1「英雄の、頭が痛い日常」
「エルぅ~~~~っ!」
とある秋の朝、エルは愛娘の騒々しい声に叩き起こされた。
「んがっ……ルキ、静かに……ぐふぉっ⁉」
苦しさに目を開くと、身長三キュビト半(約一六〇センチ)にまで立派に成長したルキが、エルの上に馬乗りになっていた。エルが寝ている間に合鍵で部屋に入り込み、このとおりベッドへダイブしてきたのだろう。
「ルキ、お前、いつまでも出会ったころみたいになぁ! 体格を考えろっ。だいたい、十歳のときに部屋を分けたのはなんのためだと思ってやがる」
「え~? ルキ、よく分かんなぁい」
ルキがエルのあごひげに頬ずりしながら、楽しそうに笑う。
「ったく、いつまでガキのつもりでいるんだか」
ルキも、もう十四歳。あと半年もすれば、成人なのだ。
二十代半ばに達したエルは、腹筋に力を込めて起き上がった。遠慮なく全体重を預けてくるルキを、難なく押し返す。いくら娘が重くなったとはいえ、まだまだ娘に押し潰されるような歳ではない。
「その言葉――」
大きく開け放たれたドアの向こうから、エルが苦手とする人物が言葉を投げかけてきた。
「そっくりアナタに返すわよ、サリエル」
苦手としつつも、ついつい目で追ってしまう魅力的な女性。
「マリア。マグダラ協会の若き協会長サマがモーニングコールとは、贅沢な話だな。あとが怖いぜ」
エルの命と人生の恩人にしてマグダラ協会のトップ・マリアだ。
齢三十に達した彼女はしかし、初めて出会ったころと同じく、その驚異的な美しさはいささかも損なわれていない。むしろ言いしれない色香を身にまとっていて、マグダラ協会内の男たちをますます夢中にさせている。
「急ぎの仕事を指示しにきたのよ。キュクロプスとの平和条約締結の件、いよいよ可能性が高くなってきたの」
「ついに終戦か! 長かったなぁ」
「それで、カペナウムの村跡で調印式を結ぶことになりそうだから、安全確保のために状況を見に行ってもらいたいのよ」
「そんくらい、他の奴らでもやれるんじゃ? それこそ、リディアとかどうよ」
「あの子はアナタほど竜言語魔術に長けていないから。丹田の調子はどう? 【万里眼】は使えそう?」
「なるほど、承知した」
「そういえばリディア、結婚するそうよ」
「マジか。あのちっこかったリディアがなぁ」
「アンタは結婚しないの、エル? もういい歳でしょう」
「その言葉、そっくりそのままお返しするぜ、マリア」
「えっ、なになに、『麗しいマリア様と結婚したいです』ですって⁉」
マリアが艶やかに微笑む。その色香といったらもう、頭がクラクラしてしまいそうなほどだ。
「い、言ってねぇよ」
エルは自制心を総動員して、マリアの顔や体から視線を引き剥がした。
「ふふふっ。その気になったら、いつでもいらっしゃい」
「…………」
かつてマリアに命と人生を救われたエルとしては、マリアの気持ちはうれしい。だが、だからといって、エルにはマグダラ協会を背負って立つほどの覚悟はない。
マリアと結婚するということは、そういうことなのだ。
会長は引き続きマリアがやってくれるだろうが、協会運営の重責の何割かは背負わされることになるだろう。少なくとも、副会長くらいはやらされることになる。
現場一筋でやってきたエルは書類仕事が死ぬほど苦手であり、人を動かす仕事がもっと苦手なのだ。
それに、マリアの手を取れずにいる理由がもう一つある。それが、
「がるるるるる……」
マリアに対して威嚇姿勢を取っているルキ。喉が【竜変身】しかけているのか、竜が威嚇のときに喉を鳴らすときのような、不慣れな者が聞いたら失神しそうなほど恐ろしげな音が出ている。
「おい、ルキ。それ、今すぐやめなさい」
「むぅ、エルが言うなら」
ルキが背後から抱きついてきた。この数年で立派に育った乳房が背中に押しつけられ、エルとしては精神衛生上よろしくない。
「早く出ていってよ、マリア。マリアがいたら、エルが着替えられないでしょ」
「それはお前も同じだ、ルキ!」
エルはルキとマリアを部屋から追い出した。




