第三二四話 卯とヒペリカム
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腕に乗せて伏せていた顔を上げて、最初に頭に浮かんだのが『電気つけたっけ?』なんて、そんな間の抜けた言葉だった。
真っ暗だった視界のあとに瞳に映った光景は、明るい教室の中でこちらを見つめてる神さんの姿で。
明暗の大きな差のせいかやけに眩しく感じて、ウチのまぶたには無意識のうちに小さく力がこもり、視界が少しだけ狭まった。
神さんは腕を伸ばしてウチの肩に触れていたし、たぶん揺すって起こしてくれたんだろう。
「……あっ、と、神さん」
「大丈夫ですか? こんなところで寝ていたのでビックリしました。具合が悪いとかは……」
心配そうな表情で、神さんはウチの背中にそっと手のひらを移して気を遣ってくれていたのだけれども。
寝起きのせいか、もしくは短い休息くらいじゃ解消しなかった寝不足のせいか。
依然としてウチの頭はボンヤリとしたまま、まるで他人事のように、いま自分がおかれている状況についての理解がぜんぜん進まなかった。
数秒前に頭に浮かんだ『教室の電気をつけたか』どうかなんて、そんな疑問を脳みそがもう一度追いかけ始めたのだけど。
この部屋に来てから電灯のスイッチに触れた覚えはウチにはないし、きっと神さんが部屋の明かりを灯してくれたんだろう。
そんな一連の思考の流れは、今ここにウチがいる理由や、この教室まで来るに至ったほかの記憶とかさえも伴って。
まるで土の中で根を張り繋がった植物が、一本の根っこを引っ張ったことをキッカケに、徐々に地表に引き摺り出されるように。
惚けた脳みそがようやく少しずつ、掘り起こされた記憶の数々から現在の状況を理解しはじめてくれたのだけど……。
「ぃや、ヤバっ! うそ! 寝てた!?」
仮眠を取るためじゃなく、作業を進めるためにこの教室までやってきたって。
その目的を思い出した瞬間、冷えた血が一気に流れたように身体中を冷たい感覚が走り抜けて、にもかかわらず心臓だけは凍りつくことなく激しく鼓動を打ち始めた。
自分のしでかした失敗への動揺で、頭の中がグチャグチャになりながら。
とっさに振り返って仰ぎ見た壁掛け時計の指している時刻は、現実として受け入れたくないほどの時間の経過を示している。
ふだん使われていないような教室だし、時計がズレていて間違った時刻を指している可能性を願いたいけれど。
窓の外の暗さを確認するに、そんな苦し紛れの願いが叶っていることもきっとなくて、時計の知らせてくれる情報は正しいものなんだろう。
「あと、三十分……うそ、どうしよ……」
『ヤバい』とか『うそ』とか、そんなバカみたいな言葉しか浮かんでこない混乱した頭の中から、出そうと思ったわけでもないのにそんな言葉だけが勝手にこぼれていった。
最終下校時刻まで、あと三十分と少しだけの猶予しか残されていない。
どう、どうしよ……どうすればいいか、ホントにぜんぜんわかんない。
まったく進められなかった作業、完成させていない書類の数々、ほかにもいくつものタスクが頭の中のグチャグチャに拍車をかけてくる。
せめて、せめて白熊先輩から預かってる、休憩所の予算の入出金確認だけは終わらせないと!
お金にまつわる作業はとくに生徒会からのチェックが厳しくて、毎日ちゃんと確認して、毎日生徒会に預けて帰らないといけないことになっている。
今までもウチと白熊先輩や、ほかに手の空いてる人に協力してもらう日もあったりしながら、必ず誤りがないかダブルチェックは欠かさずにやってきて。
とくに明日からはもう学園祭当日で、明日の朝イチで近所のスーパーに飲み物とか色々と買い出しに行ってもらわなきゃいけないから。
そのときに支払うお金も含まれて、額として数万円分ともなる予算の確認は、なによりも優先して済ませておかなければいけない作業だったのに……。
「……えっ、えっ!?」
さっき行われた学園祭前としては最後の行事委員の打ち合わせ。
その開始の直前に白熊先輩から預かってたはずなのに、ここまで持ってきていたクリアファイルのなかに、目当ての封筒だけが見当たらなかった。
なんで!? 白熊先輩からちゃんと預かったよね!?
入出金の確認をするための、今日の分の書類はたしかにクリアファイルのなかに入っている。
だから白熊先輩からダブルチェックを頼まれたのは間違いないはずで、それは寝起きな上にパニクってる頭でも、ボンヤリとした記憶として思い出せる。
なら尚更、お金が入っている封筒だけがないなんて事態に陥ってるのが、マジで意味がわかんなくて……。
ほかの書類に挟まっている可能性を考えて、クリアファイルの中身を机の上に出し広げても、そこに封筒は見つけられないし。
クリアファイルのなかに入れてなかったなんて間抜けな結果だったら嬉しかったのに、どこのポケットをまさぐっても、まるで見つかる気配もなかった。
焦りながら、テンパりながら、頭の中では『なんで』って言葉だけが延々と生まれ続けている。
だけどそんな言葉の隙間から、今度は徐々に最悪な可能性が少しずつ顔を出し始めた。
ここに来るまでに落としちゃったのか、とか。
あとは、ウチが寝ている間に……いや、そんなこと考えちゃいけない。
そもそもこんな場所で眠りこけていたウチが一番いけないのに。
この学校の子たちはみんなそんなこと絶対にするわけないって、そう思ってる。そう思いたいのに……。
何かの、誰かのせいにできればきっと楽だろうけれど、そんな方向に考えが向かいそうになる自分自身が情けなくて。
そして何よりも、ここまで行事員として頑張ってきたはずなのに、最後の最後でみんなにすごい大きな迷惑をかけてしまう最悪な可能性が心の中でドンドン大きくなっていく。
どうしよう。どうしようもない。どうすればいいかわかんない。
いったん冷静になれなんて訴えすらも、ゴチャつく心の中で埋もれていって、ただひたすらに焦燥感と絶望みたいな喪失感だけが積もり積もっていく。
頭上から降り注ぐ電灯に照らされた教室に明るさが、目の奥から突き上げてくる微かな痛みに染みる。
鼻の奥が熱くなって、弱々しい力しか入らない手のひらで鼻を抑えながら。
まるで教室の明かりだけじゃなく現実からも逃避しようとするかのように、思わずギュッとまぶたを閉じた。
泣いて、この現実がなんとかなるはずない。ぜんぶウソだったら嬉しいけど、きっと悪い夢から覚めるはずもない。
だけど勝手に流れる涙すら……いまのウチにはどうやって止めればいいかもわかんない。
震える手のひらが強張りながらも顔の前で小さく丸まって、身体すらも丸めて地面に座り込みそうになった、そんなときになって……。
「――卯月さん!」
ウチの手を握ったその力強い感触と、呼びかけてくれたその声のおかげで。
この教室には自分以外の女の子がいたという現実を、混乱し続ける中で、ウチはようやく思い出すことができたのだった。
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