第三二六話 卯とマトリカリア
◇◇◇
神さんが電話をかけると、ワンコールくらいですぐに委員長の辰峯さんに繋がったみたいで。
お願いしてスピーカー状態にしてもらったあと、さっき神さんに話したのと同じように、ウチがいま陥ってしまっている状況を伝えると……。
「わたし持ってるぞ!」
あっちでもウチらと同じようにスピーカーで通話していた上で、委員長のすぐそばにいたのか、申輪さんのそんな大きな声が電話越しから聞こえてきたのだった。
持ってるって言葉の、その意味がジワジワと脳に染み込んでくるのに数秒の時間を要したのち……。
「持ってるって、お金!? ホント!?」
「ほんとほんと! 茶色の封筒に入ってるやつ!」
声量を調整することもできずに思わず飛び出たウチの驚き混じりの質問にも、あまりにも嬉しい肯定の答えがかえってきたもんだから。
鬱々と曇っていた胸のなかのモヤが一気に晴れたように、あまりにもいとも簡単にウチの心は軽くなったのだった。
「えっ、でも、なんで」
「さっき行事委員の打合せのとき、白熊先輩から引き継ぎあったんでしょ? 『お金わたす前に打合せ始まっちゃったから』って先輩から預かったぞ!」
「そ、そうなんだ……よかった。マジでよかったぁ……」
そこまで説明してもらえたら、もう疑わずとも良いくらいにそれが事実なのだろう。
そばの机に手をついて寄りかかると、頭の中では『よかった』と今しがた口にした言葉が、何個も何個も無数に舞い踊って安堵感が身体中に沁みていった。
「それで卯月さん! 今どこ!? 体調だいじょうぶか!?」
ただ、神さんの手のひらに乗ったスマホからは、ひきつづき申輪さんの元気な声が届いてきて。
お金の問題は一旦なんとか解決したものの、他にもクリアしないといけないタスクが残っている現状を思い出すこともできたから。
「あっ、ゴメン。からだは大丈夫。場所は、えっと……下駄箱から一番遠い教室? 一階の、たぶんゴミ捨て場の裏あたりの教室なのかな」
「わかった!」
そんな短い返事を合図に、豪快な足音と委員長の『あっ! 申輪さん待って!』という声がスマホから聞こえてきたし。
たぶん、というか確実に、申輪さんはこの教室まで来ようとしてくれてるんだろう。
「いったん切るね!」
委員長の慌てたような声音のひと言を最後に、電話はきれちゃったようで。
実際にスマホの画面にも通話が終了した表示がされているのだから、ウチらとしてはひとまずこの教室で待機しといたほうがいいみたいだった。
依然として机に身体を預けたまま、安堵から漏れでた長いため息を吐き出していると……。
「よかったですね卯月さん! お金、なくしてなかったみたいです!」
まるで自分のことのように嬉しそうに、朗らかな笑顔を浮かべた神さんがそう声をかけてくれたのだけれども。
「う、うん。ありがと。ホントありがとね……」
神さんの明るい声とは真反対に、ウチの口から出ていった声は細々と上擦っていて。
胸の内では、広々とひろがった安心感という土壌の下から、ムズムズと強烈に込み上げてくる感情に襲われていた。
ニコニコと本当に嬉しそうな神さんの可愛すぎる笑顔が、今ばかりは直視できない。
心の中ではさっきまであったはずの安心感が見る影もなく、その代わりとばかりに、耐え難いほどの恥ずかしさが占拠していた。
あぁーっ! さっきのウチ、なんだアレはぁ! テンパリすぎだし、取り乱しすぎだし、泣きすぎだってのぉ!
ダサすぎ。キモすぎ! あんなのウチじゃない! いやウチだけどさ。まごうことなきウチ自身の言動なんだけどさ!
少し冷静になった途端に、身を焦がすような羞恥心に襲われながら。
我を忘れて泣きつき甘えるなんて、そんな恥を晒してしまった神さんに顔を向けることもできないままで、ウチらはいったん申輪さんの到着を待つこととなったのだった。
◇◇◇
少し前の自分の取り乱し様が何度もリピートして蘇ってくるもんで、一向に神さんの顔を見ることもできずにひとり身悶えていると。
遠くの方から少しずつ大きくなって聞こえてくる足音の勢いのまま、さっきの電話から十分も待たずして、教室のドアから申輪さんが姿を表した。
「卯月さん! 大丈夫か!?」
「あっ、申輪さん。早かったね。ありがと……」
「顔が赤いけど風邪か!? 熱ある!?」
「い、いや、これは平気なやつなんで……ごめん、心配してくれてありがとね。ホント気にしないで……」
顔の赤さの理由なんぞ、発熱の類のせいじゃないってことはウチが一番よくわかってます。
いや、もしかしたらあまりの羞恥心のせいで実際に熱あんのかもだけど。まぁそれはそれとして。
「申輪さん、お金って……」
「ほら、これな!」
実際に目の前にして、たしかにそこにはウチが探し求めていた茶封筒があり、幸いなことに紛失してはいなかった事実を受け止めることができた。
受け取って封筒のなかを確認すると、一番大きいお札だけでもザッと数枚収まっていて。
さっき一度、チラッとだけど目を通した書類に記されていた金額とも一致してそうで、あらためて安心できそうだった。
「申輪さん、マジで、マジでありがとぅ。無くしたと思ってヤバかったから……」
「あって良かったな! そんでほかの仕事は――」
カラカラとした見ているこちらまで元気をもらえそうな申輪さんの笑顔と、続けて口にした何事かの言葉にかぶさるようにして……。
「申輪ちゃん、足はえ〜。めっちゃ置いてかれたけど、とうちゃーく」
「申輪さん! 気持ちはわかるけど廊下走ったら危ないでしょ!」
ひと足先に来室した申輪さんから少し間を置くかたちで、ドアの方から白熊先輩と委員長も教室に入ってきたのだった。
まったく息切れしていなかった申輪さんは流石というべきか、遅れていらっしゃった二人は肩を上下させながらもウチらの側まで歩いてきて。
口々にウチのことを、とくに体調面についてを心配してくれたのだけど。
ひとまず大丈夫であることを伝えると、二人とも安心したようにひと息ついて、あわせて乱れた呼吸もひとまず整ったみたいだったから……。
「白熊先輩。あの、本当にごめんなさい! 書類がまだ、けっこうやり残しちゃってて……ウチがさっきまで寝ちゃってたせいで……」
「うんうん。さっきの電話、私も一緒に聞いてたから事情は把握してるよー。大丈夫だいじょうぶ!」
自分の仕事を蔑ろにしてしまったお詫びを伝えて、頭を下げて白熊先輩に謝ったところ。
ウチの肩をポンポンと軽く叩きつつ、先輩はぜんぜん怒ったり焦ったりしている様子もなさように見えた。
「でも、今日の最終下校時刻が締切ですよね? もうあとちょっとしか時間のこってないし……」
「あぁ、ちがうよー。『大丈夫』ってのは気を遣って言ってるとかじゃなくて……いや、行った方が早いかな。このまま生徒会室に向かっちゃおうか」
ずっと今日このあとの、最終下校時刻という締切に追われて書類作成を進めてきたのである。
最後の期限までに仕事をやり遂げることができなかった責任が重苦し過ぎて、とても大きな申し訳ない気持ちを感じてしまっていたのだけども。
なおも軽い調子のように見受けられる白熊先輩は、教室の出口を指差したあとでスタスタと足早に退室しようと歩き始めたもんだから。
ここまで持参してきたクリアファイルと、申輪さんから受け取った大事なお金を忘れないように、慌てて確認してから胸に抱えたあとで。
ウチもその背中を追って、先輩の言葉の通りならば生徒会室に向かうため、教室の出口を目指して足を踏み出したのだった。
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