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1「娘、気づく」

 エルがゴリアテと会敵する少し前――。

 ルキは、当て所もなくダヴィド上空をさまよっていた。


(どうしよう……これからどうすれば?)


 眼下では、キュクロプスたちがダヴィドの街を破壊している。

 マグダラ協会所属のライダー見習いとしては、奴らを鎮圧するために動くべきなのかもしれない。だが、たった今、大多数の民たちから圧倒的殺意を向けられたばかりのルキとしては、とても、ダヴィド防衛のために命を懸ける気にはなれなかった。ダヴィドの民を守るつもりで下に降りても、その民から攻撃される可能性があるからだ。


(ダヴィドを去る? でも、じゃあどこへ行けばいいの?)


 再び北の山に籠もり、野生動物のような生活をしろ、とでも? マグダラ協会寮の住心地のよさ――毎日二食出てくる食事、温かなベッド、贅沢な浴場を知ってしまった今、山暮らしに戻るのは苦痛だった。

 それに、今はガブリエルがいる。人間形態の自分だけなら、食料もなんとかなる。だが、竜形態のガブリエルを満たすだけの食料となると、並大抵のことではない。

 それに、なにより――。


(安心感が、欲しい)


 安心。これに勝る喜びは、なかった。母親と乳母と家をいっぺんに失ったルキは、『安心感』というものがいかに重要なのか、泣き出しそうなほどの実感をもって知っている。

 安心がなければ、竜も人も簡単に狂う。事実ルキはエルに出逢うまで、ほとんど発狂寸前まで追い込まれていた。

 今はまだ、辛うじて食えている。だが、冬がくれば? 食べ物はなくなり、何より寒さがくる。今の自分に、毛皮の衣類を準備するだけの余裕があるのか? ならば人里に降りて助けを求めるか? どうやって? 人間語も分からないのに?

 そもそもダヴィドの民は愛する母を殺した憎き民だ。万が一、上手く街に入れたとして、母の仇たちと上手くやっていけるのか?


(エル……)


 そのすべてを一瞬のうちに解決してくれたのが、エルだった。彼はルキに食料と寝床と風呂と衣類と、何より安心をくれた。『エルのところの子供』という立場を与えてくれて、ルキがダヴィドを歩いていても怪しまれないようにしてくれたのだ。


(エルに逢いたい……)


 自ら拒絶しておきながら、ルキは矛盾した感情にさいなまれていた。

 自分の母を殺したエル。

 そのことを、自分に対して秘密にし続けてきたエル。

 恨んで、恨んで恨んで恨んで、どれほど恨んでも恨み足りないほどの相手であるはずの、エル。

 なのに、逢いたい。

 ルキは必死に、エルのことを忘れようとする。いつも頭をなでてくれる、エルの大きな手。大きな背中。包容力のある胸板。少し子供っぽい、はにかむような笑顔。

 忘れようとすればするほど、ルキはエルのことを考えてしまう。この状況で、そんな暇などないはずなのに、気がつけばエルのことで頭がいっぱいになってしまうのだ。

 そうして最後には、この疑問に行き着くのだ。


(どうしてエルは、お母さんを殺したことを私に教えてくれなかったの?)


『きっと、お前を監視して、いつか殺すために手元に置いていたんだろ』


 やはり、ヨシュアが言ったとおりなのだろうか。エルはいつかルキを殺すつもりでいて、その日まで手元に置いておくために、優しくしてくれたのだろうか。


(本当に……?)


 エルの大きな手。いつだって頭をなでてくれる手。

 エルの長い腕。いつだって体を抱きしめてくれる腕。

 他の誰にも向けられない、ルキだけが独占できる笑顔。

 それらがすべて、嘘だったのだろうか。





『そのときは、一緒に逃げよう』





(そうは、思えない)


 そうだ、エルはルキのために、生まれ故郷を捨てる覚悟すら見せてくれたのだ。あの覚悟が、嘘だったとは到底思えない。


(……?)


 ふと、気づいた。


(震えてる?)


 ガブリエルが、震えているのだ。


「怖いの、ガブリエル?」


 言葉に魔力を載せ、竜言語で語りかけながら、ルキはガブリエルの首筋をなでる。


「大丈夫、大丈夫だよ。私がそばにいるから」


 それで安心してくれたのか、ガブリエルの震えが収まった。


(震え)


 ルキは思い出した。昨晩、エルが震えていたことを。

 そこから、まるでブドウの蔓を手繰り寄せるみたいに、様々なことが浮かび上がってきた。

 マリアに詰め寄られて、目を泳がせていたエル。

 警鐘の音に叩き起こされて、ルキとの対話もおざなりになるほど取り乱していたエル。

 キュクロプスに踏み潰されそうになって、恐怖で凍りついていたエル。

『そのときは、一緒に逃げよう』と言ってくれながらも、体が震えていたエル。


 ルキは今までエルのことを、母や、乳母や、神と同じ次元の存在だと考えていた。力強く、たくましく、向かうところ敵なしの存在。つまりところ、『世界のすべて』だ。『この人と一緒にいれば、私は大丈夫』と安心できる、巨大な存在。寄る辺。留り木。

 だが、もしかすると、それは勘違いだったのかもしれない。


(エルも、怖がってたんだ!)


 そのひらめきに、ルキは大きな衝撃を受けた。

 そうだったのだ、エルは別に無敵の存在などではなかった。エルはルキとそう変わらない――いや、ことによるとルキよりもさらに弱い――一人の人間に過ぎず、いろんなことに驚いたりおびえたりする子供に過ぎなかったのだ。


(そう、子供だ。私よりはずっと大きいけれど、母や乳母に比べれば、ずっと子供)


 ルキは胸が締めつけられた。


(私、そんなエルに何もかも押しつけてたんだ。私に母のことや母の死のことを教えてくれなかったのも、何かわけがあったのかもしれない。ううん、私が泣いたり怒ったりするのが怖くて、言い出せなかっただけなのかもしれない)


 ――グゥルルァッ?


 ガブリエルが尋ねてきた。それでルキは、自分が左右の手綱を強く引いていることに気づいた。『急停止』を意味する指示だ。


「行こう」


 ルキは、自分の気持ちを言葉にした。そうすることで、覚悟が決まった。


「行こう、ガブリエル! エルがきっと、怖がってる」

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