第5話 閉じ込めた時間の後先
「おはようございます」
眠りにつきそうな声で入ってきたのは、同級生の松野美菜だ。一年生のとき、一度だけ同じクラスになった。これといって印象はないが、しいて言うなら、香穂子よりも髪が長い。
「おはよう、松野さん。勉強いいの?」
「うん。だって、後輩との部活はもう最後だもの。それに、まだ焦る必要もないわ」
「わかる。模試なんて適当でいいもん」
そのとき、目に見えて松野の口角が揺れた。笑顔を作り損ねている。明らかに秘め事がありそうで、香穂子は声を潜めた。
「大丈夫? 勉強あるなら、部活は無理しなくていいよ」
「……ううん。大丈夫」
薄っすら笑いながら、松野は平然と席に座った。おもむろに鞄から取り出したのは、カメラではなく、教科書とノートだった。
(え……一、二年いるのに迷惑なんだけど……)
後輩たちも「え」と声を漏らしている。
(焦ってるなら、帰って勉強すればいいのに。かといって、後輩の前で『邪魔』とは言えないし)
眉間に皺を寄せながら、香穂子は二年生の生徒に近づいた。
「佐々木さん。中庭の撮影に行ってもらえる? 一年生に、曇りの日の撮りかた教えてあげて。卒アル用とか、なんとか言って」
「あ、はい。大丈夫ですか?」
「うん。望月先生には言っておくよ。勉強されるのは、さすがにね」
「じゃなくて。その……望月先生と一緒って、大丈夫かなって……」
「え?」
佐々木は望月の出て行った扉へ目をやる。無神経な三年生より、セクハラまがいの男性教師のほうが、よっぽど警戒すべきだろう。
「大丈夫よ。先生、考え事してたみたいなの。邪魔した私がいけなかったわ」
「それは……」
言い訳が苦しいのはわかっている。それでも、佐々木は小さく頷いてくれた。他の生徒たちへ声を掛け、外へ行こうと促している。
(よし。この隙に松野さんを――っと)
ガラリと扉が開いた。入ってきたのは、陰鬱さに拍車を掛けた望月だった。
(……戻って来るなら、教師の顔を作ってからにしてよ)
案の定、佐々木は怪訝そうな顔をした。香穂子は頭を抱え、自分から望月へ駆け寄る。俄かにざわついたのがわかる。
けれど香穂子は、部長として望月に微笑みかけた。
「望月先生。今日は外撮にしません? 佐々木さんが教えてくれるって」
一瞬、望月は目を丸くした。なにか言いたげだったけれど、深く頷いた。香穂子は佐々木に目をやり、下級生たちを連れて行かせる。生徒が全員出て行くと、香穂子は松野の隣に座った。
「松野さん。今日は帰らない? 下級生は受験関係ないから、勉強は迷惑になるよ」
びくりと、松野の全身が大きく揺れた。強く唇を噛んでいる。
もう一度声を掛けようと思ったが、うしろから腕が伸びてきた。黒い袖は望月だ。
「言葉を選べ」
「はい?」
厳しい顔をして、望月は香穂子を押しのけた。椅子に座ると、松野から教科書を取り上げる。
「志望校、見直したらどうだ」
「けど……」
「挑戦精神はいい。だが、確実に無理な大学だ。意地を張ると全部に落ちるぞ」
横目で見られて、香穂子は目を細めた。
(……私のようにって?)
望月にしか言えない嫌味だ。香穂子は腕を組み、隣の椅子に腰かけた。
「大学の良し悪しは偏差値だけじゃない。もう一度考えてみろ」
「けど……私の本命、椎名さんの滑り止めなんです。お母さんが、もっと頑張れって……」
「えっ? 私?」
突然名指しされ、香穂子はなんとなく腕をおろす。
「なんで私?」
「……一年のときから、お母さんに言われてるの。椎名さんを目指せって」
「そうなの? 私、松野さんのお母さまを知らないんだけど」
「文化祭でお世話になったんだって。話すだけで優秀ってわかる、言葉遣いも所作も綺麗、校則の範囲で容姿にも気を遣ってる、桐女にいる理由がわからない——って。それで」
尻すぼみに、松野は声を絞り出していた。けれど、香穂子は首をかしげてしまう。
(ベタ褒めしてもらって恐縮だけど、全ッ然、覚えてない。てか、いま関係なくない?)
どうしたものかと思っていると、望月が立ち上がった。
「椎名。電気を消して、カーテンを閉めてくれ」
「え? なんでですか?」
「撮影をする。閉めて」
「は、はあ」
やたらと鋭い声に、香穂子は思わず従ってしまう。
望月は三脚を立て、カメラを固定した。無言のままカメラのダイヤルを回す。細かな設定を終えたのか、備品棚からなにか取り出した。授業で使うレーザーポインターだ。ポイっと、軽く投げて渡される。
「なんですか?」
「レーザーで宙に三角形を描いてくれ。五秒」
「はあ……描いてどうするんですか?」
「いいから。五秒」
「……はあ」
偉そうな態度は癇に障ったが、すでに望月はカメラに向かっている。目線で「早くしろ」と言われて、香穂子は腕を回した。赤いレーザーが光を放つ。
無言のまま、一、二、三、四、五――数えると、望月がカメラに手を伸ばした。
「よし。もういいぞ、椎名」
「はーい。なにが撮れたんですか?」
「キセキだ」
「……きせき?」
望月はカメラをパソコンにつなぐと、タッチパッドに指を滑らせる。表示された写真は、光の線が三角を描いていた。煌めく星が眩しくて、香穂子は思わず望月のカメラに飛びついた。
「綺麗! 花火とかでやるやつですよね! なんていうんですか、これ!」
「長時間露光。シャッターを開け続けて、光の軌跡を閉じ込める」
望月はSDカードケースを開き、一枚をパソコンに挿す。いくつもの画像を開いてくれるけれど、すべて長時間露光で撮られていた。
「面倒な撮影だ。光源の動かしかたと、光を消すタイミングの意識合わせ。カメラは決して揺れてはいけない。それだけやっても、思い通りにはならなかった」
一番大きく表示されているのは、ピンク色のハートが描かれている画像だ。ハートの向こう側には、花火を持った浴衣姿の女の子が見える。
「思い通りになってません? 綺麗なハートですよ」
「何度も撮り直してやっとだ。執念の軌跡は未来になる」
望月は画像を閉じて、松野の顔を覗き込んだ。
「親の要望を、自分の軌跡にするのもいいだろう。だが、執着は生きる力だと――俺は思う。力尽きたあとには、なにも残らない」
「先生……」
松野は感動したようだったが、香穂子の眉間には皺が寄った。
(話が抽象的過ぎる。芸術家肌ってやつかしら)
それでも、望月は親身になっていた。
(なにが軌跡よ。私の進路相談は、秒で終わったくせに)
おもしろくなくて、香穂子は望月を押しのけ松野に駆け寄った。
「ねえ! 滑り止めの大学、考え直してみるってのは!? 夢に寄せるの!」
「……どういうこと?」
「夢を叶えるのよ! 芸能人になりたい人は、オーディション受けやすいバイト生活を選んだりするじゃない。やりたいことのためなら、滑り止めも本命でしょ!」
「夢……」
「なにかないの? やりたい仕事とか」
「……フォトグラファーになりたいの。でも、両親は地に足をついた就職をしろって」
親が正しい――と言いかけて、香穂子は言葉を飲み込んだ。
香穂子はじっくりと頬を撫でる。そして、無言でカメラをいじる望月からカメラを取り上げた。
「先生! 写真に強くて、かつ親の喜びそうな大学ありません?」
「ないな。写真は専門学校になる」
「コンテストに応募しやすい学校は? 学校単位の公募ができるとか、大きい写真サークルがあるとか」
「それならある。プロが指導する大学も」
「へえ! いいじゃないですか! 松野さん、こういう感じは?」
「うん……けど……レベル低い大学は、やっぱり……」
松野は深く項垂れた。後輩を思いやらない姿は呆れたが、いまは、少しだけ気持ちがわかる。
(都合のいい言い訳が完成しても、できそこないのレッテルを貼られるのは傷つくものだわ)
思い返すと、中学の制服は好きだった。アイボリーのセーラーで、スカートと襟はダークグレー。シックなデザインに合う、黒髪ロングのストレートにこだわった。
(……ああ、そうか。嫌だったんだ。桐女は制服が可愛くないから)
もしかしたら、それだけだったのかもしれない。
言葉を選べ――望月の言葉が頭に響いた。香穂子は両手で頬を温めると、松野の両手を強く握った。
「大丈夫よ! 人生百年! 大学失敗しても、就職で取り返せばいいって!」
取り返せる保証はない。でも、一つくらいはいいこともあるだろう。たとえば、チヤホヤされたり。
「合宿おいでよ。私の名前が免罪符になるなら、『椎名の勉強合宿』ってことにしてさ。勉強しながら撮影するの。どうするのがいいか、考える時間にしたらどうかな」
「うん。有難う、椎名さん。ちょっと考えてみる」
少しずつ、松野の顔から緊張が抜けていく。ゆるむ表情を見ると、香穂子の体も脱力するように感じた。
そして、コンッと望月が机を突いた。
「なら大学選びからだな。条件はあるか? 候補を探そう」
「あ、は、はい!」
急に笑顔を弾けさせた。すっかり吹っ切れたように見える。帰れば親と揉めるだろうが、心持ちは変わったのかもしれない。しかし、香穂子も気づいてしまった。
(……レベルの高い一流大学行って、なにするんだろ。私)
滑り止めに入る松野に比べて、香穂子の幸せは大きいのだろうか。




