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立会場 シカゴ物語  作者: フランク・ノリスの翻訳作品です
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第5章

 

 その年、春はシカゴ中を長期にわたってきらめく淡い緑一色にした。太陽は何週間も輝き続けた。湖は、数か月に及ぶ灰色と毒々しい緑の冬景色と、北東の強風による荒々しい白波をずっと大事にしてきたが、やがて機が熟したとみるや、柔らかな淡い青へと衣替えを済ませ、徐々に無数のきらめきに表面を覆われた穏やかな凪の状態になった。

 

 公園では、まず蕾や気の早い芽が顔を出した。トチノキの蕾は鞘を破って三つ葉や炎の形のような葉を広げ、ニレ、カエデ、ハコヤナギがそれに続いた。居住区の芝生に積もった黒く煤けた雪は、ずいぶん前に解けていて、芝生を柔らかくし、溶けて流れて排水溝を満たした。いたるところで、長方形の小区画に新しい芝生を敷き詰めている作業員の姿が見受けられた。

 

 空気中には、再び出始めた樹液や、冬の凍土が溶けた湿った土や、戻りかけている暖かさに包まれて伸び始めて再び弾力を取り戻し、樹皮の中で張りをつけている小枝や細い枝などの、芳しいにおいが漂っていた。

 

 ノースサイドで、ワシントンスクエアで、レイクショア・ドライブ沿いで、リンカーンパークの大通りで、エリーやヒューロンやスペリオルなどの各通りで、ノースステート・ストリート、ノースクラーク・ストリート、ラサール・アベニューで、乾燥した小枝が真っ先に発火したのか、木の梢が次から次へと緑色の輝きを放った。ニレやハコヤナギの木立の中に黄緑色に輝く層が見えてくると、きらめく枝の先端がぱちぱち音を立てるのが聞こえるようだった。

 

 太陽は毎朝早々、ローラ・ディアボーンの寝室の東側の窓から差し込んだ。毎日正午には、家のほぼ真上にあった。午後には、書斎の引かれたカーテンに葉っぱが作る複雑な模様の影ができた。ドアの内側では、深緑色のハエが停止していた活動を再開し、窓ガラスに当ってブンブンいった。二重窓は外されて、網戸と日除けが取って代わり、暖炉には夏らしい用具が置かれた。

 

 突然、通りをマットレスやロッキングチェアや鳥かごを積んだワゴン車が埋め尽くし、「春の移動」が始まった。家財道具を運ぶ車が、ニレの巨木を積んで苗床から芝生に向かう途中の大きなトラックと入れ替わった。家族も木々も同じように居場所を変えたくなり、冬ごもりの地を捨て、春とともに新しい環境へ移動し、他の土地に根を下ろした。スズメは歩道でいがみ合い、コーニスや笠木の隙間にぼろい巣を作った。公園では、コマドリの軽やかな鳴き声がした。花屋の荷馬車が現れると、どの家もどの芝生も、パンジー、ゼラニウム、フクシャ、伝い這う蔓草で、鉄の壷や窓枠が埋め尽くされた。藁や肥料を取り除いた花壇は再び花が咲き誇り、やがて大きなハコヤナギが、小さなブドウの房のような実を、通りや歩道に落とすようになった。

 

 やがて三日間雨が降り続くと、雲ひとつない晴天が続き、南風が盛んに吹いてきた。

 

 梢や草むらで生きながらえた残り火がたちまち燃え上がった。葉っぱが本物の炎のように燃え上がった。枝から枝へと飛び火してパチパチ音を立てた。干からびた枝も、枯れ枝も、抗うすべもなく緑の渦に包まれた。梢は梢を燃え上がらせ、公園も大通りも輝きに包まれた。雨に育まれ、南風に煽られ、夏の到来を告げる壮観な炎が、街の隅々にまで、大波のように押し寄せた。

 

 突如、すべてがぴたりと動きをとめた。葉も、花も、草も、すべてが伸びきった状態で、動きをとめ、静止した。その一方で、この沸き立つような緑のすべてから抽出された熱が、街を覆う巨大な柱のように立ちのぼり、空にかかる虹のように、動かず悠然とそこに居座った。

 

 時々、この柱は夏の嵐のせいで折れて、凄まじい爆音のような雷鳴と、すごい土砂降りの中、街に倒れてきそうに見えることがあった。しかし、それは壊れるだけで、また元に戻る。雷が鳴り止み、雨が止み、太陽が再び顔を出すと、人はすぐに、街をその土台で覆う目に見えない大きな柱が、雨に洗われた澄み切った大気の中に高々とそびえるように、すみやかに再建されているという漠然とした印象を受けた。

 

 そして、湿った埃や濡れた舗道のにおい、かび臭さ、鼻をつくにおい……雨上がりの街の忘れがたい蒸気……が、空気中に充満した。雨水の滴るニレの木の下や、蒸す歩道で、小さな屋外の活動は再び始まった。

 

 夜はとても気持ちがよかった。ウィスコンシン州の湖へ人が大挙して北上するにはまだ早いが、日没後に家にじっとしているなど考えられなかった。六時を過ぎると、ディアボーン邸の近所の通りでは、住民が軒先のステップに「出て座っている」光景が見受けられた。椅子が持ち出されて、カーペットや敷物がステップに敷かれた。室内から、客間や応接間の開け放たれた窓を通して、ピアノの軽快な音色が聞こえてきた。歩道は鬼ごっこ、物を探し、隠れんぼで遊ぶ子供たちでいっぱいだった。飾り気のないブラウスの少女やフランネルの服の青年が、あちこち歩いていた。ステップからステップへ人が行き来して、レモネードやクラレットパンチが振る舞われた。ステップののぼり口の肘掛け椅子では、年配の男性、世帯主、金持ち、裕福な人々が、大きなお腹を白い腰巻で覆い、麦わら帽子を膝に乗せて、無言で楽しそうにとても香りの良い葉巻を吸いながら、夕食を楽しみ、ビジネス街の埃や慌ただしさとは違う空気を吸っていた。

 

 ローラ・ディアボーンとペイジがクレスラー夫妻や、近所の他の住民と同じように自宅の玄関先のステップに出て座っていた他のメンバーたちと合流したのは、春も終盤戦に近いこんな夕暮れのことだった。最近は毎晩のように、ディアボーン姉妹はこうしてクレスラー家に遊びに来た。時にはペイジがマンドリンを持参することもあった。

 

 暖かい天候が日増しに、二人の姉妹の美しさを増やしているようだった。ペイジの茶髪は比類なき華やかさで、頬の絶妙な色合いは匹敵するものがないほどチャーミングで、小柄で寸胴の男児のような体型は……まだ未熟で少しがりがりだが……この上なく魅力的だった。まっすぐな眉毛をした陰気なグレイブルーの目の力は未だ健在で、目そのものが何となく深みを増しており、長いまつ毛の下から、発達していない小さな体にはまだない大人の部分がうかがえた。

 

 しかしローラは実に堂々としていた。まだかなり華奢で、腰や胸に膨らみは全然見られず、曲線はすべて深みがなく平らなのに、その極端な背丈には、封建時代の女主人のような静かな自信と平然たる厚かましさを備えていた。

 

 漆黒の髪は、まるで小冠でも乗せたように高く積まれた。春爛漫の日々の暖かさは、ローラの顔の青白さを目に見えるほどまろやかにしただけだが、これを補うためか、迫りつつある真夏の夜の輝きが、濃い茶色の目から放たれた。

 

 このとき、ローラはブラウスの上にコートを着て、スミレの豪華な花束をベルトに差していた。しかし、みんなと挨拶を交わし、自分の場所に落ち着くとすぐに、そっとコートを脱いだ。

 

 ランドリー・コートがクレスラー氏の椅子の後ろの玄関ホールの陰に見え隠れするように立っているのにローラが初めて気がついたのは、こうしている最中だった。

 

「彼がうちに来たのは久しぶりだわ……あの夜以来よ」 クレスラー夫人はすかさずローラの耳元で囁いた。「話してくれたわ……何があったのかを。今夜ディナーに来たのはいいけれど、その後で、かわいそうに、私の腕の中で泣かんばかりだったわ。あんな懺悔はお目にかかれないわよ」

 

 ローラは信じられないという小さな仕草をして顎を突き出した。しかし彼女の怒りは遠い過去のものだった。優しい彼女は、あまり長いこと恨みを抱くことはできなかった。しかし、ランドリーとはまだ会釈というそっけない挨拶しか交わしてはいなかった。

 

「今夜は蒸すわね」クレスラー氏の夕刊を失敬して扇ぎながらつぶやいた。「それにしても喉が渇いたわ」

 

「まったくだわね」クレスラー夫人は言った。「イザベル」と名前を呼んで、ステップの反対側に座っていたミス・グレトリーに声をかけた。「そっちにレモネードないかしら? ローラとペイジの分をグラスに注いでちょうだい」

 

 ペイジはお礼を言ったが、ローラは断った。

 

「いいえ、私は普通のお水がいいわ」ローラは言った。「中にないかしら? コートさん、取ってきてくれません?」ランドリーは全速力で走り、夢中で半分こぼしながらピッチャーを持ち帰った。ローラは笑顔で礼を言ったものの、名前は名字で呼んだ。相手の非礼は忘れたが、昔の関係には一瞬たりとも戻ることはないと何とか態度で伝えようとした。

 

 その後で、ペイジがマンドリンを鳴らし、ランドリーが口笛で伴奏していると、クレスラー夫人は頃合いを見計らってローラに言った。

 

「今日の『インター・オーシャン』のパリ便りを読んでいたら、ヨーロッパ大陸のアメリカ人到着者リストにコーセルさんの名前があったわ。どうせ、ずっと向こうにいるんでしょ。戻ってくるのか、時々心配になるわ。思うんだけど、彼のみたいな才能のある人は、とにかくシカゴは合わないんでしょうね……パリと違って。それでもね、行ってしまって私たちの劇をぶち壊すのは最低な人だと思うわ。クッキー賭けてもいいけど、あなたが参加しないんじゃ、彼はもう参加しないわ。四幕のラブシーンをどうしてもあなたと演じたかっただけなのよ。あなたが出ないんじゃ、当然彼も出ないわよ。すると、あなたがた二人が出なくなったんで、みんなが興味をなくしたらしいわ。でも、ジェイはかなりちゃんとやったと思わない?」

 

 ローラは当たり障りのない相槌をつぶやいた。

 

「彼もがっかりしてたわ」クレスラー夫人は続けた。「そりゃそうよね。この劇なら日曜学校の生徒たちは大喜びすると思ってたんだから。でも、この劇が立ち消えになったとき、一言も発しなかったわ。彼、今夜は来るのかしら?」

 

「まあ、何で」ローラは言った。「あなたが知らないのに、どうして私が知ってるのよ?」

 

 ジャドウィンは、暖かくなり始めた最初の頃、日が暮れるとほぼ定期的にクレスラー家を訪れた。住まいはサウスサイドだから、彼の家とクレスラー邸はかなり離れていた。しかし、ジャドウィンが馬車でやってこない日はめったになかった。二人乗りの馬車でやってきて、黒人の御者がその横にいて、二匹のダルメシアン犬「レックス」と「ロックス」が後輪の車軸に従うように速歩でついてきた。ジャドウィンの馬は派手ではなく、凝った馬靴や肢巻など他の物々しい馬具で人目を引くように飾り立てられてもいなかった。それでも、道行く人々、愛好家、飼育員など……良い馬を理解する人々……は必ず立ち止まって、馬車が通過する様子を……頭を上げて、手綱を揺らすように緩め、耳を澄ませ、目を輝かせ、息を深くしっかりとゆっくりと吸い込む姿を……それから機械のような、メトロノームの揺れのような、肩から膝へと投げ出されて、膝から球節、球節からうなぎへと巧みにひねり、蹄を突き出してぴたっと美しく決め、すぐに道路を後ろへ放るように流しながら、またひねりを効かせ、もう一度前へと投げ出す足さばきを……見守った。

 

 こういうときジャドウィン自身は必ず、南北戦争の将軍を思わせる黒い「ふち垂れ」帽をかぶり、黒いベルベットの襟の灰色の「埃まみれの外套」を着て、手のひらの水分で変色し、名馬を操る緊張ですっかりよれよれになった皮手袋をはめていた。

 

 ジャドウィンはいつもストップウォッチを手に持ち、クレスラー家の馬乗り台で馬車旅の時間を読み上げて、ステップにいる集団に加わるときに、ほぼ決まってこう言った。「川からずっと馬具が緩んでたものでね。手綱で馬車を引っ張ったようなものだ。手が外れそうだよ」

 

「ペイジはとても上手に弾くわね」ペイジがマンドリンを置くと、クレスラー夫人はつぶやいた。「ジェイが今夜来てくれるといいんだけど」夫人は付け加えた。「いてくれるだけでいいのよ。彼はとても心が豊かで誠実なんだから」

 

 ローラは返事をしなかった。今夜は少し上の空のようだった。居合わせた人たちの会話が途絶えた。とても美しく、澄み渡り、静かな夜だった。黄昏が終わろうとしているこの特別な時間に、誰も多くを語ろうとはしなかった。クレスラーはもう一本葉巻に火をつけた。繊維のようなほのかな青い煙が、微動だにしない空気の中、頭のあたりを漂った。遙か河口の方角から、湖をいく汽船が長いテノールの警笛を鳴らす音がした。近所の家のどこかの開け放たれた窓から、ピアノの伴奏つきのバイオリンが「シューベルトのセレナーデ」の持続的なフレーズを奏で始めた。旋律が劇的だが、薄明かりと、昼間の熱気がやんで静まり返った街の沈んだ雰囲気が、この曲に威厳と説得力を与えた。子供たちはまだ歩道で遊んでいた。その短い歯切れの良いはしゃぎ声は、この瞬間のすべての音が組み合さったような静かな音色の一部だった。

 

 しばらくすると、クレスラー夫人が低い声でローラに話し始めた。夫妻は六月の一部をウィスコンシン州のオコノウォックで過ごすつもりだった。ローラはどうして一緒に行く決心をつけられないのだろう? 夫人はすでに何度もローラに尋ねていたが、行くとも行かないとも返事をもらえなかった。決めかねていた理由は何なのだろう? 楽しい時間を過ごせるとは思わないのだろうか? 

 

「ペイジは行けます」ローラは言った。「ぜひ連れていってあげてください。でも、私はわかりません。夏の予定がぜんぜん立たないもので」ローラは突然、話をやめた。「今思いついたんですけど、『国王牧歌』をお借りしたいんです。一日か二日、お借りしてもいいですか? ちょっと行って取ってきます」立ち上がりながら付け加えた。「どこにあるかは知っています。いえ、どうぞ座っていてください、クレスラーさん。自分で行きますから」

 

 そして、その言葉を言い残してローラはドアの向こうに消えた。クレスラー夫人が夫につぶやいた。

 

「変な()ね。時々ローラのことがさっぱりわからなくなるわ。あまりに一貫性がないんですもの。一緒にオコノモックに行こうというのに様子が変だし!」

 

 クレスラー氏は感じよく反対意見を述べた。

 

「ふーん! ローラはいい子だ。クック郡で一番すてきだよ」

 

「まあ、それは関係ないことだわ、チャーリー」クレスラー夫人はため息をついた。「でもね」曖昧に付け加えた。「私にはわからないわ」

 

「何がわからないんだい?」

 

「ローラの人生が幸せだといいんだけど」

 

「おいおい キャリー!」

 

「あの娘のことになると」クレスラー夫人は続けた。「どうも胸が締め付けられるのよ」

 

 クレスラーは顔をしかめ、困惑し、驚いた。

 

「おい……何だっていうんだ!」クレスラーは叫んだ。「どうかしてるぞ、キャリー!」

 

「それでもやはり」クレスラー夫人は言った。「私は時々あの娘に母親のような態度をとりたくなるのよ。不幸な星の下に生まれる人はいるわ、チャーリー。火花が飛ぶように不幸になるの。よく聞いてよ、チャーリー・クレスラー、ローラはそういう娘なのよ。あの黒いところ、黒髪の下から、目から、悲しみのどん底の目から、時々ものすごい悲痛に満ちた目から、あなたを見る仕草の中にはこの世の哀愁しかないわ」

 

「そんなことがあってたまるか!」クレスラー氏はそう言って、また新聞を読み始めた。

 

「シェルドン・コーセルがあの娘にプロポーズしたのは確かよ」しばらく黙っていた後で、クレスラー夫人はつぶやいた。「だから彼は突然いなくなったんだわ」

 

 夫は、玄関の照明がとどくように新聞の向きを変えながら、険しい顔でぶつぶつ言った。

 

「そう思わない、チャーリー?」

 

「ふん! わからんよ。とにかく、私はあの男とはあまり付き合いがなかったからね」

 

「あの人はすばらしい才能の持ち主なのよ」夫人は言った。「それにとても洗練されてるしね。いつも最高にすてきなマナーを兼ね備えていたわ。あの人の手を見たことがある?」

 

「床屋の手かと思ったよ。ジェイの馬車にでも乗せてみろ。あの馬の後ろにだぞ。あんな手でどれくらいの間あの馬を抑えていられると思うかい? えっ」クレスラー氏は突然大声を出した。「あの馬たちならあんな奴、泥除けの上に引きずり出しちまうぞ」

 

「かわいそうなランドリー・コート!」夫人は声をひそめてつぶやいた。「振られたのよ。あの人もローラと結婚したがってたのにね。それがね、ローラときたら態度を一転させて叱りつけたに違いないのよ。本気で怒ったときのローラが目に浮かぶわ。かわいそうに!」

 

「きみたち女性陣が放っておけば、あいつは何とでもなるさ」

 

「僕の人生はお終いだって私に言ったのよ」

 

 クレスラーはかなり苛ついて葉巻を投げ捨てた。

 

「ああ、馬鹿馬鹿しい!」クレスラーはつぶやいた。

 

「ひどく深刻に受け止めていたわ、チャーリー」

 

「あいつを鍛えて、きみら女性陣があいつに植えつけたくだらないことの数々を振り払ってやりたいな。あいつは冷静な頭を持っている。毎日フロアに出ているのに、帽子一杯分の小麦すら自分の裁量で買ったことがない。投機の意味も知らないし知りたがりもしない。真面目な青年なんだ」

 

 クレスラー夫人は振り返るように言った。「ローラが彼を相手にしないのも無理はないわ。どう見ても、お互いタイプじゃないもの。でも、コーセルならローラを幸せにすると思ったんだけどな。でも、ジェイとは結婚しないでしょうね、ジェイがプロポーズしても。ローラは言わなかったけど、私はジェイがしたのを知ってるわ。そしてローラはきっぱりと断ったのよ。誰とも結婚する気はないんですって。誰のことも愛してはいないし、愛することもないって言ったそうよ。ローラがジェイと結婚するところは見たかったけど、今となってはあの二人じゃ合わなかっただろうってわかるわ。あの娘にぴったりのシェルドン・コーセルを受け入れようとしないんじゃ、あの娘がジャイを受け入れるなんて期待薄だわ。ローラは気性が激しいもの。おまけに芸術肌で、絵画や詩やシェークスピアが大好きなんだけど、カーティスはそういうものにまったく興味がないんだもの。あの二人には共通するものが何もなかったでしょうね。でも、コーセル……あの人は違ってたわ。ローラは一応、彼のことを気にかけていたもの。コーセルのことになるとローラは夢中になったわ。コーセルが芸術の話を始めると、ローラは一言も聞き逃さないようにしてたもの。もし私が彼だったら立ち去ったりしなかったのに。よく聞いてよ、チャーリー、ローラ・ディアボーンにぴったりの人はいたのよ。彼とならまだ結婚するかもしれないわ。あるいは私の見込み違いかもしれないけど」

 

「いかにもきみらしいな、キャリー……きみたち女性陣ってやつは」クレスラーは叫んだ。「いつも誰かを結婚させようと企んでいる。どうしてその()を放っておいてあげないのかね? ローラなら大丈夫さ。ローラは自分のことで精一杯で、あれで完全に幸せなんだよ。でも、きみらはしゃしゃり出て、彼女のことで大騒ぎし、やれ『胸が締め付けられる』とか言って、不幸の星の下に生まれついたとか、悲しい目をしていると言うんだからな。もし彼女が不幸な目に遭っても、それは他の誰かが彼女をそういう目に遭わせるからだよ。きみは私の忠告を聞いて、彼女に自分のカヌーを漕がせてあげることだね。彼女にはそれができる頭があるのだから、きみが心配することはないんだ。ところで……」クレスラーは話題を変えるきっかけをつかもうとして、自分の言葉を遮った。「ところで、キャリー、カーティスがまた投機取引をやっているんだ。これは確かだぞ」

 

「残念ね」夫人はつぶやいた。

 

「まったくだ」クレスラーは続けた。「彼とグレトリーは最近、とても仲がいいんだ。私がつかんだところじゃ、グレトリーは先週からずっと九月小麦を売り続けている。今朝もまた別の計画……トウモロコシの相場か何かを手仕舞ったそうだ。引け間際にフロア中が大騒ぎだったよ。カーティスは八千から一万ドルくらいは稼いだという話だ。連戦連勝らしい。手を引かせようといろいろやったんだが、五月小麦相場以来どんどんのめり込んでいる」

 

「ワシントン・ストリートのあの土地は売れたの?」夫人は尋ねた。

 

「ああ」クレスラー氏は言った。「忘れてたよ。きみに言うつもりだったのに。いや、ジェイはあれを売らなかったんだ。でも、もっとうまいことをやったぞ。ジェイが売らないものだから、デパート側が借りたのさ。いくら払うと思う? 年間三十万ドルだぞ。ジェイはどんどん金持ちになっている。それなのに何でラサール・ストリートで時間を無駄にするんじゃなく、自分の本業に満足できないのか、私には謎だよ」

 

 しかし、クレスラー夫人が返事をしかけたとき、ローラが応接間の開いた窓に現れた。

 

「ああ、クレスラーさん」ローラは呼んだ。「結局、あなたの『牧歌』は見つかりそうもないわ。小さな本棚にあると思ったんだけど」

 

「待って。探してあげるわ」クレスラー夫人は叫んだ。

 

「よろしいんですか?」クレスラー夫人が立ち上がると、ローラが答えた。

 

 中は、ガスの灯がまだ点いていなかった。書斎は暗く涼しかった。クレスラー夫人がローラのために本を見つけると、ローラは頭痛を言い訳にして中に残った。二人は家の側面の窓の持ち上げたサッシのそばに座った。そこからは、朝顔やナスターチウムが咲き乱れる「側庭」が見下ろせた。

 

「家の方が涼しいわね」クレスラー夫人は言った。

 

 ローラは籐椅子に腰を下ろし、近頃癖になった仕草で、重たい巻髪を片側に寄せて、そっとなでて落ち着かせた。

 

「暖かくなってきたわね」ローラはかなりだるそうに言った。「これじゃ猛暑になるわ」それから付け加えた。「私は七月に結婚します、クレスラーさん」

 

 クレスラー夫人は息を呑んだ。背筋を伸ばして座り直し、一瞬息をとめて暗闇にぼんやりと見えるローラの顔を見つめた。それから、呆然としながらも、何とか声を出した。

 

「何ですって! ローラ! 結婚するの? あなたが!」

 

「はい」ローラは穏やかに答えた。「七月に……いや、もっと早くなるかもしれません」

 

「てっきり、あなたはコーセルさんをお断りしたものとばかり思ってたわ。だから彼がいなくなったんだと思ったんだけど」

 

「いなくなった? いなくなってなんかいません。コーセルさんじゃありませんから。ジャドウィンさんなんです」

 

「すごいわ!」クレスラー夫人は興奮して言った。その言葉とともにローラの両頬にキスをした。「あなたったら、私がどんなに嬉しいかわからないでしょう。私は最初から、あなたたちはお互いのために作られたって言ったでしょ。あなたはジェイに承諾するつもりはないって告げたんだとばかり思ってたわ」

 

「告げました」ローラは言った。ローラの態度は静かだった。少し深刻そうに見えた。「彼を愛していないと告げました。つい先週そう言ったばかりです」

 

「じゃあ、それで、どうしてOKしたの?」

 

「だって!」 ローラは生き生きとした表情で叫んだ。「どんな状況だったか、わからないでしょうね。あの人に 『ノー』って言えると思いますか?」

 

「そうね、言えないわ、言えっこないわね」クレスラー夫人は嬉しそうに言った。「さすがはジェイよ。ジェイがその気になればあなたを射止めるって私はわかってたのかもしれないわ」

 

「朝も昼も夜もなんです」ローラは続けた。「私がはっきりした態度をとるまで待つ気でいたようです。しかしある日、私は手紙を書いて、あの人が間違えないようにはっきりとお断りしました。すると私がそう告げたそばから、あの人は……あの人は……始めたんです。約束するまで心が休まる暇がありませんでした。約束したとたんに私の指に指輪をはめたんですよ。何週間も前からポケットに用意していたらしいです。いえ」クレスラー夫人が左手に指を置くとローラは説明した。「まだ受け取ってはいません」

 

「ああ、粘り強いところがジェイらしいわね」クレスラー夫人は繰り返した。

 

「粘り強いのなんのって!」ローラはつぶやいた。「他のことは何も話そうとしないんです。このせいで具合が悪くなりかけているとは言いましたけど。そして熱を出したんです……何度も。なのに私に会いに来るんです。ある晩なんか、雨が降ってたのに……聞いてください。私たちとディナーを共にするためにですよ。その後、居間で、私はできるだけはっきりと百回目の『ノー』を告げました。そしたらさっさと帰ったんです……八時にもなっていなかったのに。これでやっとあきらめてくれたかと思ったんです。でも同じ晩の十時前にまた戻ってきました。私が貸した本を返しに来たと言って……『ジェーン・エア』だったんですけど。雨が降っているのにですよ! あの晩のような雨は見たことがありません。それもびしょ濡れで、ディナーのときでさえ少し熱があったのに。そのとき、彼がかわいそうになっちゃったんです。また会いに来てもいいと言ってしまいました。肺炎だか腸チフスで倒れてしまっても何ですから。そんなことの繰り返しなんです」

 

「でもあなたは彼を愛してるの、ローラ?」クレスラー夫人は問いただした。「今は愛しているの?」

 

 ローラは黙っていた。沈黙は続いた。

 

「わかりません」ローラは答えた。

 

「もちろん、あなたは彼を愛しているわよ、ローラ」クレスラー夫人は言った。「そうでなかったらOKなんかしなかったでしょうよ。もちろん、彼を愛しているんでしょ?」

 

「はい、愛しているんだと思います……おっしゃる通り……そうでなかったら、婚約までしなかったでしょう。彼は何でもやってくれるんです、私が言えばどんな些細なことも。朝から晩まで、私を喜ばせる以外のことは何も考えていないみたいです。そして私が最終的に結婚しますと言ったらね、クレスラーさん、あの人ったらすっかり息を詰まらせて、涙まで流して『神のご加護がありますように! 神のご加護がありますように!』と何度も繰り返すのがやっとだったのよ。手なんかは震えちゃって……あら、まあ」ローラは突然、言葉を詰まらせた。そして付け加えた。「どういうわけか思い出すと涙が出てくるわ」

 

「でも、ローラ」クレスラー夫人は気持ちがはやった。「あなたはカーティスを愛してるのよね? あなたは……あなたは時々変わったことするから。ねえ、ローラ、私を実の母親だと思って言ってみて。私よりあなたを愛している人は、この世にはいないんですからね。あなたはカーティスを愛してるのよね?」

 

 ローラは長い間ためらった。

 

「はい」ようやく、ローラはゆっくりと言った。「私は彼のことをとても愛している……と思うことがあります。そうではないと思うこともあります。わかりません。それを確信している日もあれば、果たして私は結婚したいのかしらと疑問に思う日もあります。愛は生まれたら、高みにのぼって、そうですね、ジュリエットやマルグリットの愛のようなすてきなものになるんだと思ってました。何かその……」ローラは突然、胸に手を当てて、指をしっかり握りしめて拳にした。「ああ、私を揺さぶって粉々にするほどのもの。そういう愛しか存在しないと思ってました」

 

「それは三文小説で読むか」クレスラー夫人はローラにはっきりと言ってやった。「お昼の劇場でしかお目にかからない類のものよ。私だったらそんなこと、気にしないわ、ローラ。ジェイがあなたを愛していることは間違いないのだから」

 

 ローラは少し明るくなった。「ええ」ローラは答えた。「それに関しては間違いないです。その点は立派なものだわ。この世で私にまさるものはないと思っているみたいなんです。想像してみて。つい昨日のことなんですけど、手袋の話をしてたんです。本当はどんな内容だったか忘れちゃったんですけど……気に入った手袋を手に入れるのって大変ね、みたいな話です。信じられますか、彼ったら私のサイズを測っておいて、夕方会ったとき、ブリュッセルの有名な手袋のメーカーに電報を打って、何組かわからないけど注文した、って言ったんです」

 

「彼らしいわ、そういう人だもの!」 クレスラー夫人は叫んだ。「あなたは幸せになるわ、ローラ。ジェイのようにあなたを愛してくれる男性と一緒にいたらそうなるしかないもの」

 

「私は幸せになると思います」ローラは急に深刻に答えた。「ああ、クレスラーさん、私、幸せになりたいわ。いつか手遅れになってから我に返って、すべてが間違いだったことに気づくことがないようにと願っているの」ローラの声は少し震えた。「私が最近どれほど神経質でいるか、あなたにはわからないでしょ。今こうでも次の瞬間には別人になっているんですもの。すごく神経質になっているんです……ああ、自分でもわからないわ。まあ、自分では大丈夫だと思ってます」ローラは目を拭きながら、短く笑った。「どうして泣くのか自分でもわからないんです」ローラはつぶやいた。

 

「でもね、ローラ」クレスラー夫人は答えた。「もしカーティスを愛していないのなら、結婚してはだめよ。それってとても単純なことだから」

 

「こうなんです、クレスラーさん」ローラは説明した。「私はあまり慈悲深くはないし、寛大でもありません。でも私を好きな人のことは好きだし、私を好きでない人のことは嫌いです。こればかりはどうしようもありません。間違っているとわかっていても、それが私ですから。それに、愛されることが大好きなんです。だから私は、私を一番愛してくれる男性を愛するようになるんです。ジャドウィンさんがとても大事にしくれるように見えるときは、とても大事にします……私の言いたいことわかるでしょ、もちろん違うんでしょうけど。私はジャドウィンさんのことを、これから誰のことも大事にするように大事にすると思います。私は自分が冷淡でなくてはならない、感情を出してはいけないと思うんです」

 

 クレスラー夫人は驚きの反応を隠すことができなかった。

 

「感情を出さない? ねえ、ローラ、あなたは、愛はジュリエットや『ファウスト』に登場する娘のようだとか……自分を揺さぶって粉々にするとか言ってたと思うんだけど」

 

「私、そんなこと言いました? まあ、ある時はこうでも、次の瞬間には別人だとは言ったけど。最近、自分でも自分のことがわからないんです。ねえ、ほら」横道のはずれから蹄の音が聞こえ始めると、ローラは突然言った。「馬車が来たわ。聞こえれば馬の走り方でわかるんです。行きましょう。馬車で来たのなら私を連れ出したいんだわ。ああ、それとなんですけど」……二人で玄関に向かう間にローラはクレスラー夫人の腕に手を添えた……「このことはまだ絶対に秘密ですから」

 

「もちろんよ、ローラ。でも、もうひとつだけ教えて」クレスラー夫人は小声で尋ねた。「結婚式は教会で挙げるつもりなの?」

 

「ねえ、キャリー」クレスラー氏がステップから声をかけた。「ジェイが来たよ」

 

 ローラは首を振った。

 

「いいえ、ひっそりとやりたいんです……自宅で。夏は二人でジュネーブ湖に行くつもりです。だから、一緒にオコノモックに行くことは約束できなかったんです」

 

 二人は玄関先のステップまで来た。クレスラー夫人の腕はローラのウエストにまわっていた。もう暗くなっていた。気温はかなり高かった。

 

 馬車はまるで馬が二頭ではなく一頭であるかのように、蹄の音を寸分違えることなく、間近の通りをゆらゆらやってきた。

 

「さて、今夜のタイムはどうなんだい、ジェイ?」ジャドウィンが鹿毛の馬を厩舎の停車場に移動させる間にクレスラーが声をかけた。ジャドウィンは手綱を御者に渡すまで返事をせず、御者の手からストップウォッチを取り上げると、葉巻を吸い、その赤々とした先端を文字盤に向けた。

 

「十一分十五秒」と告げた。「橋で待たなければならなかったんだ」

 

 ジャドウィンはスローチハットで自分を扇ぎながらステップをのぼり、ランドリーが用意してくれた椅子に座った。

 

「誓って言うが」とても慎重に手袋を脱ぎながら叫んだ。「指の感覚がなくなったよ。あいつらめ、いつか私の手を引きちぎりかねないな」

 

 しかしジャドウィンは、御者を帰らせ、ローラを連れ出してリンカーン・パーク方面、さらには少し公園内に乗り入れましょうと誘うまで気が気ではなかった。そして、一時間以内にローラを連れ帰ることを約束した。

 

「帽子がなわ」ローラは反対した。「行きたいけど、今夜は帽子なしで来ちゃったのよ」

 

「あら、私ならそんなこと問題にしないわよ、ローラ」クレスラー夫人は言った。「こんな夜の公園はそれはもうすばらしいわよ」

 

 結局、ローラはペイジの帽子を借りて、ジャドウィンが連れ出した。街灯が照らす中、クレスラー夫人と他の人たちは、二人が立派な馬の後ろに隣り合って座り、走り去っていくのを見送った。ジャドウィンは肩幅が広く、新しい葉巻をくわえ、大きなたくましい両手で二重にした手綱をつかんでいた。ローラはスリムで、姿勢がよく、色白で、豊かな黒髪が額に深く悲劇的な影を落としていた。

 

「お似合いのカップルだな」二人が遠ざかる間にクレスラー氏が言った。

 

 蹄鉄の音が聞こえなくなり、馬車は見えなくなった。他の人たちの後ろに立って見ていたランドリー・コートが、クレスラー夫人の方を向いた。その声が少し動揺しているのを夫人は感じ取ったと思った。しかしランドリーは潔く復唱した。

 

「ええ、そうですね。お、お似合いのカップルですよね? 控えめに言っても、お似合いのカップルだ」

 

 一週間が過ぎ、二週間が過ぎ、やがて五月が終わった。ローラとカーティス・ジャドウィンの婚約が正式に発表されたのは五月十五日だった。結婚式は、六月の第一週に決まった。

 

 この間のローラはこれまでにないほど気が変わりやすくなり、自分を持て余していた。突然、元気が三倍になったように見えたが、頻繁に不思議な反応やひねくれた態度をとって友人や家族を困らせた。

 

 クレスラー夫人と話をしてから一週間くらいして、ローラはペイジにそのニュースを知らせた。月曜日の朝だった。ローラは朝食を済ませてから、タンスの引き出しを整理して、そこに芳香剤の粉をまき、部屋に香りが行き渡るように開けたままにしておいた。手袋、ストッキング、襟飾り……散らかり放題だった洋服ダンスのいろんなもの……の山を膝に抱えて、ようやく正面の「二階の居間」にたどり着いた。これらをすべて炉の前の敷物の上にぶちまけ、床に座って丁寧に選りわけた。近くの小さな机で、ペイジは、青と白の飾り気のないブラウスを着てゴルフスカートをはき、細い小さな足首をしとやかに組んで、インクのしみがつかないように前腕に紙をかぶせて、日記を書いていた。この日記は、この少女が十五歳のときからずっと書き続けている膨大で複雑なものだった。自分でもよくわからないもの……前日の小さな出来事、訪問先、ダンスの記録、新しくできた知り合いの人物評価……などを書きためていた。しかし、この他にも「印象」「とっさに出た言葉」、へんてこで他愛もない自分の心情についての内省、詩人の引用、新作小説を真面目に批評したもの、かと思えばやたらと出てくるただの無意味な単語の羅列、感嘆詞、威勢のいい言葉、何の意味もなく無駄でしなかい難解な研究成果でページを埋め尽くしたが、時々、感動や不思議な気持ちで得体の知れない興奮を覚えながら読み返すこともあった。

 

 このときペイジは、ローラが部屋に入ってきてからもしばらくの間、すらすらと書き進めた。それから目を大きく見開いて考え込むように手を休めた。新たに一行書いて、再び手を休めた。ローラは両手いっぱに手袋をかかえて、床に座り、ぶつぶつ独り言を言っていた。

 

「あれがいいし……あれと黒いスエードで八組になる……そしてこの白と合うのがあれば……ああ、これだ。これで九つ、九組になった」

 

 ローラは手袋を脇に置き、腕をシルクのストッキングに通して引っ張って、足底まで入れたところで指を広げた。

 

「あら」ローラはささやいた、「糸が出てる。これじゃずっと先まで伝染しちゃう……」

 

 ペイジの書く手がまたとまった。

 

「ローラ」ペイジはぼんやりと尋ねた。「ローラ、『深淵』ってどんな字だっけ?」

 

「深い淵よ」ローラは笑わないように注意しながら答えた。

 

「ねえ、ローラ」ペイジは尋ねた。「理由もなくすっごく悲しくなることってある?」

 

「ないわ、全然」姉は腕からストッキングを外しながら答えた。「悲しいときは理由がわかっているもの、あなただって心当たりがあるはずよ」

 

 ペイジは再びため息をついた。

 

「ああ、わからないわ」ペイジは不明瞭にぼそぼそ言った。「時々夜中に目が覚めて、死んでしまいたいと思うことがあるのよ」

 

「思い詰めちゃだめよ、あなた」姉は冷静に答えた。「あなたのような若い健康で小さな体が、そんな暗い考えを持つのは尋常じゃないわよ」

 

「昨夜は」ペイジは続けた。「ベッドから起きあがって、ずっと窓際に座っていたわ。すべてが静まり返っていて美しかった。月明かりから何から何までが……私はそれを大きな声で自分に言い聞かせたの。

 

 『私の息は蒸気となって天国へ行く……』

 

 テニスンの詩を知ってる?

 

  『私の息は蒸気となって天国へ行く

  魂はすぐに後を追う』

 

 私はこんな調子でそれを声に出して言ったの。まるで私の中の何かが喋ったかのようにね。私は日記を出して書き留めたわ。『しかし、二、三日もすれば、すべてを抱く太陽は、もう見えなくなる』って。『死観』からの言葉よ。そしてこの世界をすべて捨てて、高く高く舞い上がり、もっと高い水準に到達して安らげば、どんなにすばらしいだろうと思ったわ。ローラ、私もいつかは結婚するべきだと思う?」

 

「しちゃいけないわけでもあんの? どうして結婚しちゃいけないのよ? もちろん、いつかはあなただって結婚するでしょ、相手を見つけたら……」

 

「私は修道女になりたいのよ」ペイジは首を振りながら悲しげに遮った。

 

「……もしもあなたが、あなたのことを愛してくれて」ローラは続けた。「あなたが……その人を敬服し尊敬し……愛してやまない人を見つけたら。もしもあなたの姉が、私がよ、近いうちに結婚することになったら、あなたは何て言うかしら?」

 

 ペイジは椅子を回転させた。

 

「ああ、ローラ」ペイジは叫んだ。「冗談でしょ? あなた、結婚するつもりなの? 誰とよ? 意外だわ。でも思い当たるふしは……そんな予感がしてたわ」

 

「じゃあ」ローラはゆっくりと言った。「私から言った方がいいかもね……私が言わなくても誰かが言うでしょうし……ジャドウィンさんがプロポーズしてくれたのよ」

 

「それであなたは何って言ったの? 何て言ったのよ? ねえ、絶対に口外しないから。ねえ、ローラ、全部話してよ」

 

「別に、結婚したっていいじゃない? だって……約束したんだもの。するって言っちゃったもの。どうしていけないの? 彼は私を愛しているわ、お金持ちだし。それで十分じゃない?」

 

「え、違うわ。それじゃ十分とはいえないわ。あなたが相手を愛してなきゃだめよ……愛してるんでしょ?」

 

「私が? 愛するの? ふーん!」ローラは叫んだ。「全然だわ。私は誰のことも愛してはいないもの」

 

「ねえ、ローラ」ペイジは真剣に反論した。「そんなふうに言うもんじゃないわよ。そんなこと言ってはいけないわ。人の道に反するわ」

 

 ローラは頭を凛とあげた。

 

「私はどんな男性だろうといい気にさせないわ。それがあるべき姿だと思うから。男性はね、女性が男性を愛する以上に女性を愛さなければならないの。女性がこの世で欲しいと思うものをすべて与えてくれるのなら、男性なんてそれで十分でしょ。男性は昔の騎士のように女性に仕えるべきなのよ……女性の気まぐれを満たすために自分の全人生を捧げるべきなのよ。そして女性の方は自分が好きなように冷たくそっけなくしてればいいのよ。それが私の考える愛だわ」

 

「でも、昔だって結婚を約束したからって、騎士に冷たくしたり偉そうな態度をとったりしなかったわ」ペイジは力説した。「最終的に相手を愛して、愛のために結婚したのよ」

 

「ああ、『愛』ね!」ローラは嘲笑した。「私は愛なんて信じてないもの。あなたは三文小説やお昼の劇場で愛を聞きかじっただけでしょ。かわいけりゃいいのよ」ローラは叫んだ。「私は最高に美しいドレスをとりそろえるわ。それが、ミス・ディアボーンが自分のために買い求める最後のものよ」……ローラは大きく息を吸った……「まさに作品となるようなものをね」

 

 やがて昼食のベルが鳴ると、ローラは飛び上がるように立って、指を伸ばした長くて白い両方の手を突き刺すようにして髪型を整え、 午前中丸々かかったのに、タンスの引き出しの半分がまだ散らかったままだわ、と叫びながら部屋を飛び出して行った。

 

 ペイジは独り残され、長い間座って物思いにふけり、時折深いため息をつき、それから最後に日記に書いた。

 

「愛のない世界……ああ、それは何て恐ろしいものでしょう。ああ、愛はとても美しい……とても美しくて私は悲しくなる。愛の美しさを思うとき、私はジョージ・エリオットの有名な同名の小説に出てくるロモラのように悲しくなる」

 

 ペイジは日記を机の引き出しにしまい込み、小さな四角いセーム皮でペン先がピカピカになるまで拭いた。ペイジの書き物机は不思議なほど整理整頓が行き届いていた。すべてが所定の位置にあり、用紙は測ったように縦横きれいに並び、ペン皿はきれいに磨かれていた。

 

 ペイジは目で追って、ローラが座っていた炉の敷物の上に、人のいた痕跡……手袋のボタン、白い糸、ヘアピン……を発見した。ペイジは大変な苦労をして、注意深くそれらを集めてゴミ箱に捨てた。

 

「ローラったら、いつも飛んでいっちゃうんだから」ペイジは生真面目に言った。

 

 ローラがウェス叔母さんに報告しても、叔母さんは全然驚いた様子を見せなかった。

 

「そんなこったろうと近頃じゃ思ってたからね」叔母さんは言った。「ローラ、ジャドウィンさんは大した人だよ。でも、実を言うと、最初はてっきりあのコーセルさんになると思ってたわ。あの人はいつも異彩を放っていたし、上品に見えたもの。今は、あのお若いコートさんがいつもの発作を起こすんじゃないかと思ってますよ」

 

「ああ、ランドリーね」ローラはつぶやいた。

 

「どこに住むつもりなの、ローラ? ここ? いいかい、ローラ、私が荷物をまとめなきゃならないのなら構わず言っておくれよ。何にせよ、おめでどう」

 

「大丈夫よ」ローラは元気よく言った。「叔母さんはここにそのままいてね。予定がどうなるかがもっとはっきりしたらすぐに報告するわ。でも、ここに住むことにはなりません。ジャドウィンさんは新しい家を買うつもりなのよ……ノース・アベニューとステート・ストリートの角にね。リンカーンパークに面しているのよ……ご存知でしょ、ファーンズワース」

 

「おや、まあ、ローラ」叔母さんは驚いて叫んだ。「それじゃ宮殿だわ! もちろん、知ってますとも。それだけでブロック全部だからね、この家とほぼ同じ大きさの温室があるのよ。すごいじゃない!」

 

「ええ、そうね」ローラは首を振りながら答えた。「時々、息を呑むことがあるわ。ジャドウィンさんの話では、アートギャラリーもあるのよ、オルガンまで付いててね……それも教会のオルガンほどの大きさなんですって。考えてみて。それってすてきじゃない、すてきでしょ? 幸せじゃない? キャリッジでもクーペでも自分の馬車を持てるのよ、叔母さん、欲しければ乗用馬だって、それにオペラ座のボックス席や別荘だって……あさってからはそういうものだって買えるんだわ。ジュネーブ湖に別荘があるのよ。結婚したら行く予定なの。ジャドウィンさんがね、最高にかわいくて、すてきで、 豪華な小型の蒸気ヨットを買ってくれたのよ。昨日その写真を見せてくれたわ。ねえ、叔母さん! 時々思い出すのよね。思えば、ほんの一年前、一年もたってなけど、私はバリントンの惨めな清教徒の老人たちの中で暮らしてたのよ。禁止事項ばかりでマーサの手伝いをしてたんだわ、さあ、これから」……ローラは両腕を大きく広げた……「人生が始まるんだわ。それを考えなきゃ、美しい家、使用人、馬車、絵画でしょ、それから、ああ、どんな風に着飾ろうかしら!」

 

「でも、私ならあまりそういうことは考えないわよ、ローラ」ウェス叔母さんはかなり真面目な顔で答えた。「あなたね、馬車やオルガンや乗用馬のために結婚するわけじゃないのよ。あなたは自分がこのジャドウィンさんを愛しているから結婚するのよ。そうでしょ?」

 

「あら」ローラは叫んだ。「これだけのものをくれたら浮浪児とでも結婚するわよ……相手は私を愛しているからそれだけのものをくれたのよ」

 

 ウェス叔母さんはじっと見つめた。「私ならそんなふうに言わないわ、ローラ」 叔母さんは言った。「たとえふざけていても、少なくともペイジの前ではね」

 

 その日の夜、ジャドウィンが来て、二人の姉妹とその叔母と一緒にディナーを楽しんだ。ローラとの恒例の夜のデートは、このために見送られた。ジャドウィンは事務所にかなり遅くまで残っていて、そこから直接、ディアボーン邸に来ることになった。その上、ニップ……馬の名前はニップとタックだった……の足の具合が悪かった。

 

 まだ午後の四時だというのに、ローラは突然、わけのわからない気まぐれを起こして、丹念に身支度を始めた。あのオペラの夜以来、これほど自分の外見に気を配ったことはなかった。驚くほど大量に花を取り寄せた。テーブル用の花、ペイジとウェス叔母さん用の花、コサージュに飾る立派な「アメリカン・ビューティー」、書斎の鉢に生ける大きなスミレの花束が届いた。ペイジには最高におしゃれなフロック、ウェッセルズ夫人にはとっておきのグレナディンの服を着るように言った。ローラ自身は、レースの袖がついた黒いデコルテのディナードレスを着ることにした。髪はいつもよりもアップにした。ありったけの宝石を身につけることに決めた。そのためにすべての指輪をはめ、アメジストのブローチでバラを固定し、小さなダイヤモンドのハート形のピンで後頭部の小さな髪の房を留め、さらに傷のあるトルコ石の留具でウエストに巻いたサテンのリボンをとめた。

 

 午後の五時までにはもう気分は最高に盛り上がっていて、ダイニングルームに下りて、テーブルの支度を監督し、鼻歌を歌っていた。

 

 そして、ジャドウィンがいつ来てもおかしくないぎりぎりの時になって、ローラの気分は再び変わった。またもやこれといった理由もないのにである。

 

 着替えを済ませてから様子を見に姉の部屋に入ったペイジは、憔悴しきって元気のない姉の姿を発見した。ローラはふさぎ込み、ぽつりぽつりと話をして、突然、家事のことを考えると不安でたまらなくなり、おかしくなりそうだと言い出した。一週間に曜日はいくらでもあったのに、どうしてジャドウィンはこの日を選んでディナーに来たのだろう。男性には分別ってものがなく、女性の苦労を理解できないのだ。ああ、こんな夜は終わればいいのに。

 

 そして極めつけに、これじゃまるで「オランダ人」だと言い出した。ドレスに品がなく、おしゃれじゃない。髪がなってない。体も痩せこけて、がりがりだ。一言で言えば、自分がそんな「オランダ人」に見えたのだ。

 

 いきなりバラを放り出して、椅子にへたり込んでしまった。

 

「今夜は失礼するわ」ローラは叫んだ。「あなたとウェス叔母さんは、ジャドウィンさんを迎える支度をして。私は今夜は誰にも会いません、特にジャドウィンさんには。彼には、私はベッドでふせっていると伝えて……本当だから、ベッドに行くわ、頭が割れそうよ」

 

 どんな説得も、懇願も、おだても、無駄だった。ペイジもウェス叔母さんも、ローラの決断を翻すことはできなかった。ついにペイジは、ローラがディナーに出ないことを知っていたら、自分の身支度にこんなに気を遣うことはなかったのに、と思い切って意見した。

 

 すると、たちまちローラは怒り出した。

 

「なら言いますけどね、ペイジ」ローラは叫んだ。「これまであなたの身だしなみにどれだけ気を遣ってあげても私はろくに感謝もされていないようなんだけど。シカゴの大富豪の娘でも、あなたよりきれいなドレスを着てる者はいないわよ。私が考えに考えて、あなたが立派に着飾れるようにと超一流のドレスメーカーに行って、あなたがすてきな女性に見えるような注文までしてあげたそばから、面罵されるなんてね。どうして私がそんな目に遭うのよ? さっぱりわからないわ。私が弱くて愚かな甘い姉だからでしょ。あなたに愛されようとは思わないわ。でも、敬意は払われたいものね」ローラは、凛々しく、毅然とした態度で、立ち上がった。疑いの余地なく、見紛うことなく、それはあの『威厳に満ちた態度』だった。「敬意は払われたいものね」ローラは繰り返した。「あなたに私の願いをことごとく軽視、無視させるなんて、間違ってるし、私には我慢がならないわ。断じて受け入れないし、見過ごさないわ」

 

 ペイジは、感情的になり、憤慨し、返事をしなかったが、息を吸い込んで、しっかり溜め込み、唇を噛みしめた。

 

「せいぜいそうやってればいいわ」ローラは続けた。「傷ついた純真な人を装ってなさい。でも、あなたは私が何を言いたいのかちゃんとわかってるのよ。もしあなたが私を愛していなくても、少なくとも私はあなたが故意に、開き直って、私を馬鹿にするなんて許さないわ。そして、変に聞こえるかもしれないけど」ローラは声を枯らしながら付け加えた。「私たちがこの世に二人きりで、父も母もいないとき……私にあなたしかいなかったとき、こうして私があなたを愛しているとき……あなただって少しは考えてくれたっていいじゃない……私が私だからこそ愛されたいとき、そうじゃなくて……そう、愛され……愛され……愛されたいとき……」

 

 すでに姉妹は互いの腕の中にいた。ペイジもローラに負けないほど泣いていた。

 

「ああ、妹よ」ローラは叫んだ。「あなたが私を愛していることは知っているわ。あなたがそうだってことはわかってるのよ。こんなこと言うつもりはなかったのに。今は私を許して、せいぜい優しくしてくれなきゃだめよ。心にもない態度をとっちゃうのよ。このところ時々興奮して神経質になって、自分でもどうしようもないのよ。だからあなたの方で我慢してくれないと駄目よ。あら、ベルが鳴ったわ」

 

 耳をすませば、使用人がドアを開ける音がした。それからジャドウィンの声と、磁器製の杖の置きで杖の鳴る音がした。しかし、それでもローラが説得されて下に降りることはなかった。ローラは寝ようとした。神経痛を患い、緊張のあまりろくに考えることができなかった。ドレスが気に入らなかった。結局、ローラの決意は揺るがず、ペイジと叔母がジャドウィンとディナーを共にし、精一杯もてなさねばならなかった。

 

 しかし、コーヒーが出されたとき、三人は本当に驚いた。ローラが現れたのだ。装飾品はすべて取りはずされていた。着ていたのは、一番単純な服、自分のドレスの中で一番派手さがないもの、明らかにひどいものだった。両手には指輪がなく、宝石一つなく、目立たない装飾品さえも、その質素な姿を引き立ててはいなかった。ローラはとても物静かだった。小声で話し、ミネラルウォーターを一杯飲むために降りて来ただけだから、すぐに部屋に戻ると言った。

 

 実際には、ローラはそれらしい振る舞いを何一つしなかった。他の人たちはローラにコーヒーを飲むように勧めた。そしてデザートが呼び戻された。蒸気ヨットの名前についてジャドウィンと夢中で議論しているうちに我を忘れてしまい、気がついたらワインゼリーを二皿も食べていた。サラダを少し食べれば気分がよくなるかしらと疑問を口にしたところ、ジャドウィンが盛んに勧めるものだから説得されてしまい、たっぷり食べてしまった。

 

「船には古くからある名前がいいと思うわ」ローラは言った。「アレトゥーサとかネレイスみたいなのよ」

 

 みんなは席を立って書斎に入った。その晩は蒸し暑く、大雨の恐れがあったため、「ステップ」には出ない方がいいということになった。ジャドウィンは葉巻に火をつけた。相変わらず実業家らしい服装だった……いかにも中年の男性といった定番の「モーニングコート」、白いベスト、グレーのズボンだった。

 

「じゃあ、『アルテミス』はどうかしら」ペイジが提案した。

 

「うーん、本音を言うと」ジャドウィンは言った。「そういう名前は字面はいいんだが、どうも好きになれなくてね。読みにくいし、何となく気取ってるというか思いつきって感じがする。でも、きみがいいのなら、ローラ……」

 

「昔、ボートを持っていた青年がいたわ」ウェス叔母さんは話し始めた。「それは私たちがケンウッドに住んでいて、主人が『ファラガット』に乗っていた頃なんだけど。この青年のボートというのが『ファンチョン』だったの。ある日、転覆して青年と、私のよく知る女性の三人の娘さんが、二日後に湖の底で全員がお互いにしがみついた状態で発見されたわ。そういうことだから三人いっぺんの引き上げ作業だったの。その娘たちの母親は、その日以来一度も笑うことなく、髪も真っ白になったわ。七九年のことよ。私はよく覚えてます。そのボートの名は『ファンチョン』だったわ」

 

「でも、あれは帆船でしょ、ウェス叔母さん」ローラは反論した。「私たちのは蒸気ヨットよ。全然違うわ」

 

「遊覧船はみんな危険だと思うわ」ウェス叔母さんは答えた。「私は断じて乗りませんからね」

 

 ジャドウィンは目を輝かせて、ローラに向かってうなずいた。

 

「そうだね、ローラ、出かけるときは、みんな家に置いていくとしよう」ジャドウィンは言った。

 

 しばらくすると、ペイジのボーイフレンドの一人が会いに来た。するとペイジは廊下の向こうの居間に連れて出て行ってしまった。ウェッセルズ夫人はその隙にわからないように立ち去り、ローラとジャドウィンは二人きりになった。

 

「さて、お嬢さん」ジャドウィンは話を始めた。「今日は何をしてたの?」

 

 ローラは吊るしランプ……部屋の唯一の照明……のそばの中央のテーブルに座り、『寓話の時代』ページをめくりながら、ヨットに合いそうな品のいいぴったりの名前を探していた。ジャドウィンはローラの上にかがみ込むようにして、肩に手を置いた。

 

「あら、いつもと同じよ」ローラは答えた。「今朝、ペイジとウェス叔母さんに話したわ」

 

「何って言ってた?」ジャドウィンはローラの頭に優しくぎこちなく手をのせて付け加えた。「ローラ、きみは今まで見た中で一番すばらしい髪をしているね」

 

「あら、驚かなかったわよ。カーティス、やめてよ、くしゃくしゃになるでしょ」ローラは嫌がって頭を動かしたものの、無愛想を和らげるかのように微笑んで言った。「髪を触られるといつも気になってたまらなくなるわ。別に驚くことじゃないでしょ。こんなに早く結婚することにならなかったら。急だから驚いたのよ。早すぎるって私がいつも言ったでしょ。延期したらどうかしら、カーティス……冬まで?」

 

 しかしジャドウィンはこれをはねつけた。ローラが再びその話題に戻ると、ポケットから何かの書類を取り出して話を遮った。

 

「ああ、そうそう」ジャドウィンは言った。「ジュネーブの家の改装プランの図面があるんだ。今日、業者が事務所の方に持ってきてくれたんだよ。ダイニングルームを改造したんだって」

 

「まあ」ローラはすぐに興味を持って叫んだ。「温室を作るって件?」

 

「いや……違うな」ジャドウィンは少しゆっくりとした調子で答えた。「ローラ、この夏に完成させるのは難しいんだ。入居のときに全部仕上がっていた方がいいだろう? 作業員が大勢いて騒がしいのはご免だものね。きみさえよければ、温室は来年にしようかと思ってね」

 

 ローラはあっさり承知したが、ジャドウィンはローラが少しがっかりしたのがわかった。しばらく考え込むようにして無言で口髭をなでた。多分、やりようはあるかもしれない。すると、あるアイデアがひらめいた。ジャドウィンは少しきまり悪そうに微笑みながら言った。

 

「ローラ、話がある。きみと取引しよう」

 

 ジャドウィンがためらっていると、ローラは顔を上げた。ジャドウィンはテーブルのローラの向かい側に座り、組んだ腕の上にかがみ込んだ。

 

「いいかい」ジャドウィンは始めた。「ふと思ったんだけど……まあ、そのつまりね」いきなり決定を下すように言った。「いいかい、ローラ、婚約してからというもの、きみは一度も……その、一度も……自分から私にキスをしたことがないよね。今更こんなこと言うのは馬鹿らしいかな? でもね! それは……私にとっては大事なんだ。わかってはいるんだけどね」ジャドウィンは慌てて付け加えた。「ローラ、きみが感情をあらわにしないってことはわかっているんだ。期待すべきじゃないんだろうが、多分、きみに……まあ、大したことじゃないかもしれないけど。でも、さっき考えていたんだが、もしもあるとき……自分が考えていないときに……自分の恋人が自分のところに来て、自発的に両腕で抱きついてキスをしてくれたら、これほど嬉しいことはないってね。それで……まあ、考えていたんだけど……」ジャドウィンはまたためらって、それから突然言った。「きみは一度もしたことがないと思いいたってね」

 

 ローラは何も答えなかったが、本のページをめくって探し続ける間、そっぽを向いてずっとにこにこしっぱなしだった。

 

 ジャドウィンは続けた。

 

「これを取引と呼ぶことにしよう。いつか……そう遠くないうちに、きみは私にキスをするんだ……わかるだろ、自分からだ、私が考えていないときにね。そしたらきみのためにあの温室を作ろう。私が何とかする。明日から始めさせるよ……必要なら二十人ででも。どうだい? いい条件だろ? いつか近いうちに。どうだい?」

 

 ローラは口ごもり、妙に困惑し、適切な言葉を見つけられなかった。

 

「いい条件だろ?」ジャドウィンはさらに迫った。

 

「あなたがそう言うのなら……そういうことにしましょう」ローラはつぶやいた。

 

「忘れないでくれよ、私はもうこの話はしないから。忘れないと約束してください」

 

「ええ、忘れないわ。船の名前だけど『テティス』はどうかしら?」

 

「私は『ダート』か『スワロー』か『アロー』にしようかと思ってた。そんな感じの……速さを連想するようなのをね」

 

「駄目よ。『テティス』が一番いいわ」

 

「じゃあ、それに決まりだ。きみの蒸気ヨットだからね、ローラ」

 

 その後、ジャドウィンが帰る準備をしている間、二人はしばらく廊下にいた。ジャドウィンは手袋をして、ケースから新しい葉巻を取り出した。

 

「十時頃、迎えに来るよ」ジャドウィンは言った。「それでいいかい?」

 

 ジャドウィンは翌朝の打ち合わせをした。ペイジ、ウェッセルズ夫人、ローラを連れてジュネーブ湖まで日帰りで出かけ、別荘の工事の進捗状況を見届ける予定が立ててあった。ジャドウィンは、結婚したら夏の数か月を湖で過ごすことに決めていた。式までの日取りが短かったので、新居を建てることができず、町の郊外にある、かつて治安判事が住んでいた古いがとてもよくできた家を買い、目下改装中だった。敷地は広大で、木陰や果樹がたくさんあり、湖に面していた。ローラは、将来自分が住むことになる別荘を一度も見たことがなかった。しかし、このひと月、ジャドウィンは職人や工員をまとめて雇って現場に投入し、自分の行動力と粘り強さで業者に発破をかけてきた。家も敷地も期間内に目鼻がつきそうだった。

 

「いいわ」ローラはジャドウィンの質問に答えた。「十時にしましょう。おやすみなさい」ローラは手を差し出した。しかし、ジャドウィンは素早くその手を受け流し、素早くしっかりと身柄を抱き寄せ、自分の方に顔を向かせて、何度も頬にキスをした。

 

 ローラは抗議しながら言った。

 

「カーティス! 馬鹿なことはよして。こんな風にしわくちゃにしなきゃ私を愛せないの? カーティスったら! お願いよ、あなたはとても乱暴よ」

 

 ローラはジャドウィンから離れ、相手の顔を覗き込むと、それが突然赤くなっているのを知りびっくりした。ジャドウィンの目はぎらぎらしていた。

 

「ああ」ジャドウィンは素早く息を吸い、つぶやいた。「ああ、こんなにも愛しているんだよ、ローラ! きみの手に触れ、きみの髪の匂いを嗅ぐだけだよ。ああ、いとしい人。すばらしい! すばらしいな!」 そして突然、ジャドウィンは再び自分を取り戻した。

 

「おやすみ」ジャドウィンは言った。「おやすみなさい。神のご加護を」と言い残して立ち去った。

 

 その夏の六月の最終日、午前十一時に、ローラの家の向かいにある教会……彼女が会員である監督教会……で結婚式があった。結婚式はとても静かだった。出席者は、クレスラー夫妻、ミス・グレトリー、ペイジ、ウェス叔母さんだけだった。挙式後すぐに、二人は……ジャドウィンがこの日のためにチャーターした……列車でジュネーブ湖へ向かう手筈だった。

 

 しかし結婚式の日の天気は最悪だった。朝早く降り始めた暖かい霧雨は、十一時までに土砂降りになり、遠くでは不穏な雷鳴が鳴り響いた。

 

 予定よりも一時間早いが、ローラは、叔母と妹は出かけるべきだと言った。手伝いはクレスラー夫人だけにお願いするつもりだった。時間は過ぎてゆく。雨は降り続ける。とうとう十一時十五分前になった。

 

 他の人たちよりも一足先に教会に現れたペイジとウェス叔母さんは、室内が涼しく、暗く、じめじめしていることに気がついた。二人は一番前の席に座り、小声で話しながら、周りを見渡した。粗毛の織物が朗読台、洗礼盤、司教の椅子にかかっていた。足音や小さな物音はみんな身廊と聖堂の暗い丸天井に当って騒々しく反響した。スカルキャップをかぶって、ゆったりしたスリッパを履いた、門番だか下働きだかのおっかない老人が、離れた隅に積み上げられた信徒席の座布団を相手に大事な役目を果たしていた。雨が絶え間なく単調な音を立てて頭上のスレートや両側のステンドグラスに打ち付けた。毎週日曜日の朝、定期的に教会に通っていたペイジは、今、妙にすべてがなじみのないものになっていることに気がついた。窓に描かれた聖人が場違いで、聖職者らしく見えず、この場所全体の雰囲気が聖域っぽくなかった。オルガンのある中二階では調律師がオルガンの調律を行っていて、時々、遠くの雷鳴がパイプから響いてくる長い調べと混ざった。

 

「まあ、ひどい雨だこと」屋根に降り注ぐ雨が急に大きくなったのでウェス叔母さんはつぶやいた。

 

 しかし、ペイジは棚から祈祷書を取り出し、膝布団の上にひざまずいて独りで連祷を唱えていた。

 

 ウェス叔母さんはいらいらした。興奮して気が立っているこの小柄な老婦人はこれほどまでに話し相手を必要としたことはなかった。ペイジは終わらないのかしら? 

 

「それにローラの新しい服も」叔母さんはぼんやりとつぶやいた。「これじゃ台無しだわ」

 

 ペイジは唇で「神よ、私たちをお救いください」と唱えながら、とがめるような目で叔母を見据えた。ウェス叔母さんは時間つぶしに信徒席の数を数え始め、あちこちで数字を間違えて、混乱してしまい、そのたびに仕方なく数え直した。控室の方から、扉を閉める音がした。そして、また静まり返った。門番の物音さえも一瞬途絶えた。

 

「静かじゃない?」ウェス叔母さんが頭をもたげてつぶやいた。「やっぱりあれかね。ドアが閉まる音が聞こえたもの。何でも教区牧師は三度も結婚しているんだってね」ペイジは聞き流し、おとなしくしていて、ページをめくり「陸路か水路で旅するすべての者よ」から読み始めた。クレスラー氏と若いミス・グレトリーが現れた。二人はペイジとウェス叔母さんの後ろの席に座り、互いに低い声で挨拶を交わした。ペイジは仕方なく祈祷書を置いた。

 

「ローラはもうじき来るよ」クレスラー氏はささやいた。「キャリーがついている。私は控室に行ってるよ。ジェイが来たんでね」クレスラー氏は爪先立ちで歩きながら離れた。

 

 ウェス叔母さんはペイジの方を向いて繰り返した。

 

「ここの牧師は三度も結婚しているって知ってるかい?」

 

 しかしペイジは再び祈祷書に没頭したので、叔母さんはミス・グレトリーに言葉をかけた。

 

 相手は口をしっかりと結んでいたが、手で絶望の仕草をして、ようやく口を開いた。

 

「話せません」

 

「おや、まあ、この子はどうしたんだい?」

 

「あいにく、口を開けるとしゃっくりが出ちゃうんです」

 

 ウェス叔母さんは憤慨し、機嫌を損ねて、座席で反り返った。

 

「まったく」叔母さんはつぶやいた。「こんな娘たちは見たことがない」

 

「大地の恵みである大切な果物を私たちにお遣わしください」ペイジは続けた。

 

 イザベル・グレトリーの「しゃっくり」は、ウェス叔母さんを「やきもき」させた。しゃっくりが叔母さんの「神経を逆なで」し、 その上ペイジの呟きが止まらないので、結局、一番遠くの席に座るはめになった。改めて腰を落ち着けたころ、控室の扉が開いて新郎新婦一行が入場した。先頭はクレスラー夫人、次にローラ、それからジャドウィンとクレスラー氏、その次にふっくらした白の神々しいローブをまとい、手に祈祷書を携えた教区司教が現れた。最後に、痩せこけて、香水をぷんぷんさせ、フロックコートの折り襟にクチナシを挿し、ひどく興奮した教会の人間が、つま先立ちでそそくさとやってきて、お決まりの仕事として「しっ、しっ!」とふれ回った。

 

 ジャドウィンは新しいフロックコートを着て、クレスラー氏が買ってくれた華やかなアスコットマフラーを巻いていた。ペイジは一目見て、彼がどうしようもないほど動揺しており、ものすごい努力をして自分を保っていることがわかった。歯を食いしばっていることは推測できた。ジャドウィンはクレスラーの横に立ち、頭を垂れ、両手を後ろで握りしめた……指は絶えず曲がったり伸びたりしていた。目は一度もローラの顔から離れなかった。

 

 ローラは完全に落ち着きはらっていた。ただいつもよりも少し青ざめてはいたが、これ以上ないほど美しく、これ以上ないほど魅力的だった。このときばかりは、いつもの黒をやめて、テーラー仕立てのとてもおしゃれな茶色い旅行着を着て、ラインストーンの留め金をあしらった仰々しい羽飾りのついたピクチャーハットをかぶり、ベルトにはスミレの立派な花束が刺してあった。ローラは手袋を脱いで、クレスラー夫人に手渡した。同じ頃、ペイジは独り静かに泣き始めた。

 

「ローラの見納めだわ」ペイジは泣きじゃくった。「私の姉の見納めだわ」

 

 ウェス叔母さんは悩ましい目つきでローラを見据えた。一、二度鼻をすすり、それからハンカチを求めて小物入れをいじり始めた。

 

「あの子のお父さんがここにいたら」叔母さんはしゃがれた声でささやいた。「あれが猫にいたずらしようとして私の指ぬきで頭を叩いていたあの同じ少女だと思うと! ああ、もしジョナスが今日ここにいてくれたらねぇ」

 

「これからはもう私にとっては決して同じ人じゃないんだわ」 ペイジはすすり泣いた。そう言っている間に、ミス・グレトリーは感極まり、ついうっかり、大きなしゃっくり、まさに絶叫してしまい、建物の隅々にまで爆音を響かせた。

 

 ペイジは笑うのをこらえきれなかった。くすくす笑いが嗚咽と一緒に喉に閉じ込められたものだから、少女はいつたがが外れてもおかしくなかった。

 

 ちょうとその時、聖堂から突然、朗々と大きく響く声した。

 

「親愛なる皆さん、私たちはこうして神の御前に集いました。皆さんの間でこの男性とこの女性を神聖な夫婦とします」

 

 すぐに、厳粛とまではいかないまでも、畏敬の念が周囲全体に広がった。この建物はもはや宗教や聖域に無縁なものには見えなかった。復活祭が華麗に儀式張って進行している真っ只中でも、聖堂と主祭壇がこれほどまでに強い影響力を発揮することはなかった。他の耳障りな雑音はすべて消え去り、オルガンは静かになり、うるさい門番はどこにも見えなくなり、外の街の喧騒はかすかな、遠くでかろうじて聞き取れるくらいの振動になり、全世界が突然取っ払われ、新郎新婦の人生の偉大な瞬間が始まった。

 

 ペイジは固唾を呑んだ。時間が経つにつれてペイジにはこの状況の大きな力が、まるで体をぎゅっと締め付けてくるように感じられた。ペイジは畏敬の念を抱き、感動してしまった。ペイジにはローラが、天使に準ずるもの、未知のもの、高貴な存在が一緒くたに変容した女性に見えた。「すべての心の秘密が明らかにされる大変な審判の日に、あなた方は受け答えできるようにしなければなりません」というこの長い滔々とした言葉の重みは、荘厳きわまりないものとなってペイジの精神にずっしりのしかかった。まあ、結婚を気軽に語って、楽しい気分で考えるのはとてもいいことだが、結局はかなり厳粛な行事なのだ。 ペイジ・ディアボーンは悪い少女だった。罪深く、誤魔化しや軽薄な言動が多く、「審判の日」に罰せられるべき存在だった。つい先週もボーイフレンドの件でウェス叔母さんをだましたばかりだった。そろそろやめる潮時だ。今日をきっかけに変わろう。これから新しい人生を歩もうと彼女は決心した。

 

「父と子と聖霊……」

 

 使徒たちが聖霊を受け入れ、建物が「力強い突風」で満たされる精霊降臨の祝日のように、神聖な司教の声が教会中を満たしたとペイジは思った。

 

 ペイジは再びひざまずいたが、完全に目を閉じることはできなかった。瞼の下から、姉とジャドウィンをずっと見ていた。ローラは今どんな気持ちでいるのだろう! 実際にかなり真っ青だ。ジャドウィンの目には感動がある。ペイジはそれがはっきりとわかった。彼のような力のあるモダンで現実的な人がこうも感動するのは壮観だった。さぞかしローラを愛しているに違いない。ジャドウィンは上品で、気高かった。そして、彼の繊細さと品格が一斉に影響を与えたせいで、彼女は再び泣き始めた。そのとき、突然、言葉が発せられた。

 

「……来るべき世で、永遠の命を得るのである。アーメン」

 

 束の間の沈黙があって、祭壇の手すり周辺にいる人たちがばらばらになった。

 

「さあ」ウェス叔母さんは立ち上がりながら言った。「終わったわ、ペイジ。さあ、お姉さんにキスをなさい……ミセス・ジャドウィンに」

 

 ローラはしばらく控室にいた。その間に参列者たちが次々と……クレスラー氏までもが……ローラにキスをした。ペイジの番が来たとき、二人の姉妹は長い間ぎゅっと抱き合っていたが、ローラの目はずっと乾いたままだった。参列者の中で一番興奮していなかった。

 

「ここに何かありますね」どこにでも顔を出す教会の人間が押し分けるように進み出て叫んだ。「ついさっき来たときにテーブルにのってました。下働きの者が言うにはお届け物だそうです。ミセス・ジャドウィン宛てですね」

 

 男はローラに大きな箱を渡した。ローラはそれを開けた。中にはジャクミノーのバラの立派な花束とカードが入っていた。

 

「あなたを知るすべての人の人生と思い出に、あなたがいつも与えてくれたものと同じ幸せが、いつもあなたとともにありますように。

 

       敬具

        S.C.」

 

 教会を出た一行は、通りを渡ってディアボーン邸に急いた。ローラとジャドウィンはそこでスーツケースとハンドバッグを受け取ることになっていた。ジャドウィンの馬車はすでに玄関にいた。

 

 みんなは応接間に集まり、さっそく話を始めた。その間に無帽の使用人たちが荷物を馬車に運び込んだ。

 

「あ、ちょっと待って、忘れものしちゃった」ローラは叫んだ。

 

「何をだい? ほら、私が代わりにとってくるよ」ローラがドアに向かう間に、ジャドウィンとクレスラーが叫んだ。しかしローラは振り払うようにして叫んだ。

 

「いいわよ。何でもないんだから。あなたたちじゃどこを見たらいいのかわからないわ」

 

 ローラは一人で階段を駆け上がり、二階に上がり、踊り場で少し立ち止まって呼吸を整え、耳をすませた。近くの部屋は静かで誰もいない。下からは他の人たちの声……笑い声やはしゃぎ声……が聞こえてきた。ローラは振り返り、部屋から部屋へと移動し、どの部屋もじっくりと眺めた。最初はウェス叔母さんの寝室、次はペイジの部屋、そして「正面の居間」、そして最後は自分の部屋だった。部屋はあの忙しい朝の、ひっちらかしたままだった。多くの装飾品……自分の大切な小物類……は、前日に梱包され船便で新居に運ばれていた。書き物机とタンスは空。椅子の背もたれやベッドのフットボードには、二度と着ることのない置き去りのドレスがかけてあった。

 

 ローラはしばらく誰もいない部屋を黙って見ていた。ここで、人生で最も幸せなひと時を過ごしたのだ。そこには、どんなに小さくても、思えば大事でないものはなかった。今、そこを永遠に去ろうとしている。今、新しい人生が、未踏の人生が、始まろうとしている。古い日々は、古い人生は、永遠に消え去るのだ。少女時代は終わった。昨夜まであのベッドの枕をかかえていたローラ・ディアボーンは、今どこにいるのだろう? バリントンの黒髪の少女はどこにいったのだろう? 

 

 この鉛色の空の下、この暖かい霧雨の下、自分が進もうとしているこの新しい生活とは何なのだろう? ようやく目に涙が浮かんだ。喉が涙でむせた。ドアのまぐさに腕をついて、つぶやいている自分がいた。

 

「さようなら。さようなら。さようなら」

 

 それから突然、ローラは婚礼の華やかな装束もお構いなしに、細かいことを忘れて、部屋を横切り、ベッド脇にひざまずいた。組んだ腕の中に頭を入れて、ローラは祈った……幼い頃の他愛もない自然な言葉で祈った、神のご加護が自分をいい子にしてくれるように祈った、幸せになるように祈った、神が新生活で自分を助けてくれるように祈った、そして忠実な良妻になるように祈った。

 

 そこでひざまずいていると、突然、強くてずっしりとした腕が自分の上に置かれたのを感じた。ローラは顔を上げて……初めて……夫の目を直視した。

 

「やっぱりな……」ジャドウィンは始めた。「こんなことだろうと思ったんだよ……わかってる、わかっているからね」

 

 それ以上は何も言わなかった。しかし、ローラは突然、彼が、ジャドウィンが、自分の夫が「わかっている」ことを知った。そして自分もまたこの瞬間に、完全に、すべてわかる……誤解の余地なくわかる、疑惑の影もなくわかる、心の底までわかる、ということがどういうことかを知った。そして、それを知って、自分の中に新たな感情が生まれた。どんな女性も、最も親しい友人も、ペイジでさえも、今の夫ほど身近に感じたことはなかったように思えた。これから先、果たして自分が不幸になることがありえるだろうか? 未来はすでに明るくなりかけていた。

 

 突然、ローラはジャドウィンの首に両腕を投げかけ、顔を自分に引き寄せると、何度もキスをして、自分と同じように涙で汚れた彼の頬に自分の濡れた頬を押し付けた。

 

「すべてうまくいくよ」ローラが手をつかんだまま立ち上がるとジャドウィンは言った。「すべてうまくいく」

 

「そうね、うまくいくわ、うまくね」ローラは同意した。「私はこの瞬間まで、それに気づかなかったみたい。最初からそれを知らずにあなたを愛してたんだわ。私はあなたに冷たい邪険な態度をとってきたわ。今はとっても後悔しています。あなたは間違ってたわ。書斎で、あなたが、私は感情を表に出さないって言ったときのこと覚えてる? そんなことはないわ。私はあなたを心から愛しています。一度たりとも、ほんの一瞬たりとも、あなたがそれを忘れることを許しませんから」

 

 ジャドウィンはふとローラが語った出来事を思い出し、ある考えが浮かんだ。

 

「ああ、私たちの約束、覚えてる? きみは結局忘れなかったんだね」

 

「忘れたわ。忘れてたわ」ローラは叫んだ。「忘れてたわよ、そんなの。どうしてもこうしたかっただけよ」

 


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