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エスカンダリ(一)

 アフマド・エスカンダリは目の前に広がる光景に対していかなる感情も抱くことができなかった。本来ならば、怒りを以て天を呪うべきか。あるいは、絶望の淵に沈み、膝をつくべきなのだろう。だが、その引き金は沈黙したままであり、彼の心は凪いだ水面のように静かだった。正確には、どのような感情を発露すればよいのか戸惑っていた。

 感情の引き金は一向に下りない。祖国が危機にあるにもかかわらず、この瓦礫のどこに「国家の死」を読み取れというのか。周囲では新兵たちが反米・反イスラエルを叫び、血が沸騰するような憎悪に駆られていた。情報部の入手した情報では、核施設の空爆にイスラエルが関与していることが明らかとなった。

 イランは核開発を推し進めているが、北朝鮮のように国民生活すべてを犠牲にできない。半ば国民の支持で成立した国家は、無謀な核予算の編成にすべてを賭けることはできない。すべてを犠牲にして核を求める蛮勇を、神は許さないだろう。ゆえに、開発進捗が三%進んでも、アメリカやイギリス、イスラエルの攻撃によって二%は後退してしまう。これがイランの現実だった。

 怨敵アメリカはイランの核開発を脅威に感じていても、イラン国家そのものを軍事的脅威とはみなしていない。むしろイスラエルの顔色を伺い、政権が交代する度に、対イラン戦略を易々と翻してくる朝令暮改な国家である。だが、イラン人としてはアメリカに憎悪と嫌悪を感じながらも、いざ戦争となれば太刀打ちできない。無論、イラン正規軍も、革命防衛隊も、本土決戦となれば身命を賭して敵を道連れにする覚悟がある。しかし、必敗の戦いなのだ。

 イラン人にとって恐怖と屈辱は、アメリカの大統領が我々の国が中東のどこにあるのかや、首都の名前、人口、歴史を全く知らないまま、勝手気ままに戦争してやると嘲笑うことである。我々の顏も文化も知らないような人間が、いきなり銃口を突き付けてゲーム感覚で殺しにやって来る恐怖は、反米に傾いている中東・アフリカ諸国なら誰しもが抱いている感覚だ。

 さらにいえば多くのイラン人はイスラム・シーア派に属している。イラン人は預言者ムハンマドの孫にあたるイマーム・フサインの殉教的精神を受け継いだ民族なのである。フサインはアメリカ人のいう「自由」を体現した人物であり、真にリベラルな指導者であった。フサインは、暴君ヤズィードの圧政に立ち向かい、正義と信仰を失わぬ預言者ムハンマドのような人物者こそ、この地を治める資格があると示した。保守的なイスラム教徒にとって、その姿はアメリカ人の語る「自由」よりも遥かに清らかで、真に解放の理想に近かった。

 フサインはヤズィード軍とイラクの地で戦い、壮絶な最期を迎えた。もし彼が沈黙し、圧制に従ったならば今日のイスラーム国家は存在しなかっただろう。

 ゆえにイランは信じている。この戦いもまた、フサインの殉教の継承であると。 

 イランはまさにフサインの殉教、真理と正義の実現のための戦いをアメリカやイスラエル、そしてイラクに対して見出していた。イランにとって圧制者は国内に非ず、国外の異教徒たちなのである。それを如実に表していたのがイラクの元指導者サダム・フセインによるイラン・イラク戦争だった。

 それまでのイランは白色革命の名のもとに、国王の手で西欧化が進められていた。しかし、西欧化とは資本主義の加速であり、オイルショックによるバブル経済で、都市化が進展したが、これは国民間の経済格差を深刻化させた。都市は富んでいく一方で、農村の民は荒れ果て富の恵みは一滴すら与えられなかった。やがて石油価格の安定化に伴ってインフレが加速し、低所得者の家計は火の車となった。

 加えて、民主主義陣営であったはずのアメリカが国王の独裁を支援していた。国王はイランの民主化を拒み、弾圧してしまう。サヴァクという秘密警察によって、反国王派や民主派、伝統的なイスラム保守派への弾圧はより緻密になっていった。

 こうした動きは、伝統的なイスラム保守派の抵抗をより過激化させた。そして法学者ホメイニ師が革命指導者になると、彼の教えが貧困層や保守派の共感を呼び、イラン革命の原動力となったのだった。

 革命は国王のイラン追放によって成功した。しかしこの出来事が、四十年以上続く西欧諸国の反イラン感情の火種となった。国王はアメリカに亡命し、病気の治療を目的に入国が認められた。これはイラン人にとって最大の侮辱であり、反米感情を最大化する原因となった。イスラム法学校の学生は反米デモ部隊を結成し、一九七九年十一月にテヘランのアメリカ大使館を占拠した。

 当時のイラン指導部の間ではこれがウィーン条約違反になることに気付いていた。しかし、革命防衛隊が人質に対する危害を加えぬよう学生たちを宥め、事態を維持していた。だが、それでも暴力は、日々どこかで溢れ出した。彼らは人質を殴りつけたり、冷凍庫に監禁したり、あるいは「異教徒」と書かれた看板を首にかけて晒し、人々の笑い者にしたりもした。

 エスカンダリは当時十歳で、大使館職員が証拠隠滅のために、シュレッダーにかけた書類を繋ぎ合わせる作業をしていた。給金も出たため、粗末なアパートで暮らす母に、温かな食事を買えるようになった。

 少年だったエスカンダリにとっては、目まぐるしい時代の変化がまるで他人事のように感じられた。さらに目の前の惨状は、偉大なるフサインの教えと異なるのではないか。彼の教えは、弱き者を侮蔑することではなかったはずだ。かつて恐れていたサヴァクのやり方と、我々のやり方とでは何が違うのだろうか。

 アメリカとの交渉は暗礁に乗り上げていたが、国王の死とイラン・イラク戦争の開戦によってイランは国際社会から孤立した。今では考えられないことかもしれないが、ソ連や中国もイラクを支援していた。

 アメリカでは大統領選挙が行われ、イラン人の憎悪の象徴とされていたジミー・カーターが退き、ロナルド・レーガンがその座に就いた。その瞬間、長い膠着がようやく幕を閉じる。ここが落としどころであるとして革命政府は人質を解放した。

 アメリカ人は知らないだろう。自らが選んだ指導者が、イランに独裁と弾圧を呼び込み、格差と貧困、テロの連鎖を長きにわたって生み続けてきたことを。

 どれだけの命が奪われ、どれだけの家族が涙を流し、どれだけの子が飢えていったのかを。恐らく、アメリカ人はその出来事を知ろうともしないだろう。

 幼い頃に抱いたその直観だけは、年月を経ても揺らがなかった。エスカンダリは成長し、幾度もの対米作戦を潜り抜け、死の縁から幾度も舞い戻ってきた。

 そしてある日突然、前任司令官がアメリカの雷撃によって跡形もなく消えてしまった。その瞬間、彼はゴドス部隊の指揮官になった。

「どういう状況だ?」

 エスカンダリは基地の警備局長に聞き取りをした。

「兵士たちが携行していた通信機器が、同時に爆発しました。死者は二十名ほどです。火薬庫に配置されていた兵士の数が不明でして、数に入れておりません」

「モラディ少佐の安否は?」

「負傷されましたが、ご存命です」

「遠心分離機に被害は?」

「ありません。安全規定上、兵士は分離機から距離を取って配置されていますので」

 エスカンダリは眉根を押さえ、ほんの一瞬だけ目を閉じた。通信機器が同時に破壊された事実は、機器の内部に製造過程で爆薬を仕込まれた以外ありえない。そもそもイラン国内に爆薬を密輸できるような場所は少なく、できたとしても少量である。そのため、このような大規模爆破は考えられないのだ。

「マハーン」

 エスカンダリは、常に彼の傍らに控えている実働部隊隊長のマハーン大尉を呼び出した。

「はい」

「すぐにこの基地の通信機器の製造先を調査しろ。必要ならアルジャジーラやスプートニクにリークしても構わない。情報部隊にも、英語、フランス語、中国語、日本語で情報の攪乱と拡散をさせてくれ」

「わかりました」

 マハーンは携帯電話を取り出して、ゴドス部隊の指令室に連絡を入れた。

「二度目の爆発は?」

「まだ部品や火薬の解析ができていないのでわかりませんが、恐らくイスラエルかと」

「アメリカは?」

「言わずもがなです。もしかしたら、この周囲にまだ潜伏しているかもしれません」

「だろうな……」

 エスカンダリにとって、敵の正体など分析する必要性すら感じられなかった。イラン本土に攻撃を仕掛けようとする国などアメリカとイスラエル以外には考えられないからだ。

「英雄アミルが死んでしまったか」

 エスカンダリは足元の床に視線を落とした。そこには血に濡れた通行証が転がっている。写真の中には髭を生やした初老の男が無表情で写り込んでいた。

「世論はまた復讐に燃えるだろうな」

「それは当然です。アメリカやユダヤのディヴァネ(ペルシア語で気狂いの意味)どもを駆逐しなければ」

 警備局長は真顔でそう言った。

「とにかく、イスラエルがやったという証拠を出さなければ」

 エスカンダリが言い終える前に、マハーンが「司令官」と呼んで近づいてきた。

「なんだ?」

「こちらを見てください」

 差し出されたスマートフォンには、情報部から送られた監視映像と音声が映し出されていた。そこには、ベルギー人の通信社の駐在員だった男が映し出されていた。

 彼は英語で何かやり取りをしているようだった。

 《これは国のための情報なんです》

 《わかっています。フィッシャーさん。私も権力の横暴を止めるために戦っているんです》

 ベルギー人の記者は、優しい声色でフィッシャーという人物を宥めている。

 《この情報がもたらす影響は大きい。だから絶対に個人名は出さないでください》

 《絶対に漏らしません。報道機関の手で慎重に処理されます》

「このフィッシャーという男は何者だ?」

「わかりませんが、英語圏の人間で安全保障局の機密情報にアクセスできるとすれば、アメリカでしょう」

 マハーンはそう断言したが、エスカンダリはフィッシャーという男の英語に違和感を覚えていた。

 発音が綺麗すぎるのだ。

「なら、このやり取りは……機密文書のリーク?」

 エスカンダリは怪訝そうな表情でマハーンに尋ねた。マハーンは深く頷いた。

「このベルギー人を拘束しろ。尋問はお前がしろ」

「わかりました」

 マハーンは短く答え、部下たちを連れて輸送ヘリに乗り込んだ。ローター音が砂塵を巻き上げる。

「期待しているぞ、マハーン」

 エスカンダリは、薄く夜の色を帯びた空へ昇るヘリの影を静かに見送った。用意された車に乗り込んで、革命防衛隊の各部隊に非常事態宣言を出した。これによって革命防衛隊の人員が臨戦態勢になる。

 エスカンダリはシートに深く身を沈めた。胸の奥に、奇妙な震えが走っていた。機密情報を手に入れることができれば、アメリカの刃が振り下ろされる前にこちらが動けるかもしれない。そう考えると血を沸き立たせるような高揚感があった。エスカンダリはふと、車窓に目を移した。そこには、満面の笑みを浮かべる、不気味な男がいた。それが自分自身であると気づいた瞬間、エスカンダリは静かに目を閉じた。

 笑っていたのは、果たしてどちらのほうなのか。

 国とアラーに殉じる自分なのか。

 それとも血に飢えた獣としての自分なのか。


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