第一章 死刑囚エリア98へ
【エリア34 フードラウンジ】
セオドア・ブレイクが従事している文芸翻訳という仕事は、世間が思うほど優雅なものではなかった。
AIによる自動翻訳が世の文字媒体の九割九分を支配するこの時代、人間に発注される仕事といえば、「極めてニッチで、泥臭い微調整が必要な古い文献」の翻訳ばかり。
当然のように単価は安く抑えられ、寝る間を惜しんで数をこなさなければ、このエリアの片隅で生きていくことすらままならない。
つくづく独身でよかったと胸を撫で下ろしている。もし守るべき家族や、機嫌を取らなければならない恋人がいれば、彼のささやかな生活は一瞬で破綻するだろう。人付き合いもほぼ皆無だ。
彼にとって「他人に時間を奪われること」は、自らの生存領域を脅かされるに等しい大罪だった。
セオドア・ブレイクは、初夏の朝の光がまだ街の輪郭を決めきらない時間にフードラウンジに入った。
通りに面したガラスはわずかに曇り、外の景色は擦りガラス越しのようにぼやけている。彼は迷わずカウンターの端に腰を下ろし、最も時間のかからない朝食とコーヒーを注文する。
今日中に仕上げなければならない翻訳原稿が百三十ページ以上残っている。ため息をつきながら、ふと壁に埋め込まれたスクリーンに目をやった。
「マレー博士殺害事件で死刑判決を受けたリアム・フォスター受刑者が、エリア98地区からの一か月間の体験移住要請を正式に受諾しました」女性キャスターが少し興奮気味に話している。
スクリーンにリアム・フォスターが何か質問を受けて答えている映像が流れているが音声はカットされていた。
画面の下には、
死刑囚 リアム・フォスター
と表示されている。
「女に逃げられた腹いせで世界一の科学者を殺すなんてな」
「しかも移住した先がエリア98だろ?」
「そうそう。同棲してた女が博士の思想にハマってさ。審査を通ってエリア98へ移住したらしい」
隣に座っている釣り仲間らしき二人組が画面を食いつくように見ている。
──リアム・フォスター……間違いない、隣に住んでいた男だ。しかし、あの男がマレー博士を殺害するとは……
セオドア・ブレイクはしばらくスクリーンに見入っていたが、コーヒーを飲み干して店を出た。危うく時間を潰されるところだった。腕時計を見ながら翻訳原稿のある部屋へ足を速めた。
【エリア98行政庁舎 エリア長室】
床から天井まで伸びるガラス窓の向こうには、朝日に照らされた街並みが広がっていた。
山の緑は海へ向かってゆるやかに傾斜し、その先には白い波頭がきらめいている。歴史ある石造りの街並みと、ガラス張りの高層建築が違和感なく溶け合う景観は、このエリアを象徴していた。
アポもなく突然にやってきたコリン・ラドフォードはソファにどっしりと腰掛けていた。
スキャンダルを専門とする彼をジャーナリストと呼ぶことに違和感を覚えているのはエリア長のヴィクター・ローウェルだけではないだろう。
栗色で長めの髪を無造作に後ろに流し、ダークオリーブ色のジャケットの袖口は擦り切れシワが寄っている。
対するヴィクター・ローウェルは、濃紺のスーツを寸分の狂いもなく着こなしていた。肩から袖にかけて一筋の皺もなく、白いシャツの襟元は糊が利いている。
落ち着いたワインレッドのネクタイは喉元で正確に結ばれ、磨き上げられた黒革の靴には窓から差し込む朝日が静かに映り込んでいた。
「三年ぶりですかね、ローウェルさん」ラドフォードが外の景色を見ながら言った。
「三年と半年は経っているよ」ローウェルは、妙に落ち着き払ったラドフォードの態度に苛立ちを覚えた。
「君がやって来た目的はおおよそ見当がついている。そのことについて承諾できないだろう」
「私がまだ何も言ってないのに、もうダメだとおっしゃるんですか?」ラドフォードは目を見開いてローウェルの方を向いた。
「リアム・フォスターにインタビューしたいんだろう?だが、そんなことをノクターン(国家保安特別施設)が許可するはずもない。GAA(世界エリア管理機構)からもペナルティを受けるだろう」
「私はもう引退しようと思ってるんですよ。政治家や大物のタレントのスキャンダルで稼がせてもらいましたからね。どこか静かなところで別荘とヨットでも買って暮らそうと考えてるんです」
「それなら、ここに来て火種を起こす必要もないだろう。ラドフォード、君は成功者なのだからね」
「私は仕事で来たんじゃないと言ってるんですよ。オフレコでのインタビューをお願いに来たんです」
「意外だよ。君はもっと人間の欲望に満ちた事案に情熱を注いでいたはず。確かにリアム・フォスターは今話題の人物だが、インタビューする価値があるとは思えない」
「そこなんですよ、ローウェルさん。私は今まで数多くのスキャンダルを暴いて世間を驚かせてきました。でも私に言わせりゃ、いかにもやりそうなヤカラが“お決まりの愚行”に至ったに過ぎない。金にはなったが、心躍るような仕事なんてひとつもなかった」
「なぜ、それほどリアム・フォスターに惹かれるのか、私には理解に苦しむよ」
「あなたの口からそんな言葉を聞くとは思いませんでしたよ。フォスターをここへ招くのはあなたの考えでしょう?どういうつもりです?」ラドフォードは食い入るようにローウェルを見た。
「考えればわかるだろう。エリア98はマレー博士の思想をもっとも忠実に反映させた実験都市だ。今はもう実験の段階を超えて完全都市としての地位を得ている」
「GAEA(世界エリア評価機構)のランキングでも二年連続一位でしたね」
「今やこのエリアで生活すること自体がこの上ないステイタスとなっている。だからと言って、このままで満足するつもりはない。他のAIシステムによるいくつかのエリアが日進月歩で進化している」
「それで、マレー博士の思想に反旗を翻したフォスターを取り込むって訳ですか?」
「彼の考えも聞いてみたい。そういうことだ」
「世間じゃ、一緒に住んでいた女をこのエリアに奪われた腹いせだと言われてます。だが、そんな話を本気で信じてるのは、見出しだけ読んで満足する連中くらいですよ」
「君はさっきフォスターはマレー博士の思想に反旗を翻したと言ったが……」
「マレー博士が現れるまで、エリアの設計はすべてAI任せだったじゃないですか。どのAIシステムも『効率』『安全』『最適化』を絶対の指針にして都市を築いていた。」
「遠い昔のことのように思えるね」
「そんな中、マレー博士が現れた。『選択の自由こそ、人間社会で最も優先されるべき価値だ』という論文を発表し、それまで絶対だった常識を打ち砕いた」
「そう、博士の出現は衝撃的、いや人類史上最大の奇跡と称賛された」
「驚いたのは堕落することや死を選ぶことさえマレー博士は推奨したことですよ」ラドフォードは呆れたように言った。
「誰もが考えもしなかったことだからね」
「最初は有識者から非難の的でした。しかし、やがて若い世代から熱狂的な支持を集め、カリスマ的存在となりましたからね。」
「博士が殺されたあとも、彼が残した論文は、今なお多くのAIシステムに取り込まれ、各地のエリア設計の基盤となっている。」
「そのマレー博士に鉛の弾を五発もぶち込んだ男、リアム・フォスターをどう考えますか?」
「君はどう思う?」
「それを知りたくてインタビューをお願いしているんですよ」
「だから、それはさっきも言っただろう。このエリアだけで判断できることじゃない」
「だからオフレコでお願いしてるんです。公表はしないと約束します。本当に損得抜きの好奇心でやって来たんですから」
「どうにもならんのだよ……」
ラドフォードはゆっくりと姿勢を正した。
「それなら言わせてもらいますけどね。三年前、いや三年と半年前か。あなたのあのスキャンダル、お忘れじゃないですよね?」
ローウェルの表情がわずかに強張った。
「あの時、あなたはまだ、このエリアの責任者じゃなかった。それにしても、あの案件は結構なスキャンダルでしたよ」
「ラドフォード、君は……」
「結局、私は公表を見送った。まあ、あの時はほかに大きな案件がもうひとつありましたからね…あなたは私に感謝していたはずだ」
「私を脅すつもりか?」ローウェルはラドフォードを睨みつけ言った。
「こんなことを言うつもりはなかったんですよ。あなたはもっと物分かりのいい人だと思っていましたからね。でも今や、あなたは栄光あるエリア98のエリア長です。あなたのスキャンダルのニュース価値は、あの頃とは比べものにならないでしょう。」
「……」
「言っておきますが、もし私の身に何かあれば、その瞬間にあなたのスキャンダルは各メディア・システムへ送信されます。そういう手配は、もう済ませてあります。これまで何度も命を狙われていますからね」
重苦しい沈黙が部屋を支配した。
やがてローウェルは長く息を吐いた。
「……リアム・フォスターは一か月このエリアに在住する。その最後の日に時間を取ろう。日時は明後日連絡する」
「ありがとうございます、ローウェルさん」
ラドフォードは大げさな笑みを浮かべ、両手でローウェルの手を握ると、エリア長室を後にした。
入れ替わりに副長のノア・スペンサーが入ってくる。
「エリア長、あの男はいったい何者ですか?」スペンサーは怪訝な表情を浮かべながら言った。
「いや、彼は世間で言われているほど悪い男じゃない。リアム・フォスターに関して協力してもらうことにした」
「でも、あの男は……」
「あくまでもオフレコでの調査に参加してもらうだけだよ。心配はいらない」
ローウェルはソファにもたれ、ゆっくりと目を閉じた。その横顔には、思案に沈む静かな影が差していた。
【エリア98 入域ゲート】
ゲートの前で、一台の黒い輸送車が静かに停止した。後部ドアが開き、両手を拘束された男がゆっくりと地面へ降り立つ。
リアム・フォスターは目の前に広がる街並みを一瞥した。




