瞋恚の炎
「ウッキーョォォオォ?!?!」
「チッチー!!!」
船が揺れ叫び声が聞こえた時にはもう彼の姿は消えていた。
先程の船の揺れは、飛翼竜が行う威嚇行為だろう。
高速で飛行し軽く尾で小突く。
これを何度か繰り返し縄張の主張をするのだ。
しかしそれは生物に対し行った場合にこそ意味のある行為である。無機物たる船に多少の衝撃を加えようと怯みはしないのだから。
……間抜けな猿が空に放り出されたりしなければ。
「クゥちゃん!?」
動力に魔力を送らなければ船は途端に浮力を失い地上へと墜ちる。
故に魔王は手を離すわけには行かなかった。海上空を進む船が墜ちれば当然海に沈むだろう。
しかしそれは、魔王にとっては問題では無い。同行している小さな鴇色の猿と暗灰色の猿、この二匹が耐えられないであろう旅路になりかねないと考えたからこそ、魔王はこの船を墜とすわけにはいかなかったのだ。
対象の猿が一匹空に投げ出されるとはまさに想定外であった。だからこそ魔王は後悔した。
船よりも二匹の安全をこそ優先するべきだったと。
「チッチ!!」
小猿がクゥトアヌの後を追おうと窓枠に体を乗り出した。
一瞬の躊躇もなくその身を空へと投げ出したが、紙一重で魔王の手が小猿を包み込んだ。
「だめ〜! 貴女まで落ちたりしたらクゥちゃんが悲しむわ〜!」
独特の間延びした口調はそれでも焦っていることが伝わる余裕の無いものだった。
魔王が動力制御から手を離し、小猿を手中に収め説得している間も船はどんどん降下していく。
完全なる自由落下ではあるが魔王は全く意に介してはいなかった。
それよりも落ちたクゥトアヌの事で思考の六割を埋め尽くしていた。
魔王からしてみれば大概の生き物は『弱い』。
正しく格が違うのであるから当然である。
しかし、クゥトアヌは他の生き物とは何かが違う。それが何かを説明しろと言われれば難しいのだが、とにかく歪なのだ。
魂の格は明らかに低い。生まれたばかりだというから通常よりは高いのだがそれでも突然変異で収められる程度の高さである。
何かもっと根本的な部分がおかしいのだと思う。
そもそも転生体が身体構造が全く違う生き物になることなどまずありえない。
猿と人は近しい生き物であるから、何らかの手違いで転生する可能性はかなり低いがあり得るとは言える。
しかし、猿の魔物となれば話は別だ。
魔物はそもそも通常の生物の範疇外である。臓器や弱点など元となった生き物にかなり寄せて創られているが、極論そんなもの無くても魔物は魔素さえあれば生きていける。
動く死体などはその典型例だろう。
故にクゥトアヌという自称元人間の転生体は非常に歪なのだ。
世界を支える調停者として、放置できる存在では無かった。
短い、とても短い時間ではあったが共に過ごし、見極めた彼の善性は本物であった。
だから魔王は名を与えた。
何者かに利用されている可能性の高い彼が、決して自分を見失わぬように。
魔王の名付けによりクゥトアヌの能力値は軒並み向上している。格差がありすぎて気付けていないようだが、小屋を訪れた時と小屋を出立した後ではもともとの能力値から十倍ほどにまで膨れ上がっている。
だから、そう簡単に死んだりはしない。
ならばと魔王は考える。
小猿も自分もここで諦めるつもりなど無い。
クゥトアヌを見つけ出し共に王国まで連れ立つのだ。
その為には邪魔なアレ等を排除する必要がある。
意思に魔力が共鳴し、魔導甲冑が自動展開する。休止モードから緊急稼働、収納されていた兜が頭を覆う。
漆黒の全身に走る金色の装飾は魔力を過剰に供給され、バチバチと余剰魔力が迸る。
「やってくれたなあぁぁぁ羽虫共おぉぉぉぉ!!!!」
大気を揺るがす大咆哮。
それは正しく、魔王の怒り。
なおも小猿を優しく手中に収め、魔王は墜ち行く船を蹴り空へと舞う。
縄張りを荒らす小さな飛行物体。
その中にまさかこの世界で最も怒らせてはならない存在がいるとは、知性の低い飛翼竜でなくとも考えつかなかったであろう。
かの魔王の名は七天魔王序列一位【瞋恚の炎】大力王スティルエナ・アルトバエル。
神すらも畏れた原初の魔王である。




