第八章 研究所からの脱出
【フリー・ウィル研究所】
「マレー博士は、素晴らしい人だったよ」
その声には、先ほどまでの研究者としての冷静さとは違うものがあった。
「人間が何を選び、何を望み、どんな人生を生きるのか。それを誰かが決めてしまうことを、あの人は何より嫌っていた」
フォスターは黙って聞いていた。
「効率がいいから、安全だから、みんなが幸せになるから──そんな理由で、人間の選択を制限していいのか。あの人は、いつもそう問い続けていた」
ヴェインはゆっくりと振り返った。
「だからこそ、私はあの人を尊敬していた」
少しの間を置いて、低い声で続ける。
「だが、今のGAAはどうだ?」
フォスターは眉を寄せた。
「GAA?」
「そうだ。世界エリア管理機構だよ」
ヴェインの口元から笑みが消えた。
「各エリアの生活を監視し、基準を決め、許可を与え、管理する。エリアの自治を認めているように見えて、結局は上から手綱を握っている」
「……それが嫌なのか?」
「嫌、という程度の話ではない」
ヴェインの声が強くなった。
「もしマレー博士が今も生きていたなら、GAAにあんな大きな顔はさせなかっただろう」
フォスターはヴェインを見た。
「我々は何度もローウェル・エリア長に進言してきた。GAAから独立すべきだ、と」
フォスターの表情がわずかに変わった。
「そんなことを?」
「当然だろう」
ヴェインは歩き出した。
「エリア98が本当の意味で自由を選ぶためには、GAAから離れる必要がある。誰かに管理され、誰かに許可される自由など、本当の自由ではない」
「……」
「この研究所だけではない」
ヴェインは立ち止まった。
「同じ考えを持つ者は、ほかにもいる」
ヴェインは壁面のディスプレイに手を伸ばした。
表示が切り替わる。
エリア98の地図が現れた。
その周囲に、いくつものエリアが浮かび上がってくる。
「見てみろ」
ヴェインが言った。
「ここだけが独立して終わりではない」
地図上のエリア98が淡く光る。
「周りのエリアにも、自由を求める人間はいる」
その光が、隣接するエリアへ広がっていく。
「ひとつが立ち上がれば、次が続く。そして、その次も」
フォスターは地図を見つめた。
「自由を選べるエリアを増やすんだ」
「それは、ずいぶん大きな話だな」
「大きくなければ意味がない」
ヴェインは即座に答えた。
「いずれは、GAAの支配から離れたエリアが互いに手を結び、主権を持つ国家になる」
ヴェインはさらに続けた。
「そして、その数を増やしていく」
「周りのエリアを?」
「ああ」
「どうやって?」
ヴェインはフォスターを見た。
「彼らにも、自由の価値を理解させる」
その言葉を聞いて、フォスターは小さく息を吐いた。
「それなら、別に問題はないだろう」
「何?」
「その考えが本当に受け入れられるものなら、自然と周りのエリアに広がっていくはずだ」
ヴェインは黙った。
フォスターは地図から視線を外し、ヴェインを見る。
「でも、あんたのやろうとしていることは違う」
「……何が違う?」
「自分たちの考えを広めて、周りを巻き込んで、勢力を大きくしていく」
フォスターは少し間を置いた。
「それは、昔の大国が考えていた帝国主義そのものだ」
室内が静まり返った。
ヴェインの顔から、表情が消えた。
「……帝国主義?」
低い声だった。
「自由を掲げながら、他人の領域まで自分たちのものにしていく。それじゃ、GAAと何も変わらない」
「違う!」
突然、ヴェインが声を荒らげた。
研究員たちが一斉に振り返った。
「我々は支配するためにやるのではない!」
ヴェインはフォスターに歩み寄った。
「自由を取り戻すためだ!」
「だったら、なおさら他人に選ばせればいい」
「黙れ!」
ヴェインの顔が歪んだ。
「君に何が分かる!」
フォスターは動かなかった。
ヴェインは肩で息をしていた。
「君は……何も分かっていない」
その目に、初めて明確な怒りが浮かんだ。
「マレー博士も、あの人が何を目指していたのかも……」
ヴェインの声が震えた。
「それなのに……」
拳を強く握る。
「君は、あの人の命を奪った」
ヴェインは吐き捨てるように言った。
「ニュースで何度も見た。世界中が知っている事件だ」
そして、フォスターを睨みつける。
「マレー博士が殺されたと知ったとき、私は信じられなかった」
ヴェインの声から、怒りがにじみ出ていた。
「なぜ、あの人が殺されなければならなかった?」
ヴェインが一歩近づく。
「なぜ、あの人の自由を奪う権利が君にあった?」
「それは……」
「言い訳は聞きたくない!」
ヴェインが叫んだ。
「君は、あの人を殺した!」
ヴェインの目は、もはや研究者のものではなかった。
「自由を語ったあの人を、君は殺したんだ!」
フォスターは黙ったままヴェインを見ていた。
やがて、ヴェインは静かに顔を上げた。
「君に自由を語る資格はない」
フォスターが周囲を見る。
研究員たちが動き始めていた。
さっきまで実験を見守っていた者たちが、それぞれの端末を操作している。
扉のロックがかかる音がした。
フォスターは扉へ目を向けた。
「何をするつもりだ?」
ヴェインは答えなかった。
ただ、端末に表示された何かを確認している。
その横顔から、先ほどまでの興奮が消えていた。
「君は危険だ」
淡々とした声だった。
「マレー博士を殺した人間を、このまま外へ出すわけにはいかない」
ヴェインがそう言った。
次の瞬間だった。
研究員たちが一斉に動いた。
白衣の下から、黒いハンドガンを取り出す。
ヴェインもハンドガンを握っていた。
フォスターは息を呑んだ。
銃口が次々と自分へ向けられていく。
前に二人。
左右に三人。
そして、背後にはヴェイン。
逃げ道はなかった。
「君には死で償ってもらう」
ヴェインが言った。
その声は、もう震えていなかった。
「だが、すぐには死なせない」
ヴェインはゆっくりと銃を構えた。
「マレー博士は五発の銃弾を浴びた」
フォスターの目が細くなる。
「君には、それ以上の弾を受けてもらう」
ヴェインの口元に、薄い笑みが浮かんだ。
「苦しみながら、自分が何をしたのかを思い知るんだ」
研究員たちは無言のまま、フォスターを囲んでいた。
誰も逃がすつもりはない。
その構えを見れば、それは明らかだった。
フォスターは周囲を見回した。
銃。
銃。
また銃。
その数を数える。
六人。
いや、ヴェインを含めれば七人。
銃口が、わずかに上がった。
「始めよう」
低い声だった。
次の瞬間、銃口が白く閃いた。
轟音が室内を叩き、フォスターの右腕が弾けるように跳ね上がった。
「ぐっ!」
焼けつくような痛みが走る。
身体が大きくよろめいた。
右腕から力が抜ける。
フォスターは倒れまいと左手を床についた。
痛みが遅れて襲ってきた。
「まだ一発だ」
ヴェインが言った。
フォスターは歯を食いしばり、顔を上げた。
ヴェインがゆっくりと銃口を下げる。
狙いは脚だった。
「次は──」
そのとき。
甲高い警報音が研究所中に響き渡った。
けたたましい電子音が、室内の空気を震わせる。
研究員たちが一斉に顔を上げた。
天井のスピーカーから、機械的な声が流れる。
『侵入者あり。侵入者あり。施設内への不正侵入を確認しました』
「何だ?」
ヴェインが振り返った。
『警戒レベルを引き上げます。各区画の封鎖を開始します』
次の瞬間。
照明が消えた。
完全な暗闇になった。
「何をしている!」
誰かが叫んだ。
研究員たちが慌てて動く。
だが、暗闇では互いの位置すら分からない。
フォスターは片膝をついたまま、息を殺した。
そのときだった。
──バンッ!
フォスターが入ってきた扉が開いた。
同時に、銃声が響いた。
研究員の誰かが叫ぶ。
「敵だ!」
暗闇の向こうに、人影が浮かんだ。
黒い影だった。
そして、聞き覚えのある声が響いた。
「フォスター! こっちだ!」
フォスターは一瞬だけ迷った。
だが、考えている暇はなかった。
立ち上がる。
右腕が激しく痛んだ。
それでも走った。
目の前に研究員がいた。
フォスターは身体をぶつけた。
「うわっ!」
ひとりが倒れる。
続けて、もうひとりにも体当たりを食らわせる。
人の身体がぶつかり、何かが床に落ちる音がした。
フォスターは開いた扉へ飛び込んだ。
背後から怒鳴り声が聞こえる。
「逃がすな!」
フォスターは振り返らなかった。
黒い影の後を追い、暗い廊下へ駆け込んだ。
黒いスーツを着た男だった。
身体にぴったりと張りつく、ゴムのような素材のスーツ。男はフォスターの右腕をつかむと、強引に引き起こした。
「走れるか?」
その声を聞いて、フォスターは目を見開いた。
「……ホットドッグ屋のオヤジ?」
「何だ。優秀すぎるってか?」
フォスターは力が抜けそうになった。
背後で銃声が響いた。
壁に火花が散る。
「走れ!」
オヤジがフォスターの腕を引っ張った。
二人は廊下を駆けた。
背後から研究員たちが追ってくる。
銃声が何度も響き、弾丸が壁や床を跳ねた。
フォスターは右腕の痛みに顔をしかめながら、それでも走った。
「こっちよ!」
前方から声がした。
暗い廊下の先に、細身のシルエットが立っていた。
手招きをしている。
フォスターは走りながら目を凝らした。
──女か?
あの声は……
近づくにつれて、顔が見えてきた。
「ジュリア?」
「早く! こっちよ!」
ジュリアも黒いスーツを着ていた。
フォスターは一瞬、足を止めそうになった。
だが、背後から銃声が響く。
「考えてる暇はないわ!」
ジュリアが叫んだ。
「分かってる!」
フォスターは再び走り出した。
ジュリアの後を追い、オヤジとともに廊下を駆け抜ける。
──いったい、これは……
ホットドッグ屋のオヤジ。
ジュリア。
なぜ二人とも、こんな格好をしている?
考えてる暇はなかった。
今は逃げるしかない。
やがて、ジュリアが扉を押し開けた。
研究所の裏口だった。
【サウス・エッジ】
外へ飛び出した瞬間、三台のパーソナル・モビリティが待っているのが見えた。
車体のライトが一斉に点灯する。
「こっちです!」
声を上げたのは、三台目のモビリティに乗った男だった。
オヤジとジュリアが、それぞれのモビリティに飛び乗る。
男がフォスターを見る。
「私の後ろに乗ってください!」
「……」
「早く!」
フォスターは痛む右腕をかばいながら、なんとか後部座席に乗り込んだ。
「しっかり、つかまっていてください!」
「分かった!」
直後、三台のモビリティが一斉に走り出した。
低い駆動音を響かせ、夜の道路へ飛び出していく。
その後ろから、研究員たちもモビリティに乗り込んで追ってきた。
「追ってきた!」ジュリアが叫ぶ。
「振り切れるか?」オヤジが前を見たまま言った。
「大丈夫でしょう!」フォスターを乗せた男が大声で答えた。
三台のモビリティは、暗い道路を猛スピードで駆け抜けていった。
フォスターは前の男の背中につかまりながら、ふと横顔を見た。
見覚えがある。
「……あんた?」
男が振り返る。
「はい?」
「BARノードで会った……」
「エリオットです」
男は少し申し訳なさそうに言った。
「すみません。黙っていて」
フォスターは目を丸くした。
「……あんた、あの家族の話は?」
エリオットはしばらく黙っていた。
モビリティは速度を落とさない。
やがて、申し訳なさそうな声が返ってきた。
「すみません」
「何が?」
「私、女は全然ダメなんですよ」
三台のパーソナル・モビリティは、サウス・エッジの道路を猛然と走り抜けていた。
後方から、研究員たちのモビリティが追ってくる。
乾いた銃声が響いた。
フォスターは身体を低くした。
「まだ追ってくるぞ!」
オヤジが振り返りもせずに叫んだ。
「大丈夫だ!」
「何が大丈夫なんだ!」
フォスターが怒鳴り返した。
そのときだった。
空の彼方から、低い飛行音が近づいてきた。
フォスターが顔を上げる。
建物の向こうから、黒い機体が一機、姿を現した。
翼というより、鋭く削り取られたような機体だった。
その後ろから、さらに二機、三機と続いてくる。
「なんだ、あれは……」
フォスターが呟いた。
小型戦闘機だった。
低空を滑るように飛びながら、三台のモビリティを追い越していく。
その瞬間、先頭の機体から短い電子音が響いた。
研究員たちのモビリティが急減速した。
道路上に青白い光が走る。
次の瞬間、モビリティが停止した。
研究員たちが車体から飛び降りる。
しかし、逃げる間もなかった。
上空の戦闘機から無人の小型機がいくつも飛び出し、地面へ降下していく。
研究員たちは銃を構えた。
だが、小型機から放たれた光が身体を包む。
「うっ!」
ひとりがその場に膝をついた。
別の研究員も銃を落とし、両手を上げた。
あっという間だった。
追ってきた研究員たちは、すべて地面に制圧された。
フォスターは、走りながらその様子を見ていた。
「……いったい、何なんだ?」
オヤジは前を向いたまま答えた。
「今は説明している暇はない」
やがて戦闘機が上空を旋回し、研究所の方向へ向かって行った。
フォスターは痛む右腕を押さえた。
血が服を濡らしている。
【医療施設内】
しばらくして、三台のモビリティは医療施設の地下搬入口へ滑り込んだ。
扉が開く。
待機していた医療スタッフが駆け寄ってきた。
「負傷者は?」
「右腕に銃創。それと、転倒したときの打撲があります」
ジュリアが答えた。
フォスターはモビリティから降りようとした。
だが、右腕に激痛が走った。
「……くそっ」
身体がよろめく。
オヤジが肩を支えた。
「無理するな」
「自分で歩ける」
「そういうのは治ってから言え」
医療スタッフが担架を用意した。
フォスターはその上に座らされた。
「銃創ですね。すぐ処置します」
「待ってくれ」
フォスターは三人を見た。
「これは、いったいどういうことだ?」
三人は顔を見合わせ、やれやれ、といったポーズを見せた。
医療スタッフがフォスターを奥へ運んでいく。
自動扉が開いた。
フォスターの姿が、その向こうへ消えていく。
扉が閉まる。
オヤジは小さく息を吐いた。
「……間に合ってよかったな」
ジュリアは黙って頷いた。
「危なかったですね」
エリオットはそう言って息を吐いた。




