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第二章 理想の街

 【エリア98 入域ゲート】



 山の斜面には異国情緒あふれる石造りの建物が並び、その麓には整然とした街並みがどこまでも続いている。遠くには陽光を受けて輝く海が見えた。

 世界中の人々が憧れ、移住を夢見る都市──エリア98。

 黒いスーツに身を包んだ護衛官が二人、輸送車から降りてきた。

 一人が行政庁舎の方へ静かに手を向ける。

 フォスターは無言のまま、その後に続いた。


 【エリア98 行政区】


 入域ゲートを抜けると、一台の黒い公用車が待機していた。

 後部座席のドアが開かれる。

 フォスターは促されるまま車へ乗り込み、その両脇を護衛官が固めた。車は音もなく発進した。

 窓の外には、美しく整備された街が流れていく。

 街路樹の並ぶ歩道では、人々が思い思いの朝を過ごしていた。 オープンテラスでは談笑しながら朝食を楽しむ者がいれば、ジョギングをする者、自転車で職場へ向かう者の姿もある。

 穏やかな時間が街全体を包み込んでいた。

 その誰一人として、公用車の中に死刑囚が乗っていることなど知る由もない。

 フォスターは景色から目を逸らすことなく、ただ静かに眺め続けていた。

 やがて車は行政庁舎の地下搬入口へ滑り込む。

 車を降りて、エレベーターで最上階まで上がる間も、誰一人として口を開かなかった。

 扉が静かに開いた。

 正面には、左右に絵画が飾られた長い廊下がまっすぐ伸びていた。窓の外には、朝日に照らされたエリア98の街並みが広がっている。

 護衛官に先導され、フォスターは一定の歩調で廊下を進んだ。

 やがて、廊下の突き当たりに重厚な木製の扉が現れる。

 一人の護衛官が足を止め、扉を三度ノックした。

 「フォスター受刑者をお連れしました」

 「入りたまえ」落ち着いた声が返ってくる。

 扉がゆっくりと開かれた。

 フォスターは一歩、中へ足を踏み入れる。


 【エリア98行政庁舎 エリア長室】


 床から天井まで伸びる大きな窓の向こうには、山から海へ続く街並みが一望できた。

 窓際に立つ一人の男が、静かに振り返る。

 ローウェルは目の前に立つフォスターをじっくりと見た。

 三十代半ば。短く刈り込まれた黒髪に、日に焼けた精悍な顔立ちをしていた。

 「ようこそ、エリア98へ、フォスター君。そのソファへ座って」ローウェルはフォスターを促すと、護衛官に目を向けた。

 「ここからは私が預かる。所長にはこちらから連絡しておこう」

 護衛官たちは短く敬礼し、静かに部屋を後にした。

 ローウェルはフォスターの向かいのソファに腰を下ろした。

 「私はこのエリア98の責任者ヴィクター・ローウェルだ。体験移住を承諾してくれたことに感謝している」

 ローウェルは手を差し出したかったが、フォスターが拘束具を着けたままだったのでやめることにした。

 「ノクターンでの生活はどうだった?」ローウェルはフォスターの様子を伺うように見た。

 「そうだな。オレはあまり無理な要求をしなかったが、高級ホテル並みに行き届いていたよ」

 ローウェルは、フォスターが思っていた以上に落ち着いていることに少なからず驚いていた。

 「それは、素晴らしい。ここも気に入ってもらえるといいんだがね。手続きはすべて終わっているから、これからのことを説明しておこう」ローウェルは手元のパーソナル端末を軽く操作した。

 「まず、君が一か月を過ごす住居について説明しよう。行政庁舎から徒歩十分ほどの場所に、専用の居住区画を用意してある。

 君の居室にはAIアシスタントが常駐している。生活の補助、情報検索、行政手続き、健康管理はすべて担当する。

 家具や家電、日用品も一通り揃っている。不足している物があれば口頭で伝えるだけでいい。もちろん、壁面のコンソールから直接申請することもできる。

 それと、君はこの一か月、エリア98のゲストだ。労働の義務はない。エリア内で必要な物は、食事を含め、すべて無償で提供される。

 店や施設を利用する際も支払いは不要だ。欲しい物があれば、遠慮なく受け取ってくれ。それも今回の滞在に含まれている。」

 ローウェルはもう一度フォスターの様子を伺いながら言った。

 「ここでは、自由に生活してもらって構わない。このあとすぐ、その拘束具を外させよう。

 ただ、フォスター君に理解してもらいたいのだが……君にニューロ・リミッター(神経制御装置)を皮下に埋め込ませてもらいたい。

 万が一の為の処置だ。ここの住民の何割かは、ニューロ・リミッターを皮下に埋め込んでいる。あくまでも互いの信頼を前提とした安全措置だ」

 ローウェルはフォスターが頷くのを見て続けて言った。

 「最後に、滞在を終える日に、このエリアでの生活について意見を聞かせてもらいたい。まあ、簡単なアンケートだと思ってくれればいい。説明は以上だ。何か聞きたいことはあるかね?」

 ローウェルは立ち上がりながら言った。

 「静かに飲めるバーはあるのかな?」

 「すぐ近くに一軒あったと思う。私はアルコールはやらないので詳しくないが、居室のAIアシスタントが店の案内から予約までしてくれる」

 ローウェルはスペンサーを呼んだ。

 「拘束具を外してもらいなさい。居室へは、副長が案内してくれる。一か月間いい時間を過ごせるよう願っているよ」

 ローウェルは穏やかな笑みを浮かべたまま、フォスターとスペンサーの背中が扉の向こうへ消えるまで見送っていた。

 エリア長室を出ると、スペンサーが先に立って歩き始めた。

 「こちらです」

 二人は静かな廊下を進み、突き当たりにある医務室へ入った。

 室内では白衣姿の医師と看護師が待機していた。

 「ニューロ・リミッターの埋め込みは五分ほどで終わります。局所麻酔を使用しますので、痛みはほとんどありません」

 フォスターは黙って診察台に腰を下ろした。

 医師は耳の後ろを消毒し、麻酔を施す。感覚が薄れていくのを確認すると、小さく切開し、米粒ほどの黒いカプセルを皮下へ滑り込ませた。

 「終了しました。傷は数日で塞がります。激しい運動だけ控えてください」

 医師が傷口を保護材で覆うと、待機していた職員がフォスターの手錠と足首の電子拘束具を外した。

 金属音が静かな室内に響く。

 フォスターは手首を軽く回し、拘束から解放された感覚を確かめた。

 医務室を出てエレベーターに乗り行政庁舎を後にした。 

 エリアの中心部には緑豊かな公園が見え、その先には高層ビル群、さらに遠くには穏やかな海が陽光を反射して輝いている。背後には山並みが連なり、都市と自然が違和感なく溶け込んでいた。

 スペンサーはエントランスを抜けると、緩やかな坂道を数分歩き、一棟の中層マンションの前で足を止めた。

 外壁は白を基調とした落ち着いた造りで、建物の周囲には低木や季節の花が植えられている。

 「こちらです」二人はエレベーターで上階へ向かった。

 廊下には柔らかな照明が灯り、人の気配はあるものの物音はほとんどしない。

 スペンサーは一室の前で立ち止まると、ドアに手をかざした。

 短い電子音とともにロックが解除され、扉が静かに横へ滑る。

 「ここがフォスターさんの居室です」

 フォスターは室内へ足を踏み入れた。


 【エリア98 居室】

 

 リビングは天井が高く、大きな窓から柔らかな陽光が差し込んでいる。窓の先には整然とした街並みが広がり、その向こうには青い海が見えた。

 室内は必要以上に物を置かず、落ち着いた色調で統一されている。ソファ、テーブル、書棚、キッチン、冷蔵庫、洗濯乾燥機、浴室、寝室まで、一人で暮らすには十分すぎる設備が整っていた。

 壁際には大型のディスプレイが埋め込まれ、その隣には音声操作用のコンソールが設置されている。

 「こちらがコンソールです。不足する物はここから申請してください。」

 その瞬間、室内に穏やかな女性の声が響いた。

 「ようこそ、フォスターさん。私は、この居室を担当するAIアシスタントです。一か月間、生活のサポートを担当いたします。ご不明な点やご要望がございましたら、いつでもお申し付けください」

 フォスターは声のする方へ視線を向けた。

 姿はない。

 あるのは壁のディスプレイに映し出された簡素な青い光のアイコンだけだった。

 フォスターは壁に映し出された青い光の表示をしばらく眺めた。

 「必要な時は呼ぶ」それだけ言うと、フォスターは視線を窓の外へ向けた。

 「では、私はこれで失礼します。何かあればAIアシスタントを通じて連絡してください」スペンサーは静かに部屋をあとにした。

 フォスターはクローゼットから着替えを取り出し、浴室へ向かった。

 シャワーの栓をひねると、すぐに温かな湯が降り始める。

 湯を浴びながら髪をかき上げ、首の後ろの傷口に湯が直接当たらないよう片手を添えた。肩から胸、背中へと湯を流し、火照った体を静かに洗い流していく。

 壁際にはシャンプーやボディソープが整然と並び、厚手のタオルも用意されていた。ホテルの一室と変わらない設備だった。

 シャワーを止めると、タオルで体を拭き、ドライヤーで髪を乾かした。

 新しい衣服に袖を通し、青いアイコンに向かって言った。

 「この時間でも、やってるバーはあるのかい?」

  数秒の間を置いて、AIアシスタントが答えた。

 「はい。エリア98内には午前十時から営業しているバーが三店舗あります」

 フォスターはわずかに眉を上げた。

 「午前中から?」

 「はい。エリア98では、住民の生活リズムや勤務形態が多様化しているため、飲食店の営業時間は一般的な都市より柔軟に設定されています」

 「なるほど」

 フォスターは窓の外へ目を向けた。

 「静かな店は?」

 「現在の時間帯であれば、最も利用者が少ない店舗をご案内できます。過去の利用状況、店内の音響環境、客層データから判断すると、最適な店舗があります」

 「客層まで分かるのか」

 「公開されている範囲の情報、および店舗側が許可したデータを基にしています」

 「案内してくれ」

 「承知しました。移動経路を表示します」

 壁面のディスプレイに街の地図が浮かび上がる。

 フォスターは部屋を出ると、エレベーターで一階へ降りた。

 居住棟から出ると初夏の陽射しが街を明るく照らしていた。山から吹き下ろす風はほどよく乾き、シャワーを浴びたばかりの肌を心地よく撫でていく。

 歩道を行き交う人影はまばらだった。街には喧騒とは無縁の、ゆるやかな時間が流れている。

 フォスターは足を止めることなく坂を下る。

ガラス張りのオフィスビルの間に、煉瓦造りの建物や洋館風の店舗が混ざり合う。整然としていながら画一的ではない街並みは、人の手で長い年月をかけて育てられたような温もりを感じさせた。 

 石畳が敷かれた静かな通りに、小さなバーが佇んでいる。

 飾り気のない木製の扉の脇には、真鍮のプレートが控えめに掲げられていた。

 BAR ノード

 フォスターは一瞬だけ店名に目を向けると、何のためらいもなく扉を押し開けた。


 【エリア98 BAR ノード】


 店内は外観と同じく落ち着いた造りだった。

 磨き込まれた木のカウンターが奥までまっすぐ伸び、その背後には色とりどりのボトルが整然と並んでいる。    

 静かなジャズが店内をゆるやかに満たしていた。

 客は三人。

 カウンターの端で一人グラスを傾ける女性と、離れたテーブルにひとりずつ座る男が二人。

 扉の開く音に、三人がほぼ同時に視線を向けた。

 その目が一瞬だけ見開かれる。

 世界中のニュースで何度も見た顔。

 マレー博士を殺害し、死刑執行を待つ身でありながら、エリア98で一か月を過ごすことになった人物。

 興味と戸惑いの入り混じった視線が、彼を静かに追っていた。

 フォスターは気に留める様子もなく店内を見渡し、空いているカウンター席へ向かった。

 椅子を静かに引き、腰を下ろす。

 カウンターの奥にいた男が顔を上げた。

 「いらっしゃいませ」

 白いシャツに、黒のベスト。その上から濃いチャコールグレーのロングエプロンを身につけ、袖は手首が見える程度まで折り返している。

 「マスター、ドランブイはつくれるかい?」フォスターは男を見据えて言った。

 「もちろんです」マスターは静かに答えた。

 「うれしいね。ロックで頼むよ」

 「かしこまりました」

 マスターは背後の棚から、琥珀色のラベルをまとったドランブイのボトルを取り出した。

 透明なロックグラスに、大ぶりの氷を一つ滑らせる。氷が底に当たり、乾いた音が静かな店内に小さく響いた。

 ボトルをゆっくりと傾けると、とろみを帯びた琥珀色の液体が氷を伝いながら静かに満ちていく。グラスの中で蜂蜜を思わせる黄金色がゆらめき、ほのかにハーブとスパイスを含んだ甘い香りが漂った。

 マスターは一度グラスを目の高さまで持ち上げ、酒の表情を確かめるようにわずかに角度を変えると、フォスターの前へ静かに置いた。

 「お待たせしました。ドランブイのロックです」

 フォスターは一口あおると、静かにグラスを置いた。

 「ボギーが好きだったお酒ね」

 不意に、女の声がした。

 フォスターが視線を向けると、カウンターの端でひとりグラスを傾けていた女がこちらを見ていた。

 アイボリーのリネンシャツの袖を肘までまくり、ネイビーのワイドパンツをすっきりと着こなしている。肩まで伸びたダークブラウンの髪が、照明を受けて柔らかな艶を帯びていた。

 女は手にした白ワインを静かに口へ運ぶと、空いている隣の席へゆっくりと腰を移した。


  

 


 

 






 




 









 






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