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立会場 シカゴ物語  作者: フランク・ノリスの翻訳作品です
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第10章

 

 チャールズ・クレスラーの自殺は六月十日に起こったが、その訃報が、自分の友人が断ち切れなかった誘惑にとうとう負けたという悲惨な話とともに、カーティス・ジャドウィンのもとに届いたのは、十一日の早朝だった。

 

 ジャドウィンとグレトリーは、いつものように一緒にグレトリーのオフィスにいた。そのニュースは、広いガラス窓から差し込んだ日光をもすべて遮断してしまったように思えた。最初の何が何だかわからない恐怖のあとで、二人は言葉を失って座り込み、互いに顔を見合わせた。

 

「何てことだ、何てことだ」まるで瀕死の病に苦しむように、ジャドウィンはうめいた。「彼がクルックスと組んでいただなんて。そんなこと知らなかったぞ……私が彼を殺したようなものだ、サム。そのピストルは私が握ったほうがよかったかもしれないな」ジャドウィンは地団太踏んで拳で額を打ち付けた。「神よ……私の親友よ……チャーリー……チャーリー・クレスラー! サム、私は気が変になりそうだ、もしこれが……もしこれが……」

 

「落ち着け、落ち着くんだ、ジェイ」 ブローカーは、相手の肩に手を置いて警告した。「今日こそ我々は自分の状況をちゃんと把握しておかなきゃならないんだ。考えることが山ほどあるんだからな。チャーリーのことは後で考えよう。今は……今は仕事に徹するぞ。マシューソン&ナイトが証拠金を二万ドル要求してきたんだ」

 

 グレトリーは、デスクにいるジャドウィンの前にその伝票を置いた。

 

「こんなもん、後回しでいいだろ?」ジャドウィンは叫んだ。「今日の午後まで放っておけよ。今は仕事の話なんかできない。キャリーの……クレスラー夫人の……身にもなれ、私は……」

 

「駄目だ」グレトリーは反射的にゆっくりと、ジャドウィンの顔以外のどこかを見ながら答えた。「駄目だ……後回しはよくない。こうして証拠金を求められたら迅速に対応した方がいいと思う。常に証拠金に余裕をもたせて取引した方がいい」

 

 ジャドウィンは周囲を見回した。

 

「なあ」ジャドウィンは叫んだ。「きみの話を聞いたら、人はまるで私がいつ破産してもおかしくない危険な状況にいると思うぞ」

 

 グレトリーは答えなかった。一瞬沈黙があった。ブローカーは代表の視線をとらえて、しばらくはなさなかった。

 

「なあ」グレトリーは答えた。「昨日、立会場でみんながどれだけ大っぴらに売りを浴びせてきたか、きみも見ただろう。我々は買うしかない。価格を維持するために買い続けないとならないんだ。それに見てみろ。派遣した連中からの報告だよ……どれも豊作を示している。我々が高値を維持しているから、いたるところで作付面積が増えてるんだ。トラバースのこれを見てみろよ」……グレトリーは電報を手に取って読んだ。「ダコタ二州における春小麦の予備報告だ。修正されるかもしれないが、総作付面積は千六百万エーカーだぞ。冬小麦の生産州の面積と合わせると四千三百万だ。あるいは昨年よりも四百万エーカー近く多いんだ」

 

「馬鹿げた意見ばかりだ」ジャドウィンは納得せずに叫んだ。「小麦の三分の二は等級がつかないし、ヨーロッパがそのほとんどを引き受けるさ。我々がなすべきことは、うちの人間を立会場に送り込んで、さらに百万、この馬鹿どもが出せる以上の量を買うことだ。出せなくなるまで買うんだ」

 

「それには大金が必要だぞ」ブローカーは言った。「今朝だって、手持ちの金じゃ足りないくらいだ。我々にできることは、売り方が出す分を全部引き受けて、マーケットを支えることだ。奴らが小麦を売って、我々がそれを買わなくなった瞬間に……その瞬間に……きみも知ってるだろう……奴らは列車の単位で小麦を売り浴びせてくるんだからな。そして値崩れが始まって、我々はそれに引きずり込まれるんだ」

 

「今日、大量に小麦を処分できると思うか?」ジャドウィンは言った。

 

 この頃には、持ち分を売り払うことがどうしてもジャドウィンには必要になっていた。彼の「ロングポジション」はものすごく経費がかかり、保険料や倉庫保管料が急速に利益を食い潰していた。かかえている小麦を少しずつ処分しなくてはならなかった。利益を出して処分するために、ジャドウィンは取引時間が終わる直前に立会場に買い注文を殺到させ、その刺激を受けて価格が上昇している間に、値崩れする時間を与えずに素早く売り抜けるという方法をとった。最初、これはうまくいった。しかし、最近では価格を維持するためにどんどん買わねばならず、売り始めた途端に価格が下がり始めた。そのため、今では一ブッシェルを売るために、二ブッシェル買わなくてはならなかった。

 

「今日は大量にさばけそうか?」ジャドウィンは繰り返した。

 

「わからない」グレトリーはゆっくりと考え込むように答えた。「ひょっとしたら……チャンスはあるかもしれないが……。率直に言って、ジェイ、無理だと思う。相場は勢いづいている。それが真相だ。あいつらは、ちょっと前のようには我々を怖がってない。何度も言うようだが、新麦のせいだよ。我々が小麦の値段を吊り上げたから、すべての農家が小麦を植えたんだ。そしてそれを売りつける準備をしている。もちろん、相場をやる連中はそれを知っている。だって、考えてもみろ、どこかしらで刈り入れがあるわけだからな。我々が追い詰めた連中だって、もう少し持ちこたえられれば、農家から欲しいだけ小麦を買えるんだ。それに昨日の政府の報告書では、小麦の作柄は良好な状態とのことだった」

 

「そんなことはない。八十六を少し超えたくらいだったぞ」

 

「十分だろ」グレトリーは言った。 「それだけあれば値崩れして一ドル二十セントまでいくだろう。考えてもみろ、ちょっと前まで一ドル五十セントだったんだぞ」

 

「あと十日もすれば、二ドルになるさ」

 

「我々がどういう状況にいるのかわかってるのか、ジェイ?」ブローカーは険しい顔で言った。「状況がわかってるのか……資金繰りの? この七月の相場を支えるために、用意した資金のほとんどを使ってしまったんだからな。まあ、含み益は数百万になるかもしれないが。一ブッシェル一ドル以上の評価額の小麦が、三、四、五千万ブッシェルもあるからな。しかし、それは売れなければ元も子もない……しかもその小麦のために一日六千ドルも費用がかかっている。なあ、その金はどこから出て来るんだ? きみは我々がやばい状況にいることがわかっていないようだな」グレトリーは腕を振り上げて、頭上の取引会場の方向を指差した。

 

「うちの人間に……ランドリー・コートや他の連中に……買い注文を出せなくなった途端に、あの立会場が我々を切れっ端のように吸い込んでしまうんだからな。売りに出された小麦をすべて買えないと認めた瞬間に我々は破滅するんだ」

 

「じゃあ、買うまでだ」ジャドウィンは歯を食いしばって叫んだ。「あいつらに見せてやる。なあ、我々が欲しいのは金か? きみはパリに電報を打って二百万ブッシェル提示するんだ……相場よりも八セント安くしてね。それとリバプールにもだ。そっちは同じ量を二ペンス下げて出す。見たらすぐに食いつくぞ。それでかなりの金が手に入るだろう。残りはだな、この町にある不動産だ、これは結構いい担保になる」

 

「何だって……不動産の一部まで抵当に入れるのか?」

 

「いや」ジャドウィンはいきなり苛立たしいそうな仕草をして急に立ち上がって叫んだ。「いや、全部抵当に入れる。今日中に、午前中に、やるつもりだ。我々の状況がやばいというのなら、中途半端なことをやってはいられないからな。今日の午後三時までにイリノイ信託にもっと資金を入れておくよ。 明日の朝、商いが始まったら立会場にいる連中に、襲いかかってやる。機関車が衝突したと思うくらいにな。彼らは私を撃退しようとするかな? どうせ私を売り崩そうとするだろう。私が締付けを強めたところで買い戻すことはないだろう! 目にもの見せてやるさ、サム・グレトリー。二日以内に、イングランド銀行でも下げられないほど小麦を高騰させてやる。そして相場が立ち直る前に買い越し分を売り払うんだ。しかも利益をあげてな! もう一度上げてやるぞ。二ドルだ! 何が起こったのかわからないうちに、一気に二ドル五十セントになるんだよ。今までこの連中をもてあそんできたんだ。そろそろ本腰を入れて仕事に取り掛かるぞ」

 

 グレトリーは答えなかった。指の間で鉛筆をくるくると回しながら、机の上の書類をじっと見ていた。一度話し出そうとしたがとりやめた。そしてとうとう振り返った。

 

「わかったよ」グレトリーは気を取り直して言った。「様子を見るとするか」

 

「私はイリノイ信託に行ってくる」ジャドウィンは帽子をかぶりながら言った。「部下が指示を求めてやって来たら、今日は一日マーケットを支えるよう伝えてくれ。もし大量の小麦が出ても買ったほうがいいな。マーケットが一ドル二十セントを切らないようにしろと言ってくれ。戻ったら、一緒に電信に取りかかるとしよう」

 

 その日、ジャドウィンはブローカーに熱く語った計画を実行した。ジャドウィンは所有するすべての不動産に、その資産価値ぎりぎりの抵当権を設定した。ミシガン・ストリートの古い家も、ノースステート・ストリートの「自宅と敷地」さえも抵当に入れられた。いよいよ、大攻勢、最後の大がかりな部隊の配置転換、あらゆる重砲を集中投入するときがきたと感じた。ジャドウィンはシカゴ商品取引所で数多くの作戦を手掛けたが負けたことがなかった。今度も負けないと思った。幸運も黄金の女神もまだ彼の肩をもっていた。ジャドウィンは自分の財産を抵当に入れただけでなく、たくさんの約束手形を発行した。彼の信用は常に揺るぎないものだった。その信用を最大限に利用し、あらゆる方面から自分が遂行している戦争の軍資金を集めた。どんなに大金でも彼をひるませることはできず、どんなに少額でも見過ごされなかった。予備軍や、前線、後方、戦線、小競り合い用の前哨部隊を召集して、ジャドウィンは一大攻撃縦隊を編成した。

 

 金策に翻弄し、現金を確保するためにあらゆる手を尽くしていたジャドウィンが、グレトリーの店の客溜りのいつもの場所で二日前の新聞を読んでいるハーガス老人に出くわしたのは、この同じ日だった。ふとジャドウィンはあることを思いつき、老人をそばに呼び寄せた。「ハーガス」ジャドウィンは言った。「私があなたに渡したお金にぴったりのいい投資先があるんだがどうだい? 銀行よりもいい金利を出せるし、かなり安全だよ。十万ドルを私にまかせないか……金利十パーセントでどうだ」

 

「え……何だって?」老人は訝しげに尋ねた。ジャドウィンは自分の要件を繰り返した。

 

 しかしハーガスは怪しいものを見るように一瞥してそっぽを向いた。

 

「お……俺は金なんか貸さないよ」ハーガスは言った。

 

「おい……馬鹿言うなよ」ジャドウィンは叫んだ。「もっと利息が欲しいのか? お望みなら、十五パーセントにするぞ」

 

「俺は貸さないって」ハーガスは首を振りながら叫んだ。「貸すものは持ち合わしちゃいねえ」と言い残して立ち去った。

 

 頼みの綱が一つだけジャドウィンに残っていた。激しい誘惑にかられたが、それでも妻の金だけは危険に巻き込まないようにした。ローラは自分名義の財産を少し持っていた。ジャドウィンは勝利を確信していたにもかかわらず、ここに助けを求めることにためらいを覚えた。それはプライドの問題だと感じた。女性の助けを借りる気にはなれなかった。

 

 しかしジャドウィンの全財産は今まさに天秤に掛けられていた。これは最後の戦い、究極の企て、最終決戦だった。これまで知っていたどれよりも輝かしく、決定的で、重大な勝利の躍動が、十一日にジャクソン、アダムス、ラサールの各通りを行き来するジャドウィンの胸で打ち震えた。

 

 しかしジャドウィンはその危険を知っていた……その戦いがいかに恐ろしいものになるかを知っていた。その同じ日に一度、仕事に関連したあるささいな出来事が、取引会場の入口近くにまでジャドウィンを連れ出した。ジャドウィンは扉の内側を見ようともしなかったが、立会場の雷鳴を聞かずにはいられなかった。自信に満ちた瞬間だというのに、大勝利が数時間後に迫っているというのに、ジャドウィンは一瞬ひるんだ。その轟音は凄まじかった。渦が再び解き放たれた。大渦までもが再び解き放たれた。そして、瞬く間にその渦巻きのおなじみのうなりがピッチをあげたのが感じられた。その恐ろしい喧騒は、妙にいつもと雰囲気が違うとジャドウィンは思った。まるで新しい雪崩が始まりそうなギシギシと(きし)っている感じだった。ジャドウィンがまだ聞いたことがないもっと深い意味をもつ音、何かの全能で無秩序な力が滑ってずりおちるのをブルドン管がうつろに遠くで奏でているようだった。

 

 あれだ、小麦、小麦! あれがまた始まったのだ。イリノイとアイオワの農場から、カンザスとネブラスカの大放牧場から、中西部の全地域から、高波のように小麦という声がどんどん盛り上がっていた。全能にして、地震と血を分けた兄弟、火山やつむじ風と同年代の、あの巨大な世界的な力、あの大波、国民の糧が、膨張しながら前進していた。

 

 立会場では、すでにその最初の予兆となる渦ができて回っていた。潮流の最初のさざ波でさえ、その心臓に大打撃を与えるとしたら、西から東へ永遠に流れ続けるその大海原そのものが押し寄せた場合、いったいどうなってしまうのだろう? 一瞬、視界が鮮明になった。取引所で怒号をあげ身振り手振りをしているあの男たち、ブローカー、トレーダー、相場師とは何なのだ? 自分が戦う相手はその連中ではなく、宿命的な新麦、小麦だった。グレトリーの言葉で言うなら、まさに大地そのものだった。ジャドウィンが価格を吊り上げたためにかつてないほど作付けしたあの中西部の何百という農民たちとは何なのだろう? 彼らはこれにどう関係したのだろう? 小麦が増えたのには理由があった。需要と供給、これは小麦が従う二大原則だ。ジャドウィンの厚かましさは冒涜同然であり、この原則を勝手に変え、巨人を起こしてしまった。ジャドウィンは自分のちっぽけな人間の手で創造を支配した。するとまさに大地そのものが、偉大なる母が、人間という虫が紡いだ蜘蛛の巣を感じとって、ついに眠りから覚め、母が定めた道を乱す者を見つけて粉砕するために、その全能の力を世界中の溝という溝に注ぎ込んだ。

 

 新麦の流通が始まっていた。新麦の収穫量は手に負えないほど膨大だった。買いきれないほど大量に、どんな戦略も間に合わないほど急速に、出回った。ジャドウィンは立会場の轟音に近い音から、急いで逃げ出した。いや、違う。付きは自分にある。自分はこれまで何度も相場の流れを支配してきた……今度もまた支配してやる。その日が終わり夜が明けた。翌朝九時、ジャドウィンとグレトリーは改めてブローカーのオフィスで会った。

 

 グレトリーはジャドウィンに青ざめた顔を向けた。

 

「今、受け取ったところだ。リバプールとパリに出した電報の返事が届いた。きみも知ってのとおり、私は両方の場所で今まで以上の安値で小麦を売りに出したんだ」

 

「ああ……それで?」

 

「ところが」グレトリーは深刻な面持ちでジャドウィンの目をじっと見すえて答えた。「ほら……買い手がつかない」

 

 ・・・・・・・・・・・・・・

 

 誕生日……六月十三日……朝、ローラが朝食の部屋に降りてくると、そこにはすでにペイジがいた。まだ七時半だというのに、妹は街へ出る身支度を済ませていた。おしゃれな赤い帽子をかぶり、フランス窓のそばに立って外を眺めながら、そわそわともどかしそうに、手袋の指の間を何度も引っぱった。

 

「あら」ローラは自分の席に座ると言った。「ペイジ、今日はどういう風の吹き回しなの?」

 

「ランドリーが来るのよ」ペイジは向き直って腰につけた時計をちらりと見ながら説明した。「商品取引所に連れて行ってくれるのよ……見学席から見物するの。今日はすごい一日になるんですって。ジャドウィンさんは昨夜帰ってきた?」

 

 ローラは何も言わずに首を振った。ローラは、三日間……クレスラー家を訪れたあの恐ろしい日の翌日の晩の一、二時間を除いて……夫を全然見ていない事実を言葉にしたくなかった。

 

「ランドリーが言うにはね」ペイジは続けた。「最近の向こうはひどいもんだそうよ。ラサール・ストリート史上最大の戦いだって言ってるわ。ジャドウィンさんは、何か言ってた? 勝つつもりかしら?」

 

「知らないわ」ローラは低い声で答えた。「私はその辺のことを何も知らないのよ、ペイジ」

 

 ペイジでさえ忘れてしまったのかと思った。ローラは部屋に入って、まずテーブルの自分の席のほうを見た。しかしそこには何もなかった。封筒一通さえなかった。ローラにささやかな記念日を喜んでもらおうとする人は誰もいなかった。ローラはペイジなら覚えているかもしれないと考えていた。しかし妹の次の言葉から、誕生日以外のことに頭がいってしまっていることが判明した。

 

「ローラ」姉の向かいの席に座り、苦労してきちんとナプキンを広げながらペイジは始めた。「ローラ……ランドリーと私はね……その……秋に結婚するんだ」

 

「まあ、ベイジ」ローラは叫んだ。「おめでとう。彼は立派で潔癖な人よ。きっといい旦那さんになると思うわ」

 

 ペイジは大きく息を吸った。

 

「ええ」ペイジは言った。「あなたがそう思ってくれるなら私もうれしいわ。あなたとジャドウィンさんが結婚する前、私は彼が私を好きになるとは思わなかったんだもの。だってずっと……その……」ペイジは変な笑い方をして顔を上げた。「あなたがその気だったらあなたのものだったかもしれないでしょ」

 

「ああ、あれね」ローラは叫んだ。「だって、ランドリーは本当は私なんか好きじゃなかったのよ。いちゃいちゃしてただけなんだから。あなたをよく知るようになったとたんに、私なんかお呼びじゃなくなったもの」

 

「私たち、オーディトリアム・シアター近くのミシガン・アベニューにアパートを借りて住むの」ペイジは言った。「よく話し合ったから、使用人を一人雇って生活するにはどれくらいの費用がかかるかわかったわ。私が最高にすてきなディナーを作ってあげるんだ。彼の好物はもう覚えちゃった。あら、今、来たみたいね」玄関のドアが閉まる音がするとペイジは叫んだ。

 

 ランドリーが切り花の立派な花束とキャンディの箱を持って入ってきた。頬はピンク、ブロンドの髪は輝いていて、すっかり花婿になりきって、ぱりっとしていた。しかし、痩せてしまい、少し疲れ気味で、とろんとした熱っぽい輝きが目に見え隠れした。緊張と興奮が続くせいか神経質の跡が、仕草の一つ一つと、早口になった言葉の端々にうかがえた。

 

「急がなきゃ駄目だよ」ランドリーはペイジに言った。「僕は今朝、何時間も前に向こうに行ってなければならないんだから」

 

「カーティスはどうしてる?」ローラは尋ねた。「最近彼に会った? 順調にやってるのかしら……投機の方だけど?」

 

 ランドリーは匙を投げたような態度をとった。

 

「わからないよ」と答えた。「誰にもわからないと思う。昨日は大変な一日だったんだ。でも、最後には状況をコントロールできたと思う。もう止まらないかと思ったほど、値段をどんどん吊り上げたんだよ。立会場にいた連中がジャドウィンが負けたと思ったのなら、そいつらこそ自分たちの思い違いを知ると思うよ。一時は、僕らの方が奴らを追い込んでいたんだ。しかし、グレトリーさんが立会場にいる僕らに売れと指示を出したものだから、僕らは支えきれなかった。奴らは狼のように僕らに襲いかかってきて、五分後には五セント値下がりさせたんだ。僕らは売るのをやめて、また買わなくてはならなかった。しかし、そのときジャドウィンさんが一気にいったんだ。いやあ、あれは見ものだったな! 僕らは一ドル十五セントで値固めして十八ドル半まで吊り上げた。それから一気に三セント上げて、一ドル十五セントまでどんどん売り叩いたんだ」

 

「でもカーティス自身は大丈夫なの? 元気なの?」ローラは尋ねた。

 

「一度だけ会いましたよ」ランドリーは答えた。「グレトリーさんのオフィスにいたんです。ええ、大丈夫そうでしたよ。もちろん、ぴりぴりしてましたがね。でもグレトリーさんはまるで病人ですよ。憔悴しきってるみたいですね」

 

「出かけたほうがいいわよ」ペイジがテーブルから立ち上がりながら言った。「朝食は済ませたの、ランドリー? コーヒーでもどう?」

 

「ああ、何時間も前にとったよ」ランドリーは答えた。「でもきみの言うとおりだ。出かけたほうがいいね。見学席で座席を確保する気なら、少なくとも三十分前には到着してないといけないな。ご主人に何か伝言はありますか、ジャドウィン夫人?」

 

「幸運を祈ってますと伝えて」ローラは答えた。「それと……そうね、今日が今月の何日か覚えてるか聞いてみて……いや、それは聞かないで。そのことについては何も言わないでね。私の最高の愛を送ります、世界的な大成功を祈ってます、とだけ伝えてください」

 

 ランドリーとペイジがラサール・ストリートの入口に到着したのは九時頃だった。朝は晴れて涼しかった。取引所上空はお日さまが輝き、空は、取引所ビル周辺にこぼれている穀物をエサにしているたくさんの鳩の羽ばたく翼で埋め尽くされた。

 

「クレスラーさんはいつも鳩に餌をあげていた」取引所の向かいの街角で立ち止まったときに、ランドリーが言った。「気の毒になあ……クレスラーさんも……葬式は明日だからね」

 

 ペイジは目を閉じた。

 

「ああ」ペイジはつぶやいた。「ローラがそんな彼をあそこで見つけたと思うと。ああ、私だったら死んじゃうわ。私だったら死んじゃうわよ」

 

「どういうわけか」ランドリーは目にとまどい色を浮かべながら言った。「どういうわけなんだか、ローラはあまり気にしていないようだよ。あんなショックを受けたら病気になるんじゃないかときみなら考えただろうけどね」

 

「ああ! ローラ」ペイジは叫んだ。「最近、ローラのことがわからなくなったわ。まるで石みたいなんだもの……今まであった感情や気持ちを押しつぶしてるみたいだわ。精一杯気丈にしているみたいなのよ……何かのためにね……そして完全に屈することを恐れて、指一本でも気を許すのを恐れてるんだわ。クレスラー家であの朝あったことを話してくれたとき、ローラの声はまるで氷のようだったわ。そして『クレスラーさんは自分で撃ったのよ。書斎で死んでいるのを私が見つけたわ』って言ったの。涙一つ流さないでね。恐ろしく単調な声で話したんだから。ああ!」ペイジが言った。「こんなの全部終わればいいのに。そしたら私たちみんなシカゴから離れられるわ。そして私たちと一緒にジャドウィンさんも連れていくの。昔のような、とても明るくて、思いやりがあって、親切な彼に戻せたらいいんだけどな。あの人は朝から晩までよく冗談を言ってたのよ。まるで実の父親のように、私、あの人のこと慕ってたんだから」

 

 二人は通りを渡った。ランドリーはペイジの腕をつかんで、取引所の一階の廊下に案内した。

 

「さあ、僕のそばから離れないでね」ランドリーは言った。「この辺を通り抜けられないか見てみるよ」

 

 メインフロアに通じている階段はすでに来訪者で混雑していた。ある者は壁際に並んで立ち、またある者は目的もなく行ったり来たりして歩き回り、見るもの聞くもの珍しそうに、ぶらぶらしていた。二人がそばを通り過ぎると、その中の一人、山の高い白い帽子をかぶった紳士が、ランドリーとペイジに向かって首を振った。

 

「たとえ中に入れてくれたとしても、そっちはのぼれないよ」男は言った。「すでにイワシのようにぎゅうぎゅう詰めだからね」

 

 しかし、ランドリーはわかったような顔でうなずいてペイジを安心させた。

 

「見学席にいる案内係に、きみの席を確保するように言ってあるんだ。何とかなると思うよ」

 

 しかし、メインフロアと見学席をつなぐ階段にさしかかると、座席にたどり着けるかどうかさえ怪しくなってきた。壁と手すりに挟まれた階段は人がぎゅうぎゅう詰めだった。シルクハットをかぶった男もいれば、シルクのドレスを着た女もいた。貧民街の荒くれ者もいれば、どこから来たのかわからない派手な服装の女王気取りもいた。しかし、その中に混じって、取引所界隈でいつもぶらぶらしている冴えないみすぼらしい落ちぶれた連中や、来る日も来る日も客溜まりの椅子に座って、古新聞を読み、粗悪な葉巻を吸っている破産者もいた。そして、事務員や簿記係タイプの若者がいた。引きつってくたびれた顔の、熱い疲れた目をした若者たちは、上の方に押しやられ、無言で口をつぐみ、建物内に充満しつつある不明瞭に響く私語にひたすら耳を澄ませていた。

 

 六月十三日の朝、商品取引所、ホール、廊下、オフィス、階段は、すでにどこか恐ろしい感じがして不気味だった。時刻は九時を少し回ったばかりだった。取引はあと三十分しないと始まらないだろうが、もうとっくに渦の低い音と立会場のうなり声はその存在感を示していた。いくつもの渦が集まっていた。大きな流れを作り出す何千もの小さな流れが動き出していた。近隣地区から、何百もの委託業者から、仲介業者から、銀行から、ラサール・ストリートの灰色の高層ビルから、通りそのものから、どんどん流れてきた。遠くからも流れてきた。ミネアポリス、ダルース、ミルウォーキーなど、アメリカ北西部のあらゆる地域からの小さな流れが合流した。南西部からはセントルイス、オマハ、カンザスシティが水嵩を増してくれた。大西洋岸、ニューヨーク、ボストン、フィラデルフィアはその小さな流れを流れに加えてくれた。ロンドン、リバプール、パリ、オデッサは、シカゴに流れ込む大規模な世界的な流れに自分たちの影響力を投入した。そしてその流れは今、商品取引所の小麦の立会場を中心にゆっくりと回り始めた。

 

 ペイジの耳には、建物が振動して奇妙な気味の悪い低音を出しているのが少し不思議だった。ペイジはそれを、遠くで鳴る電信機の打鍵音、暗い片隅でひそひそ交わされる慌ただしい会話の反響、駆け抜ける足音、電話の顫動(せんどう)音、の中で聞いた。こういう音がペイジのあたり一面から聞こえてきた。音は下の階のオフィスからも、ペイジの頭上や左右からも聞こえてきた。ペイジはそういう音に取り囲まれた。音は混ざり合って、一つの長く、くぐもった轟音を作り出し、時間を追うごとに大きくなった。

 

 立会場は活動していた。渦ができ始めていた。その流れる音は遠くで聞こえる嵐の海の音のようだった。

 

 ペイジとランドリーはまだ最後の階段の途中にいた。上も下も人がぎゅうぎゅう詰めで身動きがとれなかった。しかしランドリーは少しずつ道を切り開き、一歩ずつ勝ち進んでいた。それでも気になって仕方がなく、何度も自分の腕時計に目をやった。とうとう言った。

 

「僕は行かなくちゃならない。これ以上いたら取り返しがつかないことになる。僕の名刺を渡しておくね」

 

「じゃあ、ここでお別れね」ペイジは後押しした。「しょうがないものね。私なら大丈夫よ。名刺をちょうだい。見学席の案内係に伝えるわ。あなたが私の席を取ってあるって……そこまで行けたらだけど。もう行ってよ。これ以上ぐずぐずしてちゃ駄目。もしできればだけど、ここにいるから終わったら迎えに来てね。待ってるわ。でも来られなければ、それでもいいわ。自分の面倒くらい自分で見られるから」

 

 ランドリーこれに同意するしかなかった。細かいことを考えている余裕はなかった。ランドリーはペイジと別れた。人ごみの中を散々苦労して引き返し、手すりの向きが変わった踊り場にたどり着くと、ペイジに帽子を振って姿を消した。

 

 十五分が経過した。ペイジは人混みにつかまってしまい、進むことも退くこともできなくなった。二十歩ほど先に、見学席の後列の席が見えた。しかしすでに満席だった。この日、フロアを見物するのは絶望的に思えた。もはやこの人混みから抜け出すことさえできなかった。今いる場所にとどまる以外に何もできなかった。

 

 いたるところから、会話の切れ端や議論の断片が聞こえた。時々耳に入るから、待っている間にペイジは立ち聞きに興じた。

 

「やれやれ」ランドリーが見学席に行こうとしたのをとめようとした山の高い白い帽子の男が言った。「ずいぶん振り回したもんだな。勝っても負けても、彼は善戦したよ」

 

 その相方の、奇妙なガラスのボタンのついたすてきな白いベストを着たメガネの若い男は同意した。ペイジはその男が付け加えるのを聞いた。

 

「大した相場師だよ、あのジャドウィンは」

 

「だが今は、みんなが彼の味方だ」

 

「そうとも言えんさ。もう一戦あるからな。今にわかるよ」

 

「本人を見たことあるか?」

 

「いや、ないよ、立会場には来ないからね……あの手の大物は来ないんだよ」

 

 ペイジの真正面で、二人の女性が延々と談笑を続けた。

 

「でもね」片方が言った。「いいことずくめだわ、ジャドウィンさんは私の義理の姉を……ダビュークに住んでいるんですけどね……お金持ちにしてくれたんですよ。義姉(あね)ったら、ずいぶん前に遊び半分で小麦を買ったんですけど、ジャドウィンさんが義姉の払った額の四倍に吊り上げるまで持ち続けたんですよ。それから売ったわ。そうだ、義姉が建てているすてきな家をご覧になるといいわ。息子さんまで美術を学びにヨーロッパに行ったのよ、すごいでしょ。一年前は旦那の給料以外に一セントもなかったのにね、一セントもよ」

 

「でも正反対の人もいるわ」連れの女がかすれた囁き声で付け加えた。「もしジャドウィンさんが今日負けちゃったら……正直言っちゃうとね、ジュリア、フィリップがどうなるのかわからないのよ」

 

 しかし、ペイジの脇にいる別のグループから発せられた男の低い声が、二人の女性の控えめなおしゃべりをさえぎった。

 

「どうにか乗り切れると思うよ。しかしバーバンク社だからな……まったく! あいつらは信用ならん。この件にかなり深く関わっているんだ。奴らに依存している小さな会社が二、三社あるしな。もしグレトリー・コンバース社が立ち行かなくなれば、バーバンクは確実にポシャっちまうぞ。それにキオカクにある例の銀行だって、これ以上耐えられるもんか。このシカゴで大暴落が起きれば、預金者は一目散に逃げ出すだろうからな」

 

「ふん、ジャドウィンならやり遂げるさ」

 

「そう願いたいもんだよ……まったく! そう願うよ。ところで、お前はどうやって抜け出したんだ?」

 

「俺か! えっへん! おい、いいか、今度、俺が小麦の取引をするときは、お前にも知らせてやっかんな。俺はクルックスを信じてる側にいるんだよ。あいつのグループがやったとおりにやったんだ。ここだけの話な! ジャドウィンは俺にナイフを突きつけ 一万二千ドル奪いやがった。それよりもよお、ほら、見ろよ、あの見学席まで行くんじゃなかったのかよ? これじゃ俺たち、何も見えねえぜ……だがら、おい、聞けって! ほら鐘が鳴った。始まったぞ。さあ、いいから聞いてろよ! ほら、ほら! さあ……聞けよ! こんなの聞いたことあったか……えっ! 見てえなあ……何か見えるとこまでたどり着けたらなあ」

 

 友人は彼の方を向いて、一言言ったが、それは一気に建物を揺るがす突然の大音響の中でかき消された。

 

「おい……何だって?」

 

 相手は耳もとで叫んだ。しかし、それでも友人には聞こえなかった。相手も聞いてはいなかった。階段にいた群衆は、たまらなくなって前の方へ上の方へと押し寄せた。突然、悲鳴が上がった。いさめようとする恐怖に駆られた女の声があがった。

 

「ねえったら……押さないでよ!」

 

「私の腕が! ああ、朦朧としてきた……お願いよ」

 

 連れの男たちは必死に支えた。顔面が紫色になり、肩越しに悪態をついた。

 

「おい、おい、この馬鹿ども、何してるんだ?」

 

「群がるな!」

 

「下がれ、下がれ!」

 

「女性が気絶してるんだぞ。下がれってば! 見物ならそのうちできるだろう。何てこった! どこかにお巡りさんはいないか?」

 

「ほら、ほら! 下がってるぞ……値段が。寄り付きで三セントも下がったってよ」

 

「前代未聞の最悪の事態だ」

 

「何てこった! ジャドウィンがこらえてさえくれればなあ」

 

「あいつに賭けるしかない」

 

「つかむなよ!……おい! なあ、そうやって群がってもお前にいいことはないんだぞ」

 

「後ろの連中のせいだ。俺じゃないよ。なあ、フロアはどうなってるんだ? 小麦だよ、つまり、上がってるのか下がってるのか?」

 

「上がってるってよ。持ち直したってよ、知らんけど。ここでどうわかるってんだ? 俺たちがよ……えっ! また始まったぞ。あーあ! 割れたに違いない。取引所はこの日をおいそれとは忘れないだろうな。ああ、うるさくて考えに集中できないぜ!」

 

「あん中にいなくてよかったよ」

 

 ようやく警官の一団が現れた。警官は全力で階段の一番上まで行き、群衆を押し戻し始めた。その都度、叫んだ。

 

「さっさと行け、階段をあけろ。もう席はないんだからな!」

 

 しかしこのとき、群衆の勢いにつられてもう少しで階段のてっぺんというところにまで運ばれていたペイジは、人混みの中から何とか片腕を抜きだして、ランドリーの名刺をかざした。ちょっとしたごまかしまでした。

 

「通行証ならあるわ。通してくれませんか?」

 

 幸い、警官の一人がその声を聞きつけた。警官は、二百ポンドの体重と、自分が代表する司法当局の威信にかけて、このとてもかわいい少女を救って助けるために奮闘努力した。

 

「お嬢さんに道をあけろ」両肘で道をこじ開けながら警官は怒鳴った。「お嬢さん、こちらへ。ほら下がるだ、早く。このお嬢さんが通るのが見えないのか? さあ、お嬢さん、早くしてください、いつまでもさがらせてはおけませんから」

 

 押し合いへし合いの末、ペイジは、ドレスをくしゃくしゃにし、帽子をひん曲げ、警官が腕をつかんで人混みから引きずり出してくれるまで前に突き進んだ。見学席にたどり着いて深呼吸した。

 

 真鍮のボタンのついた青い制服を着て、ひさし帽をかぶった老人の案内係が近くにいたので、ペイジはランドリーの名刺を差し出した。

 

「はい、うかがってます」男はそれを見てからペイジの耳もとで叫んだ。「コートさんの言ってたメンバーの方ですね。ちょうどいいときに来ました。もう少しで席を解放するところでしたよ」

 

 男は、満席の見学席の列と列の間の混雑した通路を先導して、最前列の空いている席までペイジを案内した。

 

「さあ、全部見えるでしょう」男は手のひらをラッパの形にして声をかけた。「ジャドウィンさんの姪御さんですね。わかってます、わかってます。今日は荒れてますね、お嬢さん。相手はまだ大した成果をあげてませんし、今んとこ、ジャドウィンは持ちこたえてますな。でも、一瞬、相手がジャドウィンさんを敗走させたかと思いましたよ。ご覧なさい……ほら、ほら、一気に持ち直したでしょ。でも、まだしっかり持ちこたえていますよ」

 

 ペイジは席に着くと、前にかがみになって小麦の立会場をのぞき込んだ。

 

 ペイジと別れて人混みを抜けると、ランドリーは長い脚で階段を一気に駆け下り、廊下を抜けて、息を切らしながらグレトリーのプライベートオフィスにたどり着いた。会社の他のトレーダーたちが、八人から十人すでに集まっていた。ランドリーがドアから入ってくると同時に、ブローカー自身が客溜まり側から入ってきた。ジャドウィンはどこにも見当たらなかった。

 

「今日の指示はどういうものですか?」

 

 グレトリーは真っ青だった。取引所での経験が長いにもかかわらず、ランドリーは相手の表情の変化の一つ一つ、手の動きの一つ一つに不安の表れを見てとれた。ブローカーは質問に答える前に部屋を横切って冷水機のところに行き、水を一気に飲み干した。そして、コップを空けると、またいっぱいにして、また唇を湿らせ、それを空けてしまうと今度はゴブレットをいっぱいにした。それを置いたが、もう一度手にとって、満たし、空にし、今度は時間をかけてぐいぐい飲み、今度は少しづつ飲んだ。当人は自分の行動をまったく意識していなかったが、それを見ていたランドリーは心臓が沈むのを感じた。冷静沈着、頭脳明晰、平常心のグレトリーがこうも動揺しているのだから、事態はまさに絶体絶命の瀬戸際にあるに違いなかった。

 

「指示だっけか?」ようやくブローカーは言った。「昨日と同じだ。マーケットを支える……それだけだ。一ドル十五セントを切ってはならない。守りに徹すること。私が指示を出さない限り、攻めに出てはいけない。おそらく最初の数分間は壮絶な売り崩しがあるだろう。きみたちは、一人あたり五十万ブッシェルまで買っていい。それで買い支えられなかったら、それでもなお売りが続いたら……まあ」グレトリーは少し言い淀んだが突然付け加えた。「そうだな、もしきみたちが五十万ドルずつ買ってもなお、まだ大っぴらに売りが続いたら、どうしたらいいか教えておこう。そのときはこれだよ」グレトリーはグループの方を向いて続けた。「これだ……頭を冷やせ……私は今日が正念場だと思ってる。クルックス一味から目を離すなよ。奴らはまた何か企んでいるはずだ。以上だ」

 

 ランドリーと他のグレトリー社のトレーダーたちは、オフィスから急いで取引会場に向かった。ランドリーの心臓は大きくゆっくりと激しく鼓動し、歯は食いしばっていた。すべての神経とすべての繊維組織は、刻一刻と迫りつつある問題に対処するために、引きしめたワイヤーの硬さで緊張した。いよいよ最後の勝負が始まるのだ。これまでこれほどの危機を乗り越えたことはなかった。果たして勝てるだろうか? 冷静でいられるだろうか? 敵対するトレーダーたちが……最も鋭く最も優れた洞察力すら寄せ付けないほど手際よく、意表を突いて……用意して待ち構えている、たくさんの小さな謀略や策略や罠をかわして踏みとどまることができるだろうか? 

 

 鐘は鳴らないのだろうか? 気がついてみれば、ランドリーは小麦の立会場のすぐそばまで来ていた。所狭しとトレーダーが群がっていた。白い顔とキラキラした目の、緊張して荒ぶる群れから放たれる興奮は、まさに心肝を寒からしめ、気勢をそぐものだった。両隣の男たちは支離滅裂なことばかり叫んでいた。そんなものに耳を傾ける者は誰一人おらず、その本人でさえ聞いていなかった。他の連中は無言のまま、痛くなるほど深く爪を噛み、聞こえるほど呼吸を速くして鼻孔を広げたり狭めたりしていた。早朝から建物を揺るがしていたはっきりとしない轟音が周囲に響いた。まだ取引の時間がきていないのに立会場のところどころで競り合う声が飛び交った。立会場を中心とする力が起こした第一陣の巨大な先駆けの渦の中で、足もとの床が回っているようだった。何だかめまいがした。何か、無限の計り知れない力が、その永遠の流れの中を勢いよく押し寄せてきて、その手に握りしめた立会場を揺さぶった。何かが耳を聞こえなくし、目を見えなくし、思考を鈍らせ麻痺させた。それは轟音を伴い、通過するつむじ風で籾殻と塵を撒き散らし、威力は驚異的だった。地震や氷河に並び、無慈悲で、全能で、創造の最初の基本的な苦しみそのもので、攻める手立てがなく、神聖で、人がどうこうできるものではなかった。

 

 取引は始まったのだろうか? 鐘は鳴ったのだろうか? ランドリーにはわからなかった。大きな鐘のでかい音さえろくに聞こえなかった。ランドリーは全力で戦った。しかし、いきなり安定した大地からかっさらわれて、立会場の心臓部、中心へと真っ逆さまに放り込まれた。自分が何をしたのか、わからなかった。自分の周りで何が起こったのか、よくわからなかった。轟音の後に轟音が続き、合流した幾重もの洪水のうなりが、耳を貫いて、頭を貫いて押し寄せてきたことしかわからなかった。あまたの手が自分にしがみついて引き裂いた。そして今度は自分の手が引き裂いてしがみつく番だった。立会場は狂乱状態で、泥酔し、逆上していた。戦い、奪い合い、絶叫が横行し、自分や隣人が何をしたのか知る人は誰一人いなかった。わかったのは、長い間安全だと思われていた支柱が揺らいでいることだけだった。それも徐々に揺らぐのではなく、均等に揺らぐのではなく、恐ろしい下落と、同じように恐ろしい急上昇で揺らいだのだ。今、値を保ったかと思えば、今度は崩れ、また持ち直したかと思えば、再び上昇し、再度豹変し、足もとをすくってその前よりもっと低い深みへと落ち込んだ。公式記録係は為す術もなく持ち場に座っていた。頭上の壁では文字盤の針が、まるで季節風につかまった船のマストのように大きく揺れていた。七月の小麦の値段は、誰も正確な値を知らなかった。その変動はもはや一セント単位ではなく、十セント、十五セント、二十五セント刻みだった。立会場のこっち側では小麦が九十セントで売られ、向こう側では一ドル二十五セントで売られた。

 

 そして、アイオワの農場やカリフォルニアの牧場から東へと……ヨーロッパのパン屋や飢えた民衆の口を目指して、津波のように押し寄せてきて上陸し、計り知れない力を持つ大河のように堤防を決壊させて押しのけて流通する小麦の凄まじい轟音は、その間も、フロアの喧噪に負けまいと、立会場内の踏みつけ合いや叫び声に負けまいと、振動を続けて大きくなるようだった。

 

 ランドリーは、仲間のトレーダーの一人の腕をつかんだ。

 

「どうしよう?」彼は叫んだ。「僕はもう限界まで買っちゃったよ。あれから全然指示がきてないね。マーケットは僕らの手に負えないよ。どうしたらいいんだろう?」

 

「わかんないよ」相手が叫び返した。「俺が知るもんか。俺たちはみんな地獄に落ちたんだ。さっき潰されたみたいだね。もう買い支えるどころじゃないよ……どこかでしくじったんだ。グレトリーは何の連絡も出してこない」

 

 それからランドリーは興奮と本物の恐怖ですっかり取り乱し、この期に及んで自分がどうすればいいのか、ほとんどわかないまま、急にくるっと向きを変え、立会場から飛び出した。帽子もかぶらず、息を切らしてフロアを突っ走り、見物人の間を駆け抜けて、階段を下りて下の廊下に出て、グレトリー・コンバース社に駆け込んだ。

 

 外側のオフィスでは、報道陣と大手の商社の担当者が、社の重役の一人を取り囲んで質問攻めにしていた。

 

「現状を教えてください……こっちの知りたいのはそれだけなんです」

 

「七月の小麦の値段はいくらなんですか?」

 

「ジャドウィンは勝ってるんですか負けてるんですか?」

 

 しかし、相手は匙を投げるような乱暴な仕草で腕を投げ出した。

 

「こっちだって知りませんよ」男は叫んだ。「マーケットは誰にも手がつけられないんです。私の知ってることなら、あなたがたは知ってますよ。これはただ地獄が解き放たれただけですよ、それだけのことです。この先何日も現状は把握できませんね」

 

 ランドリーは駆け込んだ。プライベート・オフィスのドアを開けて中に入り、後ろ手にドアを閉めて叫んだ。

 

「グレトリーさん、どうすればいいんですか? もう注文は出せません」

 

 しかし誰も彼の話に耳を貸さなかった。グレトリーのデスクの周りに集まっていた人の中で振り向く者はいなかった。

 

 ジャドウィンはみんなの真ん中にいた。帽子はかぶらず、顔が真っ青で、目は充血していた。グレトリーが正面にいて、腕に片手を添えていた。グループの残りのメンバーは、現場の主任、大手銀行の頭取、他二名……この大掛かりな買い占めの操作に尽力した腹心……だと判明した。

 

「でも、無理だよ」グレトリーは声を大にして言い続けた。「無理だって、証拠金の請求に応じきれないのがわからないのか? もう勝負はついたんだ。きみはもう無一文だよ」

 

「そんなのは嘘だ!」ランドリーは生涯ずっと、ジャドウィンがこの言葉を叫んだときの声を忘れなかった。「そんなのは嘘っぱちだ! いいか、買い続けるんだ。引き合いがあればすべて引き受けろ。言っておく、我々は昼前には二ドルの大台に乗るからな」

 

「もう注文は上の階まで上がらないよ」グレトリーは言い返した。「なあ、ジェイよ、ここにいる誰にでもいいから聞いてくれ。きみに教えてくれるから」

 

「無駄ですよ、ジャドウィンさん」銀行家は静かに言った。「あなたは二日前に事実上負けたんです」

 

「ジャドウィンさん」主任が懇願した。「頼むから無茶言わないでください。うちの会社は……」

 

 しかしジャドウィンは、どんな訴えにも耳を貸さなかった。グレトリーの手を払いのけた。

 

「きみの会社、きみの会社は……きみは最初から臆病だった。そうか、わかったぞ、わかったからな。きみは私を売ったんだ。クルックスがきみを買収したんだ。私の邪魔だけはしないでくれ」ジャドウィンは怒鳴った。「邪魔するな! 聞いてるか? これからは私ひとりでやっていくよ」

 

「ジェイ、お前……おい……こら」グレトリーは、まだ腕をつかんだままで頼み込んだ。「おい、どこへ行くんだ?」

 

 ジャドウィンの声がラッパのように響いた。

 

「立会場さ」

 

「ここにいろ……待つんだ……ここで。あいつを引き戻すんだ、みんな。あいつは自分の状況がわかってないんだ」

 

「きみが私の注文を出してくれないのなら、私が自分でやるまでだ。立会場に行ってくるよ」

 

「ジェイ、お前、どうかしてるぞ。破産したんだよ……わからないのか?……お前は破産したんだ」

 

「こん畜生め、サム・グレトリー、こうなったのはお前のせいだ」そう言うとカーティス・ジャドウィンはブローカーの顔面をぶん殴った。

 

 グレトリーはその一撃でよろめき、机の(へり)をつかんだ。青白い顔が一瞬真っ赤になった。拳に力が入った。やがて両手は脇に垂れた。

 

「構わん」グレトリーは言った。「行かせてやれ、行かせてやれ。こいつはただの狂人だ」

 

 ジャドウィンは、自分を押さえようとする集団の中で一瞬もがいたが、一気にその拘束を抜け出すと、男たちを片側へ突き飛ばして部屋を飛び出した。

 

 グレトリーは机の前の椅子に座り込んだ。

 

「もうおしまいだ」ぽつんと言った。

 

 便箋を一枚手もとに引き寄せ、震える手で二行ほど書いた。

 

「そいつを」グレトリーはその便箋を主任に渡しながら言った。「そいつを取引所の事務方に渡してくれ」

 

 そして「大物の買い方」はまっすぐ、立会場の喧騒と混乱の中へ、彼がたくさんの勝利を飾った舞台へ、敵が何度も敗走し、彼が紛れもない敵に後ろを見せない勝利者であり続けた戦場へ、乗り込んだ。ジャドウィンがフロアの入口に足を踏み入れたとたんに、そのニュースは瞬く間に口伝てで広がった。見物人がそれを知り、ラウンジの人とウエスタンユニオン関係者がそれを知り、電話ボックスにいた連中がそれを知り、そして最後に、この男自身が解き放った力によって引き裂かれ、翻弄され、ばらばらにされた小麦の立会場までもがそれを知った。そして知った者は、うろたえて立ち尽くした。

 

 この期に及んでもジャドウィンの力はとても強大で支配力は絶大だった。彼が植え付けた恐怖はとても深く浸透していたので、自ら手がけた大勝負で最後にとったこの行動、この予想外な本人直々の市場介入は、敵の一番手強い相手の心胆をも寒からしめた。

 

 ジャドウィン本人だ、あの大物だ、この立会場きっての「大物の買い方」だ! 何が起ころうとしているのだろう? 彼の敗北を期待するのは早過ぎたのだろうか? 彼は何か秘密の思いがけない作戦を準備していたのだろうか? みんなは一瞬ためらった。それから共通の衝動に駆られて動いた。新麦の豊作という後ろ盾を感じながら、最後の攻撃のために一致団結して再び小麦を売り出した。いわば全国の収穫が商品取引所のフロアにぶちまけられたので、何十万ブッシェル単位の売りが出た。

 

 ジャドウィンは今、混乱の最中にいた。雪崩のような小麦が、堤防の決壊した海のような小麦が、嵐が鞭打つように顔面を襲った。

 

 ジャドウィンは今その音を聞いた。他に何も聞こえなかった。小麦がジャドウィンの支配を断ち切ったのだ。何か月もの間、ジャドウィンは自分の腕一本でそれを抑えていた。しかし今、それは途方もない大波が盛り上がるように大きくなった。それはどんどん高くなり一瞬行き場を失って動きをとめた。それから、混沌とした世界をすりつぶさんとするような凄まじい音をあげて、立会場を突き抜けてジャドウィンを素通りして、東へ東へと、飢えた国々へと向かった。

 

 そして、その時の重圧と猛威に圧倒されて、ジャドウィンの頭の中で何かが折れた。目の奥の暗闇が、突然、白い閃光に貫かれた。ここ数か月の奇妙な不安と発作的な小さないらいらは、一挙にはっきりしない漠然とした危険な状態の中で頂点に達した。すべての活動の車輪も歯車も一つを除いて力が尽きて止まってしまった。その複雑な機械の機能が一つだけしぶとかった。しかしその動きには、人間の組織をばらばらにしてしまいそうな小刻みな振動が伴い、その一方で振動の周期はすっかりおなじみの恐ろしいリズムを奏でた。

 

「小麦……小麦……小麦、小麦……小麦……小麦」

 

 ジャドウィンはがむしゃらになって小麦の激流と戦った。立会場の真ん中で、自分を破滅させようと吠えている続々と現れる狼に囲まれて襲われながらも、足を踏ん張ってしっかりと立ち、頭を上げ、手を、かつては立会場全体を手中に収めていたあの大きなごつごつした手を、受けて立つとばかりに空中に高らかとかかげた。一縷の望みにかけた突撃を鼓舞するラッパのように大きな彼の声が、敵の喧騒に負けじと、何度も響き渡った。

 

「七月物、一ドルだ……七月物、一ドル!」

 

 みんなは一斉にジャドウィンに飛びついた。仲間のトレーダーたちは脇に追いやられた。ランドリーだけだった。ランドリーだけは、グレトリーのオフィスから飛び出してからずっとジャドウィンのそばを離れなかった。ランドリー・コートだけが最後まで忠実な彼に残された唯一の兵士であり、青ざめ、震え、喉に嗚咽をこらえ、必死でジャドウィンにしがみついていた。小麦の大波はもう一つ待ち構えていた。この二人は……敗軍の将と側近の若い鎧持ちは……それが迫るのを耳でとらえた。それは威嚇し、荒れ狂い、怒号をあげながら、二人めがけて殺到した。ランドリーが叫び声を上げた。生身の人間ではこの緊張には耐えられなかったかもしれない。まるで実際の物理的な力を防ぐかのように、肩をすくめ、片方の腕で頭をかばい、上官のそばでうずくまった。

 

 しかし、ジャドウィンは最後まで鉄のようにまっすぐ立ったままだった。自分が何をしたのかわからないまま、ジャドウィンはランドリーの手を握った。若者は自分の指が鋼鉄の万力が締め付けるように握られるのを感じた。もう一方の手は、軍旗を掲げるかのようにまだ空中にあった。ジャドウィンの立派な深みのある声が、あくまで戦い抜くことを宣言しながら喧騒の向こう側にまで響き渡った。

 

「七月物、一ドル……七月物、一ドル!」

 

 しかし、ランドリーは少しずつ、立会場の喧騒が収まりつつあることに気がついた。叫び声が突然途絶えた。沈静化する中で、フロアのどこかから「静粛に……静粛に、静粛に願います、みなさん」と叫ぶ声が聞こえた。

 

 その叫び声は何度もあがった。この訴えに応えてすぐに収まりはしても、一定のトレーダーたちが勝手に自分の注文を叫び出してまた騒ぎ始めると、また新たにあがるしかないからだ。しかし、最後には立会場の古株たちが、多少自制心を取り戻して、「静粛に、静粛に」を繰り返しながら人混みを行き来するこの言葉に従った。

 

 やがて、立会場が、商品取引所のフロア全体が、一斉に静かになった。緊張が一気に解け、激しいもみ合いや足の踏みつけ合いは収まった。ランドリーは戸惑い、上官の手を握ったまま周囲を見回した。そのフロア、しかもすぐ近くに、商品取引所の所長、副所長、重役が勢ぞろいしていた。静粛にするようトレーダーたちに声をかけていたのは、明らかに彼らだった。しかし、立会場とこのフロアにいるたくさんの人間が今、目を向けているのは彼らの方角ではなかった。

 

 見学席の向かいの南壁にある小さな桟敷に、黒いロングコートを着た背の高い物々しい人物、商品取引所の事務方がいた。ランドリーは他のトレーダーたちと一緒にその男を見た。男が手すりの端に進み、小麦の立会場を凝視した。その手には紙を一枚持っていた。

 

 やがて、その深い沈黙が続く中、事務方は発表した。

 

「グレトリー・コンバース社との取引は直ちに終了してください」

 

 その言葉は、小麦の立会場に群がる大勢の人からあがった歓喜と勝利のけたたましい絶叫に迎えられるまで、天井の高いアーチの中で反響をやめなかった。

 

 倒した、ついに倒したぞ、大物の買い方を! つぶしたぞ! 買い占めは頓挫した! ジャドウィンが倒れた! みんなが救われた、救われた、救われたぞ! 歓声に次ぐ歓声、絶叫に次ぐ絶叫。帽子が宙を舞った。喜びに浮かれ、みんなは立会場の隅で踊り、跳び、はしゃぎ回った、互いに腕を組み、互いに握手を交わし、緊張した声がかすれて聞こえなくなるまで歓声を上げ、万歳を唱えた。

 

 古株の中には抗議する者がいて、叫び声があがった。

 

「恥を知れ、恥を!」

 

「大人しくしろ……放っといてやれよ」

 

「放っておけって、奴はもう負けたんだ。恥を知れ、恥を!」

 

 しかし歓喜は抑えられなかった。彼らは容赦なく搾り取られたのだ。そればかりではない。牡牛の異名もある買い方の蹄の重さと、尖角の鋭さをひしひしと感じていたのだ。今ようやく、彼らはジャドウィンを打ち負かし、引きずり下ろしたのだ。

 

「ヤッホー、ヤッホー、やっつけた、やっつけた、やっつけた。へ、へ、へ、だ。ほら、虎が行くぞ!」

 

「行きましょう。さあ、ジャドウィンさん、行きますよ」

 

 ランドリーは両手でジャドウィンの腕をつかみ、耳もとに口を近づけ、暴徒の叫び声に負けないように自分の声が聞こえるようにして頼んでいた。

 

 ジャドウィンはもう黙っていた。もう見ても聞いてもいないようだった。物憂げに、つらそうに、若者の肩にもたれかかった。

 

「行きましょう……お願いですから!」

 

 トレーダーたちは、場所を譲りながらも歓声を上げ、目をそらしながらも喜びを露わにし、自分たちにとっては救いを意味するその破産者を見ようとはせず、二人に道を譲った。

 

「ヤッホー、ヤッホー、破産だ 破産だ!」

 

 ランドリーはジャドウィンに腕を回して、立会場から連れ出す間しっかり抱きしめた。嗚咽がまた喉にこみ上げた。興奮と悲しみと怒りと無力感に満ちた涙が頬を伝い落ちた。

 

「ヤッホー、ヤッホー、奴はおしまいだ、破産だ、破産だ!」

 

「うせやがれ」ランドリーは怒りの拳を振り上げて叫んだ。「うせろ、お前ら、こん畜生ども! 一週間前なら彼が指一本あげただけで、お前たちは必死に逃げたんだろうが」

 

 しかし、歓声はそんなランドリーの声をかき消した。二人が立会場のあるフロアから外に出ると、取引終了の鐘が鳴った。まるでそれがカーティス・ジャドウィンの相場師としてのキャリアの終焉を告げる明確な終止符を打ったかのようだった。

 

 ランドリーは敗れた隊長を連れて、フロアを横切って通用口へ向かった。ジャドウィンは茫然自失で、何も見ず、何も聞いていなかった。ランドリーの導く腕に大人しく身を委ねた。見学席の観客は身を乗り出して、ジャドウィンが通り過ぎるのを見送った。フロア中から、見物人、取り巻き、トウモロコシや食糧担当のトレーダー、メッセンジャー、事務員、記録係たちが詰めかけて、その大物の買い方が数々の勝利を飾って一度の完敗を味わった舞台から、ついに退場する姿を見送った。

 

 静まり返る中、みんなは彼が通り過ぎるのを見送った。ただ立会場がある方角の遠くの方からは、かろうじて歓声が聞こえてきた。しかし通用口には、人が一人立っていた。ランドリーはすぐに気がついた……小柄な男、顔は痩せ、服装は整い、きれいに髭を剃った唇は締めた現金行嚢の口のようにすぼまっていて、いつもと変わらず冷静で、冷淡で、興奮とは無縁な……カルヴィン・クルックスその人だった。

 

 そして、ジャドウィンが通り過ぎるときに、ランドリーはその売り方の中心人物が言うのを聞いた。

 

「今は思いっきり喜んでいるかもしれないが、別にあいつらの手柄じゃない。彼を打ち負かしたのは小麦そのものだ。どんな人間が集まったところでこればかりはなしえなかった……せいぜい喜ぶがいいさ、馬鹿どもめが! 彼は我々の誰よりも大きな男だった」

 

 鐘が鳴り、見学席の群衆が一斉に出口に向かうと、ペイジは立ち上がり、長い息をつき、火照った頬を両手で一瞬押さえた。起きたことをすべて見ていたが、理解できていなかった。午前中のすべてが、渦のようにめまぐるしく霞のように不明瞭だった。三時間の間、ただ叫んでもがいていただけの連中の押し合いへし合いを見下ろしていた。ペイジはジャドウィンが立会場に入っていくのを見た。するとほぼ同時に叫び声が歓声に変わった。ジャドウィンが興奮した連中を喜ばせるようなことを何かしたに違いないと思った。彼らはみんな彼の友だちなんだと疑いもしなかった。みんなが彼に喝采をおくっていた……彼の成功を喜んでいた。あの時、彼は勝ったのだ! それなのに、グレトリーさんとの取引は直ちに中止せよとの発表が向かいの桟敷席からあった。それには不吉な響きがあった。あるいは、ただの一時的な停止措置だったのかもしれない。

 

 帰っていく見物人と一緒に階段を下りていくとき、ペイジは後ろで男の声が叫ぶのをはっきりと聞いた。

 

「まあ、あいつもこれで懲りただろう!」

 

 結局、ジャドウィンさんは午前中、いくらか損をしたのかもしれない。ペイジはどうしてもランドリーを見つけて、何が起きたのか本当のところを知りたいと思った。最後の見物人がいなくなった後もしばらくペイジは見学席の階段のふもとに居残り、ランドリーが迎えに来てくれるのを心待ちにしていた。しかしその姿を全然見かけなかった。抜け出せるときだけ迎えに来てと言ってしまったことをすぐに思い出した。今、彼は手が離せないほど忙しいに違いない。たとえジャドウィンさんが勝ったのだとしても、午前の仕事は明らかにものすごく重要なものだった。今日は、小麦の相場師にとってとても大きな一日だった。ランドリーが拘束されるのも無理はなかった。ペイジは何があったのかをすべて知るのを明日会うまで待つつもりだった。

 

 ペイジは帰宅した。ノース・アベニューの家のダイニングルームに入ったとき、ランチタイムはだいぶ過ぎていた。

 

「姉はどこ?」テーブルにつくとペイジはメイドに尋ねた。「もうランチは済ませたのかしら?」

 

 しかし、ジャドウィン夫人は、ランチはいらない、頭痛がするから部屋にいる、と言いつけたようだった。

 

 ペイジは急いでチョコレートとサラダをたいらげて、濃い紅茶を用意させ、自分でローラの「居間」まで運んだ。

 

 ローラは長いティーガウンを着て、マデイラチェアに腰掛け、両手を頭の後ろで組んで、何もせずに窓の外を眺めているようだった。いつもより青白く、ペイジの印象では何かに心を奪われ、何とも定かではないが緊張し気が立っているように見えた。朝ランドリーに言ったように、ペイジはこのところ姉がぴりぴりして殻にこもりがちなのに気づいていた。しかし今日はそれがかつてないほど顕著だった。きっとローラに何かがあったのだ。ローラはまるで、すべてを運に任せ、他には一切目もくれず、全力で感情を抑え、その一方でその成り行きを見守っているようだった。ペイジは、姉の悩みはジャドウィンが仕事にかかりっきりでいるからだと推測したが、黙っていることにした。普通、若い娘は「自分のことは自分でする」ものだし、ローラは悩みを打ち明けるような女性ではなかった。一度だけ、ペイジはでしゃばって姉の問題に立ち入ったことがあった。その結果は、二度と余計なお節介を焼くものか、だった。銀のマッチ箱の一件以来、ペイジは姉と距離を置いていた。

 

 このときローラは、ペイジが運んできたお茶を飲むのを断った。何もする気にならなかったのだ。頭が少し痛いので、横になって静かにしていたいだけだと言った。

 

「午前中はずっと商品取引所に行ってたのよ」ペイジは言った。

 

 ローラはすばやくペイジに目をやって見すえ、すぐに尋ねた。

 

「カーティスには会った?」

 

「いいえ……でも、一度、フロアに現れたわ。ああ、ローラ、今朝はとても興奮したのよ。何か重要なことが起きたのはわかったわ。ずっとそんな状態が続くとは信じられないけど、ジャドウィンさんは大損したんじゃないかしら。後ろで誰かがそう言うのを聞いたのよ。でも私じゃ何が起こっているのか理解できなかったわ。ランドリーの仕事でもあるから、小麦の取引について詳しくなろうと何か月も努力してきたんだけど、今日のことは全然わからなかったわ」

 

「カーティスは今夜戻るって言ってた?」

 

「さあ、わからないわ。だって会って話したわけじゃないから」

 

「どうして会わなかったのよ、ペイジ?」

 

「ねえ、ローラ、怒らないでよ。どんな騒ぎになってるか知らないでしょ。私だってランドリーに会おうとしなかったんだから」

 

「忙しそうだったの?」

 

「誰が、ランドリーが? だって私……」

 

「違うわよ、カーティスよ」

 

「ああ、それもそうよね。あのね、ローラ、正直に言うけど、小麦は下落したのよ……そう、下落。みんなが言うには、それってジャドウィンさんにはとても大変なことなんですって。そしてどんどん下落したのよ。私にはそう見えたわ。それってジャドウィンさんが大損害を被るってことじゃないの? でもずっと見てたら、ランドリーがとても勇敢で度胸があるように見えたわ。まあ、そう感じてはいたけどね。いっそ私も立会場に乗り込んでいって一緒に立っていたかったわ」

 

 ローラはいらだちと怒りのつっけんどんな仕草をして、叫びながら跳び上がった。

 

「小麦のことなんか……こんな惨めなお金の奪い合いなんか、私はどうでもいいのよ。カーティスは忙しかったんでしょ? そう見えたの?」

 

 ペイジはうなずいた。「みんながそうだったわ」そして思い切って言った。

 

「心配ないわよ、ローラ。だって、男性って時間の大半を仕事につぎ込まないといけないんだから。ランドリーだって私と一緒に帰って来られなかったけど、私は気にしなかったわ」

 

「ああ……ランドリーね」ローラはつぶやいた。

 

 すぐに、ペイジはつんとして目をぱちぱちさせた。

 

「こんなことを言うのは何だけど」ペイジは背筋を伸ばして座り直して叫んだ。「これだけは言えるわ、ローラ・ジャドウィン。もしあなたがもう少し小麦に……あなたの旦那さんの仕事に、気を配っていたら……もしあなたが旦那さんの仕事にもっと関心を持っていたら、もっと彼の人生に入り込んで、彼の助けになっていたら……そして……心を通わせて……」自分のむきになった大胆な態度に少し困惑して、ペイジは息を呑んだ。しかし、これだけは言わせてもらおうと、無謀にも突っ走った。「考えてみてよ。旦那さんがラサール・ストリートで命がけの戦いを繰り広げているかもしれないのに、あなたはそれについて何も知らない……いや、知りたがらないのよ。『小麦のことなんてどうでもいい』って言ったわよね。まあ、私だって小麦なんかどうでもいいわ、小麦はね、でもランドリーが携わっているの、彼の仕事なのよ。正しかろうが間違っていようが……」ペイジは拳を固く握りしめ、顔を真っ赤にして、頭を持ち上げて、跳ぶように立ち上がった。「正しかろうが間違っていようが、良かろうが悪かろうが、私ならこの二つの手を火の中に入れてでも彼の手助けをするわ」

 

「そんなのあなた……」ローラは言いかけたが、ペイジは口を挟ませなかった。「そして、もし彼が時々私を独りにしたら」ペイジは言った。「私だって悲しい顔をすると思うし、自分の悩みばかり考えるわよ。でも彼にも自分の悩みがあるんだと思うわ。もし私の夫が戦いに行ったとして、夫が家に私を残したからって、あなたは私が落ち込んだり、嘆いたりすると思うの、しないわよ、私なら。私は夫が剣を装備するのを手伝うわ。 そして私のところに戻ってきたって、どんなに寂しかったか話したりしないわ。夫のお世話をして傷を嘆いて、勇気を出してって言うわ……そして……そして……夫の助けになるわ」

 

 そして言うだけ言うと、ペイジは目に涙を浮かべ、喉をむせさせ、部屋を飛び出し、後ろ手に激しくドアを閉めた。

 

 ローラの最初の感覚は、怒りしかなかった。いつものように、妹はまたしても姉を裁こうとし、よりによって今日という日を選んで気持ちを逆なでした。ローラは閉まったドアを一瞬見つめてから、立ち上がって顔を上げた。自分が正しいのだ。ペイジも、夫も、みんなが、間違っているのだ。自分はないがしろにされ、無視されていたのだ。部屋を端から端まで二、三度歩いてから、ソファに身を投げ出し、頬杖をついた。

 

 しかし、部屋を横切ったときに、前日に受け取ったクレスラー夫人からの開封済みの手紙が目にとまった。葬儀の日付を知らせてきたものだ。それを見たとき、あの悲劇がまた脳裏にぱっと浮かんで記憶がよみがえった。空想の中でローラは再びクレスラー家の奥の応接間に立っていた。悲鳴をあげまいとして指が口をふさぎ、突然の死の恐怖と戦慄が胸を引き裂き、頭を揺さぶった。あの恐ろしい瞬間から、哀悼と、弔慰と、自分のそばから親友が永遠にいなくなった辛い悲しみに混じって、恐怖が何度も何度もよみがえった。やがて、決心が自ずと固まり、ローラは意を決して自分からその悲劇を遠ざけた。他にも……ローラにとっては……もっと重大な事が起ころうとしていた。愛が試されるとき、人生のすべてのものは、死そのものさえも、道を譲らねばならない。生も死も小さなものだ。愛さえあればいい。夫のキャリアなど潰れてしまえばいい。愛だけが辛い目にあって勝った戦いから生まれたものに、何の意味があるのだろう? そして今、ローラは長椅子に横たわりながら、自分が発見した最後の光景の哀れな惨状に対するすべてのやりきれなさを押しつぶし、もう一度夫と自分のことを考えた。クレスラー家で目撃した光景のショックと、このところ続いていた緊張状態が、繊細な女性の神経を傷つけて混乱させたものだから、一種のヒステリーがローラの衝動や言動に弾みをつけて動かしたのだろうか? ローラには知る由もなかった。ローラにわかるのは、その日が続いていることと、夫が自分に寄り付かず、連絡も寄越さないことだけだった。

 

 たとえ夫が多忙だったとしても、今日は自分の誕生日だった……にもかかわらず何百万という金まで失ったとは! 夫は、つまらない小さなプレゼントさえ、電話一本さえ……手短に要件を記した紙切れさえ、送れなかったのだろうか? しかしローラは自分を抑えた。今日はまだ終わってはいない。もしかしたら、ひょっとしたら、午後が終わる前に、思い出すかもしれない。きっと、私のためにちょっとしたサプライズを用意しているのだ。夫は今日が何の日か知っているのだから。日曜日に喫煙室で二人で話したのだから忘れはしまい。その上、私のものだと約束した夜なのだ。「もしあなたが私を愛しているのなら」とまで言っておいたのだから、さすがに今夜は私のものにしてくれるだろう。この呪文をかけたのだから、さすがにカーティスでも私を裏切らないだろう。

 

 ローラは今夜、ちょっとしたディナーを計画していた。ディナーは八時の予定だった。ペイジはもっと早く済ませてしまうだろう。出席者は自分と夫だけになる手筈だった。だって自分の誕生日のディナーなのだから。雑音や騒音はことごとく締め出されるべきだ。立会場のかすかな物音一つ立ち入るべきではない。私が夫を独り占めするのだ。私を愛するあまり、夫は他のことなんかみんな忘れてしまうだろう、とローラは決めつけた。かつてないほど美しくなろう……華麗に、太刀打ちできないほど、まばゆいほどに。私の魅力にひれ伏せさせてやろう。私のものなのだ。私の手が私のものであるのと同じくらいに、また私のものになるのだ。そして、私が夫をやめさせようとしなくても、夫の方から、私からたびたび夫を奪った金融街の戦いを永遠にずっと放棄してくれるだろう。立会場に入り浸るなどもってのほかだった。あの大きな渦巻きが、愛の力に勝るなど二度とあってはならないのだ。

 

 確かに、ローラは苦しんだ。ないがしろにされた女の屈辱を知ったのだ。しかしそれももう終わりだ。ローラのプライドは二度と傷つけられることはないし、ローラの愛情は二度と無視されることはないだろう。

 

 しかし午後が過ぎ、ジャドウィンからは何の連絡もなく夕方になった。不安をよそに、呼び鈴が鳴らないかと耳を澄ませながら部屋をうろうろする間にローラは何度もつぶやいた。

 

「あの人はきっと連絡をくれる、連絡してくれるわ。私にはわかるんだから」

 

 四時にはもうドレスの支度を始めていた。これほどすばらしく、これほど念入りに、化粧をしたことはなかった。この大切な夜は「扮装」などもってのほかだ。「テオドラ」でも「ジュリエット」でも「カルメン」でも駄目だ。こればかりはただのローラ・ジャドウィン……芝居のキャラクターの助けを借りたり、光り物で飾りたてたりしない、ただの自分であるべきだ。しかし、その場に応じた一番美しいドレスを選んで、自分の持つあらゆる魅力に包まれたすてきな自分になることには一貫性があった。ドレスは、ローラの起伏の乏しい体の平らな曲線をぴたっと覆い、細い腕と首を露にして黒い鱗が玉虫のように輝き、動くたびに光が波打つデザインだった。黒髪をカールさせてまとめたところに二つの立派な真珠のカボションを固定して、首には真珠とダイヤモンドの手のひら幅のネックレスをつけた。片方の肩で、ロイヤルレッドの立派なジャクミノーが一房うなだれた。

 

 ようやくメイドをさがらせたのは六時に近かった。一人残されたローラは、頭から足の先まで映る長い鏡の前にしばらく立って、その姿に笑みを浮かべ、つい誇らしげに頭を上げてしまうのを我慢できなかった。ローラの中のすべての女性の部分が、自分の美貌の力を意識して、身繕いを済ませてめかしこんだ。もう金融街の戦いにぎゃーぎゃー言わせないし、立会場の誘引にも猛威を振るわせない、イブが勝つのだ。ヴィーナスは獲物をとらえたのだ。

 

 アメリカの女性たちを……仕事が自分の夫をどんどん引き離すことを見過ごし、一日の労働の激務とストレスの後に残った残骸……すさんだ心、疲れ切った肉体、過労で鈍った能力……で満足することを強いられた悲惨な状況を甘受している他の女性たちを……ローラは気の毒に思った。自分ほどの輝きがなく、魅力に欠ける彼女たちは、自分の夫を呼び戻すことができなかった。しかし、彼女、ローラは美しかった。ローラはそれを知っていた。自分の美しさを誇りにした。それはローラの強さだった。戦士が精巧に作られた武器に対して感じるように、ローラはそれに誇りを感じた。

 

 そして今夜、ローラの美しさはかつてないほど輝いていた。それがローラを女王にしている本物の光輪だった。ローラは自分が無敵であることを知っていた。だから、ジャドウィンがこの自分を見さえすれば自分が征服することを知っていた。いよいよ、そのジャドウィンが来るのだ。「もしあなたが私を愛しているのなら」とローラは言っておいた。ジャドウィンはローラへの愛にかけて約束した。相手は愛しているのだから、ローラは自分が勝つとわかっていた。

 

 そしてついに、黄昏のどこかから、ローラ自身の心の底知れぬ最深部から、疑念の最初の震えが起こった。ペイジがずけずけ言った肉親であるがゆえの一言が今になって揺れ動いた。結局これは愛だろうか? 自分が大事にして、求めるものは愛だろうか、それとも自己愛だろうか? ペイジの話があってからずっとローラはこの考えが頭をもたげるのを阻んでいたようだった。しかしそれは少しずつ表面に出てきた。一瞬にせよ、それはついにローラと対峙したようだった。

 

 結局、これは夫を取り戻す正しい方法なのだろうか? 美貌を見せつけ、ドレスをひけらかし、自分を売り込むことが? 

 

 自分本位だろうか。自分は最初からわがままだっただろうか? 夫の仕事にどんな関心を持って向き合っただろうか?「正しかろうが間違っていようが、良かろうが悪かろうが、私ならこの二つの手を火の中に入れてでも彼を助けるわ」これが普通の向き合い方なのだろうか? これが唯一の手段なのだろうか? 夫は自分のもとに戻るだろうか? 夫を取り戻すためにもっと必要なものがあったとしたら何だろう? ああ、かつて自分は、愛とは、女性の人生の最高の勝利とは、勝利というよりは降伏だ、と言うことができた。自分はこれを理想にして人生を築いてきただろうか? 果たして自分は今日、この理想を信じていただろうか? この残酷な自己崇拝は、自分をどこへ導いてしまったのだろう? 

 

 ローラ・ジャドウィンは、自分の小さな世界についての、まったく新しい考え方をぼんやりと見すえ、理解し始めた。自分の中に新しいものが誕生したのは、今夜ではなかった。それはイメージに過ぎなかった……自分の内側のどこかに、自分ではない新しい要素、新しい力が感じられた。

 

 ローラの中の女性部分はあまりにも複雑であり、性格を織りなす繊維がとても複雑に入り組んで成熟していたので、突然革命があったくらいでねじれて新しい形に変貌を遂げることはなかった。しかし、一日が終わるのが確実なように、夜の次に新しい一日がくるのが確実なように、考えがローラの中でできあがった。今夜、何をしようが、何が起ころうが、どんな危機を乗り越えようが、もうこれまでどおりにはいかないだろう。自分は二人いる、とローラはよく自分に言い聞かせてきた。ところが、ほら、見るがいい、ローラは三番目を見つけたようだ。三番目は、他の二人の上に立ち、他の二人を忘れ、何かの美しく神秘的な方法で、自分を無視する自分だった。

 

 しかしその変化は突然のものではなかった。かなり漠然とした形で、思い至ったのである。ゆっくり、ゆっくり、変化するのだろう……革命ではなく進化なのだ。完成まであと数年かかるだろう。今夜の自分は……何なのだろう? 弱くて、感情に左右されてしまう、衝動的な、自分の想像の世界に入り込んで人生を危うくしてしまうただの女だ。

 

 しかしそうしているうちにも、時間は過ぎていた。ローラは書斎に下りて、本を手に取り、読書をしようと思いたった。六時になると、慌てて、もちろん時間ぴったりに来るとは限らない、と自分に言い聞かせた。まあ、大目に見てやらなくてはならない……ペイジが気にかけていたように……今日は多分重要な一日だったのだ。少し遅れはするだろうが、もうじき来るだろう。「もし私を愛しているのなら、来るわよ」と言っておいたのだから。

 

 しかし一時間後、ローラは唇を固く閉じ、頬を火照らせながら部屋を歩き回っていた。ずっと独りだった。自分の一日が、自分の時間が、過ぎていった。ジャドウィンは連絡一つ寄越さなかった。すぐに考えが浮んだ。もしかしたら大きな問題を抱えているのではないか、とんでもない窮地に陥っているのではないか、何か事情ができたのではないか。しかし即座にその考えを否定した。

 

「いやよ、いや」ローラは息を殺して叫ぶように言った。「何があっても来るべきよ。さもなきゃ、せめて、連絡くらいくれてもよさそうなものだわ」

 

 数分が過ぎた。馬車寄せに車輪の音一つ響かず、外のステップに足音一つ聞こえなかった。家も外の通りも静かだった。真夏の夜の静寂が、広大な波一つないプールのように、ローラの周りに途切れずに広がっていた。通りの隅から隅まで、グレゴリオ聖歌を歌うように夕刊の号外を叫んで回る新聞配達の声だけが、時折、聞こえてきた。ローラはまたもひとりぼっちだった。また失敗するのだろうか? これまでもたびたびそうだったように、またもや脇に追いやられるのだろうか……脇に追いやられ、無視され、忘れられてしまうのだろうか?「もし私を愛しているのなら」と言っておいたのに。

 

 そして、これは最終テストになるはずだった。今夜はジャドウィンの人生に大きな影響力を持つのはどちらかを決めることになっていた……愛が最も重要かどうかを証明することになっていた。今が正念場だった。「知ってるはずなのに」ローラは叫んだ。「知ってるくせに。忘れてないのに、忘れるはずがないのに」

 

 三十分が過ぎ、一時間が過ぎた。マントルピースの上の時計が八時を告げたとき、ローラは床の真ん中で突然硬直したように立ち止まった。

 

 怒りがローラの中で火のように燃え上がった。ないがしろにされた女のすべての激情が、頭から足の先までを揺さぶった。まさに勝利の瞬間に、プライドが高まるだけ高まったところで、馬鹿にされたのだ! それも今回に限ったことではない。これまでに味わった失望、冷遇、屈辱が一気にまた脳裏によみがえった。何度頼んでもあっさり拒絶された。すべてを捧げても無視された……ローラは、他の女性よりも美しく、愛を知り、献身的に奉仕し、幼い少女時代から誰よりも思いやりがあったのに、捨てられたのだ。

 

 急に頭を低くして、じっと耳を澄ませた。そして、大きく息を吸い込んでつぶやいた。「やっと、やっと帰って来た!」

 

 前庭を歩く足音がはっきりと聞こえた。やはり来たのだ。それにしても遅い、遅過ぎる! 駄目だ、ローラはすぐには優しくなれなかった。この私をどんなに深く傷つけたのか、思い知らせてやらねばならない。謙虚に、平身低頭して、許しを請わねばならないのだ。玄関に向かう途中の廊下に、使用人の足音が響いた。

 

「私ならここよ、マシュー」ローラは声をかけた。「書斎にいるわ。ここにいると伝えてちょうだい」

 

 ローラは手もとの鏡で自分の姿をちらっと見て、手際よく指で髪をならし、額の乱れを直し、暖炉の近くの深い椅子に腰を下ろして、本を開いてドアの方に背中を向けた。

 

 人が入ってくる音を聞きつけたが、動かなかった。床を横切ったときでさえ、顔をそむけたままだった。足音はすぐそばで止まった。一瞬静かになった。やがて本を置きながら、ローラはゆっくりと振り返って相手と向き合った。

 

「お誕生日おめでとうございます」シェルドン・コーセルはそう言って、濃い青のスミレの花束をローラに手渡した。

 

 ローラは手を頬に当て、目を大きく見開いて輝かせながら、すくっと立ち上がった。

 

「あなた?」と言うだけで精一杯だった。「あなたがどうして?」

 

 テーブルに花束を置くときにアーティストは微笑んだ。「僕は明日またいなくなるものでね」コーセルは言った。「永遠の別れになると思う。驚かしちゃったかな? お別れを言いに来ただけだよ……それと、誕生日をお祝いしたくてね」

 

「まあ、覚えていてくれたのね!」ローラは叫んだ。「あなたは覚えていてくれたのね! あなたなら覚えていてくれると自分でもわかっていたのかもしれないわ」

 

 しかしその反動は大きすぎた。結局、自分は間違っていた。ジャドウィンは忘れてしまったのだ。名前のわからない感情がローラの胸の中で膨らみ、一気に、あえぐようなむせびが喉を上がってきた。たちまち涙があふれ出た。古い衝動が、忘れていた衝動が、ローラを襲った。

 

「ああ、覚えていてくれた。あなたは覚えていてくれた!」ローラは両手を広げながら再び叫んだ。

 

 コーセルはそれを自分の手でつかんだ。

 

「覚えているとも!」コーセルは繰り返した。「僕は忘れたことがない」

 

「いいえ、そうじゃなくって」ローラは首を振り、まばたきで涙を払いながら答えた。「あなたはわかっていないわ。私ったらよく考えないで喋っちゃったわね。あなたはわかっていないのよ」

 

「わかってるって、僕を信じて、ね」コーセルは叫んだ。「きみが自分を理解する以上に僕はきみのことを理解しているよ」

 

 ローラの答えは泣き声だった。

 

「ああ、それなら、どうして私を放ったらかしにしたのよ?……私を理解してるはずのあなたが? 私が行けと言ったくらいで、どうして行っちゃうのよ? あのとき、どうして私があなたを愛するように仕向けなかったのよ? どうして、私が自分を理解できるようにしてくれなかったのよ」ローラは胸もとで両手を強く握りしめた。閉ざした口から嗚咽に引き裂かれた言葉が、しどろもどろに飛び出した。「駄目よ、駄目!」コーセルが向かってくるのを受けてローラは叫んだ。「私に触らないで! 触らないでよ! もう手遅れなんだから」

 

「遅すぎることはない。聞いてくれ……僕の話を聞けって」

 

「ああ、あなたは女性の弱さを知る強い男性じゃなかったの? 今のあなたは私を苦しめることしかできないわ。ああ、あなたなんか嫌い! 大嫌いよ!」

 

「きみは僕を愛してるんだ! 言ったろ、きみは僕を愛してるんだ!」コーセルは興奮して叫んだ。ローラはいつの間にかコーセルの腕の中にいた。コーセルの唇が唇に触れ、肩や首筋にも触れた。

 

「きみは僕を愛してる!」コーセルは叫んだ。「愛してるんだ! 愛してないなんて言わせないぞ」

 

「じゃあ、私にあなたを愛させてよ」ローラは答えた。「あなたが私を愛してるってことを私に信じさせてよ」

 

「知らないのかい?」コーセルは叫んだ。「僕がどんなにきみを愛してきたのか、きみは知らないのかい? ああ、最初からだよ! 僕の愛は僕の人生であり、僕の死であり、僕の唯一の喜びであり、僕の唯一の苦しみだった。それはいつも大切なきみだった、何年も片時も欠かさずにだ。そして今、僕は再びきみを見つけた。もう絶対にきみを手放すものか」

 

「駄目よ、駄目! ああ、やめて、やめて!」ローラは懇願した。「お願いよ。私は弱いんだから。言葉だけでいいわ。そして私はすべてを忘れるわ」

 

「どうせ僕がその言葉を言ったところで、きみは心にもない答えを返すんだ。そして忘れてしまうんだ……きみの人生の不幸のすべてをね……」

 

「お願い、お願いよ」ローラは息を切らしながら頼んだ。そして思い切って言った。「ああ、愛してる、愛してるわ!」

 

「……自分の不幸をすべて忘れるんだ」コーセルはローラをぎゅっと抱きしめながら続けた。「僕たち二人が犯した大きな過ちを忘れるんだ。何もかも、何もかも、僕らが愛し合っていること以外すべてを忘れてしまうんだ」

 

「じゃあ、私に考えさせないで」ローラは叫んだ。「考えさせないでよ。すべてを忘れさせてよ。今日までに過ぎたどんな小さな時間も、どんな小さな瞬間も。ああ、もし一度でも思い出したら、あなたを殺すからね。この手で殺してやるわ!  自分でも何を言ってるのかわからないわ」ローラは呻いた。「私ったら何を言ってるのかしら。気が狂ったんだわ。そうよ……私……きっとそうに違いないわ」ローラは目をぱっちりと見開いて相手の顔をのぞき込みながら突き放した。

 

「私ったら何を言ったのかしら、私たちは何をしたのかしら、あなたはどうしてここにいるの?」

 

「きみをさらうためさ」コーセルはローラを抱きしめ、目をのぞき込みながら優しく答えた。「僕と一緒に遠くへ行くためだよ。これまできみが不幸だったことを忘れさせるために、僕の人生をすべて捧げるためだよ」

 

「じゃあ、私を絶対に独りにしないわね……一度でも?」

 

「絶対にしないよ、一度でも」

 

 ぼんやりと部屋を見回しながら、指でドレスのレースを引き寄せて破るほどの勢いで、ローラはコーセルから体を引き離した。声が小さな子供の声のように、か弱く小さくなった。

 

「わ……私は一人でいるのが怖いのよ。ああ、生きている限り、二度と一人になってはいけないんだわ。きっと死んじゃうと思う」

 

「じゃあ、二度と一人にはしないよ、二度とね。ああ、今日は僕の誕生日でもあるね。僕は今夜生まれ変わったんだ」

 

 ローラはコーセルの腕にしがみついた。まるで暗闇にいるような、少女時代の漠然とした恐怖に包まれているようだった。「そしていつも私を愛してくれる?」ローラはささやいた。「シェルドン、シェルドン、いつも、いつも、心から、魂から、力の限り、私を愛して」

 

 答えるとき、涙がコーセルの目にあふれた。

 

「神よ、あなたをこの道に導いた者を……何者をも、お許しください」コーセルは言った。

 

 そして、その思いが実現したかのように、突然、馬車寄せの下のアスファルトに車輪が転がる音と、蹄鉄の踏みつける音が二人の耳に届いた。

 

「きみの旦那さんかな?」コーセルのすばしっこい目は、ローラの乱れた髪形、首の低い位置に垂れた黒髪、つぶれてくしゃくしゃになった肩のバラ、片方の頬にやけに明るい部分があることを見て取った。

 

「あれは旦那さん?」

 

「私の旦那さん……そんなもの知るもんですか」ローラはぼんやりとコーセルを見上げた。「いったい私の夫はどこにいるのよ? 私に夫なんかいないわ。あなたったら余計なこと思い出させているわよ」ローラは恐怖にかられて叫んだ。「あなたのせいで思い出しちゃったじゃない。ああ、違うんだわ、あなたは私を愛してないのよ! あなたなんか嫌い!」

 

 コーセルはすかさず身をかがめ、ローラにキスをした。

 

「明日の晩に迎えに来るよ」コーセルは言った。「それまでに僕と行く準備ができるよね?」

 

「それまでに準備? ええ、いいわ、どこへでもあなたと行くわ」

 

 コーセルは耳を澄ませてしばらくじっと立っていた。どこかでドアが閉まった。アスファルトを踏む蹄の音がまた聞こえた。

 

「さようなら」コーセルはささやいた。「神のご加護があらんことを! 明日の夜までさようならだ」と言葉を残してコーセルは帰った。家の玄関のドアが静かに閉まった。

 

 また戻ってきたのだろうか? 書斎のドアのそばに重たそうな足音がすると、ローラは長いソファに座ったまま振り返った。

 

 そのとき、ふらふらした手が重たいカーテンを引いた。夫のジャドウィンが前に立っていた。目は眼窩に深く沈み、顔は死人のように白く、手は震えていた。しばらく部屋の真ん中に突っ立ってローラを見ていた。ようやく唇が動いた。

 

「奥さん……お前」

 

 ローラは立ち上がった。手で探し求めるようにして夫の方へ向かった。心臓がどきどきして、涙が頬を伝った。

 

「あなた、あなた!」

 

 二人は一緒にソファまで行き、互いに抱き合い、夜の子供のように震えて怯えながら、沈み込むようにして並んで座った。

 

「ローラ」しばらくしてジャドウィンはささやいた。「ローラ、暗いよ、暗いんだ。何かがあったんだが……。覚えていないんだ」ジャドウィンは頼りなさそうに頭に手を乗せた。「よく思い出せないんだ。でも暗いな……少し」

 

「暗いわね」ローラは低いささやき声で繰り返した。「真っ暗、真っ暗だもの。何かあったのよ。きっと。思い出してはいけないことが」

 

 二人はそれ以上話さなかった。長い時間が過ぎた。身を寄せ合うようにして、カーティス・ジャドウィンとその妻は、だだっ広い豪華な部屋に座り、無言で、打ち震え、得体の知れない恐怖に襲われ、暗闇の中で求め合っていた。

 

 そして、二人がこうして互いに抱き合っている間にも、長ったらしい叫び声が突然通りから上がって、星空と暗闇の広い天蓋の下の街中を駆け巡った。

 

「号外、おーい、号外だよ!小麦買い占め失敗のすべてだよ! カーティス・ジャドウィンの破産のすべてだよ!」

  

 

 

 

 

 

 

 結び

  

 

 

 

 

 

 夕方は霧雨だった。一日中、冷たい風が湖畔から街を吹き抜けた。八時にローラとジャドウィンがすっかり片付いた書斎に下りてきたときは、豪雨になっていた。

 

 部屋を横切るときに、ローラはジャドウィンに腕を貸した。カーペットの敷かれていない板に、二人の足音が異様に響いた。

 

「ほら、あなた」ローラは言った。「鞄を貸して。そこの荷造り用の箱にでも座ったら。疲れた? 帽子をかぶったほうがいいわね。ここは風がスースーするから。もう家具もカーテンもみんななくなっちゃたわね」

 

「いいってば。私なら大丈夫だよ、奥さん。馬車はまだかな?」

 

「まだよ。本当に疲れてないの?」ローラは念を押した。「かなり重症だったのよ。それに起きてまだ一週間しかたってないんだから。医者がどうだったか覚えて……」

 

「いい看護婦さんがいてくれたから、もうすっかり元気になったよ」ジャドウィンはローラの手をなでながら答えた。「きみこそ疲れただろ、ローラ。だってさ、日中ずっと……夜もだけどね、みんなが言うには……きみは部屋から出なかったそうじゃないか」

 

 ローラはその話題を受け流すように、首を振った。

 

「ねえ」小さな荷造り用の箱に座って、手で膝をつかみながらローラは言った。「西部ってどんなとこかしら。私が気に入ると思う、カーティス?」

 

「また一からやり直しだよ、奥さん」戒めるように首を振りながらジャドウィンは言った。「最初はかなり大変だと思うよ」

 

 ローラは人を馬鹿にした調子で笑った。

 

「大変って! 今さら?」ローラは夫の手を取り、自分の頬にあてた。

 

「どう考えたって、きみは私を恨むべきだよ」ジャドウィンは始めた。「私がきみにしたのはきみを傷つけることだけだ。最後はきみを……」

 

 しかしローラは手袋をした手で相手の口をふさいだ。

 

「やめてよ!」ローラは叫んだ。「お静かに、あなた。あなたは私の人生に最大の幸福をもたらしたわ」

 

 そして息を潜め、目を見開いて考え込みながら、ローラはつぶやいた。

 

「勝利ではなく降伏よ。私は降伏することで勝利を得たの」

 

「おい……何だって?」ジャドウィンは尋ねた。「聞こえなかったよ」

 

「気にしないで」ローラは答えた。「何でもないんだから。『世界はすべて私たちの前にある、行き着く先は』ってとこかしら? この大きな家も、そこで送った人生も、私たちの人生の中のたった一つの出来事だったんだわ……それも終わった出来事よ」

 

「この部屋を見ると、そのようだね」ジャドウィンは険しい表情で言った。「壁紙以外は何も残ってない。この箱の中身は何だと思う?」

 

「『本と絵』って書いてあるわ」

 

「そんなもの誰が買ったんだろう? この家を買った人のものになるとばかり思ってたが。まあ、家やすべてのものがものすごく安い値段で売られていくのを見るのはつらかった。それに「テティス」号までもだ。でも今はうれしいよ。まるで船を軽くしたみたいだ」ジャドウィンは腕時計に目をやった。「馬車がそろそろ来てもいい頃だな。トランクをチッキで送っておいてよかったよ。おかげでゆとりができた」

 

「ああ、そういえば」ローラは急に小さな鞄を開けながら叫んだ。「今朝、ニューヨークのペイジから長い手紙が届いたわ。ペイジが何って言ってきたか聞きたい? 私もまだ一部しか読んでないのよ。結婚してから初めて受け取った手紙なの」

 

 ジャドウィンは葉巻に火をつけた。

 

「聞こうか」箱に座りながら言った。「コート夫人は何と言ってきたんだ?」

 

「親愛なる姉さん」ローラは読み始めた。「ランドリーと私は、ついにニューヨークに来ました。鉄道で移動したものだからとても疲れてくたくたですが、すてきな小さなホテルにいます。ここは経営者が料理長で、みんながフランス語を話してます。自分で発音の上達ぶりがわかるし、すでにランドリーもかなり慣用句を覚えました。二人でジョルジュ・サンドを音読し、語彙の幅を精一杯広げているところです。今夜はコンサートに行きます。 近々『文学の傾向』というとても素晴らしい講演があることを知りました。すごいでしょ。ランドリーも興味津々です。彼がどれほど深く物事を考えるか知らないでしょ、ローラ……本物の思想家なんですよ。

 

 さて、こちらで大きなニュースがありました。シカゴに最初に来たとき住んでいた古い家を手放さずに済むかもしれません。先日ウェス叔母さんが手紙をくれました。もしよかったら、叔母が家を借りて、下の階の全部をランドリーと私に又貸しするというのです。そうすれば、私たちは普通のアパートの下の階ではなく、本物の家が手に入ります。叔母とは古い付き合いだから、みんなでうまくやれると思います。大至急返事をください。賛成してくれるでしょ。家賃は姉さんの言い値でいいとウェス叔母さんは言ってます。

 

 一昨日クレスラー夫人を訪ねました。夫人はもう二週間近くここにいて、セントラルパークに面したとてもすてきな家で未婚の妹さんと一緒に暮らしています。(ノース・ストリートの私たちの豪邸ほどではありません。あの家は絶対に忘れることはないでしょう)夫人はおそらく当分こっちに滞在しそうです。シカゴの古い町並みを見るのは耐えられないと言ってます。クレスラー夫人がお気の毒です! 幸いお妹さんが……って続くわ」ローラは慌てて読むのをやめた。

 

「続けてくれよ」ジャドウィンはくるっと背中を向けて言った。「一行も飛ばさないで。一言一句残さず聞きたいんだ」

 

「それで全部よ」ローラは答えた。「三週間したら戻ります」手紙をめくりながら続けた。「ランドリーはあの鉄道会社に就職しそうです。もう投機取引はしないと言ってます。いつもジャドウィンさんの話をしています。あなただってあんなに傾倒する人を見たことも聞いたこともないと思います。ジャドウィンさんは天才で、この国一番の投資家で、あの日みんなが彼に敵対しなければ勝てたはずだと言っています。ジャドウィンさんは自分にとって父親であり、自分が知る中で最も親切で懐の深い男なんだと飽きもせず私に語ってくれます……」

 

 ジャドウィンは急に口髭を引っ張った。

 

「ふん、くだらない……小癪な奴め!」ジャドウィンは大声で言った。

 

「彼は最初からあなたを崇拝していたのよ、カーティス」ローラは言った。「私があなたと結婚すると知ってからもね。一度も嫉妬したことはなかったし、誰からだろうとあなたの悪口には耳を貸さなかったわ」

 

「それで……コート夫人は他に何って言ってるんだ?」

 

 ローラは読んだ。「ランドリーは大損したに違いないと言ったけど、私はグレトリーさんが破産しなかったときいてほっとしました。グレトリーさんが営業停止になった翌日、シカゴで十八社のブローカーが倒産したとランドリーが言いました。イザベルが結婚祝いを送ってくれました……ホメオパシーの薬やら小さな錠剤でいっぱいのすてきな薬箱です。でも、ランドリーも私も病気知らずで、ホメオパシーのことを笑っているので、それをどう扱っていいのか私じゃわかりません。ランドリーは、まるで蝋人形のように私に気を遣ってくれます。でも、もっと自分の健康について考えてほしいと思ってます。雨でもレインコートを着ないんです。私は彼の好みを注意深く研究しました。イギリスよりもフランスのライトオペラが好きで、ネクタイの色も明るいのが好きで、トマトの詰め物が好物です。

 

 二人の愛を送ります。ランドリーは特にジャドウィンさんに今後ともよろしくとのことです。この手紙が、お二人の旅立ちと成功をお祈りするのに間に合うように届けばいいと思います。療養中なのに、新しいビジネスを始めるとはジャドウィンさんはすごいですね! 彼なら数年のうちに、もう二つ三つ財産ができるに決まってる、とランドリーは言っています。

 

 さようなら、ローラあなたのかわいい妹より

 

 ペイジ・コート

 

 追伸:この手紙を再び開いたのは、昨日通りでコーセルさんに会ったことを伝えるためです。彼は今日ヨーロッパに向けて出航します」

 

「ああ」ローラが手紙をさっと置くとジャドウィンは言った。「コーセル……あのアーティスト君か。そういえば、彼はどうなったんだっけ?」

 

 ローラは髪の後ろに櫛をさした。

 

「どこかに行っちゃったわ」ローラは言った。「覚えてるでしょ……話したじゃない……全部話したわよ」

 

 ローラは顔を背けようとしたが、ジャドウィンは肩に手を置いた。

 

「覚えてないな」ローラの目を正面から見すえてジャドウィンは答えた。「私は何も覚えてないよ……何かにつけて非難してきたことくらいかな。一度きみに言ったけな……ずっと前にだ……私は理解してるって。そして今だって理解しているよ、奥さん、かつてなかったほど理解している。私たち二人とも、物事に対する間違った考え方に従って生きてきたんだと思う。結婚当初はすぐに始めたけど、何となく私がそこから離れてしまって、きみを振り回してしまったね。でも、二人とも大きな変化を経験したんだ、ローラ、大きな変化をね。また一から始めるんだ……。さあ、馬車が来たかな」

 

 二人は鞄をまとめながら立ち上がった。

 

「よいしょ!」ジャドウィンは言った。「ローラ、もう荷物を運んでくれたり、ドアを開けてくれたりする使用人はいないんだ。馬車だってビクトリアやクーペじゃなく貸し馬車だからね」

 

「だったらどうなのよ?」ローラは叫んだ。「今さら物や使用人やお金が何なんのよ?」

 

 ジャドウィンは玄関のドアノブに手をかけていたが、いきなり荷物を置いて妻を抱きしめた。ローラは夫の首に手をかけて、しばらくじっとその目を見つめていた。そして二人は何も言わないまま互いにキスを交わした。

 

 前庭に出るとジャドウィンは傘をかかげてローラの頭上にかざした。

 

「ちょっと持っててくれないか、ローラ」ジャドウィンは言った。

 

 ジャドウィンは傘をローラの手に渡すと、後ろ手に家のドアを閉めた。空っぽのがらんとしたすべての部屋中にその音がうつろに響いた。ジャドウィンは鍵をポケットにしまった。

 

「行こうか」ジャドウィンは言った。

 

 二人は前庭から踏み出した。すでに暗くなっていた。雨は臭いのある冷たい空気の中を、やや斜めに降っていた。公園の通りを渡って、最初の葉が落ち始めていた。湖が打ち寄せて、静かに石の堤防を洗い流した。遅くなった自転車乗りが、コウモリが音もなく飛ぶように、霧雨の中にランプのオレンジ色した扇型の霞を投げながらアスファルトを通過した。

 

 家の前の通りで、席から降りてきた御者が馬車のドアを開け放った。ジャドウィンがローラが乗るのに手を貸し、御者に住所を告げて自分も乗り込み、ドアをバタンと閉めた。御者が自分の席について、馬に話しかける声が聞こえた。

 

「さて」ドアの窓ガラスから曇りをこすりながらジャドウィンは言った。「この古い家も見納めだよ、ローラ。もう二度と見ることはないだろう」

 

 しかしローラは見ようとはしなかった。

 

「そんなものはいいわ」ローラは言った。「私が見るのはあなたよ、あなたなのよ。それとこれまでの数年よりももっと幸せになる私たちの未来よ」

 

 ジャドウィンはローラの手を握っただけで他に答えなかった。沈黙したまま二人は街を駆け抜けて、自分たちを新しい生活へ運んでくれる列車へと向かった。それぞれの生活の一段階が、確実に閉じられた。大がかりな買い占めは過去のものとなった。大がかりな買い占めは延々と続く惨事を起こし、崩壊が始まった。大規模な破産は数々の小さな破産を招き、小さな破産の積み重ねが、次から次へと企業を倒産させた。その後、数週間続いた連鎖倒産は、まるで密かに蝕まれたビルが倒壊していく衝撃と残響のようだった。ある主要銀行が支払いを停止した。何百人もの預金者が、なけなしの財産を失ったことを知った。この大惨事が各地に及ぼした影響は、信じられないものだった。金融界は雰囲気が一変したようだった。金融は再び「逼迫」し、信用はなくなった。実業界はまたしても窮地に向かい始めるのだろう。

 

 しかしローラはどんな形であれ夫に責任があると認めるつもりはなかった。夫も苦しんだのだ。ローラは夫の言葉を何度も自分に言い聞かせた。

 

「小麦が自分で自分を追い詰めたのだ。私は二つの状況の間に立っていただけにすぎない。小麦の仕業であって私の仕業ではない」

 

 そして何百万ブッシェルという小麦は、もうない。クレスラーを殺し、ジャドウィンの財産と、失わずにすんだ理性以外のものすべてを飲み込んだあの小麦は、大河のように乗り込んできてローラのそばから夫を引き離し、立会場の怒号の渦の中で溺れさせたあの小麦は、自分の秩序に則って前もって決めた進路を西から東へと抵抗をよせつけずに通り過ぎたのだろうか? 大洪水のように、その通過した跡に死と破滅を残して、ヨーロッパの過密都市と中心部に命と繁栄を運びながら、通り過ぎたのだ。

 

 一瞬、漠然とした暗い不安がローラを襲った。自然の力、つまり世界を支配する需要と供給の力に対する疑問である。この巨大で抵抗を寄せ付けない国民の糧だが……どうしてこれだけのものが、これほどの苦しみに見舞われることなく、これほどの不幸に付きまとわれることなく、民衆までたどり着けなかったのだろう、その運命を全うできなかったのだろう? 

 

 ローラにはわからなかった。しかし、その答えを求め、悩み、頭をかかえていたところ、馬車が通過中の近所に、どこか見覚えがある気がした。この光景、この環境を、かつて経験したのだという奇妙な感覚が、ローラを支配した。

 

 馬車のドアのぼやけたガラスから、すばやく片側の外を見てみた。確かに、確かに、この場所は以前、ローラの心に強い印象を刻みつけていた。感嘆の言葉を口にしてローラは夫の方を向いた。しかしジャドウィンは馬車のランタンの薄明かりを頼りに、時刻表を調べていた。

 

 ローラはとっさにその場で振り返り、馬車の後ろの小さな窓を覆うフラップを上げて、後方を見渡した。視界の両側に、高いオフィスビルが連なり、窓のいくつかにはまだ明かりが灯っていた。通りのはずれでは鉛色の空に淡くぼんやりとした照明の霞がかかっていた。物憂げな巨大な塊がこれに輪郭を描き、どんな光にも邪魔されず、背後のぼんやりとした空に、黒く恐ろしい外観をそびえ立たせていた。

 

 そして、これが、その日終わったローラの人生の一部の最後の印象だった。高い灰色のオフィスビル、雨の闇、天空のぼんやりとした明るさ。それを背景に山のような商品取引所がそびえ立っていた。黒い一つの塊が、目の見えない無言でいかつい巨大なスフィンクスのように台座にしゃがんでいた……夜と、降り注ぐ雨のベールをまとって、物音一つ立てず、生きた気配もなくそこにしゃがんでいた。

 

 

              完


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