第4章
クレスラー邸の正面の応接間で、小さな集まりがあった……ローラ・ディアボーンとペイジ、ウェッセルズ夫人、クレスラー夫人、ミス・グレトリーがいた。ミス・グレトリーは不器用で、平凡な顔の、年の頃は十九歳くらい、青いシルクのデコルテガウンを贅沢に着飾った若い娘だった。カーティス・ジャドウィンとクレスラー氏はオープン暖炉のそばで煙草を吸っていた。ランドリー・コートはソファの上でそわそわしながら、ミス・グレトリーの話を聞くふりをしていた。娘は、ウィスコンシン州に別荘を所有し、珍しい家禽を飼っているという裕福な親戚を訪ねた話を延々と話した。三千羽もの鶏、ブラマ、ファベロール、ウーダン、ドーキング、さらには孔雀や飼いならされたウズラさえも飼っていたらしい。
ディナーコートを着たシェルドン・コーセルは、火のついていないタバコを指に挟み、ローラとクレスラー夫人を相手に春の水彩画展の話をしていた。ベイジはつまらなそうに聞いていた。ウェス叔母さんは、家族のアルバムのページをめくって、そこに収められているクレスラー夫人の写真の枚数を数えていた。
ちょうどそこへブラックコーヒーが出された。この日は、ジャドウィンのミッションスクール生徒用病棟の費用捻出のために行われる劇の三回目のリハーサルの日で、クレスラー夫人は劇団のメンバーをディナーに招待していた。ちょうど今、みんなはいつも遅れて来るジェラルディ氏の「大型四輪馬車」の到着を待っているところだった。
「僕の考えでは 」コーセルは言った。「スケッチ以上でありたがる水彩画は、その意図する限界を超えていますね。精巧な水彩画は油絵と同じ基準で評価されなければならない、と僕は言いたいな。じゃあ、どうしてさっさと油絵を描かないのかって?」
「それとですね、もしよろしければ、朝食に卵はいりません」ミス・グレトリーはか細い声で言った。肩身が狭く、ばつ悪い思いをしていた。出席者の中で、この集まりの性格を勘違いして正装して来たのは彼女だけだった。しかし人はイザベル・グレトリーのこういう過ちを大目に見た。彼女は必ずといっていいほど間違いを犯すからだ。不用意な発言をしたり、不祥事を起こしたり、着る衣装を間違えたりして必ず場違いなことをした。十九歳になろうというのに相変わらず、お転婆で、未熟で、発育不全で、ぶきっちょなままだった。
「養鶏場には卵は一つもないくせに、鶏は三千羽もいたのよ」ミス・グレトリーは続けた。「考えてごらんになって! プリマスロックには斑点がありました。そして他のにもです! 私にはわからないんですけど。卵を産まないんです」
「足の裏をくすぐるといいよ」ランドリーはかなり真面目に言った。
「足をくすぐるですって!」
「産まない鶏には一番効くんだ。刺激のようなものだよ。まあ、そのくらいはみんな知ってるよ」
「まさか! 明日にでも、アリス叔母さんに手紙を書くことにするわ」
クレスラーは葉巻の先を切り、カーティス・ジャドウィンのほうを向いて言った。
「リークラフトだけで一万五千ドル近く失ったと思う」
クレスラーは、前週成立したジャドウィンの五月小麦の取引に話を振った。ジャドウィンが百万ブッシェルを「空売り」した翌日の午前の取引の真っ最中に、フランス議会が所定の議案を可決したニュースが飛び込んだのである。大騒ぎの中、相場は下落した。買い方はパニックに陥った。凄腕のリークラフトは、始まった途端に撃沈した。ポーテウスの三人組は勇敢に小麦の背負い込もうとしたが、荷が重すぎた。おまけに足場を失い、 支えを奪われた。九十三セント八分の五で始まった五月小麦は、最初の攻撃で九十二セント半まで下落し、しばらくその場にとどまり、その後また九十一セント半に下落し、それから九十一セントまで行った。そして、弱気相場がずるずると続いて、四分の一セントずつ、九十、八十九へとどんどん値を下げ、ついに……最後の暴落で……八十八セントにまで落ち込んだ。この数字を見て、ジャドウィンは買い戻しを開始した。あまり大量に買うと、相場が回復する危険があった。しかしグレトリーは立会場での駆け引きの名人であり、注文を分散させながら、二、三日かけて少しずつ買い戻した。ジャドウィンの幸運……黄金の翼を持つ不敗の守護神……がこの仕事を間近で監視しているようだった。タイミングよく小麦畑に降った雨の報道は、取引が成立していく間も価格を低迷させ続けた。結局、この「取引」は見事に成功した。グレトリーは今でもポーテウス一派が転覆したことを陰で笑っていた。ジャドウィンは、この友人が儲けた額を正確には知らなかった。彼はグレトリーから五万ドルの小切手を受け取ったが、一セント残らず純益だった。
「きみにおめでとうと言うつもりはない」クレスラーは続けた。「これに関しては、きみは勝つよりも負けた方がましだったろうな……これできみが相場から永久に足を洗えなくなったのならね。今きみは調子に乗ってるんだ。ああ……わかってるって。私もそうだったからな。私は、人がどんなふうにこの投機的なゲームに引き込まれるかを知っているんだ」
「チャーリー、これは投機じゃなかったんだよ」ジャドウィンは口を挟んだ。「これは確実だったんだ。金を見つけたんだよ。ある不動産が値上がりすると知っていたら、私はそれを買っただろうからね」
「それが簡単で確実だと思えたのなら、なお悪いよ。知ってるか?」クレスラーは突然付け加えた。「リークラフトは引退してダビュークにある製造会社の経理に収まったんだぞ」
ジャドウィンは口髭を引っ張った。ランドリーとミス・グレトリーの頭越しにローラ・ディアボーンを見ていた。
「彼がプライベートヨットの寸法を測ってもらうご身分になるとは思わなかったよ」とつぶやいた。さらに、口髭を力強く引っぱりながら続けた。
「チャーリー、あの娘の髪は何て美しいんだろうね!」
ローラはその夜、髪をアップにしていた。祖母のものだった見慣れない象牙の櫛で輝く黒髪をとめ、肩に大きなキャベッジローズを一輪挿した黒いタフタをまとっていた。背筋を伸ばして椅子に座り、片手を細い腰に当て、頭を少し横に傾けて、コーセルの話を熱心に聞いていた。
この頃には、旧牧師館の生活は順調にいっていた。すべてが所定の場所に収められて、ディアボーン家は「落ち着き」、日常生活が始まっていた。新しい環境での最初の一か月は、ローラにとって小さな喜びの連続だった。フォーマルな社交はあまり好みではなかったので、そういうものはペイジに任せてしまった。ペイジは四旬節が終わるとさっそく、ティーパーティー、ダンス、晩餐会、観劇会など目まぐるしい行事に参加するようになった。ウェッセルズ夫人は付き添い役だった。この小さな中年の婦人は、時間つぶしになる様々な行事にかわいい姪を連れて行くことに、遅ればせながら青春の喜びを見出した。毎週金曜日の夜は、サウスサイドにあるしゃれたダンススクールのギャラリーで、ペイジが「最初のワルツ」からドイツ舞踊の最後の一曲を踊り終わるまで見守っていた。カップルの数を注意深く数えたので、帰り道にいつも、その夜の出席者が前回の出席者と比べてどうだったかを言えたし、ペイジが同じ若者と何回踊ったかをローラに知らせるができた。
ローラは前にもまして真剣になった。ひたすら本を読み漁った。小説には目もくれず「人間」や「運命」への言及がふんだんにあるもったいつけた作品ばかり読み、下線を引いたり、注釈をつけたりした。週に二回……月曜日と木曜日に……フランス語のレッスンを受けた。コーセルはウェッセルズ夫人に散々頼み込んで、たくさんのピアノやチェロのリサイタル、講演会、コンサートなどに同行させてもらった。コーセルは週に一度決まった午後を神聖なひと時にすることにさえ成功し、レイクフロントのファインアーツビルのアトリエで『聖アグネス・イブ』『ソルデロ』『アジアの光』などを朗読して過ごした……その詩は、倒置、難解な言葉、驚くほどの誇張だらけで、ウェス叔母さんを困惑させ、息を詰まらせ、ただただ呆然とさせた。
ローラはこの朗読にすばらしさを見出した。アトリエは美しく、高尚で、薄暗かった。ベルベットとタペストリーの厚い掛け物から、コーセルの声が抑えたささやきとなって返ってきた。空気には芳香剤の匂いが満ちていた。
ローラはこのアーティストの機転の効かせ方や繊細さに感心せずにはいられなかった。コーセルはオーディトリアム・シアターのロビーで交わした二人のやりとりを言葉にこそ出さなかったが、説明ともつかない微妙な態度で、自分は常にあなたを愛している、曖昧でもいいし言葉に出さなくてもいいから何かの展開を辛抱強く待っている、とはっきりローラにアピールした。
ランドリー・コートは、ローラが許す限り、何度でもやってきた。一度、ローラとペイジを説得して、コミックオペラの昼の部を一緒に見に行った。そこまでして見せても、ローラがそれとなく関心一つ示すのを確認できなかったので「意地悪」と言い放った。何かにつけてランドリーは盛んにローラにモーションをかけた。全然求められてもいないのに、一方的な深い尊敬の念を、のべつ幕なしにぺらぺらと熱く語った。
しかし、その一方で、思いがけない人物の登場により、事態は急速に複雑化した。カーティス・ジャドウィンである。ジェイがクレスラー夫人の被保護者に恋をしていることは否定できなかった。この実業家にはコーセルのような肝心なところで口を慎む才能はないし機転も効かなかった。ローラより年が上で、迷わず率直に問題に取り組む世慣れた苦労人であり、ランドリー・コートとは違って、ローラを少しも恐れなかった。ローラは最初から、自分が守勢に立たされていることに気がついた。ジャドウィンは積極的で独断的であり、 彼が弁を振るうと本物の攻撃のように執拗で激しかった。ランドリーのことなら指一本でどうにかできた。コーセルはまれに言い寄ってくるときだけ煩わしかった。しかし、ジャドウィンはあしらい方を考える時間を与えなかった。受け答えしようにも時間と場所を自分で決めることさえ許されなかった。それに、ローラ自身が秘密にしておきたい内緒の個人的な理由で相手の踏み込みをかわすには、あらゆる女性的な先延ばしと策略が必要だった。
ジャドウィンは工夫をこらしてどこででもローラに会おうとした。自分の活動の応援役という印象をクレスラー夫人に与えたおかげで、異例の速さで一連の出会いが続いた。オペラ・パーティー、マクビッカー家のボックス席、ディナー、もっと頻繁に起こったのはジャドウィンの馬の後ろをついて走るリンカーン・パークでのドライブだった。ジャドウィンはクレスラー夫妻とローラを自分のミッションスクールの日曜学校のイースター祭に招いた。そのときローラはごちゃごちゃした記憶を持ち帰った。その中身は、聖書の言葉というより活動の垂れ幕に見える巨大なキャンバス布に記された標語、オランダカイワの束、銀紙で作った鐘、七百もの膨らんだ口から耳をつんざく勢いで歌われる信仰復興の賛歌、ユリの香りや常緑樹の花輪の芳香、それと奇妙な形で混じるそこら中に漂う貧困の不快なにおいと不浄の悪臭だった。
こうして新生活の最初のひと月が過ぎたが、ローラはあまり先のことを考えようとしなかった。ニューイングランドの窮屈な環境から解放されたことがうれしくてたまらなかった。結果のことまでは気にしなかった。物事は勝手に進むし、結果は自分が努力しなくても出る。自分の歓心を買おうとする三人の男のうちの誰かに恋をしているのかいないのかを自分に問いかけたことはなかった。結婚する準備が……まだ……できていないと確信していた。結婚という考え方がどうも好きになれなかった。ランドリー・コートが大好きで、コーセルのアトリエで過ごす午後は楽しく、ジャドウィンの馬を追って公園を駆け巡ることも好きだった。このうちの一つが他の二つを排除することを望まなかった。何の決着もつけたくはなかった。愛について「私は誰のことも愛さない。絶対に結婚しない」などとうっかり口を滑らせて、ウェス叔母さんを驚かせたりしなかった。
自分なりの「健全な形」を標榜する潔癖なペイジは、唇をすぼめて姉を浮気者呼ばわりした。しかしこれは当たらない。ローラは言い寄る男たちを手玉に取ったりしなかったし、別の二人との交際を誰にも知られまいと画策したりもしなかった。だから、こうして三人が鉢合わせするときでも、ローラは平然としていた。
八時半になろうという頃になって、ようやくジェラルディ氏は到着した。冬の間、アマチュアの劇は大盛況だった。ジェラルディはある意味で時の人だった。引っ張りだこだった。やがてすっかりその気になってしまった。彼のやり方は厳格だった。監督気取りで、情け容赦なく、決して満足せず、素人の役者に遠慮なく発破をかけ、叱り、どなりつけていた。小柄で、興奮しやすく、自分には小さすぎるフロックコートを着て、流れるような紫色のクラヴァットを指環に通し、メキシコ産オニックスの大きなボタンを飾ったでかいカフスをつけていた。襟の折り返しには干からびて縮んだ哀れないつものカーネーションがあった。香水をぷんぷんさせて、自分を画家だと語った。そのせいで「劇の指導」の合間に風景画を描くことを考えていると受け止められた。コーセルは彼の存在自体を無視するような素振りを見せた。
台本を手にしたジェラルディ氏は、フロア中央でかかとを鳴らし、出席者全員に几帳面に挨拶したが、お辞儀は肩までで、頭はまるで首の椎骨が立て続けに脱臼して前のめりになったみたいな垂れ方をした。
ジェラルディ氏は遅れた原因を説明した。彼の英語に訛りはなかったが、時々突然ガリア語の不思議な構文が紛れ込んだ。
「それではさっそく始めるとしよう」 ジェラルディ氏は宣言した。「今夜は第二幕、もし時間があれば第三幕を……本読みから始めます。第二幕は文字通りの完璧なものを期待してる……か・ん・ぺ・き、だ。それ以外はない」どんなに小さな異論も挟ませないとばかりに、手をかざした。「それ以外はないですからね……一切ないです」
コーセル以外の者は全員注意深く耳を傾けた。しかしコーセルは背を向けたまま、声の調子を下げずにローラに話し続けた。ジェラルディ氏の説教の間中、その声はずっと響いていた。「光と影をコントロールして」……「配色が」……「構図の効果」
ジェラルディ氏の目が彼のほうに向けられた。台本が手のひらに鋭く打ち付けられた。
「さあ、始めるぞ!」ジェラルディ氏は叫んだ。「ごたごた言ってても仕方がない。さあ、女の子は放っといて、仕事に取りかかろう。ここが舞台だ。マドモアゼル・グレトリー、失礼するよ!」ジェラルディ氏は椅子を片付けながら、応接間の端にスペースを空けた。「さあ、気をつけて。これが」……ジェラルディ氏は派手な動作で椅子を右側に置いた。「グレンデール卿の別荘のポーチだ」
「ほお」真顔でペイジにウインクしながらランドリーがつぶやいた。「椅子が家のポーチだってさ」
「そしてこれは」ジェラルディ氏は彼をにらみつけながら叫ぶと、別の椅子を勢いよく置いた。「質素なベンチと朝食をとるのに便利なテーブルだ」
ペイジは台本の陰に隠れてくすくす笑い始めた。ジェラルディは鼻の穴を広げて、ペイジに背を向けた。参加しない年配の人たち……ジャドウィン、クレスラー夫妻、ウェス叔母さん……は隅っこに退いた。クレスラー夫人は、自分たちは観客になると言った。
ジェラルディ氏は家具を相手に汗だくになりながら「舞台ができた」と叫んだ。「マリオンが登場、おどおどと二の足を踏んでいる、左中央から行きます、マリオンは誰かな? よろしければ、マドモアゼル・グレトリー。お願いですから、訂正箇所を忘れないでくださいね。しー! しー!」残りのメンバーに腕を振って呼びかけた。「少しご静粛に。さあ、マリオン」
イザベル・グレトリーは、台本を片手に、指でその場所を示しながら、セリフと共に登場した。
「ああ、この古い家にもう一度戻るとは。ほら、よじ登るバラが……」
しかしジェラルディ氏は、感情を抑えるのに精一杯であるかのように突然唇をすぼめて、椅子に飛び乗ると、背中を向けて乱暴に足を組んだ。ミス・グレトリーはすっかり動揺して立ち止まり、困った顔でジェラルディ氏の持ち上がっている肩を見つめた。
それから、張り詰めた沈黙が訪れた。
「よ、、よくありませんでしたか?」
その言葉がバネにでも触れたかのように、ジェラルディ氏は飛び跳ねた。
「上等です! あなたが登場したのは左の中央ですか? つまり、少しお尋ねするが……そこは左の中央ですか? あなたは質素なベンチと朝食をとるのに便利なテーブルのそばから現れました。上演の夜は見ものでしょうな。素朴な朝食と便利な……素朴なベンチと便利なテーブルか、はっはっ、その向こうからマリオンがのぼるように登場するんです」台本を手に持ったまま、手の込んだ皮肉を交えながら手を叩いた。「ああ、そうです、いいんです、それで。これで場内は盛り上がるでしょうから」
そんなことをしているうちに ミス・グレトリーが再び左中央から現れた。
「ああ、この古い家に再び戻るとは。ほら……」
「ストップ!」ジェラディ氏が怒鳴った。「それがあなたのおどおどと二の足を踏むってやつですか? もう一度、ここのセリフは……違うんだ、違う、全然違うんだ。もっとゆっくり、もっと……ほら、私を見ててください」
ジェラディ氏は足を交互に引きずり、ありもしない柵の杭につかまり、苦心の跡がうかがえる大げさな登場を果たして、弱々しいファルセットで声を震わせながらセリフを言った。
「『ああ! この古い家に……ああ……もう一度戻るとは。ほら……』って感じだ」ジェラルディ氏は背筋を伸ばしながら叫んだ。「さあ、続けよう。もう一度、登場からやろう。幕が上がってからあまり早過ぎないように。気をつけてね。私が手を叩くと幕が上がる。そして三つ数える」ジェラルディ氏は後ろにさがると、台本を脇に挟みながら、手を叩いた。「さあ、いち……にい……さーん」
しかし、このときイザベル・グレトリーは自分の「務め」を忘れまいとして、またもや舞台で受けた指示を間違えた。
「『ああ、この古い家……』」
「左中央ね」辛抱強く我慢しますよという調子で、ジェラルディ氏は口を挟んだ。
ミス・グレトリーはあわてて立ち止まり、セリフを言うのが唐突過ぎたと思い込んで、もう一度セリフを言い直した。
「『ほら、よじ登る……』」
「『左』の中央ね」
「『ああ、この古い家……』」
ジェラルディ氏はわざとらしく椅子に座り直し、片方の手を頭をおきながら目を閉じた。彼の態度は、苦悶するガリレオが「それでも動いている」と宣言したときのものだった。
「『左』中央ね」
「ああ……は、はい、忘れてました」
ジェラルディ氏は寂しそうにシャンデリアに語りかけた。
「あーあ! 忘れてたんだってさ」
改めてもう一度、マリオンは登場シーンに挑戦した。登場すると、ジェラルディ氏はペイジに力強く合図を出し、かすれた小声で叫んだ。
「レディ・メアリー、用意してね。もうすぐ出番だから。合図を忘れないようにね」
その間も、マリオンは芝居を続けていた。
「『ほら、よじ登る蔓が……』」
「バラね」
「『よじ登るバラの蔓が……』」
「バラね、ただのバラだから」
「『ほら! よじ登るバラが、ただのバラだから……』」
「マドモアゼル・グレトリー、台本のセリフをしっかり守ってちゃんとやってくれませんか?」
「てっきり注意……」
「さあ、続けて、続けて! こんな馬鹿なことがありえるのか? レディ・メアリー、用意してね」
「『ほら、よじ登るバラが古びた石を優しく包んでいるわ。鳥は同じ古い巣に帰るのね……』」
「あれあれ、レディ・メアリーはどこへいった? 玄関から登場ですよ」
「私は出番を待ってるんです」ペイジは抗議した。「私の出番は『私を覚えていてくれる人は誰もいないのか』が合図ですから」
「ねえ」ペイジの後ろからランドリーが近づいてきてささやいた。「グレイハウンドを連れて登場できたら様になるね」
「ほらほら、マドモアゼル・グレトリー」ジェラルディ氏は叫んだ 「合図を抜かしましたよ」 彼はものすごく丁寧になった。「そのセリフをもう一度お願いします」
「犬がいれば舞台が様になるだろうな」ランドリーがささやいた。「調達場所に心当たりがあるんだ」
「どこよ?」
「僕の友人さ。きれいで、ブルーグレイの……」
二人は突如、異様な静けさに気がついた。ジェラルディ氏は腕組みをして、唇を尖らせてペイジを見つめていた。
「『私を覚えていてくれる人は誰もいないのか』」ジェラルディ氏ついに大声を張り上げた。「ミス・グレトリーは三回も言いましたよ」
ペイジは慌てて登場してセリフを言った。
『「ああ、今朝も快晴だわ。ブドウが露に濡れているわね」』そして声を張り上げ、「家」の方を向いた。「『アーサー』」
「『アーサー』」ジェラルディ氏は注意した。「あなたですよ。コーセル君。準備して。では、マドモアゼル・グレトリー、あなたはここでセリフがありますね」
「私には言えません」ミス・グレトリーはハンカチを顔に当ててつぶやいた。
「何ですって? 続けて。あなたのセリフは『私はここで見られてはならないんです。それではすべてを裏切ることになります』それから東屋に身を隠すんです。続けて。セリフを言ってください。それを受けてアーサーが登場するんですから」
「できません」ハンカチの陰で少女はつぶやいた。
「できない? どうしてですか?」
「は、鼻血が出たんです」
その瞬間、ジェラルディ氏は完全にキレてしまった。目をぎょろぎょろさせながら、無言で天に訴えかけるかのように片手を頭に当て、背を向けてしまい、やがてくるりと回って不運なマリオンに向かって台本を振りかざし、猛然と叫んだ。
「ああ、それが欠けてたか。劇のリハーサルでは、鼻血を出さないということを、最後に理解しておくといい。失礼にも程がありますから」
ミス・グレトリーは慌ててひっこんでしまった。ローラは自分がマリオンのセリフを読むと言って前に出た。
「いかん、いかん!」ジェラルディ氏は叫んだ。「あなたか……ああ、みんながあなたのようだったらいいんだがね! あなたはご立派だが、それだけでは不十分です。私は侮辱されたんだ」
他の人たちも驚いて、この「演技指導者」の回りに集まり、懸命に説明した。ミス・グレトリーは決してわざとやったわけではない。実際、よくそうやって誤解されるのだ。あがり症で、神経質なのだ。しかしジェラルディ氏は収まりそうもなかった。取り付く島がなかった! 彼は紳士たるもののありようを心得ていた。目を閉じ、髪に届くほど眉をつり上げて、臆面もなく、不愉快だとぶつぶつ言い続けた。全員が言葉を尽くして説明しても、たった一つの言葉しか返してよこさなかった。
「リハーサル中に鼻血を出すなどもってのほかだ」
ローラはある種の憤りを感じ始めた。あの不運なミス・グレトリーは泣きながらいなくなってしまった。着るドレスを間違えてきまり悪かったことや、怒鳴られたことや、鼻血を出したことを考えると、ヒステリーを起こすのも無理はなかった。クレスラー夫人と一緒にダイニングルームに引っ込んでしまい、時折、つらそうな泣き声が聞こえてきた。ローラは、そろそろ仲裁が入ってもいい頃だと思った。結局、いったいこんな態度をとってしまうジェラルディという人は何者なのだろう? 気の毒なミス・グレトリーには非難される筋合いは何もないのに。ローラは小さなフランス人を直視した。その顔を垣間見たペイジは姉の「威厳に満ちた態度」に気がつき、ランドリーにささやいた。
「あの人、気をつけたほうがいいわ、ローラの堪忍袋の緒が切れるとこまでいっちゃったわ」
「そんな都合のいい話があるか」演技指導者は叫んだ。「許されることじゃない。私は不愉快だ」
「ジェラルディさん」 ローラは言った。「でしたら、私たちはもうこれ以上何も言いません」
場が静まり返った。ジェラルディ氏は聞こえないふりをした。鼻で大きく息をした。ペイジは急いで、どうせマリオンは次のシーンには登場しませんと言った。すると急に普通の表情に戻って、ジェラルディ氏は言った。
「進めよう。時間を無駄にしても何もいいことはない。さあ。レディ・メアリーとアーサー、準備をして」
リハーサルは続いた。ローラはこの幕の出番がなかったので、部屋の隅の椅子に戻った。
しかし最初のグループはバラバラになっていた。クレスラー夫人はミス・グレトリーとダイニングルームにいた。ジャドウィンとウェス叔母さんとクレスラー氏は読心術と降霊術の議論に夢中だった。
ローラがやってくると、ジャドウィンは他の人たちから離れて、ローラの相手になった。
「ミス・グレトリーはお気の毒ですね!」ジャドウィンは言った。「何をやってもうまくいかないんですから。気つけ薬を買いに行かせましたよ」
今夜ばかりはローラにはこの資本家がとりわけ格好よく見えたようだった。ジャドウィンはシェルドン・コーセルやランドリー・コートのような「しゃれた」な服装はしていなかったが、どういうわけかローラはジャドウィンにそんなものを期待していなかった。ジャドウィンの服装は、いわゆる「スタイリッシュ」ではなかったが、ローラは自分のオーダーメイドのドレスで培った経験があるので、その素材がお金で買える最高級品であることを知っていた。ローラにすれば、ジャドウィンのフロックコートの広い肩に明らかにパッドがないのは「既製品」のスカーフを補って余りあるものだった。白いウエストコートが流行のデザインでなかったとしても、そのグレードのピケのスカートは自分では絶対に買えないことも知っていた。
「応接間に行きましょうか」ジャドウィンは唐突に言った。「先週チャーリーが新しい時計を買ったんですが、これがすごいんです。あなたもご覧になるといい」
「結構よ」ローラは答えた。「ここは居心地がいいのよ。それにペイジがこの幕をどう演じるのか見たいわ」
「ディアボーンさん」二人が自分の居場所を見つける間にジャドウィンは続けた。「日曜の午後はあまりお楽しみいただけなかったようですね」
ジャドウィンは、ミッションスクールのイースター祭の話をした。ローラは神経痛と夕食の約束を理由に、早々に帰ってしまったのである。
「いえ、楽しかったわ」ローラは答えた。「実を言うと、少し頭が痛かったんです」あの日の午後のジャドウィンを思い出しても全然喜べないことにローラは負い目を感じていた。確かに彼は真剣に学校の問題に取り組んでいたが、明らかに月並なところがあった。賛美歌集を持って先頭に立って歌い、拍子をとり、節と節の合間に「次の節ではみんなの声を聞きたい」と宣言する姿は、どうしてもローラには想像がつかなかった。シェルドン・コーセルがこういうことをしている姿を想像してみたら、笑わずにはいられなかった。良心の呵責を感じても、自分は日曜学校よりもアトリエの方が好きであることを認めざるをえなかった。
「ああ」ジャドウィンは言った。「頭痛とはお気の毒でしたね。私の小さなミックたちは」(彼はいつもミッションスクールの生徒たちをこう呼んだ)「音楽というよりは騒音ですからね」
「とても面白いことはわかりましたけど」
「いや、失礼ながら、あなたはそう感じなかったと思います。私の小さなミックたちは見ても聞いても面白くはありませんよ。でも、私は、なんというか……私にもわからないのですが」ジャドウィンは口髯を引っぱり始めた。「あそこに行ってあの子たちと一緒にいるのが私には合っているようなのです。ムーディが私にそうさせたんですよ。かれこれ五年になるな。私が彼の大きな集会に行ったときに、みんなに会ったんです。そして彼にも出会った。実はね、ディアボーンさん、こうなったのもみんな彼のせいなんです。私は「入信」してません。そういうのとは違うんです。でも、行動を起こす時なんだと思ったんです。ビジネスの原則は宗教でもラサール・ストリートででも同じように通用することがわかりました。もし教会の人たちが……つまり人間がですね……魂の救済に、ドルをため込むのと同じようにたくさんのエネルギーと知恵と競争心を注ぎ込めば……どうにかなるかもしれないって。それで私は、このアーチャー・アベニューにある壊れて立ち行かなくなった日曜学校を半ダース手に入れました。いつもお互いにいがみ合っている連中でね、それをみんな一緒にしたんです……組織化されたトラスト……鉄の鋳物のような……役立たずは追い出し、私の部下を投入する、そしてそれにビジネスの原則を適用する、すると今ではこのとおりですよ、シカゴ中探してもこれ以上の組織化された日曜学校はありません。もしD・L・ムーディが今日ここにいたら、きっとこう言うでしょう。『ジャドウィン、よくやった、きみは良き忠実な下僕だ』って」
「それを疑ってはいませんわ、ジャドウィンさん」ローラは急いで言った。「それと、あなたが立派なお仕事をしていらっしゃることを私が信じていないとは思わないでください」
「まあ、性に合ってるだけですよ」ジャドウィンは繰り返した。「私は小さなミックたちが好きなんです。それと、やっても損にならないだけのものをに入れるチャンスが時々あるんですよ。四か月ほど前に、聖書研究会で一人の少年に会いました。年の頃は十六歳でしょうか、名前はブラッドリー……ビリー・ブラッドリー、父親は酒浸りで、母親は洗濯を生業としている、妹は……話すまでもありません。彼は聡明で働く意欲があるように見えたので、私は彼に代理店事務所で仕事を与えて、封筒の宛名書きをさせました。でね、ディアボーンさん、その子は今じゃ、自分のデスクを持っていますよ。代理人が言うには、部下の中で一番優秀な部類に入るんですって。彼がとてもよく働くものだから、私はランチタイムが来るのを座って時計を見ているだけの二人を解雇できましたよ。ブラッドレーは今じゃそいつらよりも仕事ができるし早いので、週に二十ドル、年に千ドルの節約になってます。日曜学校の運営なんてそんなもんですから。水面にパンを投げるときに、良く狙う程度のことなんです。ムーディに最後に会ったときに言ったんです。「ムーディ、私のモットーは 『仕事では怠けず、熱心であり、主をたたえる』ことだ」って。そのときドライブに出かけていたことを覚えてますよ。リゼラの後ろに乗せて彼を連れ出したんです。彼女はほとんどウィルクス家の直系で、早駆けだってできるんですが、ムーディはそれを知らなかったでしょう……そして例のモットーを話したら、ムーディは『ジェイ、いいことだ、きみはそれを守るんだ。アメリカの実業家にとって、これ以上のモットーはない』と言って、彼は私の手を握ってくれたんです。私はこれまでそのことを忘れたことがなかった」
ローラはほとほと困ってしまい、何と言ったらいいのかわからなくて、結局、うまいことが言えなかった。
「確かに、健全な精神……最高のモットーですね」
「ディアボーンさんも」ジャドウィンが突然会話を再開した。「そこで授業に出てみてはどうですか。知り合いになれば、小さなミックたちだってそうひどいものじゃありませんよ」
「私が!」ローラはかなりきっぱりと叫んだ。ローラは首を振った。「駄目ですわ、ジャドウィンさん。私じゃ足手まといにしかなりません。誤解しないでくださいね。この仕事には心から賛成しますが、私には向いていません……お呼びじゃないんです。私は適任者ではありませんから自分が何の役にも立たないことがわかります。私が教わってきたことは全然違うんです」ローラは微笑みながら言った。「私は監督派教会なんです……パリサイ派でも最も厳格な宗派です。私はあなたの小さなミックたちに、ろうそくの意味や『東行』や赦免や減免についてひと通り教えてさしあげるべきなんです」
「あなたがそうしても、私は構いません」ジャドウィンは答えた。「私が考えているのは間接的な影響です……美しく、純真で、高い志の女性が、行く先々で周囲に及ぼす間接的な影響ですよ。私はそれが私のためにどう作用したかを知っています。そして、あなたがこの建物に足を踏み入れたとたんに、私の小さなミックだけでなく、学校中の教師と指導員が、触発され、刺激され、生まれ変わることも知っています。男性にはすてきな女性が必要なのです、 ディアボーンさん。世の中の役に立つ男性にはね。私はキリストを信じるように女性を信じています。しかし私は、彼らが……キリストのように……自分の精神を……あるレベル以上に……陶冶し、自分の心を磨き、隠遁と排除を旨とする、焼き直しの、素人芸の、ステンドグラスの世界に住むように作られたとは思わないのです。違うでしょ、それではアメリカと、自分たちを世界一の国民にしようとしている人たちのためになりません。男たちはやりたいことをすべてやっているが、自分たちをまっすぐに導くために、そして退屈で辛いことばかりではない別の種類の人生を送る方法を示してもらうために、女性を必要とするんです。あなたと知り合ってからというもの、 ディアボーンさん、私は他の生き方もあると目覚め始めたんです。しかしあなたなしではその人生を送ることができません。今の私にとってあなたのいない人生には何の価値もない。私があなたに結婚してほしいと願っていることはお伝えするまでもないでしょう。私が何も言わなくても、あなたはもうわかっていることだと思います。私はあなたを愛しています。少年としてではなく、一人の男として、本気で真剣にです。私がどれほど本気で、どれほど真剣に愛しているのか、あなたに伝えることができません。私の妻になってほしいんです。ローラ、私の愛するお嬢さん、私ならあなたを幸せにできるとわかるんです」
「それは」ジャドウィンが話をやめたときに、ローラは相手が自分が何か言うのを期待していることに気がついたので、ゆっくりと答えた。「大きな問題じゃありません」
「じゃあ、何なんです? 私はじたばたしませんよ。あなたは私を愛してはいないのですか? この先、私を愛せるようになるとは思いませんか?」
ローラは長いことためらった。肩からバラを取り、花びらを一枚ずつ摘み取り、そっと口にくわえた。部屋の反対側から、ジェラルディ氏の騒々しい演技指導が聞こえてきた。クレスラー夫人とミス・グレトリーは、ダイニングルームの入口からリハーサルの進行状況を注意深く見守っていた。ウェス叔母さんとクレスラー氏は、部屋の反対側のソファで心霊研究や降霊術について話し合っていた。しばらくしてローラは言った。
「愛す愛さないの問題じゃないんです」ローラは慎重に言葉を選びながら言った。
「それはどういうことですか?」
「はっきりとは……わかりません。一つには、私が結婚したいって思わないからなんです、ジャドウィンさん……どなたとも」
「私は待ちますよ」
「婚約もです」
「でも遅かれ早かれ、婚約と結婚を両方しなくてはならない日が来るに違いありません。いつかは夫になりたがっている人を自分が愛せるかどうかを自分に問わなくてはなりません。どうして今自分に問いかけないのですか?」
「やっています 」ローラは答えた。「自問自答しています。自分に問いかけました」
「それで、どうのような判断なのですか?」
「わからないんです」
「そのうち愛するようになるとは思いませんか? ローラ、あなたならきっとそうなります。私がそうさせてみます」
「わからないわ。愚かな答えだとは思いますけど。でも、正直になろうと、正直になるように懸命に努力をしているんです……あなたに対しても自分に対しても……でもその答えしかないんです。私はこのままで幸せです。私はあなたのこともクレスラーさんもコーセルさんも、みんなのことが好きですから。でも、ジャドウィンさん」……ローラは相手の顔をじっと見た。黒い目には真剣さが満ちていた……「女性と結婚するって……とても重大なことです。どんな男性もわからないんですわ。だって確信、確信してないといけないでしょ。今の私には自信がありません。今は自信がないんです。あなたに自信があっても、私は自分に自信があるとは言えませんから。時々自分に言い聞かせています。お世話になっているウェス叔母さんにさえも、私は誰のことも愛せないし結婚もしないだろうって。でも、それが本当だったら、私ってつくづく情けないわよね。私が楽しみにしている一番の幸せは、いつの日か心から誰かを愛し、本当の妻になり、自分を愛してくれる夫の愛情が人生で一番大切なものだとわかることなんです。でもその日はまだ来ていないと思います」
「ではその日が来たら」ジャドウィンは迫った。「私が最初に知ってもいいですか?」
ローラは少し深刻な顔で微笑んだ。
「ああ」ローラは答えた。「私を妻にしたいと言った人を自分が愛していると気づくまでは、その日が来たことってわからないんですよ。そしてそのときでは遅過ぎるかもしれないわ……あなたには」
「でも今は、少なくとも」ジャドウィンは強く言った。「あなたは誰のことも愛してはいない」
「今は」ローラは繰り返した。「誰のことも愛していません」
「それを励みにしても構いませんか?」
そして、突然、いい気なもので、ローラは、何とも説明のつかない一貫性のない心情に悩まされ、ほんの少し前に結婚の重大さを深刻に語った女性とはまったくの別人になってしまった。ローラはジャドウィンに答える前に少しためらい、頭を傾けて、指の間のバラの花びらを眺めていた。ようやく低い声で言った。
「お望みなら」
しかし、ジャドウィンが答える前に、クレスラーとウェス叔母さんが、自分たちの「体験」や「予感」とか、自分たちの身に起こった不可解なことについて互いに話しているだけでは飽き足らず、ついに他の人たちまで自分たちの会話に巻き込んでしまった。
「ジェイ」クレスラーは言った。「虫の知らせとか予感とか、そういう変なことがきみの身に起こったことはないかい? ウェッセルズ夫人と私は降霊術の話をしてるんだ。ローラはそんな『体験』をしたことがあるかい?」
ローラは首を振った。
「いいえ、ありません。私は現実的過ぎるんだと思います」
「きみはどうだい、ジェイ?」
「特にありませんね。ただ『運』は信じてるかな……少し。先日、グレトリーのオフィスでコインを弾いたんだ。表が出たら小麦を空売りするってことでね。どういうわけかコインが表だと私にはずっとわかってたんだ……そのとおりになったよ」
「そして、あなたは大金を手にした」ローラは言った。「知ってます。コートさんが教えてくれました。すごいですね」
「それは残念なんだよ、ローラ」クレスラーは暗い顔で言った。「いつの日か、みんなでこの男をとっちめて、二度と小麦のギャンブルをしないとしっかり約束させられるといいんだがね」
ローラは見つめた。ローラにとって「ギャンブル」という言葉はいつも胡散臭いものだった。ギャンブルという言葉には悪い響きがあった。もっと卑しい堕落を連想させたようだった。
「ギャンブル!」ローラはつぶやいた。
「ラサール・ストリートでは」クレスラーは続けた。「売買って呼ぶがね。しかしただの賭け事にすぎん。これから先の何週間の、何か月ってこともあるが、マーケットの状態に賭けるんだ。きみは小麦が上がる方に賭ける。私は下がる方に賭ける。立会場にいる連中は、小麦を持っていない。見ることさえない。持っていたとしても、それをどうしたらいいのかわからないだろうね。彼らは穀物にはまったく関心がないんだ。しかし、このアイオワやカンザスやダコタには関心を持つ何千何万の農民がいる。そしてヨーロッパには農民よりもずっと関心を持っている何十万もの貧しい悪魔たちがいる。つまり、穀物を育てる人と、それを食べる人だ。どちらにとっても、生きるか死ぬかの問題なんだ。この両者の間に、自分の儲けのために、理屈なんぞお構いなしで価格を上げたり下げたりするシカゴの相場師が入るんだ。ローラ、私が言いたいのはこういうことなんだ」クレスラーは急に真面目な顔になった。ローラは夢中で、興味を持って、ひたすら耳を傾けた。「私が言いたいのはこうだ」クレスラーは続けた。「つまりね、小麦の価格を下げ過ぎると、農民が、小麦を育てる連中が、苦しむ。小麦の価格を上げ過ぎると、ヨーロッパの貧しい人々が、小麦を食べる連中が、苦しむんだ。そして、大陸の小作農の食糧はパンなんだ……私たちと同じで肉やジャガイモではない。アメリカの農民もヨーロッパの小作農も苦しまないようにする唯一の方法は、小麦の価格を標準、適正価格に保つことなんだ。価格を上げるか下げるかしたとたんに、誰かが困るんだからね。ギャンブラーがいつもやっているのがそれだ、高騰させたり、暴落させたりするんだ。考えてごらん。何千何百人もの食糧が取引所のひと握りのなすがままなんだ。彼らが価格を決めるんだよ。小作農がパンを買うのに払う額を彼らが言うんだよ。小作農はその値段を払えなければ餓死するしかない。そして、農民にしても馬鹿げた話でね。もし私が家を建てて売りに出すなら、私は自分で値段を付けるし、提示された値段に納得がいかなければ売らないさ。でも、もし私がここを出てアイオワに行き小麦を育てたら、私が望もうが望むまいが、シカゴの誰かがつけた値段で売らなければならないんだ。奴らときたら、自分たちが金持ちになるために、私を破産させるような値段で売らせるかもしれないんだ」
ローラはうなずいた。強い関心を持っていた。物事のまったく新しい秩序が明かされつつあった。ローラは生まれて初めて政治経済学の仕組みに目を向けた。
「そんなのは物事の一面に過ぎない」ジャドウィンの柔らかい反論など気にもとめずにクレスラーは続けた。「まあ、確かに私は投機を快く思っていないさ。きみさえよければ一言言いたいんだ。私自身、相場師だった。そしてそれで破滅した経験がある。だから自分が何を言っているのかわかっているんだ。私が言いたいのは、こういうことなんだよ。こいつらは所詮ギャンブラーなんだ……何なら相場師って呼んでもいいがね。実は、私の知ってる立派で将来有望な男らしい若者が破滅したんだ……投機のせいで完全に手の施しようがない破滅の仕方をして駄目になったんだ! 道を横切るのと同じくらい簡単なんだよ。指一本動かすことなく、数時間で三百ドル、五百ドル、時には千ドルも儲かるんだ。月給七十五ドルの事務員をしている二十五歳の青年がこれをどう思うか考えてみるといい。彼が千ドルを貯めるには十年はかかるかもしれない。それがここならほんの半日で稼げるんだ。そういうときに彼に投機をやらせないようにできるかい? まず最初に、真面目にこつこつやってきた平凡な職を投げ出してしまうんだ……ああ、私はそれを何百回と目撃したよ……ラサール・ストリートの客だまりをうろつくようになる。ちびちび稼ぐうちに、終いには抜けられなくなる。やがて市場を掌握しているどこかの億万長者が指一本動かすだけで、若者は身も心も破滅してしまうんだ。まっとうな商売をする気概も能力も失って、取引所の周りをうろうろしているうちに……いつのまにか……老人になっている。そしてある日、誰かが言う。『そう言えば、誰それはどこにいるんだろう?』そして気づいてみれば若者はぷつんといなくなっている……行方不明……というわけだ。この商品相場の魅力は、経験したことのない人にはちょっと想像がつかないと言えるね。酒よりも、モルヒネよりも、たちが悪いと私は思ってるよ。一旦足を踏み入れると、そいつはきみをしっかりつかまえて、どんどん引き込んでしまうんだ。終盤に近づけば近づくほど、簡単に勝てそうな気がしてくるけど、そうこうするうちに、あっ! その渦に巻きこまれてしまう……ジェイ、そいつにだけは近づくなよ」
ジャドウィンは笑って、身を乗り出し、まるでスイッチを切るように、クレスラーの胸に指を置いた。
「さあ、ディアボーンさん」ジャドウィンは言った「これで彼を黙らせましたよ。チャーリーはいい人だけど、時々、誰かが通りすがりにぶつかって、そのスイッチを入れてしまうんだ」
クレスラーは他の人たちに笑って愛想を振りまいたが、ローラの笑顔は形だけのもので、目は深刻だった。しかしここで場面が変わった。他の人たちが話している間にリハーサルが進み、今度はペイジが応接間の隅っこからローラに手招きして呼びかけた。
「ローラ、『ベアトリス』、第三幕よ。あなたの出番だわ」
「ああ、行かなくちゃ」ローラは台本を取りながら叫んだ。「かわいそうなジェラルディさん……私たちには随分手を焼いているわよね」
ローラは急いで部屋を横切った。ジェラルディ氏は自分の台本のト書きを見ながら家具でステージを作っていた。
「ここがキッチンテーブル、ここが古風な書き物机、ここが便利な扉の大きなキャビネット、ここが窓。そうだ! 出演者は誰だっけ? ああ、鼻の悪い若い女性「マリオン」か。いたぞ……編み物をしているな。それから公爵夫人……後でいいか。ああ、いた、マドモアゼル・ディアボーン。あなたは割って入るんです……覚えてますね。それに、あなたは、ああ、あなたはいつもよくやってる。みんながあなたのようだといいんだがね。よろしい、始めよう」
ミス・グレトリーは立派に自分のセリフを読み上げた。ジェラルディ氏は訂正箇所とやるべきことを指示するために口を挟んだ。そして彼女の合図で、公爵夫人役のローラがセリフを言いながら登場した。
「失礼、扉が開いていたもので。入ってもいいですか?」
ジェラルディ氏はつぶやいた。
「実にすばらしい」
ローラは迫真の演技だった。身のこなし、立ち振舞いのちょっとした仕草の一つ一つが下々の家を訪れる高貴な淑女そのものだった。彼女の態度ほど、威厳に満ち、優雅で、慇懃なものはなかっただろう。自分の役だけでなく、自分のまわり全体までも演技で表現した。ローラがそのシーンに足を踏み入れた瞬間に、小さな別荘の内部がまるで目の前でありありと見てとれるようにはっきりその姿を現したようだった。
ジェラルディは、小声で話しながら、グループからグループへと忍び足で移動した。
「どうです? とてもすばらしいですな、我らが公爵夫人は。彼女ならプロでもやっていけるだろう」
しかし、ウェッセルズ夫人は必ずしも同意見ではなかった。姪を目で追いながら、コーセルに話しかけた。
「ローラの 『威厳に満ちた態度』があってのことだわ。『あれ』には見覚えがあるもの。夜、応接間に降りてくるときがあんな態度だわ。そしてペイジが若い男性のお客さまを紹介するのよね」
「私なんか霞んじゃうもの」ベイジはそう言って笑い出した。「もちろん、私だって自分の友人には姉を好きになってもらいたいわ。ローラったら卵の上を歩くように現れて、大した問題ではないかのように相手の名前を間違えて、ピンクニーと呼ぶところをピンキーと呼んじゃうし、相手の言葉には耳を貸さないんだもの、私なんか恥ずかしくて床に隠れたくなるわよ」
なんだかんだあって、リハーサルは終わった。ジェラルディ氏は大荒れで、苛立ちを募らせ、あるシーンを何度も繰り返すよう要求した。十時までに、役者たちは疲れ果ててしまった。ささやかな夕食が出され、それを済ますとローラはさっさと帰る準備にとりかかり、ランドリー、ジャドウィン、シェルドン・コーセル、果たして誰が自分を家まで送ってくれるのだろうと考えていた。
その日は晴天で、気温も高かったが、九時頃から天候が悪化し、今は大雨が降っていた。クレスラー夫人は、二人の姉妹とウェッセルズ夫人に一晩泊まっていくように誘ったが、ローラは断った。コーセルがローラのところにやってきたとき、ジャドウィンはクレスラーに馬車で姉妹を家まで送ることを提案していた。
「随分前に辻馬車を二台調達に行かせたから」コーセルは言った。「今頃は外で待っているよ」これで問題は決着したかに見えた。
ジャドウィンは頑張ったが……少なくともこの場は……このアーティストが出し抜いたようだった。
玄関で別れの挨拶が交わされている間に、ペイジはランドリーに言った。
「私たちと家まで一緒に行った方がいいわ、そうすれば傘があるから。あなたはウェス叔母さんと私と一緒に乗ればいいでしょ。余裕ならたっぷりあるわよ。この嵐じゃ、傘がなきゃ帰れないわよ」
ランドリーは最初きっぱりと断った。貧乏だったからあまり辻馬車を乗り回すことはなかったかもしれない。しかし控えめに言っても、プライドが高過ぎたから、他人がお金を払う辻馬車になど便乗できなかった。
ペイジは彼をきつく叱った。じゃあ、どうするのか? そうすればいいではないか。あなただってそこまで大馬鹿ではあるまい。ペイジはつまらない議論につきあって彼が肺炎になる責任を負うつもりはなかった。
「自分が大人であることに気づくことができない人がいるようね」ペイジは言った。
「よかろう」ランドリーは言い切った。「御者に一ドル、チップを渡せるのなら行くよ」
ペイジは口をつぐんだ。
「チップを一ドル払える人なら、最初から馬車を呼べるでしょ」ペイジは言った。
「それなら七十五セントだ」ランドリーは押し切るように言った。「一セントもまけない。それ以下では僕の面目が立たない」
「私を馬車まで送ってくれない、ランドリー・コート?」ペイジは言った。それ以上のことは何も言わずにランドリーは従った。
「さあ、ディアボーンさん、準備がよろしければ」コーセルが近づきながら言った。コーセルは傘を相手の頭上に差し出し、自分の肩は濡れるにまかせた。
二人はもう一度まわりに挨拶した。アーティストは先に立って滑りやすいステップを下まで案内した。ローラを慎重に馬車に乗せると、続いて窓ガラスをおろした。
ローラは奥の隅っこで体を楽にして、スカートを整えながら、つぶやいた。
「よく降るわね。雨が降るなんて、誰が考えたかしら? 最初は来てくれないのかと思ったわ」ローラは付け加えた。「ディナーのとき、クレスラー夫人はあなたが重要な委員会の会議を抱えてるって言ってたわね……芸術協会の何か、賞の授与とかに関係することなの?」
「ああ、そうだよ」コーセルはそっけなく答えた。「そういったことがあったのさ。そういうのって重要なんだ……協会にはね。しかし、僕にとっては重要なことは最近一つしかないんだ」ローラがとっくに知っている事実を告げるかのように、無頓着な態度を計算に入れて言った。「それはね、きみのそばにいることだよ。自分でも驚いているんだ。きみにはわからないだろうね。僕がいかに全人生をその考えに沿って送ってきたなんて」
「まるで私がそれを真に受けるとでも思っているみたいね」ローラは答えた。
他の恋人が相手だったら、この言葉が激しい反発を招くのをローラは知っていた。しかし、コーセルは予想のつくことや普通のことを決してやらないし、言わない。それが、ローラにとってはコーセルの態度の魅力の一つだった。今のコーセルは、ローラの反応の仕方よりも、ローラへの自分の愛が自分に及ぼす影響の方が、気がかりなようだった。
「不思議だよね」コーセルは続けた。「僕はもう子供じゃないんだ。情熱なんかなくなってしまった。僕は多くの女性を知っているし、みんなが愛と呼ぶものがいかにむなしいか、いかにからっぽか、空虚の中の空虚であるかを十分に知っている。僕はね、詩人は間違っていて、理想を追い求めるだけで、実像よりもあるべき姿を見ている、とばかり想像してたんだ。するとそのときだ」突然、コーセルは大きく息を吸い込んだ。「この幸せが僕のところへやって来た。そして奇跡が、すばらしいものが……一度に……僕の心の中に、まさに手の中に、神秘的で美しい異国のもののように現れた。詩人は間違っている」コーセルは付け加えた。「彼らは大した理想主義者でなかった。僕の願いは……ああ、まあ、気にしないでください」
「何が言いたいのよ?」コーセルが突然話を中断したのでローラは尋ねた。口を開く前から、コーセルに話を続けさせないほうがいいことはわかっていた。コーセルはまさにこの言葉を自分が言うように仕向けたのだと疑い以上のものを直感的に感じた。そしてローラは自分がこの話を進めたがっていることを認めつつ、紛れもなく駆け引きを楽しもうとしていることに気がついた。ローラは今、その誤った振る舞いを見て、自分が警戒を緩めてしまったことを知った。どう考えても、コーセルがやろうとしていることに軽く興味を示しただけにした方が、威厳があっただろう。またしても自分が衝動で行動してしまったことに気がついた。そして、この男と一緒にいるときはどうして理性ではなく衝動が勝ってしまうのだろうと改めて考える余裕さえあった。ランドリーかカーティス・ジャドウィンと一緒のときはいつも冷静沈着なのに。しかしコーセルは、ローラの本性の中の衝動的なものや、理不尽なもののすべてに手が届くようだった。ランドリーにとってローラはかけがえのない存在であり、姉であり、甘やかしてくれる優しい存在だった。ジャドウィンと一緒にいると、自分の性格の真面目な部分、誠実な部分、真剣な部分がすべて前面に出がちなことに気がついた。しかし、コーセルはローラの中の不安定な未知の深層部、はっきりとは定義できない無謀な傾向をかき立てた。コーセルがローラを影響下に置く限り、ローラは一瞬たりとも自分が女性であることを忘れることができなかった。
この不思議な性格、この強情で衝動的なもう一人の自分を発見するに及んでローラは狼狽した。自分ではそれにほとんど気づいていなかった。それはローラを少し怖がらせはしたが、不思議とローラはそれを嫌いになりきれなかった。自分自身でもあるこの大胆な他人の支配に、ほんの一瞬でも自分の身を任せることには、ある種の魅力が存在した。
そうこうするうちに、コーセルが答えていた。
「何か言ってほしいな……何だかわからないけど……何かをね。小さなことでも影響は大きくなるものだ」
「でも、私に何が言えるのよ?」ローラは食って掛かった。「わからないわ……私には……私に何が言えるのよ?」
「僕への返事、イエスかノーだよ」コーセルは言い放った。「僕はこのままではいられないんだ」
「どうしてよ? どうして駄目なの?」ローラは叫んだ。「どうして私たちは……けじめをつけないといけないの? どうしてこのままの状態ではいけないのよ? 私たちはこのままで十分幸せだわ。この三、四か月ほど幸せだった時期は私の人生にはなかったもの。何も変えたくはないのよ。さあ、着いたわ」
辻馬車は家の前でとまった。ウェス叔母さんとペイジはすでに中に入っていた。半開きの玄関から差し込む光に照らされた前庭に、メイドが傘を持って立っていた。そしてローラが降りると玄関ホールから、他の人たちは傘を持っているからメイドは待っていなくてもいいというペイジの声が聞こえた。
辻馬車は水しぶきを上げて走り去り、コーセルとローラは家のステップを登った。
「お入りにならない?」ローラは言った。「書斎で温まったら」
しかしコーセルは断った。二人はしばらく前庭の明かりの下で立ち話をしていた。それからコーセルは右手の手袋をはずしながら言った。
「もう僕の答えは出たと思う。きみは変化を望んでいない。わかったよ。きみはそれで、僕のことを愛していないと言いたいんだね。僕がきみを愛しているようにきみが僕を愛しているのなら、きみは変化を求めるはずだよ。新しい楽園と新しい大地を作る、すばらしい、すばらしい変化を、僕と同じくらい熱心に、きみは求めるはずだ」
このとき、ローラは答えなかった。一瞬の沈黙があった。それからコーセルは言った。
「僕は消えることにするよ」
「消える?」
「ああ、ニューヨークへでもね。パリかもしれないな。前々から調べようと心に決めていたガラスを溶かす新しい方法があるんだ。それが僕を夢中にさせるものなのかはわからない……今はね。でも行った方がいいと思っている。すぐにでもね、一週間以内にだ。あまり本気になってはいないんだけど、場合によっては……自分に合っているようにも思えるのでね」コーセルは手袋をはずした手を差し出した。ローラには彼が微笑んでいるのが見えた。
「では、ディアボーンさん……さようなら」
「でもどうして行ってしまうの?」ローラはつらそうに叫んだ。「きれいさっぱりと……ねえ、行かないでよ」ローラは叫び、それからあたふたと付け加えた。「絶対に馬鹿げてるわ」
「僕にいてくれと?」コーセルは返事を促した。きみは僕に行くなと言うのかい?」
「もちろんよ」ローラは答えた。「それじゃ劇ができなくなるもの……あなたが行ってしまったら。私の役が台無しになるわ。あなたは私の相手役なのよ。お願いだからいてよ」
「きみの相手役を務めるためにここにとどまるのかい? きみの相手役は他には誰もいないのかな?」コーセルは相手の目をまっすぐ見据えながら微笑んだ。ローラは相手の言わんとすることを察した。
ローラはコーセルに微笑み返した。相手の目を見据えると、自分の中でこれ以上はないという大胆な精神が目覚め、答えた。
「私の相手役は他には誰もいないわ」
コーセルはいきなりローラの手を握った。
「ローラ」コーセルは叫んだ。「こういう小手試しや言い争いはもうやめにしよう。親愛なるお嬢さん、僕は自分の中のありったけの誠心誠意を込めてきみのことを愛するよ。愛する女性にとっての最高の男性になりたいんだ」
ローラはコーセルに微笑みかけた。
「私があなたを愛せるようにすればいいじゃない」ローラは答えた。
「それが僕にできると思うのかい?」コーセルは叫んだ。
「何なら試してみてもいいわよ」ローラは言った。
ローラは、これ以上余計なことを言わずに、コーセルが立ち去ってくれることを切に願った。これだけ勝ったのだから、これ以上優位に立たないようにするのが、彼のとるべき最も繊細な騎士道精神だろうとローラには思えた。次の言葉が待ち遠しかったが、彼の如才なさを買いかぶり過ぎてしまったかと心配になり始めた。
コーセルは再び手を差し出した。
「おやすみなさい、さようならではないからね」
「おやすみなさい」ローラは言った。
その言葉を言い残してコーセルは立ち去った。ローラは家に入ると満足そうな長い息をついてドアを閉めた。
ペイジとランドリーはまだ書斎にいた。ローラは二人に加わり、三人でしばらく暖炉の前で芝居の話をしていた。随分してからペイジが最初に頃合いを見計らって失礼して寝室にさがった。ペイジはこれみよがしにランドリーとローラを二人っきりにして、二人が自分を追い出したがっていることはわかっているとわざわざアピールしてみせた。
「鍵をかけて廊下のガスを消すことだけは忘れないでよ」ペイジはローラにきつく言った。「アニーはとっくに寝ちゃったから」
「僕も引き上げないといけないな」ペイジがいなくなると、ランドリーは言った。
ランドリーはコートの首のボタンをかけた。ローラは後について廊下に出て、彼に渡す傘をさがした。
「今夜のきみは美しかったよ」ランドリーはドアノブに手をかけると言った。「美しいのなんの。僕はきみから目を離すことができなかったし、きみ以外の人の話など耳に入らなかった。そしてこれから」ランドリーは真剣に言った。「夜通しきみの目を見て、声を聞いていたい。説明したいことがある」ランドリーは付け加えた。「辻馬車と……ペイジとウェッセルズ夫人と一緒に帰ってきたことなんだけど。コーセルがね……あれは彼の馬車だったんだけどさ。でも僕は傘が欲しかったんだよ。それでね、御者に七十五セント渡したんだ」
「あら、そうなの」ローラは相手が何を言おうとしていたのかよくわからないまま言った。
「僕が自分から進んで誰かの世話になるような人間だときみには考えて欲しくはないんだ」
「もちろんよ、ランドリー、わかってるわ」
ランドリーは急にどきどきした。
「ああ」ランドリーは叫んだ。「本当に理解してくれる女性の目を見ることが、僕にとってどういう意味を持つのか、きみにはわからないんだ」
ローラは自分が言ったことに思いを巡らせながら、じっと見つめた。
「廊下の明かりを消してくれない、ランドリー?」ローラは尋ねた。「届かないのよ」
ランドリーは玄関のドアを開けたまま、くすんだ赤い球体のガスを消した。たちまち二人は暗闇に包まれた。
「おやすみなさい」ローラは言った。「暗くない?」
ランドリーはローラの手を取ろうと手を伸ばしたが、代わりに手探りの指がウエストに触れた。突然、ローラは相手の腕が自分を抱きしめるのを感じた。そして、ローラが抵抗を考える時間もないまま、ランドリーは両腕を回して、正面から頬にキスをした。
それから玄関のドアが閉まって、ローラは突然独りになった。息を呑み、呆然として、目を見開いて暗闇を見つめた。
ローラが最初に感じたのは、ただの驚きだった。ローラはとっさに頬に手を当てた。まずは手のひら、次に手の甲、そして戸惑いながらつぶやいた。
「何? どうして?……どうしてなの?」
それからくるりと振り返り、去り際にシルクの衣擦れの音をさせ、ひらひらさせながら、階段を駆け上がり、自分の部屋にたどり着くや、後ろ手にドアを激しく閉めた。弱めにガスをつけ、理由もわからないまま、すぐに鏡に向かい、映った顔をつぶさに見て、不快な頬をぬぐう間その手をじっと見つめていた。
すると突然、怒りがローラの中で凄まじい勢いで沸き起こった。男性を愛さず、受け入れず、屈服せず、その「威厳に満ちた態度」が有名なローラ、ミス・ディアボーンともあろう者が、有頂天でいるときに、自宅で、自分の縄張りで、女学生のように、客室係のメイドように、暗闇で、片隅で、キスされたのだ。
それも事もあろうに!……ランドリー・コートに。支配していた、心から尊敬していた、とばかり思っていたあの青二才に。ランドリー・コートは大胆にもこの私にキスをして、このひどく陳腐なさもしい侮辱を与えて、かわいいウェイトレスのレベルまでおとしめ、愚弄したのだ。
ローラは寝室の中央で背筋を伸ばして棒立ちだった。両側で拳を固く握りしめ、息を切らし、目を輝かせ、燃えるような真っ赤な顔をしていた。時折、噛み殺したような言葉が口をついた。
「私を何だと思ってるのかしら? どういうつもりだったの? どういうつもりだったのよ?」
洗いざらいぶちまけても、筋道立ててどんな非難をしても、自分の立場をますますおかしなものに、屈辱的なものに、するだけだった。これは何世代にわたって、店員、女学生、使用人たちに言われ続けてきたことだった。この侮辱はローラをその仲間に加えてしまった。ランドリーは事実上、もう二度と私に知り合い扱いされると思わないで、と言われることになった。街角や日曜のピクニックで逆上した尻軽女が、無礼な奴は「生きている限り、二度と自分に話しかけるな」と叫ぶのと同じである。ローラはこれまでこんな侮辱を受けたことがなかった。そして、同時にはっきりと「生まれてこのかた一度もキスをされたことがない」と公言するダンスパーティーのつまらない女の金切り声を聞くことができた。
どんなに軽んじられようが、どんなに侮辱されようが、それを非難すれば、あるはずの威厳をローラから奪うことになる。ローラの怒りが激しければ激しいほど、この出来事全体が余計に笑い話になった。
しかしローラはそれが腹立たしかった。腹にすえかねた。ランドリー・コートは、自分の人生で最も悲しい日は、相手に抱いていたふりをしていた尊敬を忘れてしまった日だと認めざるを得なくなるべきだった。このとき、ランドリー・コートはずっとローラを欺いていた。ローラが……愚かにも……相手に対する警戒心を少しゆるめて、多少気を許したものだから、こうして相手はそこにつけこんだのだ。まあ、これはこれでいい教訓になるだろう。男なんてそんなものだ。彼女はこうなることを承知していたかもしれない。男は故意に誤解して、彼女の率直さ、人柄の良さ、良好な友人関係を利用することを選んだのだ。
ローラはずっと愚かだった。いちゃついていた……そう、ランドリーやコーセルやジャドウィンとしていたことを言い表すには、いちゃつくがぴったりだった。きっとみんなで自分の品評会でもしていたに違いない。誰が最初に自分にキスをするか、賭けていたのかもしれない。少なくとも、自分がチャンスを与えれば、自分にキスをしない者はいなかっただろう。
しかしいずれにせよ、ランドリーがやったことを非難するにしても、その償いはするつもりだった。ローラは安っぽい態度をとりすぎた。この男たちを調子づかせて、曖昧なことを言い、いちゃいちゃすることに楽しみを見出していた。もうすべてを終わらせて、間違いようがない明確な言葉で各人にお引取りくださいと告げる時期だった。自分は品行方正な子女なのだとローラは自分に言い聞かせた。心は誠実で、いちゃつくなどという安っぽい気晴らしをする者ではなかった。新しい人生のスタートを間違えてしまった。きれいなページで一からやり直すべきなのだ。よもやこの男たちが小指の先ほども自分を自由できると思うことがないように思い知らせるべきだった。
ローラの動揺は激しく、どうしても決めたことを実行に移したかったので、朝まで待てなかった。もう一時間たりとも疑いをまねく状況下に自分の身を置くことはできなかった。もし三人の恋人が自分のことを誤解したままでいる可能性が少しでもあるなら、即刻訂正がなされて、それぞれの立場をわからせてやるべきであり、容赦なく行われねばならなかった。
ローラはメイドのアニーを呼んだ。アニーの夫はこの家の管理を任されており、最上階で寝ていた。
「ヘンリーが寝ていなかったら」ローラは言った。「私が呼ぶまで起きて待っているか、服を着たまま寝るように言って。やってもらいたいことがあるの……大事なことよ」
時刻は真夜中に近かった。ローラは部屋に戻り、帽子とベールを脱いで、コートと一緒にベッドに放り投げた。シャンデリアをもう一つ点けて、窓間の書き物机の前に椅子を引いていった。
最初の手紙はランドリー・コート宛だった。ほとんど一気にそれを書き上げ、彼が帰った直後に書かれたものであることがわかるように、丁寧に日付まで入れた。文面はこうである。
「いついかなる状況であろうと二度と私に会おうとしないでください。これ以上お付き合いを続ける気が私にはないことを、はっきりとご理解いただきたいと思います」
コーセル宛ての手紙はもっと難しかった。二、三度書き直すまで、読んで納得のいくものにならなかった。
「親愛なるコーセル様」と記されていた。「こういう小手試しや言い争いはもうやめにしようと今夜あなたは申しました。私もそうであればいいとあなたに賛同したします。私は先程、あなたがお帰りになる前に、悔やんでも悔みきれないことを衝動的に口にしてしまいました。私はあなたに誤解されたくはありませんし、いかなる形であれ私の態度を誤って解釈されることを望んではおりません。あなたは私に妻になることを求めたわけですが、私は大変愚かにも、不適切にも、前向きと簡単に解釈されかねない答え方を……意図的に……してしまいました。私があなたを愛せるようになる努力をしてほしいわけではないことをご理解いただきたいのです。それに気づいたところで私には不快の極みになるだけです。まったく見込みがないことだと信じてください。もし私があなたの妻になったとしても、今も、この先も、あるべき形であなたをお慕いすることはありません。どうか二度とこの問題に触れることのないようお願いいたします。触れられても私には苦痛にしかなりません。
かしこ
ローラ・ディアボーン
カーティス・ジャドウィン宛ての手紙もほぼ同じ内容だった。しかしローラは、それは他のよりも書きやすいと感じた。宛名を書いているうちに、少しは本気度が増し、少しは威厳と落ち着きが戻ったのを感じた。それは次のようなものだった。
親愛なるジャドウィン様
今夜結婚を申し込まれたとき、率直にお答えすべきところを、 気まぐれにて心にもないお返事をしてしまいました。それを今は後悔しています。それをお許しいただき、なかったことにしていただきたくお願い申し上げます。
私の愚かな言葉に、あなたがその気になるかもしれないと思い、一言申し上げることにしました。自分の自尊心とあなたの誠意に払うべきものを忘れていたことを深く反省しています。
いつかあなたの妻になるという印象を与えてしまったのなら早急に訂正させてください。今夜、私があなたに何を言ったにせよ、私はただちに……その時に答えておくべきでしたが……正直に、躊躇なく、否定しなければなりません。
もし私たちがいい友人であり続けるのであれば、そうあることを願うものですが、この不幸な問題は本文もって二人の間では蒸し返すことがないように願います。
かしこ
ローラ・ディアボーン
ローラは三通の封筒に封をして、切手を貼り、宛名を書いた。そして、机の上にある革製の小さな置き時計に目をやった。もうじき二時だった。
「眠れない、眠れないわ」ローラはつぶやいた。 「手紙が向かっていることを確認しないうちは」
ベルを聞きつけて、ヘンリーが現れた。ただちに最寄りのポストに投函するよう命じてローラは手紙を手渡した。
それが終わると、ローラは再び机に向かい、机に肘をついて、長い間、手で目を覆っていた。ローラはどっとひどい疲れを感じた。ようやく手を下ろしてみると、指が濡れていた。しかし、結局は落ち着きを取り戻した。明日からまた新たな人生の一ページが始まると思った、とにかく自分にそう言い聞かせた。そして、ついに眠りについたときには、夢の這入るすきもない意識が遠のいた心穏やかな状態になった。
翌朝ローラは遅くまで寝ていてベッドで朝食を済ませたのは十時から十一時の間だった。そして、昨夜の興奮の震えがようやく収まると、ごく自然な好奇心が湧き始めた。三人の男たちは「あれをどう受け止めるだろう」と考えた。そして三人が振られた手紙を読むときに、その場に居合わせることができたらと無意識のうちに願わずにはいられなかった。
午後になってすぐ、ローラが書斎で『女王の庭』を読んでいると、ランドリー・コートからの返信が速達で届いた。涙でところどころがふやけてさえいる支離滅裂な手紙だった。ランドリーは異議を述べ、懇願し、自分をぼろかすに卑下した。手紙は感嘆符だらけで、苦痛と絶望の長ったらしい慟哭で終わっていた。
ローラは静かに、情け容赦なく憂さ晴らしに、わざとその手紙を短冊状にし、暖炉で燃やし、ラスキンへと戻った。
しばらくして、午後の快晴の中、ローラは自宅から十五分とかからないリンカーン・パークに出かけ、そこで少し散歩して、新芽がどれくらいたくさん出ているかを確かめた。
出かけるときに、アニーがメッセンジャーによって自宅に届けられたばかりの厚紙の箱を渡してよこした。
箱はジャクミノーのバラでいっぱいで、茎にはコーセルからの手紙が結ばれていた。コーセルほほんの一行しか書いてよこさなかった。
「じゃあ、『さようなら』にしておけばよかったね」
ローラはアニーにバラの花をペイジの部屋に持っていかせた。
「ペイジにあげると伝えて、私はいらないから。今夜のダンスにつけていけばいいわ」ローラは言った。
言うそばから付け加えた。
「公園の小さなつぼみの方がよっぽどきれいよね」
帰り道はずっと歩くことにしたので二時間以上家を留守にした。運動したせいで血色がよく、軽やかな足取りで帰ってきた。頬は湖のそよ風に吹かれて涼しげで、コートの折り返しの片方にカエデの若葉が一枚紛れていた。アニーはローラを家に入れながら、小声で言った。
「お出かけの直後、男性の方が訪ねてまいりました。留守だと言ったのですが、待つとの仰せでしたので、書斎にいらっしゃいます」
「どなた? 名乗らなかったの?」ローラは尋ねた。
メイドはカーティス・ジャドウィンの名刺を差し出した。




