第三章 女優と情報分析官
【BAR ノード】
「ボギーを知っているのかい?」
「もちろん」女は穏やかに微笑んだ。
「昔の映画は仕事柄、ずいぶん観たもの」
フォスターはグラスを置き、女へ視線を向けた。
「仕事柄?」
「女優をしているの。ジュリア・スターリング、ジュリアって呼んで」
「女優って?」
「映画やワールドストリーム(配信サービス)なんかじゃないの。山手にある小さな劇場に出てるの」
「劇場か……」
「それで生活できるのかって思ってるでしょ?」ジュリアは微笑みながら左手首のリストリングに触れた。
「エリア98ってところは、そこが素敵なの。単に十万人が観たからいいってことじゃなく、少数でも深く心を動かしたものの価値を評価してくれるの。
ここは貨幣の代わりにLVI(生活価値指数)をもらって生活しているの。何かを利用したり消費したりするときは、このコア・リンクから読み取ってもらうだけ、お金を払う必要はないの」
「ずいぶん変わった仕組みだな」
ジュリアは小さく微笑んだ。
「慣れれば不便は感じないわ」
フォスターは少し間を置いて口を開いた。
「オレのことは……」
「今、世界で一番の有名人、リアム・フォスター。お会いできて、とってもうれしいわ。マスター、もう一杯いただける?」
ジュリアはそう言うと、空になったワイングラスを軽く持ち上げた。
「でも、このエリアじゃオレは嫌われてるんじゃ?」
「そうでもないのよ。このエリアの人たちは、自分がどう生きるか、このエリアで暮らし続けられるか。そのことの方がずっと大事なの」
マスターは新しいワイングラスを静かに差し出した。
ジュリアは軽く礼を言い、それを受け取ると続けた。
「マレー博士を崇拝している人ばかりだと思われがちだけど、実際はそんな人、ほとんどいないわ」
「そいつが本当ならありがたいね」
ジュリアは少しだけためらうようにワイングラスを見つめた。
「あなた、彼女に会うんでしょ? こんなこと聞くのは失礼かもしれないけど……」
「彼女?」
フォスターは怪訝そうにジュリアを見た。
「あなたのもとを去って、このエリアへ来た人。ええと……何て名前だったかしら」
「それより、ここに住んでる人たちは、それぞれどんな生活をしているのか聞きたいな」
「そうね、ここは山があって街があって海もあるから、わかりやすく区分けされているわ。
山側には劇場、美術館、工房、小さな書店やカフェが点在していて、私みたいに役者をする者や画家や音楽家、要するに芸術家の人たちが多く住んでいるわ。
あとは哲学の人とか作家とか、そうそう出版社やメディア・ネットワークなんかもあるわ」ジュリアはワインを口に運びながら話を続けた。
「中央は生活の中心ね。ここで暮らす人は、人の毎日を支えてる。学校や病院、あらゆる行政機関。何でも手に入るモールが人気よ。あと、ここみたいに心を安らげるお店とかね」
「海側には埋立地もあったようだが……」
「海側は、明日をつくる人たちの街」
ジュリアはワイングラスを静かに回した。
「AI、医療、エネルギー、海洋開発……世界中から集まった研究者や技術者が、毎日何かを生み出しているわ」
「なるほど。山と街と海で、それぞれ役割が違うわけか」
「そうね。でも、住む場所は自由よ。私だって、好きで山側にいるだけ」
「山側の劇場にいるんだな」
「ええ。今夜も芝居があるのよ」
「君の?」
「興味ある?」
「せっかくだ。エリア98で最初に観る芝居が、君の舞台でも悪くない」
「ふふ。じゃあ、来て。今夜の八時。山側のノース・テラスにある『アルト・シアター』よ」
「アルト・シアター?」
「そう。坂を上ったところ。劇場やギャラリーが集まっている場所よ」
「わかった」
「本当に?」
「約束する」
ジュリアは満足そうに笑い、残ったワインを飲み干した。
「じゃあ、私は先に行くわ。開演前に衣装合わせがあるから」
「俺も一度、部屋に戻る」
「八時よ。忘れないで」
「忘れない」
ジュリアは軽く手を上げると、フォスターより先にバーを出ていった。
フォスターもグラスを空にし、席を立った。
「お帰りですか?」
マスターに声をかけられ、フォスターは振り返った。
「ああ。今夜、また来るかもしれない」
「お待ちしています」
フォスターはバーを出た。
【エリア98 情報分析部・ブリーフィングルーム】
窓のない部屋だった。
壁面のディスプレイには、エリア98の街並みを上空から捉えた映像が映し出されている。山側から中央部を抜け、海側へ広がる街の輪郭。その上に、住民の移動や施設の利用状況を示す細かなデータが重なっていた。
エレナ・ハートは三十代半ば。肩にかかる髪を整え、シンプルな服装をしている。端正な顔立ちにはどこか華やかさがあり、落ち着いた物腰の中にも、人の目を引くものがあった。
彼女はテーブルの向こうに座るローウェルを見た。
五十代半ば。白髪の混じった短い髪をきれいに整え、濃紺のジャケットに襟のないシャツを合わせている。ネクタイはしていない。
派手さのない服装だったが、姿勢には隙がなかった。
「今日は休暇日でね、ラフな格好で来てしまったよ。初めて来たが、すごい部屋だね」
「申し訳ありません。もう少し気の利いた部屋を用意できればよかったのですが……」
「いやいや、こちらこそ急に連絡してすまなかった。仕事に差し支えたのでは?エレナ・ハート……エレナと呼んで構わないかな?」
エレナは頷いたが緊張を解いた様子はなかった。
「現在は差し迫った問題もありませんので……」
「君は情報分析官ということだが、GAA(世界エリア管理機構)直属だったね」
「はい、このエリアで資格を取ったのですが、GAAの直属となり、エリア98支部に配属されています」
「なるほど」
ローウェルは頷いた。
「とても優秀だということだね。このエリア98に来る前はエリア34で暮らしていたということだが、何をしていたのかな?」
「民間の社会情報リサーチャーをしていました。とても忙しく自分らしい生活を送ることができませんでした。マレー博士のことを知り、ここへ来ることを決めたんです」
「その時、フォスターは何と言ったのかな?」
「不思議がっていました。私の仕事が順調そうに見えていたからだと思います」
「フォスターの仕事は?」
「彼はインフラの保全や災害復旧に携わる技術者だったのですが、半年ほど前に仕事を辞めていました」
「何かあったのかな?」
「……わからないんです。私たち、お互いに仕事の話はしなかったので。でも、突然だったのでびっくりしました」エレナは膝の上で指を組み直した。
「その後、何というか二人の間に変わったところが出てきたのかな?」
「私は仕事を続けていましたので、家のことはほとんど彼がやってくれました。失業保険もありましたから、経済的にも不安はありませんでした」エレナは思いを巡らせながら言った。
「君がここへ移住することは彼の生活への不安につながらなかったのかね?」
「彼はいろいろな技術を持っていましたから、必要になれば仕事を見つけることはできたと思います。蓄えもありましたし」
「君との別れの時、彼は取り乱していたりしなかったかね?」
「いえ、『元気で』と一言だけ。あの人あまり感情を表に出さないんです」
「……ありがとう。よくわかった。最後にひとつお願いしたいことがあるのだが、一度フォスターと会って話してもらえないか?」
「それは、何かを聞き出すということですか?」
「彼が、このエリアに対してどう感じているかを知りたいんだ。今現在の彼の考えをね」
「エリア長がお望みなら喜んで協力させていただきますわ」
「ありがとう。エレナ君。君の働きに対しては、このエリア内で、できる限り便宜を図らせてもらうよ。日時と場所については、後日こちらから連絡する」ローウェルは安堵したように息を吐いた。
「わかりました。連絡お待ちしています」
「余計なことなのだが、エレナ君は、なぜフォスターみたいな男を選んだのかね?」
「連れて歩くには、絵になる男ですし、私にはちょうどよかったんですわ」
「ふむ、そういうものなのかね……」
「女にとっては大切なことですわ」エレナは初めてローウェルに笑顔を見せた。




