラサール・ストリートや小麦の立会場の喧騒から離れられないから街に来るだけだって」
これは本当だろうか? ジャドウィン自身はそれに答えるのは難しいと思っていた。取引所の建物内で発生する大きな渦巻きを友人に気づいてほしくて、おだてたりすかしたりせざるを得なかった時期がグレトリーにはあった。しかし、最近ではいつもジャドウィンの目と耳は遠くを向いていた。主導権を握るのは彼であり、もはやグレトリーではなかった。
その一方で、金は儲かっていた。ジャドウィンの予想通り、小麦の価格は上昇した。五月は晴天に恵まれ、価格も手頃で、政府の月例報告によると、作柄は落ち込まなかった。小麦は六十セントから六十六セントに値上がりし、ジャドウィンはわずかな利益を得て二十五万ブッシェルを売り払った。やがて、五月末に天候は暑くなった。取引所のフロアでは、場立ちの連中が上着を脱ぎ始めていた。暑い六月になりそな気配が漂い始めた。現物小麦が六十八セントに達したとき、ジャドウィンはこれまで以上に強気相場の到来を確信し、五十万ブッシェル買い増しした。
六月にはこの方針に上乗せした。天候不順……大雨に続く猛暑……は春小麦に被害を及ぼし、各地でゾウムシやヒメコガネナガカメムシの苦情があがった。その後の豪雨は冬小麦を変色させ被害を与えた。最近買い付けたのでジャドウィンは今、百万ブッシェル「買い持ち」していた。マーケットは七十二セントで安定していた……二か月で十二セント上昇した。
「きっと反動があるぞ」グレトリーは警告した。「クルックスやスウィーニーはまだ手を出していない。フランスの豊作に気をつけることだ。もうすぐ報告書が届くだろう。きみは銃で遊んでいるんだよ、ジェイ。打つよりも反動の方が大きいぞ」
「まだ撃ってないだろ」ジャドウィンは言った。「装填しているだけさ……売り方のためにね」ウィンクをして付け加えた。
七月になると、国中から作柄報告が届き、この六年間で初めてアメリカの収穫量が減り不作であることが決定的になった。収穫量は大してなかった。「取引」に適していると分類されるのはその一部にすぎず、これからは良質の麦が貴重だった。ジャドウィンは再び買い付けた。またもや五十万ブッシェルの「大口」だった。
そして、今後数か月の間ずっとカーティス・ジャドウィンについて回ることになる驚異的な金運の最初の兆しが現れた。フランスの小麦は不作と発表された。ドイツでは、収穫量が例年をはるかに下回りそうだった。ハンガリー全土でジャガイモとライ麦が不作だった。
その月の中頃、ジャドウィンは再びブローカーを自分の別荘に呼び、テティス号で湖を回る長い夜の旅に連れ出した。二人きりだった。マッケニーが舵を取り、小さな船の船尾でキャンプスツールに座り、ジャドウィンは今後数か月の計画を説明した。
「サム」ジャドウィンは言った。「四月の時点で我々は、今月一日頃に最高値に達すると思っていたわけだが、このフランスとドイツのニュースで様相は一変した。私は七十セント台でこの相場から手を引こうと考えていたが、相場はさらに上昇を続けている。私はもうしばらく保有するつもりだ」
「じゃあ、それはきみの責任でやることだ」ブローカーは言った。「この値段は不安定だと警告しておくよ」
「とんでもない。七十二セントは安すぎる。これからが正念場だ。私は自分の情報源を持ちたいんだ……クルックスが好き勝手に買収できるような業界紙とは別のをね。ヨーロッパに何人か優秀で信頼できる連絡員を置きたい。我々が頼れる切れ者の利口な奴らをね。リバプールに一人、パリに一人、オデッサに一人欲しいな。そして毎日状況を電報で送ってもらいたい」
グレトリーはしばらく考えた。
「うーん」ようやく言った。「……わかった。手配できると思う。リバプールにいい男がいる……名前はトレイナード……パリで採用できるのが二、三人いるな。オデッサは……わからんな。今すぐには言えない。でも、何とかしよう」
この連絡員たちの報告は七月末に始まった。ヨーロッパ全土で、小麦の需要は活発だった。穀物商は自由に買い付けるだけでなく、先渡契約をしていた。八月になると、アメリカ産小麦の最初の需要が発生した。最初は散発的で散見される程度だったが、その後少しずつ、ほんの少しずつ堅調になった。
こうして夏は終わりを告げた。秋の「状況」が徐々に明らかになり始めた。東ヨーロッパは人口が多かった。多過ぎて、冬の食糧供給に不安を感じ始めた。外国の需要に応えようにもアメリカの収穫量はほどほどでしかなかった。ロシアとアメリカとアルゼンチンとで、今後十二か月間、世界を養わなければならないのだ。
シカゴの小麦取引の立会場の上にある大きな針は七十五セントを指していた。ジャドウィンは、この値段で九月小麦を売り払ってから、十二月もののオプションを三百万ブッシェルも一気に買い付けた。
彼がこれほど相場に深入りしたことはなかった。こんなに取り返しのつかない形で、流れに身を任せたことはなかった。しかし何かが始まろうとしていた。定かではない巨大な何かが。ジャドウィンはそれを予測し、感じ、知っていた。自分の四方八方で、活性化し始めている動きを感じた。不振と低迷は解消しつつあった。トレンドは上向きだった。その勢いを増している速さの中に、躍動と高揚があった。
そして、ジャドウィンはその波頭にいた。先見の明と、抜け目なさと、春先にとった迅速な行動とが、今、実を結びつつあった。自信を持ち、安心しきって、敵を寄せ付けることなく、ジャドウィンは突き進んだ。立会場の渦は毎週勢いを増し、ヨーロッパでのアメリカ産小麦に対する需要は週を追うごとに拡大の一途をたどった。月末は、それまで七十五セントから七十八セントの間で推移していた価格が、突然七十九セント、七十九セント半と急騰し、八十セントの大台に乗って強気で終わった。
八十セントに届いた日に、ジャドウィンは取引所の会員権を買った。
彼はもう「部外者」ではなかった。




