第四章 二つの人生
【ノース・テラス】
フォスターはノース・テラスへ向かう坂道を歩いていた。
街には、少しずつ夜の明かりが灯り始めていた。山側へ進むにつれて、人通りは少なくなっていった。
エリア98の山手に位置するこの地区には、住宅だけでなく、劇場やギャラリーなどの文化施設が集まっている。
坂を上りきると、木々の向こうにアルト・シアターの建物が見えてきた。
低く抑えられた外壁に、劇場名だけが白く浮かんでいる。入口にはすでに観客が集まり始めていた。
入口へ近づくと、係員の一人がフォスターに気づいた。
「フォスター様ですね。お待ちしておりました」
「俺の席があるのか?」
「はい。ご案内いたします」
フォスターは一瞬、係員の顔を見た。
チケットを買った覚えはない。そもそも、このエリアでは何をするにも金を払う必要がないと聞かされていた。
「こちらへどうぞ」
それ以上尋ねることもなく、フォスターは係員の後について中へ入った。
【アルト・シアター】
エントランスを抜けると、外観から想像していたよりも広いホールが現れた。高い天井には細い照明が幾筋も走り、壁面には木材と淡い色の石が使われている。華美ではないが、落ち着いた雰囲気の劇場だった。
客席には、すでに多くの人が座っていた。
係員に案内された席は、中央よりやや後ろだった。舞台全体を見渡すにはちょうどいい位置だった。
「開演まで、あと五分ほどです」
係員はそれだけ告げると、静かに立ち去った。
フォスターは椅子に腰を下ろした。
舞台にはまだ幕が下りている。
客席の話し声も、少しずつ小さくなっていった。
やがて照明が落ちた。
幕がゆっくりと上がる。
舞台の中央には、何も置かれていなかった。
ただ、左右にそれぞれ一脚ずつ椅子が置かれている。
フォスターは黙って舞台を見つめた。
静かな音楽が流れ始める。
ひとりの女が、舞台の中央へ歩いてきた。
ジュリアだった。
観客席から小さな拍手が起こる。
ジュリアは客席を見渡したあと、左右の舞台を交互に見た。
そして、右側の椅子に腰を下ろした。
照明が彼女だけを照らす。
「あなたなら、どちらを選ぶ?」
ジュリアがそう言った。
観客席が静まり返った。
舞台の上で、二つの人生が始まった。
左側の舞台には、やがて家庭ができた。仕事を辞め、結婚し、子どもを育てる。大きな出来事は起こらない。夫婦で食卓を囲み、子どもの成長を喜び、休日には家族で出かける。
ジュリアはその人生を、どこか穏やかな表情で演じていた。
一方、右側では同じ女が仕事を選んだ。
何度も失敗し、周囲から理解されず、それでも自分で決めた道を歩いていく。
舞台が切り替わるたび、ジュリアの衣装が変わった。
髪型まで変わっている。
左右の舞台を行き来するたびに別人のように見えるのに、ふとした仕草だけは同じだった。
それが、同じひとりの女なのだと分からせていた。
時間が進んだ。
左側の女には家族が増えた。
右側の女は、ひとりで暮らしていた。
左側では笑い声が増え、右側では沈黙が増えていった。
左側の女にも、やがて夫との別れが訪れた。
子どもたちはそれぞれの人生を歩み、家を出ていく。
広くなった家の中で、女はひとりで食事をする。
それでも、窓辺に置かれた写真を見て微笑む。
右側では、女がようやく仕事で認められる。
長い年月をかけて続けてきたことが、誰かの人生を変えていた。
だが、その頃には彼女自身の人生から、多くのものが失われていた。
ジュリアは、二人の女を交互に演じ続けた。
フォスターは、早変わりそのものよりも、二人の人生が少しずつ互いに近づいていくことに気づいた。
幸せだったはずの人生にも、孤独が訪れる。
苦しいだけだったはずの人生にも、確かな喜びが生まれる。
どちらにも、失うものがあり、得るものがあった。
やがて舞台の時間は、二人の女が老年を迎えるところまで進んだ。
左側。
老いた女が、家族から送られてきた写真を眺めている。
右側。
同じように老いた女が、若い頃に書いた一冊のノートを開いている。
客席は静まり返っていた。
そして最後の場面になった。
舞台の左右にあった家具が、ゆっくりと暗闇の中へ消えていく。
二つの舞台が、中央へ近づいていく。
そこに立っていたのは、ひとりのジュリアだった。
照明が少しずつ落ちていった。
最後にジュリアの姿だけが残った。
やがて拍手が起こった。
幕が下りると、客席のあちこちから感想を交わす声が聞こえ始めた。
フォスターは人の流れに従って、ロビーへ向かった。
エントランスには、すでに多くの観客が集まっていた。
その一角に、人だかりができている。
ジュリアだった。
芝居を終えたばかりの彼女を、何人もの観客や劇場関係者が取り囲んでいる。声をかける者、握手を求める者、感想を伝える者。ジュリアはひとりひとりに笑顔で応じていた。
フォスターは足を止めず、そのまま出口へ向かおうとした。
その時だった。
人の間からジュリアがこちらを見た。
一瞬、目が合う。
ジュリアの表情が変わった。
「フォスター!」
周囲の人々が振り返る。
ジュリアは何人かに断りを入れながら、人の間を抜けてフォスターのところへ近づいてきた。
「来てくれたのね」
「ああ」
「どうだった?」
フォスターは少しだけ考えた。
「よかった」
ジュリアは笑った。
「それだけ?」
「他に何を言えばいい?」
「そういうところよね」
ジュリアは楽しそうに笑った。
それから、少し声を落とした。
「ねえ。少し時間ある?」
「何かあるのか?」
「この芝居をつくった人が、あなたに会いたいんですって」
「オレに?」
「ええ。どうしても会いたいって」
フォスターはジュリアの背後に目を向けた。
まだ彼女を待っている人が大勢いる。
「今から?」
「ううん。もう少し時間がかかるわ」
ジュリアは周囲を見回した。
「関係者や友人にも挨拶しないといけないし、まだ何人か待ってくれている人もいるの」
「それなら……」
「近くにバーがあるわ。先にそこで待っていてくれない?」
「……」
「アルト・シアターから坂を少し下ったところ。『ルミエール』っていう店」
「わかった」
「一時間もかからないと思う。終わったら、彼と一緒に行くわ」
ジュリアはそう言って、フォスターの肩を軽く叩いた。
「それまで、ゆっくりしていて」
そう言うと、ジュリアは再び人の輪の中へ戻っていった。
フォスターはしばらくその様子を見ていた。
ジュリアは次々と声をかけてくる人たちに笑顔を向け、言葉を交わしている。
フォスターはロビーを出た。
夜の坂道には、劇場から漏れる明かりが細く伸びていた。
教えられたバーへ向かって、フォスターは一人で歩き始めた。
【BAR ルミエール】
アルト・シアターを出て坂を下ると、十分ほどで店が見えてきた。
「BAR ルミエール」と書かれた小さな看板が、建物の軒先で淡く照らされている。
フォスターは扉を開けた。
店内は、それほど広くなかった。
奥にはカウンターがあり、壁際にはいくつかのテーブル席が並んでいる。照明は落とされ、静かな音楽が店内に流れていた。
客は少なかった。
カウンターでは二人の男が静かに酒を飲み、奥のテーブルでは若い男女が向かい合って話している。
フォスターが店内を見回すと、店員が声をかけてきた。
「おひとりですか?」
「ああ。あとから二人来る」
「かしこまりました。では、こちらへどうぞ」
店員に案内されたのは、店の奥にある四人掛けのテーブルだった。
フォスターは窓側の席に腰を下ろした。
「何になさいますか?」
「ウイスキーを」
「ロックで?」
「ああ」
店員は注文を受けると、カウンターへ戻った。
やがて、氷の入ったグラスに琥珀色のウイスキーを注いだものを、テーブルまで運んできた。
「どうぞ」
フォスターはグラスを受け取り、一口飲んだ。
劇場を出たときより、夜は深くなっていた。
窓の外を人が通り過ぎていく。
坂道を下っていく者もいれば、これから山側へ向かう者もいる。
氷がグラスの中で小さく音を立てた。
フォスターはもう一口飲んだ。
時間がゆっくりと過ぎていく。
やがて、グラスの中の氷が少し小さくなった頃だった。
店のドアが開いた。
フォスターが顔を上げる。
ジュリアだった。
その隣には、四十代半ばくらいの男が立っている。
ジュリアは店内を見回し、フォスターを見つけると笑顔になった。
「遅くなってごめんなさい、フォスター」
「いや」
ジュリアが男を紹介する。
「彼が、この芝居をつくったエイドリアンよ」
男はフォスターに一歩近づき、右手を差し出した。
「初めまして。エイドリアン・ヴェイルです」
フォスターは立ち上がり、その手を握った。
「リアム・フォスターだ」
二人は短く握手を交わした。
エイドリアンが手を離し、フォスターの顔を静かに見た。
「お会いできてよかった」
「……」
ジュリアが二人を見ながら微笑んだ。
「じゃあ、座りましょう」
三人はテーブルを囲むように腰を下ろした。
ほどなくして店員がやって来た。
「ご注文はお決まりですか?」
ジュリアがメニューに目を落とす。
「私は白ワインを」
「私も同じものを」
エイドリアンが続けた。
店員がフォスターを見る。
「お客様は?」
「ウイスキーをもう一杯」
「かしこまりました」
店員は注文を確認すると、カウンターへ戻っていった。
しばらくして、三人の前に酒が運ばれてきた。
フォスターの前には新しいウイスキーが置かれ、ジュリアとエイドリアンの前には白ワインのグラスが並べられた。
「ありがとう」
ジュリアが店員に微笑む。
店員が離れると、エイドリアンが改めてフォスターに向き直った。
「先ほどは簡単に名乗っただけでしたね。私はエイドリアン・ヴェイル。劇作家です」
フォスターはグラスに手を伸ばした。
「今は、このエリアで劇を書いたり、演出をしたりしています」
「劇作家と演出家の両方?」
「ええ。小さな劇団を持っていて、そこを拠点に活動しています。アルト・シアターでは、年に何本か上演しています」
エイドリアンはワインを一口飲んだ。
「以前は別のエリアにいたんですが、ここへ来てから自分で作品を作るようになりました」
ジュリアが横から口を挟んだ。
「エイドリアンは、書くだけじゃないの。舞台装置から役者の動きまで、かなり細かく考えるのよ」
「細かすぎる、とよく言われます」
エイドリアンは苦笑した。
「でも、舞台はひとりでは作れません。役者やスタッフに助けてもらっています」
フォスターはウイスキーを一口飲んだ。
エイドリアンはフォスターをじっと見たあと、言った。
「フォスターさん。今夜の芝居、どうでした?」
フォスターはすぐには答えなかった。
グラスを持ち上げ、琥珀色の液体を眺める。
「……率直な感想を聞きたいんです。ここに住んでいる人間からすれば、見慣れた話なのかもしれません。でも、あなたは外から来たばかりだ。何か違って見えたんじゃないかと思って」
フォスターはウイスキーを一口飲んだ。
「……いい芝居だったと思う」
「それだけですか?」
エイドリアンは穏やかに笑った。
「……オレには、よく分からない」
「分からない?」
「いや。違うな」
フォスターは言葉を探した。
「たぶん、オレが見たものが、本当にそういうものだったのか……それすら、今は自信がない」
ジュリアとエイドリアンは黙ってフォスターを見ていた。
フォスターは二人から目を逸らし、グラスを置いた。
「ただ……あんたたちは、いいパートナーだと思う」
「ありがとう。それは褒め言葉と受け取っていいのよね」
ジュリアは微笑みながらフォスターからエイドリアンに目を移した。
「オレの感想なんか、そんなに気にしなくていい。自分たちの信じたものをやり続ければいいんだ」
【BAR ノード】
マスターは棚からボトルを取り出し、グラスに氷を入れた。
それから琥珀色の液体を静かに注ぐ。
グラスをカウンターの上に置くと、氷が小さく鳴った。
「どうぞ」
「ありがとう」
フォスターはグラスを手に取った。
緩やかなジャズの音だけが聞こえてくる。
「オレひとりだな……」
「この時間になると、少のうございます」
「……あんた、ネオイド(人型人工機械)かい?」
フォスターはマスターを見て言った。
「いえ、それは答えないことになっています」
マスターはフォスターから目をそらして言った。
「そいつは、いい答えだ」
フォスターはグラスを傾けた。
琥珀色の液体が、喉を静かに落ちていく。
グラスをカウンターに置く。
氷が、もう一度だけ小さく鳴った。




