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第七章 フリー・ウィル研究所

 【サウス・エッジ】



 サウス・エッジは、フォスターがこれまで足を踏み入れたどの地区とも違っていた。

 通りの両側に並んでいるのは、研究所や工場、廃棄物処理施設ばかりだった。

 窓の少ない巨大な建物。高い塀に囲まれた研究施設。いくつもの煙突を備えた工場。その間を、資材や廃棄物を積んだ無人搬送車が静かに走っている。

 人通りは少ない。

 店もほとんどない。

 ノース・テラスのように人が集まる場所も、セントラル・コアのような賑わいもなかった。

 フォスターは歩きながら、セントラル・コアのホットドッグ屋を思い出した。

 さっき立ち寄ったばかりだった。

 

 「サウス・エッジに行ってみようと思ってるんだ」

 何気なくそう言ったフォスターに、オヤジはソーセージを焼きながら、

 「そうか」と答えた。

 そして少し考えるような間を置いてから言った。

 「ここにいられるのも、あと一週間ほどだろう?だったら、フリー・ウィル研究所ってところを覗いてみたらどうだ」

 「フリー・ウィル研究所?」

 「ああ。サウス・エッジにあるらしい」

 オヤジはそう言いながら、ソーセージをパンに挟んだ。

 「アーノルド・ヴェインっていう博士がいるらしい」

 「ヴェイン博士?」

 「ああ。よくわからんが、最新の科学の研究をやってるらしい。面白い話が聞けるかもしれないぞ」


 ひときわ大きな建物が目に入った。正面には簡素なプレートが掲げられている。

 FREE WILL INSTITUTE

 「ここか……」

 フォスターは足を止めた。

 研究所というより、企業の研究施設に近い。ガラス張りのエントランスの向こうを、白衣姿の人間が行き交っている。

 しばらく眺めていると、入口からひとりの男が出てきた。

 男は三十代半ばほどに見えた。白衣ではなく、濃いグレーの作業服を着ている。胸元には研究所の認証章が小さく付いていた。

 「何かご用ですか?」

 フォスターは振り返った。

 「いや。ちょっと興味があってね」

 男はフォスターの顔を見た。

 そして、ほんのわずかに表情を変えた。

 「よろしければ、中をご覧になりますか?」

 「いいのか?」

 「ええ、こちらへどうぞ」


 【フリー・ウィル研究所】


 男は研究所の中へ入っていった。

 フォスターもその後に続く。

 自動ドアが閉まると、外の音がほとんど聞こえなくなった。

 廊下は白く、無機質だった。

 壁際にはいくつもの端末が埋め込まれ、見慣れない数値や波形が絶えず表示されている。

 何人かの研究員とすれ違った。

 白衣を着ている者もいれば、作業服のような格好をしている者もいる。 

 誰もが忙しそうに端末を操作し、フォスターにはほとんど目を向けなかった。

 やがて男が足を止めた。

 「少しお待ちください」

 男はそう言って、廊下の壁に設置された端末を操作した。

 「ここで?」

 「ええ。すぐ戻ります」

 男は奥へ続く扉を開け、その向こうへ消えた。

 フォスターは廊下にひとり残された。

 壁面には研究室の番号と、見慣れない研究項目が並んでいる。

 何を研究しているのか分からないものばかりだった。

 フォスターは腕を組んだまま、それらを眺めていた。

 どれほど待っただろう。

 奥のほうから、何人かの研究員が慌ただしく行き交う気配が聞こえてきた。扉の向こうで何かが始まったらしい。

 やがて、先ほどの男が戻ってきた。

 「お待たせしました」

 「随分かかったな」

 「申し訳ありません」

 男は軽く頭を下げた。

 「実は、ちょうどこれからヴェイン博士が研究員たちに新しい研究を披露することになりまして」

 「新しい研究?」

 「はい。もしよろしければ、ご一緒にご覧になってはいかがですか?」

 フォスターは少し考え、頷いた。

 「では、こちらへ」

 男が扉に手をかざす。

 短い電子音とともに、ロックが解除された。

 扉がゆっくりと開いていく。

 フォスターは、その奥へ足を踏み入れた。

 室内の天井は高く、壁一面に巨大なディスプレイが並んでいる。

中央には、透明な円筒形のカプセルが据えられていた。

 その周囲を、何本ものアームが取り囲んでいる。

アームの先端には極細の電極や注入用のノズルが取り付けられ、ゆっくりと動きながらカプセルの中を監視していた。 

 カプセルの中には、人間がひとり横たわっていた。

 胸元がわずかに上下している。

 頭部は透明な固定具に収められ、無数の電極が取り付けられていた。首筋から伸びた細いケーブルは背中を伝い、カプセルの底へ消えている。

 いくつもの透明な培養槽が並んでいた。中で淡い光を放っているものがある。

 周囲には研究員たちが集まっていた。 

 誰も話していない。

 硬い表情で、中央のカプセルを見つめていた。

 

 「ようこそ、フォスター君」

 背後から声がした。

 フォスターが振り返る。

 白衣を着た男が、ゆっくりと歩いてきた。

 五十代半ばほどだろう。痩せた身体に白衣をまとい、白髪の混じった髪を後ろへ撫でつけている。整った顔立ちだったが、その目には人を値踏みするような鋭さがあった。

 男はフォスターの前まで来ると、自然な仕草で右手を差し出した。

 「アーノルド・ヴェインだ。お目にかかれてうれしいよ」

 フォスターは一瞬だけその手を見たが、すぐに握り返した。

 ヴェインは満足そうに微笑み、しっかりと握手を交わした。

 「君のことは以前から知っている」

 そう言って手を離すと、ヴェインは中央のカプセルへ目を向けた。

 「せっかく来てくれたんだ。ちょうどいい。君にも見てもらおう」

 室内の照明が落ちた。

 壁一面のディスプレイが一斉に点灯する。

 そこに、ひとりの人間の脳が映し出された。

 複雑に絡み合った神経回路が淡い光を放ち、いくつもの領域が異なる色調で明滅している。

 「これは、彼の脳活動をリアルタイムで映像化したものだ」

 ヴェインがカプセルを指した。

 内部では、男が目を閉じて横たわっている。

 「彼には、これからいくつかの選択をしてもらう」

 ヴェインが手を上げる。

 すると、ディスプレイに二つの映像が浮かび上がった。

 「赤と青。どちらか好きなほうを選んでもらう」

 カプセルの中の男が目を開けた。

 しばらく二つの映像を見つめていたが、右手をわずかに動かした。

 赤の表示が点灯する。

 同時に、脳の一部が強く発光した。

 「彼は赤を選んだ」

 ヴェインは淡々と言った。

 「では、次だ」

 別の二つの映像が表示される。

 今度は、男がすぐに青を選んだ。

 その瞬間、周囲の研究員が手元の端末を確認する。

 ヴェインはそれを横目で見ながら続けた。

 「面白いと思わないか?」

 「何が?」

 「彼は、自分の意思で選んだと思っている」

 フォスターはディスプレイを見上げた。

 「違うのか?」

 「違うとは言っていない」

 ヴェインは微笑んだ。

 「問題は、その意思がどこから生まれたのかということだ」

 ディスプレイの映像が切り替わった。

 脳の活動を示す波形が、いくつもの層に分かれて表示される。

 「恐怖。欲望。習慣。他人からの評価。そして、期待に応えたいという感情」

 それぞれの波形が独立して表示されていく。

 「人間は、こうしたものに影響されながら選択している」

 ヴェインが指を動かす。

 すると、ひとつの波形が消えた。

 「恐怖を取り除く」

 さらにひとつ。

 「他人からの評価を取り除く」

 またひとつ。

 「過去の経験による反応を取り除く」

 ディスプレイ上で、脳の活動を示す光が次々と消えていく。

 研究員たちが黙って見守っている。

 「こうして、ひとつずつ余計なものを切り離していく」

 ヴェインはカプセルの中の男を見つめた。

 「では、最後に残るものは何だと思う?」

 フォスターは答えなかった。

 ヴェインは構わず続けた。

 「人間は、自分で選んでいると思っている。しかし、その選択には、いつだって何かが入り込んでいる。誰かに褒められたい。失敗したくない。嫌われたくない。過去にこうだったから、今回もこうする」

 淡い光を放つ培養槽へ、ヴェインが歩み寄る。

 その中では、細かな神経組織がゆっくりと脈動していた。

 「それらはすべて、本人の意思を覆っている」

 フォスターは培養槽を覗き込んだ。

 「だから、それを取り除く?」

 「そうだ」

 ヴェインは即答した。

 「何にも左右されない状態をつくる。誰かの期待にも、恐怖にも、過去にも、社会にも縛られない」

 そこでヴェインはフォスターを振り返った。

 「そのとき初めて、人間は本当に自由に選べるのではないかと私は考えている」

 フォスターはカプセルの中の男を見た。

 「でも、それじゃ何も選べなくなるんじゃないか?」

 ヴェインが振り返った。

 「どういう意味だね?」

 「恐怖も、欲望も、習慣も、他人の影響もない。じゃあ、何を基準にして選ぶんだ?」

 ヴェインはしばらく黙っていた。

 やがて、口元に薄い笑みを浮かべる。

 「いい質問だ」

 博士はディスプレイに目を向けた。

 「我々は選択するとき、必ず理由を求める。なぜ、それを選んだのか。何か欲しいものがあったのか。何かを恐れていたのか。誰かにそうしてほしいと言われたのか」

 ディスプレイに、再び二つの選択肢が表示された。

 「だが、本当に自由な選択に理由は必要だろうか?」

 フォスターは眉を寄せた。

 「理由のない選択?」

 「ああ」

 ヴェインは二つの表示を見つめた。

 「理由があるということは、その理由によって選択が導かれているということだ。ならば、それは本当に自由なのか?」

 「……屁理屈に聞こえるな」

 フォスターが言うと、研究員の何人かが顔を上げた。

 だが、ヴェインは笑った。

 「そうかもしれない」

 博士はカプセルに近づき、ガラス越しに被験者を見つめた。

 「だから私は、確かめたいのだよ」

 「何を?」

 「人間から、あらゆる理由を取り除いたとき、それでもなお残るものがあるのか」

 ヴェインの声が低くなる。

 「もし残るものがあるのなら、それこそが自由なのではないか」

 フォスターは黙ってカプセルを見た。

 そのとき、被験者の指がわずかに動いた。

 ディスプレイに二つの選択肢が現れる。

 赤と青。

 ヴェインが研究員に目を向けた。

 「始めよう」

 研究員が端末を操作する。

 被験者は二つの色を見つめた。

 赤。

 青。

 やがて、右手がゆっくりと持ち上がる。

 指先が青に触れた。

 「青」

 研究員が記録する。

 画面が切り替わった。

 今度は、形の違う二つの図形。

 被験者はしばらく見つめたあと、左の図形を選んだ。

 さらに次。

 大きさの違う二つの図形。

 今度は右。

 ヴェインはそのたびに、研究員の端末を確認していた。

 「予測は?」

 「できません」

 「そうか」

 ヴェインは小さく頷いた。

 フォスターはディスプレイを見た。

 「何を基準に選んでるんだ?」

 ヴェインは画面に映る脳活動を見つめた。

 「それを調べている」

 「まだ分からないのか?」

 「分からないから、面白い」

 ヴェインは研究員の端末を覗き込んだ。

 「次だ」

 画面に、二つの記号が現れる。

 「◇」

 「△」

 どちらにも意味はない。

 被験者はじっと二つの記号を見つめている。

 十秒。

 二十秒。

 それでも手を動かさない。

 研究員がヴェインを見る。

 ヴェインは何も言わず、待った。

 やがて、被験者の右手がゆっくりと上がる。

 指先が「△」に触れた。

 「△」

 研究員が記録する。

 ヴェインは画面を見つめたまま、小さく頷いた。

 「もう一度」

 今度は別の二つの記号が表示される。

 被験者はしばらく見つめたあと、左の記号に触れた。

 「左」

 研究員が記録する。

 ヴェインは端末を受け取り、記録された数値に目を通した。

 「……予測できない」

 研究員が言った。

 ヴェインは答えず、画面を見ていた。

 やがて、端末を返す。

 「今日はここまでだ」

 研究員が操作すると、ディスプレイの表示が消えた。

 カプセルの照明も落ちる。

 室内に、機械の低い駆動音だけが残った。

 ヴェインはしばらくカプセルを見つめていた。

 それから、ふと思い出したようにフォスターを見る。

 「君なら、どうする?」

 「俺が?」

 「さっきの二つの記号だ」

 フォスターは少し考えた。

 「どっちでもいいなら、適当に選ぶさ」

 ヴェインはフォスターを見つめた。

 「適当に?」

 「意味がないんだろ?」

 「そうだ」

 「だったら、好きな方でいい」

 ヴェインは何も言わなかった。

 ただ、フォスターの顔をしばらく見ていた。

 「……そうか」

 小さく呟く。

 そして、視線をカプセルへ戻した。

 「マレー博士なら、どう答えただろうね」

 フォスターの表情が変わった。

 「……マレー博士?」

 「私は、あの人の研究をずっと追ってきた」

 先ほどまでの穏やかな表情が消えていた。

 

 


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