第2話 生き延びたリボン
ホームルームを始める教室のドアを、音を立てずに3センチだけ開く。
「食券って今日もらえんのかな。金欠なんだけど」
「大丈夫でしょ。先生はともかく、椎名さんがいるし」
教室の中では生徒たちが賑わっていた。ギャハハと小汚い笑いも飛び交っている。
(学校名は凛としてるのに……)
私立桐山中央学園女子高等学校――唯一、香穂子が受け入れられた要素だ。
叫ぶような笑い声に満ちた教室はいつも通りだ。異変の一つも感じない。
(……先生、バラしてないんだ。そうよね。先生同士で留めるわ)
けれど、やはり踏み込めなかった。顔を見せた途端に、笑い飛ばされるかもしれない。
指先を掌へ握り込んだ。動けずにいると、ぬるりと、うしろから黒い腕が差しこまれる。驚き振り返ると、望月がいた。
「お、はようございます」
「入れ。始めるぞ、ホームルーム」
「……わかってます」
幸か不幸か、望月は担任だった。
香穂子を振り返ることもなく、教室に入られてしまう。悔しいかな、香穂子は望月の背を追った。
望月が教壇に立っても、生徒たちは席につかない。けれど、香穂子が教室へ入った途端に、一斉に着席していった。教室中から「食券は」と、欲にまみれた声が飛ぶ。
変わらず冴えないクラスメイトに、香穂子はほっと息を吐いた。横目で望月を見ると、小さい紙の束を渡される。
「昨日の賞品。配ってくれ」
「は――」
「やった~! お昼は豪華だ~!」
「パン限定!? おにぎりは? 飲み物でもいいの?」
香穂子が返事をする前に、教室中が沸き立った。
(……たった数百円分だってのに、よくもまあ)
それでも、香穂子はクラスの代表だ。くっと口角を持ち上げる。
「一人ずつ取りに来て! 廊下側から! 約束通り、不参加の人はなしね!」
受験を理由に、サボる生徒もいる。出場しないなら商品もなし。クラスで事前に決めていたことだ。
「はーい! おにぎりでもいいですか!」
「オッケー! 購買で売ってるものは、飲み物でもなんでも! 一人二枚だよ!」
体育祭に参加した生徒か確認しながら、ポイポイと配った。
二枚ずつ手渡していくと、ふと望月が視界に入る。望月が見ているのは、食券を貰えない生徒たちだった。そして、なぜか、微笑んでいる。
しかも、声を押し殺して笑っていた。思わず凝視してしまう。
(笑う要素あった? てか、暇なら手伝いなさいよね)
廊下側からと言ったのに、窓際の生徒も集まっている。並べと言っても、聞きやしない。整理しながらの配布は、いささか疲れた。
ようやく配り終わり、傍観していた望月に声を掛ける。
「望月先生。終わりました。連絡事項ありますか?」
あるともないとも言わず、教壇に来た。香穂子が一歩下がると、望月はすっと手を挙げた。
「昨日、リボンなくした奴いるか」
ひゅうっと息を飲んだ。豚肉と一緒に刻んだ記憶がフラッシュバックする。
(どうして! リボンは私が——あれ?)
挙げられた望月の手を見ると、本来の形状を保ったリボンを握っていた。
「いないか? タグにクマが描いてある」
「クマ?」
つい、低く声を漏らした。望月の持っているリボンは、よく見ればシワだらけだ。隔日でアイロンをかける香穂子には、考えられない。
(なんだ。無関係のリボンか)
安堵し深く息を吐く。同時に、教室から「あ」と声がしした。
「私だ! なくなったの、昨日! 熊井のクマで~す!」
熊井はスキップで望月に駆け寄った。拝むように手を合わせて、リボンを受け取と自分の席へ戻っていく。軽快な足取りは、リボンを刻んだ香穂子を苛立たせた。
怒りを笑顔に隠していると、ガラガラと教室の扉が開く。望月が号令もせず出て行った。
(……少しは気にしなさいよね)
望月を警戒しながら午前中を終え、食券片手に購買へ走るクラスメイトを見守る。授業を寝て過ごす生徒を無視して、淡々と午後の授業を終えた。
(望月先生、どうしたかな……)
望月は歴史の教師だ。今日は、奇しくも歴史がない。
人生でも感じたことのない疲労を背負って、香穂子は校舎の二階に上がる。奥まった場所の教室に、『生徒会室』のプレートが貼ってあった。
三年間通い続けた教室へ入ると、ため息がこぼれる。
(一人くらい来てなさいよね。普通、受験生に生徒会長やらせないでしょ)
一年生のときから、香穂子は生徒会長だった。満場一致で選出されている。
それ自体はどうということもない。だが、三年生になっても会長をやらされるなんて、さすがに予想していなかった。
椅子に鞄を置き、書きっぱなしのホワイトボードを消す。
(消しておいてって言ったのに。跡が消えないのよね。ていうか、なにこの絵)
黒いマジックのらくがきを擦っていると、女子生徒が入ってきた。会計の二年生だ。
「はよーございまーす。他の人まだスかぁ?」
「ええ。私も来たばっかり。頼んでおいたデータ、もらえる?」
「へ? なんでしたっけ」
「夏期講習の周知。生徒用ウェブに掲載するやつ」
「え? あ! あ~! 忘れてた! すんません! やってない!」
「……先週も、そう言ってたじゃない」
「だって、あれ三年用ですよね。椎名先輩が作ればよくないスか? 使いかた、分かんないんスよ。管理画面とかいうの」
「だからよ。私はいなくなるんだから、覚えてもらわないと」
「だる~。プリントでよくないスか~」
「学校の方針よ。ペーパーレスとDX化推進の時代なんだから」
「でぃーえっくす? なにそれぇ」
「教えてあげるから。ほら、画面見て」
女生徒は迷惑そうな顔をして、背を丸める。人差し指で、キーボードを一個ずつ突いた。
ファーストビューを作るだけなのに、丸一時間を要している。女子生徒は根を上げ、逃げるように帰ってしまった。結局、香穂子が一人でパソコンへ向き合っている。
(所詮こんなもんよね、この学校は。どうせ今日も、他のメンバーは来ないでしょうね)
一人きりの室内に、タイピングの音だけが響く。三年間なにも変わらない空間を眺めると、妙な虚しさを覚えた。香穂子は目を閉じ、天井を仰ぐ。
(明日は進路面談。望月先生と一対一)
どれだけ取り繕っても、帳消しにはならないだろう。けれど、シャッターを切る望月を思い出すと、少しだけ胸が熱くなった。




