第3章
約一か月後のある月曜日の朝、カーティス・ジャドウィンはルッカリービルのオフィスを出て南下し、すぐ近くの商品取引所のビル一階にあるグレトリー、コンバース社の仲介・委託事業部に向かった。
時刻は九時頃、天気は穏やか、太陽は輝いていた。ラサール・ストリートは、この界隈にごまんとあるブローカーや手数料稼ぎたちのオフィスの入口に詰めかけるたくさんの人でごった返していた。右側のイリノイ信託ビルの柱廊では、事務員、メッセンジャー、ブローカー、クライアント、預金者が、絶えず群がっては散らばった。左側は、商品取引所の正面が通りをふさいでいて、その活況ぶりは驚くほどであり、入口のスイングドアを出入りする人の流れは途絶えなかった。この界隈のすべての生活が、この地点……商品取引所の入口……に集中しているようだった。ラサール・ストリートとジャクソン・ストリートを速やかに流れて、五番街とクラーク・ストリートとディアボーン・ストリートに入り込む小さな流れに出入りする二つの流れは、この地点でぶつかった……一方は流れ込み、もう一方は流れ出た。流れは近いほど、そのスピードは速かった。アダムズから、あるいはモンローから、あるいは遠くのマディソンから、ラサール・ストリートに来る者……その洪水の中のただの漂流物……は、近づくにつれて歩調が速まるようだった。イリノイ信託銀行では歩きが大またになり、ルッカリーでは大またが小走り同然になった。しかしジャクソン・ストリートの角まで来ると、取引所が通りの幅の分しか離れていないため、小走りが駆け足になった。若い衆たちは、石畳のトラックや荷馬車をよけるふりをして全速力で横断し、息を切らしながら取引所の入口に飛び込み、その場の喧騒に巻き込まれ、突然弾き飛ばされるようにして中の暗がりへと消えた。
ジャドウィンはたびたびその光景を目にした。想像力が乏しいなりに、以前から商品取引所の建物には、何か大きな、何か抗えない力が存在していて、それが通りの潮流をつかんで、引き入れたり投げ出したりを繰り返している、と考えていた。その中で、大きな渦が、うなる水流をたくわえた立会場が、回転して轟音をあげて、都市の命脈の潮流を吸い込んだ。何かの巨大な排泄器官の口に入れるように、何かの巨大な下水施設の入口に吸い込んだ。それからまた前へ吐き出し、上にも外にも吐き出し、逆流の渦でとらえて、改めて吸い込んだ。
こうやってそれは幾日も続いた。果てしなく、絶え間なく、凄まじい轟音をあげながら立会場は、その強力な大渦の旋回部を街の水路を使って遠くへと送り出した。中心は大荒れだが、周辺は穏やかで、知らないうちにどんどん巻き込んだ。その流れの勢いはとても穏やかだったので、つられて乗っかってもそこには危険がまったくなさそうに見える気楽なものだった。しかし周辺部は都市に束縛されなかった。立会場の奥深くの流れと回転は、北西部全域で、小麦中心の世界全域で、その動きを感じさせた。そして、それはどんどん、どんどん、広がっていき、やがてアイオワ州西部の倉庫の穀物が、動き、かき回され、その求心力に応えた。ニューヨークの街にいた人々は、その引き波の不思議な引く力が、自分たちの足に絡みつき、体を包み、圧倒して、戸惑わせ、無抵抗に立会場へ引き下がっていくのを感じた。
立会場の遠心力は何ら低下しなかった。いつの間にか出来た渦が、その混乱の中心部から外側へと回り続けたせいで、ヨーロッパ大陸の証券取引所が一ダースほどパニックに陥り、堅固な丘のように手堅い旧世界の銀行の一ダースに激震が走った。内側の流れが急に予想外の回り方をしただけで、遠く離れたどこかの水路が突然干上がり、北イタリアのブドウ農家や西プロイセンの炭鉱労働者の間に飢饉の危機が迫った。かと思えば、別の水路は満杯だった。草原の飢えたロシア農民や、ガンジス川流域の飢餓に苦しむ苦力は急に太って、偶像や聖像の前に感謝の貢物を捧げた。
新世界と旧世界の海の間にある大陸のど真ん中にある国の中心で、人の営みの中心で、立会場が轟音と騒音を響かせた。まるで国民の糧である小麦が、ナイアガラのように巨大で堂々とした大河となって西から東へと流れるうちに、その流れが妨げられたのを知り、突然モスケンの大渦巻きのようにひどく憤慨し、世界の力や、地震や氷河の血を引く原始のエネルギーのように急に混迷を極め、荒れ狂い、その進路を阻む障壁をあえて作った人間どもの何かの危ない手口によって、その力が果敢に挑まれたことに憤激したかのようだった。
クレスラーが小麦の買い占めという考えを笑うのも不思議ではない。ジャクソン・ストリートを渡り、取引所のビルの下層階にあるブローカーのオフィスに向かう途中の今でさえ、ジャドウィンはドアを出入りする人の流れに気を配った。そして、この地を抜けてアイオワの農場やダコタの牧場からヨーロッパの製粉所や製パン所まで流れてゆく小麦の大河のことを思った。
「チャーリーの言うことにも、もしかしたら一理あるかもしれないな」ジャドウィンは独り言を言った。「こんなものを買い占めるなんて……」
グレトリー、コンバース社は、ジャドウィンの希少な投機的取引をいつも手掛けている仲介業者の名前だった。コンバースは死んで随分たったが、会社はまだ創業者の名前を残していた。この会社は取引所の中でも、老舗中の老舗だった。保守的という評判を持ち、「買い方」というよりも「売り方」の企業として知られていた。資産も信用も大きかった。この会社は、地方の顧客や冒険をしたがる小物が、暴落のときに最初に逃げ出し、証拠金の請求に応じることができず、悲惨な取引の責任をブローカーに押し付けることをよく知っていたので、顧客の開拓はしなかった。大口の有力な売り方を贔屓にしていた。つかむ力も噛む力もすごい最強の買い方でさえ引きずり下ろすことができる売り方をである。従って会社は「よそ者」や「一般の客」……つまりは子羊……を相手にしなかった。子羊! 臆病で、お人好しで、弱っちいこういう群れが、ラサール・ストリートにいるのは、豹の檻に子犬がいるように場違いだった。雄牛の買い方も熊の売り方も、子羊にはあまり注意を払わなかった。互いに角と爪とでやりあう死闘では、彼らの死体がころがるあおりを食らうだけで、子羊なんぞは即死するからだった。
ジャドウィンはグレトリーのオフィスには直行せず、代わりに取引所ビルの入口から入って,どれも二階の「立会場」に通じている複数ある階段をのぼり、奥の廊下を使って,グレトリー,コンバース社の客だまりに入った。主だった仲介業者はみんなこのビルの一階にオフィスを構えている。オフィスには入口が二つあって、一つは外の通りに、もう一つは取引所の廊下に通じている。廊下側の入口は大体、その会社の客だまりに直結していた。グレトリー・コンバース社の場合もそうだった。
客だまりに入ると、ジャドウィンは立ち止まって周囲を見回した。
どうしてグレトリーが朝っぱらからこうも熱心に来社を促したのかわからなかったが、ブローカーと話に入る前に小麦の市況を把握しておきたかった。部屋は広かった。笠もなく裸火で燃えているガス灯がなければ真っ暗だっただろう。ドアの反対側の壁は一面がチョーク書きの数字が縦に並ぶ大きな黒板に占められ、頭上で一列に並んだ錫の反射板の下で燃焼しているガスバーナーに照らされた。黒板の前には椅子が何列も置かれ、これといった特徴のない粗末な身なりの連中が座っていた。しょぼい目としけた面をした若いのや老人が、タバコの煙か痰を吐くかして、だらだらと長話をしていた。
シャツ袖口を金具でとめた若い男が、黒板の前の台の上を、歩いて行ったり来たりした。黒板には電信機が設置されていて、時々これがブーンとかカチカチ言うたびに、店の若い者が、特定の株式・債券の頭文字、「豚」、「烏麦」、あるいは他のどれよりも大きな 「五月小麦」などの文字で始まる項目欄の下に、難解でほとんど読めない数字をチョークで書きこんだ。 部屋の空気は、タバコ臭く、こもり、どんよりしていた。物音は、会話の低いぼそぼそ声と、電信機の不規則な打鍵音と、記入者が持つチョークの黒板を叩く音しかなかった。
しかしこの部屋では誰も黒板にこれっぽっちも注意を払おうとはしないようだった。値段は何度も書き換えられた。キーとチョークは休まず音を立てた。椅子に座り込んで部屋を占拠している連中は、何も気にしていないようだった。何人かは背中を向けてさえいた。ある者は膝にハンカチを乗せてメガネを調整し、二日前の新聞を開いて、唇で単語の形を作りながら、覗くように考え込んで読み始めた。この特徴のない連中は自分たちにも理由がわからないままここに集まった。いつも同じ場所で、いつも同じ臭くて火のついていない葉巻を持ち、いつも同じ二日前の擦り切れた新聞を持つ姿が見受けられた。そこで何もしないでぼけっと座っていると、衰える一方の感覚が、取引所の上の階から天井越しにかすかに聞こえてくる立会場の物音に、催眠術でもかけられたようになり、癒やされた。
そのうちの一人、しわくちゃのシルクハットをかぶり、変色して肩の部分が色あせたフロックコートを着て、目のとろんとした、よぼよぼの、汚らしい、かなり高齢の老人に、ジャドウィンは見覚えがあった。古い知り合いであることは思い出したが、わからなかった。老人の顔がはっきりと見えないのだ。照明が悪いうえに、男は顔を背けて座り、震える手でサンドイッチを食べていた。
ジャドウィンは小麦の売価が九十四セントであることを頭に入れて、部屋の陰鬱な雰囲気から抜け出せるのを喜んで立ち去った。
グレトリーはオフィスにおり、ジャドウィンはすぐ部屋に通された。ジャドウィンはブローカーの机のそばの椅子に腰掛け、二人はしばらく雑談をした。グレトリーは大柄で、おっとりとした、人当たりの良い男で、牛のように感情を見せなかった。いつも青いサージの服で、耳の後ろに爪楊枝をはさみ、襟にグランドアーミーのボタンをつけていた。クレスラーとジャドウィンは親しい間柄だった。二人はほぼ同時期にシカゴにやってきて一緒に出世して今のような大金持ちになった。同じクラブに所属し、毎日キンスリーの店でランチを共にし、土曜日の午後はそれぞれの馬で早駆けして追いつ追われつしていた。真夏には二週間仕事を休んで、ウィスコンシン州のジュネーブ湖に釣りに出かけた。
「実はね」ジャドウィンは言った。「さっき、客だまりで老人を見かけたんだ。そしたらハーガスを思い出したよ。ハーガスの一件は覚えているだろ。死ぬ前にやろうとした例の取引さ。あれから何年になる? かれこれ十五年、いや二十年はたつよな」
ジャドウィンが話題に出した取引というのは、取引所でも伝説になっている市場操作……大富豪のハーガスに操作された九月小麦の大掛かりな買い占め……だった。ハーガスは買い占めで三倍にした財産を一年もしないうちに仲間の術中にはまって失ったのである。小麦を二ドル近くまで高騰させ、最盛期は何不自由のない王様の状態だった。それ以来すべての取引は、ハーガスの一件を基準に語られるようになった。相場師たちは口々に「ハーガスの取引みたいなひどい目に遭った」「ハーガスみたいな潰れ方をした」「ハーガスの買い占め並に大がかりだな」と言った。ハーガスは一種の伝説的存在になった。神話になり、英雄になり、巨万の富の栄光の中で神格化したのである。
「軽く二十年はたつな」ジャドウィンは続けた。「今、ハーガスが生き返ったら、近頃のこのビジネスの変わりようを見てさぞかし驚くことだろう。二十年、確かに丸二十年だ。サム、われわれも年をとったよな?」
「きみが向こうで見たのはハーガスだったと思うよ」ブローカーは答えた。「ハーガスは死んじゃいない。シルクハットをかぶって、脂ぎったフロックコートの老人だろ? じゃあ、ハーガスだ」
「何だって!」ジャドウィンは叫んだ。「あのハーガスが?」
「ああ、そうだよ。毎日来てる。店のもんが時々一ドル渡してるよ」
「すると、死んでないのか? あれがハーガスだったのか、あの惨めな、見る影もない……はあー! 考えたくないな、サム!」ジャドウィンはあっけにとられ、しばらく言葉を失って座っていた。
「ああ、まったくだ」ブローカーは厳しい顔でつぶやいた「あれがハーガスだったのさ」
長い沈黙があった。ようやくグレトリーが気を取り直して叫んだ。
「そこで相談したいことがあるんだが」
グレトリーは声を低くした。「きみは私がパリに連絡員を一、二名置いているのを知ってるよね……ブローカーはみんなやってることだし……それにそいつらの正体は秘密でも何でもない。だけど、私はこの半年間、現地の要員を一名余分に配置しておいたんだ、極秘でね。これだけは言っておくけど、そいつは米国大使館の大物ってわけじゃない。まあ、そいつは時々、記者が『特ダネ』って呼ぶものを私宛てに送ることになっている……そのためにそいつを飼ってるわけだからね。その費用で自家用の蒸気ヨットくらい買えちゃうんだぞ。でもね、私がそいつから受け取るニュースは、他の誰よりも一日かそこら早いんだ。そいつは今朝まではあまり重要な情報を送ってこなかった。これが届いたばかりのやつなんだがね」
クレスラーは机の上にあったウナ電を手に取り、読んだ。
「『ユーティカ……本部……改造……有機物……同時……一か月以内』この意味はこうなんだ」グレトリーは付け加えた。「解読したばかりなんだがね」そしてジャドウィンに一枚の紙を渡した。
「外国産穀物の輸入関税を強化する法案が、一か月以内にフランス代議院に提出されることが確実」
「きみはこのことを知ってたかい?」グレトリーは紙を取り戻すとジャドウィンに尋ねた。「これを忘れちまうかい?」グレトリーは紙を丸めて、オフィスの痰壺の中で注意深く燃やした。
「どうだ」グレトリーは言った。「話に乗るか? 我々二人だけよ、ジェイ、それにあのポーテウス一派を真っ青にしてやれると思うんだ」
「うーん!」ジャドウィンは驚いて小さな声をもらした。「これはきみの都合のいいように状況を変えちまうな。でも、実を言うとね、サム、私は前回小さな取引をしてから、投機には手を出すまいと心に決めたんだ。どんどんのめり込んでいくうちに、いつの間にか抜けられなくなるからね……そして抜けたいと思わなくなるんだ。次に鼻をひっかかれるだろ。そしてそれを補おうとして反撃に出る。ただ空回りを連打してバランスを崩し……そして倒れるんだ。私はね、これ以上金を稼ぐ気はないよ、サム。ちょっとした財産を持ってるんだからね。年をとりすぎないうちにそいつを使って楽しみたいんだ」
「しかしね、ジェイ」相手は反論した。「これは投機じゃない。どれくらい確実か自分で確かめればいいさ。私はこの商売にかけては初心者じゃないよな? きみはこのゲームについて私に講義をしようってわけじゃないよな? 言っておくけどね、ジェイ、降って湧く金なんだぞ。これを見込んで小麦を空売りする者は、金を懐に入れたも同然なんだ。なあ、つまらん考えはよしてくれ、もちろんきみは話に乗るよな。私はヘルミック・ショックのずっと前から買い方の連中に狙いを定めていた。ようやく待ちに待ったチャンスを手に入れたんだ。いいか、ジェイ、きみは金を捨てるような男じゃないだろ。売って利益が出ると知ったらオフィスビルを買うだろう。今こそ、売り方圧勝のチャンスなんだ。このニュースが立会場に知れたとたんに価格はどんどん下がるんだぞ。ポーテウスと奴の仲間は、管財人の手から自分たちの身柄を救おうったって一分たりとも守り切れないさ」
「わかってるよ、サム」ジャドウィンは答えた。「問題なのは、私が投機をしたくないんじゃなくて、やりすぎてしまうことなんだ。だから手を出さないと言ったんだよ。お金儲けよりも、ゲームをすることが楽しいのさ。おもしろ半分で、少しずつのめり込んでいって、だんだん大きなものをつぎ込むようになって、逆に大きなものが私をつぎ込んでしまうんだ。なあ、サム、きみが向こうでサンドイッチを食べているあの落ちぶれがハーガスだと言ったとき、私はぞっとしたよ」
「そりゃ、足が震えたろ」グレトリーは言い返した。「私はきみに全財産を危険にさらそうと持ちかけているんじゃないんだぞ。五分の一でも二十分の一でもいいじゃないか? そう頑固になりなさんな、ジェイ、我々は控えめにやってるよな? 自信がないのに私がこんな話をするか? いいか。きみの分、百万ブッシェルを私に売らせてくれ。ああ、今までに手掛けてきた注文よりも大口であることは分かってる。今回は直々に乗り込んでいって立場をひっくり返し、ポーテウスの若造どもをひとひねりして、ブーツからひっぺがして高々と持ち上げたいんだ。午前中に作柄報告が発表される。もし市場在荷が私の想定と同じくらい多ければ、価格は暴落しマーケット全体を混乱させるだろう。できるだけ最高値で空売りしてやるよ。そうすればきみは今から五月末までの間の下落局面でいつでも買い戻すことができるんだ」
ジャドウィンはためらった。いつの間にか自分でもチャンスが来たと感じた。またもや、天性の相場師だけが知っているあの奇妙な第六感、説明のしようがない直感が警告を発した。商売をしていても時々この直感は働いた。この鋭い嗅覚は、このつかみどころのない漠然とした予感は、この虫の知らせは、チャンスをつかめ、さもないとずっと傍らに寄り添っていた幸運がお前を見捨てちまうぞ、と告げた。身の回りの空気の中に、ある種の影響力、突然降って湧いた新しい要素、新しい力の存在を感じた気がした。それは運であり、偉大な力であり、偉大な女神だった。そしてそれは見えないところからいきなり現れたかと思うと、きらきらと輝く翼を羽ばたかせて、あっという間に頭上を通過した。
「これはガラスのように扱わんとな」ブローカーは目を細めて慎重に考えながら言った。「こういう情報は二十四時間後にはみんなに知れ渡っているから、我々に与えられた時間はあまり多くはない。いきなり百万ブッシェル以上ぶん投げて値を崩したくはない。注文はまんべんなく分散させるつもりだ。いいか」グレトリーは付け加えた。「ここが大きなポイントなんだ。我々は強いマーケットで売ることができるだろう。立会場のトレーダーはおかしな戦争の噂を聞きつけて、まるで若いお嬢さま向けの神学校が大きなネズミにびくびくするように噂にびくついてる。それでなくても市場は方向感が定まっていないのに。私はポーティアスにはうんざりしてるんだ。あの連中は相場を異常な高値につり上げている。五月小麦が九十四セントだぞ! まったく馬鹿げてる。八十セント台が相場だ。ちょっとやそっとのことではひっくり返らないだろう。それでだ」グレトリーは突然、ジャドウィンの前に身を乗り出しながら言った。「我々が参入するというのはどうだ? もし、きみの運がまだそっくりそのまま残っているのなら、ジェイ、これは大儲けするチャンスだぞ。金縁の総革装ばりのチャンスがあるんだ。『在荷』は豊富だという発表が我々にもたらすんだ」
ジャドウィンは笑った。「サム、コインで決めるよ」
「おい、よせやい」ブローカーは抗議した。それから突然……この場所で過ごした一生が彼の中で培ったギャンブラー本能が……叫んだ。
「いいだろう。コインで決めよう。でも、必ず守ると約束してくれよ。表なら話に乗る、裏なら乗らない。約束してくれるか?」
「さあ、そいつはどうだかな」ジャドウィンはことの成り行きの馬鹿らしさを面白がって答えた。しかし、彼は親指の爪の上に五十セント銀貨を乗せるとすぐに表が出ることを確信した。コインを宙に弾き飛ばし、回転するのを見ながら、内心思った。「表が出る。それ以外はありえない。きっと表だ」
そして当然のことながらコインは表が出た。
「よし」ジャドウィンは言った。「話に乗ろう」
「百万ブッシェルで?」
「ああ……百万ブッシェルだ。マージンはいくらだい?」
グレトリーは封筒の裏を見ながら少し考えた。
「五万ドルだ」ようやく言った。
ジャドウィンはブローカーの机の隅っこで小切手を書き、すぐに相手の前に置いた。
「さようなら」ジャドウィンは紙切れに向かって言った。「さようならだ。もう二度ときみにお目にかかることはないね」
グレトリーは笑わなかった。
「ふん!」と鼻を鳴らした。「ひと月としないうちに山ほどお目にかかることになるぞ」
同じ日の朝の九時頃、ランドリー・コートは取引所の一階の廊下にいた。グレトリー、コンバース社のオフィスから出て来たばかりだった。彼と他のトレーダーたちはその会社からその日の注文を受けていた。
廊下の突き当たりの売店でリンゴを買っていると、ラサール・ストリートの小さな会社でトレーダーをしているセンプルと、ハーシュという若いユダヤ人が合流した。
「やあ、コート、情報あるかい?」
「やあ、バリー・センプル! やあ、ハーシュ!」 ランドリーは二個目のリンゴを半分ずつ差し出した。三人は階段の登り口近くでしばらく立ち話をしながら、ペンナイフの先にあるリンゴを食べた。
「今朝は何だか調子が悪くてね」センプルはひと口食べて言った。「昨夜は遅くまで鹿狩りに行っていたんだ。僕の友人がちょうどヨーロッパから帰って来たんで、若い連中が集まってそいつにちょっとしたディナーをご馳走してたんだ。そいつが慌ててたよ。この友人ていうのは、コンスタンチノープルにずっといる人で、現地で新聞関係の仕事をしてたんだ。どうもかなりとんでもない提案らしいぞ、トルコとか皇帝とかひっくるめてね。そいつが言うには『ヒギンズ・パシャ』事件を巡って一悶着ありそうで、イギリス公使が皇帝の側近にかなりストレートに提案をしたんだとさ。僕の友人は、コンスタンチノープルを見ていると泥の中にぶちまけらてしまったたくさんのコミックオペラのシーンを思い起こすって言ってたよ。なあ、コート、向こうの街はシカゴの街よりも汚いんだってさ」
「ほお」ハーシュは言った。
「事実だって! それと犬だってさ! 負け犬がくたばったらどこに行くのかを知っているってよ」
「でもさ」ハーシュは言った。「ヒギンズ・パシャの件が何だって言うんだ? とっくの昔に終わったと思ってたんだが」
「ああ、そうだよな」センプルは簡潔に答えて時計を見た。「そろそろ上がる時間だ、もうじき九時半だ」
三人は階段を上って、どんどん増えていく場立ちの集団に混じって同じ方向へ移動を開始した。しかし、途中でハーシュが弟に呼び止められた。
「ねえ、葉巻の箱を持ってきたよ」
ハーシュは立ち止まった。「ああ! どうも」と言って話を再開した。「で、ヒギンズ・パシャの件がどうしたって? イギリス=トルコ間で一悶着あったよな。コンスタンチノープルのイギリス公使が皇帝にかなりストレートな物言いをしたって話は先日僕も聞いたよ」
相手は興味を持った。「そんなことがあったのか?」相手は言った。「でもマーケットは反応しなかったな。影響が全然なかったんだろう。でも、あそこにケリーがいるぞ。あいつなら知ってるさ。ポーテウスの部下と太いパイプがあるから。聞いてみてもいいな」
「聞いたら教えてくれ。僕は立会場へ行くよ。もうすぐ鐘が鳴る時間だ」
ハーシュの弟は、清算係のたまり場の真ん中でケリーを見つけた。
「ねえ、きみなら知ってるだろ。ヒギンズ・パシャの件でイギリスとトルコが揉めて、イギリス外務省が皇帝に最後通牒を突きつけて脅したって話が出てるんだけど、もしそうなら、マーケットに反応が見られるよね」
「わかるもんか」ケリーは言い返した。「でもさぐってみよう……確認だ、念のために」
一方、ランドリーは階段を上りきり、右に曲がって大きな扉をくぐり抜け、取引の会場へ出た。
そこは囲われた広い場所で、両側に色ガラスの大きな窓があって明るく、屋根は精巧な装飾が施された細い鉄柱で支えられていた。左側に掲示板があり、その向こう、フロアの北西の隅には大きな手すりで囲まれたスペースがあり、ウエスタンユニオンの電信機が設置されている。その右側、部屋の反対側には穀物のサンプルを半分ほど入れた紙袋をきれいに並べたテーブルが一列、東側の壁に沿って、端の一般向けの部屋の入口から別の隅の電話室まで、並んでいた。
フロア中央には個別の立会場がある。ランドリーの左側と正面には食糧の立会場、右側にはトウモロコシの立会場があった。 さらにフロアの北端、他の二つよりもはるかに広い見学席のほぼ下、公式記録係の窓口の横に、小麦の立会場があった。
見学席の真向かい、南側の壁の高いところに大きな文字盤があり、その文字盤には、取引所内で生じた変化に応じて変動する小麦の時価を知らせる針があった。現在は、前日の終値である九十三セント八分の三で止まっている。
すべての立会場は、まだ空っぽだった。時刻はおよそ九時十五分。ランドリーは北口近くの手荷物預かり所に帽子とコートを預けて、青い縞模様のフランネル製の古いテニスジャケットに袖を通した。それから帽子はなしで、両手をポケットに入れ、のんびりとフロアを横切り、電信設置場所の前の床に並ぶ椅子の一つに腰を下ろした。手にしていたウナ電と注文書をもう一度よく見て記憶にとどめると、細かくちぎって、部屋の中をぼんやりと眺めながら、午前の作戦を練った。
ある意味で、ランドリー・コートは二重人格だった。ラサール・ストリートの近所を離れてその影響力を受けなくなると、「ぼんくら」で、頭は空っぽで、気が利かず、興奮しやすくなり、重責を担わせるには世界最低の人物だった。しかし取引所周辺の街の喧騒と、何よりも取引する現場そのものの活況と雰囲気は、彼の中にまったく違うランドリー・コートを目覚めさせた。九時半の鐘が鳴ると、まったく新しい神経組織が生まれ、立会場での第一声を受けて、まったく新しい思考回路が活動を始めた。そして、その瞬間から取引が終わるまでの時間、場立ち、ブローカー、サヤ取りは、当日の夜会う約束を間違える同じ若者ほども、用心深くはなく、抜け目なくもなく、冷静に頭を保つこともなかった。ディアボーン姉妹が知っているランドリー・コートは、取引会場の椅子の肘掛けに肘をついてよりかかり、目を細め、唇を引き締めて、午前の流れを予測し始めたこの男とまったく違う青年だった。
そうこうするうちに、フロアはいっぱいになり始めていた。何百台もの電信機が設置されている手すりのあるスペースには、オペレーターが二人三人と集まり始めていた。帽子やアルスターコートを後ろの壁のフックに掛け、リネンのコートかワイシャツのまま自分の席に着き、あるいはテーブルを囲んで、あちこちで冗談や軽口を言い合っていた。そのまま仕事に取りかかる人は数が少なかったが、あちこちで働き者のコオロギが仲間に先駆けて鳴き声を披露するように、キーの断続音が聞こえ始めた。
一階の廊下から南側の扉を通ってトレーダーが続々とやって来た。高いアーチ形の天井から足音が響き始めた。メッセンジャーが聞き取りにくい名前を口にしながらフロアを横断した。
トレーダーたちが次第にトウモロコシと小麦の立会場に集まった。小麦の立会場の階段で、二人の男が膝の上で腕を組んで、一人はシルクのスカルキャップを斜めにかぶって、低い声で熱心に話をしていた。
ランドリーと一緒にグレトリー・コンバース社の注文を処理していたウィンストンという三十五歳くらいの、肩幅の広い、声の低い大男が近づいて来て、挨拶を省いて、わざと時間をかけてゆっくりと言った。
「トルコとイギリスの間の問題はどうなっているんだ?」
しかしランドリーが答える前に、グレトリー社の三人目のトレーダーが二人の話に加わった。これはラスブリッジという青年で、痩せ型で、黒髪、くぼんだ目には絶えず興奮の光が輝いていた。
「ああ」ラスブリッジは叫んだ。「こりぁ何かがあるぞ、何かがな!」
「そんなのどこで聞いたんだい?」ランドリーが尋ねた。
「ああ……どこでも持ちきりだ」ラズブリッジは片腕を漠然と動かした。「ハーシュはすべてを知ってるようだったぞ。地中海艦隊を動員する話があるらしい。僕は知らんけど」
「『インターオーシャン』の記者に聞いてみるか。あいつなら知ってるだろう。今朝、この辺で見かけたな。さもなきゃAP通信に電話してもいい」ランドリーは提案した。「事務方は一言も言ってくれなかったな」
「ああ、APか。あそこはいつも物知りだよな?」ウィンストンが嘲笑した。「実は、電話したんだよ。『噂は確認できなかった』とさ。毎度のことだよ。専用回線や、特別スタッフや、通信社との契約に年間五十万ドルかけられるご身分だからこそ、このフロアにいながらこういうニュースの匂いを最初に嗅ぐことができるんだ。ノースウェスタンの製粉業者が十五万バレルを一気に売ったときのことを憶えてるか? 配信だったか電報が入る三時間も前に、フロアはその話題で持ちきりだったからな。あのとき、APや民放の発表を待っていたらどうなった?」
「ヒギンズ・パシャの一件だよ、きっと」ラズブリッジは目を輝かせて言った。
「今朝、そんな話を聞いたな」ランドリーは答えた。「しかしあれはただの……」
「そうだ! 僕が言ったとおりだろ?」ラズブリッジが口を挟んだ。「どこもそれで持ちきりだって言ったんだ。火のないところに煙は立たない。正午前にイギリス陸軍省が最後通牒を送ったという外電が入っても、僕は少しも驚かないぞ」
そしていつものようにその数分後、トウモロコシの立会場の階段に立っているとウィンストンはあるブローカーから、イギリス陸軍大臣がトルコに最後通牒を突きつけ、トルコとイギリスの外交関係が停止されようとしているという話を聞いた。そのブローカーはその話を、ある「情報筋」から特電を受け取ったばかりの友人から、つかんだという。
一瞬にしてフロア全体が、それ以外の話題をしなくなったようだった。どのグループの末端にいても「税関の差し押さえ」「最後通告」「東方問題」「ヒギンズ・パシャ事件」の言葉を聞くことができた。これがその日の噂だった。まもなくトレーダーは、売り注文の取り消しと、かなりの高値がついても手仕舞うなと指示する多数の電報を受け取るようになった。ブローカーたちは、相場は堅調で買い優勢で始まる見込みであるという電報を依頼主に打ち始めた。
しかし時刻はもうじき九時半になろうとしていた。たくさんの計器がウエスタン・ユニオンのデスクから休むことなくカチカチと歯切れの良い摩擦音を鳴り響かせた。メッセンジャーが、事務員やトレーダーたちの間をくぐり抜け、互いにぶつかり合い、電報を渡す相手の名前を絶えず唱えながら、猛スピードで行き来した。トレーダーたちが立会場に集まった。たくさんのくぐもった声の低いざわめきが潮が満ちるように高まった。
そしてこの時、ランドリーが小麦の立会場の縁に立って、見学者席の下にある電話ボックスの方を眺めていると、クレスラー氏の骨ばった猫背の姿が見えた……彼は投機はしないが、毎朝定期的に取引所に顔を出した……ビル正面側の窓の一つに向かっていくところだった。サンプル台の上の袋から取り出した小麦でポケットがいっぱいだった。窓を開けて、窓台に穀物を撒くと、しばらく立ったまま、窓棚に降りてきて黄色いくちばしを小刻みに、神経質に、気難しそうに動かして、穀物をつついている無数の鳩の羽の眩惑するような羽ばたきを夢中になって食い入るように眺めた。
ランドリーは後ろの壁の文字盤の下にある時計に目をやった。時刻は九時二十五分。小麦の立会場の北側、階段最上部のいつもの場所にランドリーは立っていた。立会場はいっぱいだった。彼の下にも両サイドにも、ブローカー、サヤ取り、トレーダー……ハーシュ、センプル、ケリー、ウィンストン、ラスブリッジ……がいた。侮りがたいリークラフトは自己売買までしていて、立会場の誰よりも五月小麦でロングポジションをとっていた。小物のグロスマンはフランネルのシャツを着たユダヤ人で、彼が叫んだところで誰もこれっぽっちも注意を払わなかった。フェアチャイルド、パターソン、グッドロックは、ポーテウス一派を代表する一枚岩の三人組で、現場で百万ブッシェルの売買するために口を開くとき以外は口を利かない中年の男たちだった。六十五歳のベテランもいれば、十代を卒業したての新人もいるし、中には、昔は一時期立会場全体を支配していたが、今では「小銭を稼ぐ」の役回りに甘んじて、デイトレードの十ドルの利益で満足している連中もいた。一週間後に自分を億万長者にするような計画を今まさに練っている者もいれば、無表情の仮面の下に前日の敗戦の悔しさを隠そうとする者もいた。そして彼らは準備を整え、異常なほど警戒してそこにいた。耳はかすかな音を聞き逃さず、目はライバルの目に少しでも含みはないかと探りを入れ、神経を研ぎ澄まし、最高の緊張状態に調節して、わずかな隙間だろうと深く突け入り、無防備とみればほんの小さな場所にでも容赦なく飛びかかる覚悟だった。薄汚いフランネルのシャツを着た小さなユダヤ人のグロスマンは、不安から来るストレスで汗をかき、合図があるまで沈黙を保つのがやっとで、震える指で口を覆っていた。たくましく頑丈で落ち着いたウィンストンは、両手を後ろに回し、仁王立ちで微動だにせずに待機していた。その目は異常なまでに警戒してケリーを常に見据えていた……彼が何か「おかしなこと」を企んでいると踏んでいた。ポーティアスの三人組……フェアチャイルド、パターソン、グッドロック……は、何の警戒心もなくどっしりと構えて立会場に背を向け、仲間内で談笑していた。
記録係の職員が立会場の隅にある小さな檻の中の高い席にのぼり、後ろ手にドアを閉めた。今ではもうメッセンジャーの唱える声はやまない合唱だった。建物の四方八方から現れて縦横無尽に互いに何度も行き交う彼らは、黄色い封筒を両手いっぱいに抱えていつも走っていた。電話ボックスから、呼び出しの耳障りな曲が延々と鳴り響いた。ウエスタンユニオンのブースでは、たくさんの計器のキーが鳴りっぱなしだった。無帽の若い連中が互いに駆け寄って、瞬時に通信の内容を確認して別れて、一目散に駆け出した。建物の中程のところで、呼び合う男たちがいた。向こうの掲示板のそばで事務員と係員が、農産物着荷高を丁寧に記録し、小麦の輸出入量を書き留めた。
そして、これらすべての音、電信のカチャカチャ、メッセンジャーボーイのぶつぶつ、係員やトレーダーの大声や叫び声、何百人もの足音、電話信号のプルプル音などが、騒然とした空気の中で立ちのぼり、頭上で混ざり合って大音響となり、長く持続し、風通しの良い屋根の天井から天井へと反響し、すべての通用口と開いた窓から、長いごろごろと鳴り止まぬ一つの雷鳴になって出ていった。小麦の立会場で、しびれをきらした競り合いが、散開線で最初に繰り広げられる局地戦のように、続々と始まった。グロスマンが片腕を振り上げて叫んだ。
「売り、五月もの、二十五枚、九十五と八分の一!」その一方でケリーとセンプルはほぼ同時に叫んだ。「買い、五月もの八分の七!」
記録係の職員は部屋の端の時計に目をやりながら、初値を聞き取ろうと身を乗り出していた。時針と分針は直角だった。
その時、突然、立会場の方向感の定まらない盛り上がりを正面からばっさり切り裂くように、大きな鐘が鋭く一度鳴り響いた。たちまち大騒ぎになった。激しいジェスチャーを交えながら腕が振り上げられた。小麦の立会場に群がる数々の頭の上から、指を伸ばしたたくさんの手が威勢よく宙に躍り出た。トレーダーたちが立会場の中心へと押し寄せ、互いにつかみ合い、もがき合い、じたばたして、足を踏み鳴らし、力ずくで分け入ろうとしていると、明瞭に発せられたはずの言葉がすべて一つの爆音に呑み込まれた。直ちに時計の上の大きな文字盤の針が揺れ動いて、まるで立会場の荒ぶる息吹に駆り立てられるかのように、その円周上をどんどん上昇した。針はいったん停止し、動き、ようやく止まった。すぐに、建物中に散らばった何百もの電信機のキーが、大西洋から太平洋、マキナックからメキシコに至るまで全国に、シカゴ市場がわずかに上昇し、前日九十三セント八分の三で引けた五月小麦が、本日九十四セント半で始まったというニュースを発信し始めた。
しかし上昇して始まっても、利食い売りは出なかった。立会場が手持ちの分の一部に九十四セントの値をつけると、凄腕のリークラフトと、ポーテウスの三人組フェアチャイルド、パターソン、グッドロックは、そろって首をかしげた。しかしこの値段は揺るがなかった。グッドロックでさえも九十四セントを提示し始めた。流れががらっと変わりそうになるたびにグロスマンは、槍を投げるようないつもと同じ仕草で、困ったときのいつもと同じ悲嘆の声で、叫んだ。
「売り、五月もの二十五枚、九十五セント四分の一」
グロスマンは五本の指を広げて、自分が売りたい「取引」数もしくは五千ブッシェルという数量を提示した。指一本が一つの「コントラクト」を表していた。
グレトリー・コンバースのトレーダーに突然売り注文が殺到し始めたのはこのときだった。他の各社……テラー&ウェスト、バーバンク社、マティソン&ナイト……までが自分たちの割当分を引き受けた。この動きは説明のつけようがなく不可解だった。強力な買い方が取引を支配し、どうみてもマーケットの堅調が予想されるのに、あえて空売りに乗り出したのは何者だろうか?
ランドリーも売りを委託されたトレーダーの中にいた。彼の注文は、九十四セント以上の上値で三十万ブッシェルを売り払うというものだった。リークラフトなら値をつり上げると確信して、相手から目を離さなかった。しかし結果的に相場を持ち上げたのは、リークラフトではなく、ポーテウスの三人組だった。立会場の中央に立ったパターソンは、突然手を上げて宙をつかむようにして自分の方に引き寄せた……買い手のお決まりの仕草である。
「買い、五月もの、八分の一だ」
ランドリーはすぐに駆け寄った。二十人が「売った」と叫び、同じ人数のトレーダーが腕を伸ばして彼のもとへ駆け寄った。しかしランドリーが彼らの前に立ちはだかった。彼の勢いに押されてパターソンは立会場の中央のスペースの中程まできた。
「売ったぞ、売った」
パターソンがうなずいた。ランドリーが取引を記録すると、文字盤の針が再び動き出し、そしてまた止まった。
しかしこれを境にして立会場の活気はなくなった。商いが低迷した。次第に開始時の緊張が解けていった。しかし、ランドリーは十枚以上の「大口」の売り注文をパターソンに持ちかけることを抑えていた。この後、もう一段の上げがある予感がした。ランドリーは急いで計画を立てた。価格が九十四セント半になったら、さらに五万ブッシェル売ることにした。そして市場の強さを試すために、あちこちに小口の売り注文を出しながら市場の手応えを「感じ」とり、それから市場が十分に強いと感じた瞬間に、市場が壊れる前に一気に十万ブッシェルを売りつけるのだ。ランドリーは、この市場がどう動くか、どう引き締まり、どう崩れるかをほぼ手に取るように感じ取ることができた。マーケットを育て上向かせ安定させる頃合いも、群がる頃合いも、売り込む頃合いも、手荒な扱いに耐えるようになる頃合いもちゃんと心得ていた。
グロスマンは相変わらず時々泣き言を言ったが、誰も聞く素振りすら見せなかった。ポーティアスの三人組とリークラフトは、価格を九十四セント八分の一に安定させたが、それ以上押し上げる気配を見せなかった。丸五分間、取引は記録されなかった。立会場は市場在荷の発表を待っていた。
そして、午前の中だるみの中で、トルコに対するイギリスの最後通牒という馬鹿げた材料は消化されてしまった。噂が立ったときと同じように不可解かつ突然に、今度は消えてしまった。みんながそろってそれを嘲笑しているようだった。イギリスがトルコに宣戦布告! あの冗談はどこへ行った? こんな古い使い回しの戦争騒ぎを始めた馬鹿者は誰なんだ? しかしそれなのに上昇した分の反動はなかった。リークラフトにしろポーテウス一派にしろ相場を支える準備はできていると理解されたようだった。最後通告の話に代わって、予想される報告が「在荷」の減少を示すだろうから相場がさらに一ポイント上がることも十分にあり得る、という観測が広がり始めた。
目先の状況への関心が薄れるにつれて、立会場に詰めている人数が少なくなった。ところどころで人がいなくなった。グロスマンでさえ落胆して、見学席下のベンチに引きこもった。そして立会開始直後の熱い興奮とは打って変わった、悪ふざけがしたい、ただぼーっとしていたいという気分が、残っている連中の中に蔓延した。ポーティアス一派のパターソンはもちろん、凄腕のリークラフト、でんと構えたウィンストンさえも、電報を尖った槍状に折って部屋を横断するように飛ばし、かなり真剣な態度でその飛行ルートを見守ることに、飽きずにすみそうな気晴らしを見出した。見学席にいた人が……休暇で出来てきた西部の農民が……手すりに足を乗せると、会場全体が「ブーツ、ブーツ、ブーツ」と文句を言い始めた。
しばらくして、あるブローカーが電話室の方からフロアを突っ切って小走りにやって来た。息を切らしながら立会場の階段を駆け上がり、肘を激しく動かしてトレーダーをかき分けて進み、大声で競り値を提示した。
「体調が悪いんじゃないか」ハーシュは叫んだ。「ほら、具合が悪いんだ。発作を起こすぞ」ハーシュはブローカーの両腕をつかむと、立会場の中央に連れ出した。他の者たちもその叫び声に応じた。いくつもの手が今来た男を人から人へと押しやった。立会場のトレーダーたちは男を抱きかかえ、ネクタイをゆるめ、帽子を払い除け、その間ずっと声をふりしぼって叫んでいた。「病人だ! 病人が出たぞ!」
他のブローカーやトレーダーもやってきた。この騒ぎを相場が急変したと勘違いして、目をむいて、腕を振って泣き叫びながら、グロスマンが立会場に駆けつけた。
「売りだ、五月もの二十五枚、九十五セント四分の一で」
しかし、人当たりのいい受難者は型崩れした帽子を整えて、再度競り値を繰り返した。
「おい、寝てろよ」ハーシュは強く言った。
「そいつ、ビリー・パターソンと取引したぞ」
「はあ、調子にのりやがって。気をつけろ、そのうち癇癪でも起こすぞ」
この出来事がきっかけで、新しい「いたずら」が始まって随分盛り上がった。トレーダーたちは「ネクタイ反対の会」を結成し、油断している人の慎重に結んだネクタイをずらしながら立会場を回った。グロスマンは 「いたずら小僧の所業」に憤慨し、立会場の中央から退散した。しかし彼が文句を言いながら背を向けてリークラフトの前に立つと、リークラフトは隣人と真面目な会話をしながら、紙製の槍の束を慎重にユダヤ帽の帯の周りに差し込み……笑いをもらさずずっと話を継続したまま……それに火をつけた。
ランドリーはこれまでに、午前の高値は九十四セント八分の一が妥当な数字だと想定して、売り注文を「小出しに」出し始めた。大口の一件以外のすべての注文をさばくまで少しずつ小麦を「空売り」した。
すると突然、切迫した理由は何も見当たらないのに、怒号と絶叫が飛び交う中で、小麦は九十四セント四分の一に跳ね上がった。立会場が息をつく間もないうちに、もう八分の一上昇し、四分の一を突破し、八分の五にまで跳ね上がった。
間違いなく市場在荷報告の影響だった。まだ掲示されてはいなかったが、この突然の変動は、発表が間近に迫っているだけでなく、強気であることを示していた。
しばらくして、このニュースは文字盤下の細長い部屋に掲示され、フロアにいるほとんどすべての人に大変な衝撃を与えた。供給には充分な余裕があり、需要を完全にまかないきれる、とは誰も想像していなかった。マーケットはたちまち反応した。小麦が大量に出回り始めたのだ。ハーシュ、ケリー、グロスマン、リークラフト、ポーカーフェイスのウィンストン、興奮気味のラスブリッジが、懸命に競り合っていた。値段がつき始めた。相場は一気に急落した。大きな文字盤の針は九十三セント八分の七まで下がった。
ランドリーは気が動転した。この値崩れを予測していなかったのだ。この呪われた「在荷」までは計算していなかった。ランドリーはまだ五万ブッシェルもの売り注文をかかえていた。価格がどこまで下がるかわからなかった。ここは迅速に腹を括って行動しなければならなかった。ポーテウス一派を目指してかきわけるように進み、邪魔な小さなユダヤ人グロスマンの肩越しに手を伸ばし、パターソンの顔面すれすれに手を突き出して叫んだ。
「売り、五月もの五十枚、八分の七だ」
これは早朝受け取った数ある不可解な売り注文の最後の一件だった。
相手は首を横に振った。
「売り、五月もの五十枚、四分の三だ」
急にランドリーは何となくもう一段の下げがあるという予感がした。回りの空気からそれが伝わってきた。今後小麦はあふれるという圧力が価格を押し下げていることを肌で感じ取ることができた。ランドリーは必死にパターソンの肩をつかんだ。
「売り、五月もの五十枚、八分の五だ」
「買った」まるで挑戦を受けて立つかように相手は声を張り上げた。
そして、この混乱の中で、この価格の急落の中で、運と黄金の女神は、華麗な翼をきらきらと羽ばたかせて通り過ぎ、グレトリーのオフィスのティッカーが下落を告げるが早いか、取引の覚書がランドリーのカードに記され、カーティス・ジャドウィンは、五月の最終日の正午までに、百万ブッシェルの小麦を取引所の大物の買い方の代理人の手に引き渡す約束をした状態になった。
しかし、もうこの時点で午前の本番は終わっていた。立会場はそのことを知っていた。グロスマンは頑固に一つの考えに凝り固まったまま、立会場の上段隅っこのいつもの場所にずっと立っていた。時々いつもの必死の身振りを交えながら「売り、五月もの二十五枚、九十五セント四分の三」と悲痛な叫び声を上げた。
誰一人、耳を貸さなかった。トレーダーは、互いの顔を覗き込み、自分にもはっきりとわからないことを心待ちにしながら、固唾をのんで立ち尽くした。背を向けた瞬間に何かが「起こりは」しないかと、立会場から離れようとしなかった。
騒ぎは徐々に収まってやみ、再び不規則に始まって、突然静かになった。あちこちで競りが行われた。砲撃の後で小銃の断続音が響くように、価格の交渉が始まった。
「売り、五月もの五枚、八分の一」
「売り、二十枚、四分の一だ」
「買い、五月もの、八分の一で」
一瞬、叫び声が再開した。すると突然、鐘が鳴った。トレーダーたちがゆっくりと立会場を離れ始めた。フロア係員の一人、制服を着てバイザー帽をかぶった老人が現れ、競りや値段の提示をだらだらとまだ続けている連中をそっとドアのほうへ押しやった。男は強い口調で何度も繰り返した。
「取引時間は終わりましたよ、皆さん。さあ、お昼をとっちゃってください。今は昼食の時間ですよ。出て行ってください。さもないと報告しますよ。時間外ですからね」
人の流れが出入口に向かった。見学席では、数少ない訪問者が立ち上がって、上着や外套をひっかけていた。フロアの南口の右側にある手荷物預かり所のそばでは、ブローカーやトレーダーたちが、互いに相手の肩越しに帽子やコートを取ろうともみあっていた。どんどん増えていく人が、途中で取引伝票を事務所に提出して、北口からも南口から流れるように出て行った。
少しずつフロアから人がいなくなった。食糧・穀物の立会場は閑散としていた。喧騒が去ると、メッセンジャーのつぶやきに混じって電信機のたてる音が再び聞こえ始めた。
減り始めた人越しに見る限り、今朝掃除したフロアは隅々にまで、烏麦、小麦、トウモロコシ、大麦などの散乱した穀物、干し草の切れっ端、ピーナツの殻、リンゴやオレンジの皮、破れた新聞、メモやつぶれた紙飛行機の残骸、そして何よりも、無数の足に何千回何万回と踏まれてくしゃくしゃになった数え切れないほどの黄色い電信用紙が散らかっていた。それは戦場の瓦礫であり、戦闘中の軍隊が放棄した装備と壊れた武器であり、引き裂かれ壊され粉砕された戦いの残骸であり、日々の戦闘の終わって戦場を荒廃させるものだった。
そしてついに電信の最後の打鍵音さえも聞こえなくなった。外套を着ながらオペレーターたちはあちこちで声をかけあい、落ち合う約束をしたり、冗談を言い合って出ていった。清掃員が湯気の立つバケツを持って現れた。その前にいる下働きが大きな箒を押しやるようにして、床のごみを山のように集め始めた。
小麦とトウモロコシの立会場の間に、どうみても少年を含む若者の一団が現れた。精算係である。長い帳簿を持っていた。その日の取引を「一つ」にまとめ、取引中に何度も持ち主が変わった小麦の行方を追うのが彼らの仕事だった。「テラー&ウェストに売った小麦」「バーバンク社に売った五月小麦」「マシューソン&ナイトに売った五月烏麦」「グレトリー、コンバース社に売った小麦」という声が、ほとんど無人の部屋の壁から壁へと反響し始めた。
ニッケルと赤い革の犬の首輪をつけた灰色の縞模様の猫が、手荷物預かり所から出てきて、足の踏み場を選ぶような歩き方でフロアを横切った。やたらと人懐っこく愛想を振りまいているようだった。続々と出ていくトレーダーたちが話しかけると、尻尾を持ち上げて空席の椅子の脚にもたれて背中を弓なりにした。守衛が顔を出し、長い棒を使って縦長の色のついた窓を下げてまわった。ハンマーで叩く音とノコギリをかける音が隅っこから聞こえてきた。そこでは大工が二人で見本台をいじっていた。
そして、ついに清算係までがその場を離れた。すぐに深い静寂が訪れた。大工ののこぎりの耳障りな音と、清掃員と冗談を言い合う守衛の声しか遮るものはなかった。遠くの足音が、まるで教会にいるように響いた。
清掃員が石鹸とお湯を自分たちの前に広げながらフロアに進入した。見本台のそばで、シャツ一枚の黒人の下働きが、こぼれて、潰れ、割れ、水浸しになった何ブッシェルもの小麦のすべてをごみ入れの中に履き入れた。
この日の仕事は終わった。時刻は二時をまわった。東側の壁にある大きな文字盤では、歩哨のように針が九十三のところでとまっていた。翌朝まで、その渦が、手中に収めた小麦の大河をも回転させる大きな中心の力が、再び猛威を振るうことはないだろう。
やがて、清掃員、下働き、守衛もいなくなった。完全な静寂が、波乱のない静かな平穏が、この場所を支配した。西側の窓から午後の日差しが、金色の塵の漂う長い平行線となって降り注いだ。物音一つなく、動くものも何もなかった。取引所のフロアは閑散としていた。日の光が一番暖かく降り注ぐひと気のない小麦の立会場の隅っこで独り……空っぽの巨大なフロアに紛れ込んだちっぽけな命……灰色の猫が毛づくろいをしていた。太ももの内側の毛をぺろぺろ舐めながら、はずれるかと思うほど片足を頭上に突き出した。




