第25話 浮気の疑惑
そこは意外と乱雑な界隈だった。貴族たちも通うというわりに敷居は低そうに見える。
劇場そのものは大きい建物で前面も広場になっているが、周辺はこじんまりした店ばかり。ちょっと裏に入れば怪しげな路地があり、男も女も出入りしているのはなんだろう。
「夜にいらっしゃるなら馬車じゃなきゃ駄目ですねー。あと、旦那さまがご一緒がいいかと」
「そ、そうね……」
コラリーは平然としているが、セレスは内心ビクビクしていた。
こんな所にレオ抜きで来てしまってよかったのだろうか。ダニエルという男手はあるが、レオに比べたら腕っぷしの面では頼れない気がする。
広場に足を踏み入れる前でセレスは立ちどまった。
「そのうちレオさまと来てみたいわね。今日はもう――」
二人をうながして戻ろうと思った時、視界に見覚えのある隊服が目に入った。騎士団のものだ。そこにいたのは。
「レオさま……?」
見間違えるはずがない。今朝も玄関から見送ったレオだった。その夫が、劇場の脇の小道を女性と話しながら出てきたのだ。
見てはいけないものを見た気がしてセレスは後ずさった。
「奥さま」
そっとダニエルがセレスの前に出た。レオに背を向け、ささやく。
「いかがいたしましょう。レオさまに声をかけますか。それともお帰りに?」
ダニエルの配慮は仕方のないことだった。
あらわれた女性は慣れたふうに手を伸ばし――レオの頬をツツとなぞったのだから。
✻ ✻ ✻
(……綺麗な人だった。レオさまには、よそに恋人がいらしたの?)
無言で帰宅したセレスはひとり自室にこもり、そんなことばかりグルグル考えていた。
オロオロするダニエルは道中、「あのあたりで事件でもあったのでは」「レオさまは奥さま第一ですから」となぐさめてくれた。でもそれもむなしい。
(私などじゃ、やっぱり駄目なのかしら。レオさまには――愛されていると思ったのだけど)
すっかり自信がなくなる。昼間には子どもや民のために何かしなくてはと奮い立っていたのに、そんな炎は胸から消えてしまった。
(レオさまが、私の力の源なのよ)
泣きたくなった。寄る辺のない子どものように。
(……ああ。きっと孤児院の子どもたちも同じなんだわ。愛されていないと思うから、何をする力も出ないのね)
彼らはおそるおそる生きているのだ。食べるだけで、息をするだけで怒鳴られるかもしれないと怯えながら。だから新しいことを学ぶ気になどなれないし、誰かを信じることもできない。
(私……私は? レオさまを愛しているのではないの?)
受け身でいるなんて嫌だった。セレスがレオを愛するのは、彼が甘やかしてくれるからじゃない。
(――私があの人を愛していれば、それでいい)
セレスはこぶしでキュ、と胸を押さえた。
この愛は、セレス自身のものだ。そう信じなくてはならない。
そこにドドドッと階段を駆け上がる音がした。驚いて顔を上げると、窓の外がもう暗い。
「セレスティーヌ!」
ドアを壊しそうなぐらい乱暴に開け、駆け込んできたのはレオだった。
「レオさま、お帰りでしたのね。私気づかなくて」
「誤解なんだ! 劇場にいた女性は、あれは!」
レオは必死だった。セレスの肩をつかみ顔をのぞき込む。妻に嫌われたら死んでしまう。
――帰宅してもセレスが姿を見せず、「具合が悪いのか」と心配した。するとダニエルから返ってきたのは白い目。たじろいだレオにダニエルは、昼間に浮気現場を目撃したと証言したのだ。
しどろもどろにレオは言い訳する。あれは決して浮気などではない。
「彼女は……その……化粧師で、だな」
「化粧?」
「芝居用に役者の顔を塗ったり描いたり……」
それは事実だった。あれは劇場で化粧を担当している女性。
「実は……化粧で隠すことはできるのか訊きに行ったんだ……セレスティーヌの傷跡を」
セレスは目を見開いた。では、彼女がレオの頬にふれていたのは――。
レオは考えたのだ。
セレスはみずからを「仮面の下に隠れていて情けない」と表現した。卑下する言い方なのは、それではいけないと感じているから。
「彼女はあばたの顔もツルリと仕上げると評判らしい。もしそれでセレスティーヌが自信を取り戻すならと相談に……」
レオは口ごもった。本人に内緒でそんなこと、余計なお世話だ。
いちおうセレスのためを思っての行動だが、つまり「セレスの素顔が見たい」というレオの願いが大もとにある。そのせいでセレスを傷つけたなんて――。
我がままだった、とレオはしょんぼりした。セレスの肩から手が落ちる。
するとセレスはポスンと夫の胸に顔を埋めた。背に手を回し、抱きつく。
「レオさま……」
「セレ、セレスティーヌ?」
セレスが自分からこんなふうにしたことはない。妻の仕草にうろたえたレオは、抱き返していいものやら手をウロウロさせた。
「ありがとうございます。私――レオさまのこと大好きですわ」
愛している、と言うのは気恥ずかしかったが、セレスは精いっぱいの気持ちを言葉にした。
✻ ✻ ✻
夕食の席で、レオは素っ頓狂な声をあげた。
「――セレスちゃん、だと?」
浮気疑惑をなんとかしたレオは、その日の外出について聞かせてもらっているのだった。パン屋のおかみのノリは、市場にいる普段と変わらなくて頬が引きつる。
「セレスティーヌのことを、そんな……」
「私はかまいませんけど……レオさまはお嫌ですか?」
「いや、そういうわけでは……」
街の人々と仲良くなれて嬉しいセレスは楽しげに微笑む。その気持ちに水を差すのははばかられ、レオは黙った。
嫌ではない。違うのだ。ただ……。
(ズルい)
レオは今でも礼儀正しく「セレスティーヌ」と呼んでいるのに、何故パン屋が距離を詰める。
難しい顔でうつむいてしまったら、後ろでダニエルとアネットがため息をついた。
((愛称で呼びたいなら、そう言えばいいでしょうがっ!))
二人分の念が送られる。それを受け取ったのか、レオはグッと顔を上げた。真剣なまなざしだ。
「俺も……その……セレス、と呼んでもいいだろうか」
決闘を申し込むように重々しく言われたセレスは一瞬キョトンとする。だがすぐに、嬉しそうに照れた。
互いに好き合っているのに何を今さら。
不器用な主人夫婦に、館の人々の心配は尽きない。




