第1話 刻の引き金
「優勝ってことは、食券二枚だよね! 体育祭、バンザイ!」
女子の賑わう声を聴きながら、椎名香穂子は包丁を振り下ろした。
暗い室内で、銀の刃身が夕日を跳ね返す。峰で肉塊を叩き、刃で切り裂いた。無心で細切れにし続けると、視界が赤いものに遮られる。制服のリボンだ。
香穂子を妨げた赤い布切れを、胸元から引き抜き、まな板に押し付ける。包丁を振り上げ、切っ先を突き刺した。何度も、何度も、繰り返す。
穴だらけになったら、両手でリボンを引きちぎった。ブチブチと、肉を切る以上に心地いい音を聞いた、その瞬間だった。
――カシャッ
カメラのシャッター音が、静寂を越えて香穂子を貫く。勢いよく振り返ると、青年が闇に溶け込んでいた。黒髪に黒いシャツ、黒いネクタイ、黒いズボン、黒い靴。
青年はシャッターに指を置いたまま、液晶モニターを凝視している。
「……お疲れ様です。望月先生」
包丁を握ったまま、いつもの癖で会釈をした。望月が指を動かすと、カメラからピッと小さな音がする。切ったのだろう。電源を。
カメラを降ろした望月は、ゆっくりと近づいて来た。目の前まで来ると、流れるようにしゃがみこむ。白く長い指がかき集めた赤いものは、リボンの残骸たちだった。
「鍵は」
「預かってます」
「そうか」
赤い細切れをすべて集めると、望月は胸ポケットへしまい込んだ。そして――部屋を出て行った。少しだけ振り向いた先は、香穂子の引き裂いた肉片だった。
音もなく扉を閉められて、ようやく包丁を手放す。まな板の上で散乱する肉片を、ひとつ残らず集めていく。塩糖水の満ちた角バットへほうり込むと、冷蔵庫へ入れた。
「たかが調理実習に、下ごしらえって……」
家庭科教師に丸投げされた、明日一限目の準備をようやく終えた。
夕食はペペロンチーノだ。満腹まで食べ、風呂に入り、まつげ美容液を塗ってから、あっさり眠った。
死んだように眠った翌朝、香穂子は予備のリボンを装着した。
姿見に移した全身を、視線で切り裂きながら観察する。スカートはダークグレーに緑のチェックだ。トップスは白い襟シャツ。真っ赤なリボンは、チープなサテン生地だった。
「よし。今日もクソだわ」
スカートはしっかりした生地だから、安っぽい照りのリボンは浮いている。色のトーンもあっていなかった。バランスの悪い制服は、毎朝、香穂子の神経を逆なでする。
「いいわ。どうせ、あと九か月で着収めだもの。九……」
数字を口にすると、頭痛がした。
「長っ」
一度だけ足を踏み鳴らすと、机の上で日焼け止めが倒れた。香穂子はそっと拾い上げ、薄く顔に塗っていく。
「ったく。制服を手抜きするなら、メイクはOKにしなさいよね」
校則は守る主義だ。だから、日焼け止め兼ファンデーションのBBクリームを使っている。オールインワンは禁止されていなかった。丁寧に塗り広げたら、ホットビューラーでまつ毛を持ち上げる。化粧品を使わない小細工も、許されていた。
「……ナチュラルビューティーって、都合のいいワードよね」
顔を完成させ、頬を軽く叩く。仕上がりを確かめるために顔を左右に振ると、三段階トリートメントの長い黒髪がサラサラと流れた。
ヘアブラシを通すと、香穂子は引き出しを開けた。昨日切り刻んだリボンの残骸が入っている。乱暴につかむと、のど飴の袋へねじ込んだ。いつも食べている愛用品だ。
支度を済ませると、朝食をサッと食べて家を出た。
(急がなきゃ。間に合わなくなる)
駆け足で学校へ行き、正門を走り抜けた。生徒はまったくいない。
(予鈴は八時二十五分。七時半なんて、登校するはずないわ)
息を切らせて飛び込んだのは、昨日お世話になった家庭科室だ。準備室と調理実習室はつながっている。
準備室へ駆け込むと、複合機を立ち上げた。『肉じゃがの作りかた』というプリントを、百八十枚印刷する。三年生の配布に必要な枚数だ。
印刷を始めると、即座に実習室へ走る。目的は調理器具入れだ。
(うっかりにも程があるわ。まな板は、持って帰って捨てるべきだった)
包丁で殴り続けたまな板は、傷だらけになっていた。抉られた凹凸のせいで、まな板の機能を果たさない。誰が見ても異常な物体を、香穂子はご丁寧にも収納した。
整理整頓――徹底した習慣を捨てるべきだったのに、邪魔が入ったせいで、いつもの香穂子をやりきってしまった。
(なんとしても、授業が始まる前に隠滅しなくちゃ)
焦る手で戸棚を開けた。捨てるべきまな板は、一番上にあるはずだ。
「……ない?」
そこにあるのは、新品のまな板だった。香穂子の全身から血の気が引いていく。
(なんで!? ここに入れたのに!)
確認して、部屋の施錠までした。鍵は香穂子が預かっているから、他の生徒は入れないはずだ。入れるとしたら――合鍵の在処を知る教師しかいない。
(やられた! 望月先生だ。どうしよう。他の先生に報告されてたら……!)
脳内にシャッター音が響いた。香穂子の本性を、見られている。
(……いや。捨てた可能性だってある。まだゴミ捨て場にあるかもしれない)
一縷の望みを持ち、香穂子はプリントを教卓へまとめると、ゴミ捨て場へ走った。
しかし、人生はなにかとうまくいかないものだ。
ゴミ捨て場のほうから、女性が歩いてくる。家庭科教師の田添だ。
(はあ!? いま!?)
呑気に手を振ってくる田添の姿を見て、香穂子は口の中を噛んだ。浅く呼吸を繰り返しながら、両手を頬に当てる。
(落ち着いて。いつもの私になるのよ、椎名香穂子)
心の中で唱えると、自動的に笑顔が浮かんだ。両手を体の前で重ね、つま先をそろえる。滑らかな所作で頭を下げたら、艶やかな黒髪が、涼やかに流れた。
「おはようございます、田添先生!」
「おはよ。もう終わったの?」
「はい! プリントは、予備で十枚刷ってあります。豚肉の下準備も、終わりました。軽く叩いてから細切れにしたので、柔らかくなってるかと!」
「さすが生徒会長。気が利くわ。おかげで、朝はゆっくりできちゃう。ほんっと助かる」
香穂子は笑顔を崩さない。三年間、貫き通した完璧な微笑みだ。
(私だって、ゆっくり朝ごはん食べたいわよ)
そっと頬を撫でると、香穂子は「へへ」と、柔らかな笑い声を放った。
「お役に立てて嬉しいです! なにかあれば、いつでもおっしゃってください。それじゃ、ゴミ捨てがあるので!」
「うん。ありがとうね」
笑顔は脱ぎ捨てず、田添に背を向ける。そのまま、改めて証拠隠滅へ走り出した。
まだ生徒は一人も登校してこない。呆れることに、教師の姿すらなかった。
(腑抜けてるけど、今日ばかりは好都合だわ)
ゴミ捨て場が見えてくると肩から力が抜けた。だが、ビタリと足が止まる。
カシャッと、シャッターを切る音がした。
(また!?)
ゴミ捨て場には、カメラを構える望月がいた。
(なんなの! 体育祭のあとなんだから、校庭でも撮りなさいよ! なんでゴミ!?)
つい足の裏に力が入ると、踏んだ砂利が音をたてた。ジャリッというノイズが響くと、望月に気づかれる。カメラは動かさず、視線だけを香穂子に向けてきた。
わずかに目を細められる。けれど、すぐにゴミ撮影に戻った。なぜか、燃えるゴミだけを撮影している。
(……なに? なんで、なにも言わないの)
しばらく、シャッター音だけが響いた。数枚撮ると、望月は香穂子へ向かってくる。
望月はいつも伏し目がちで、常にうつむいている男だった。いまも、地面だけを見つめて歩いている。いつだって生徒と向き合わない振る舞いは、教師としてはどうかと思う。
だが、香穂子は、教師に期待をしていない。そういうものだと思っていた。しかし、今日ばかりは拳が震える。
望月は、ゆっくりと近づいてきた。ついに目の前に来て――すいっと、香穂子を避けた。
(は?)
なにも言わずに去って行った。脚は、真っ直ぐに教室棟へ向かっている。けれど時折立ち止まり、茂みだの、なにもないアスファルトだのを撮っていた。
カシャッ、カシャッと、シャッター音が無人の敷地を切り取っていく。
リズミカルな音に、ハッと思い出す。この音は、昨日も聞いた。
(この人……昨日も、撮ってなかった……?)
包丁を振り回していたとき、望月に気づいたのは、シャッター音がしたからだ。ならば、撮っていたということになる。レンズは、香穂子のほうへ向いていた。
(まな板なんて、目じゃないわ……)
これ以上ない、揺るがぬ証拠だ。両手足が震える。唇まで揺れ始めると、シャッター音は消えた。代わりに、望月の黒い瞳が視界に入る。
望月はカメラを構えていた。指先には、レンズキャップが挟まれている。
「……盗撮は、犯罪ですよ」
長い指を器用に動かし、レンズキャップは跳ねながらレンズを覆った。
「ホームルームの準備、しなくていいのか」
「えっ」
カメラを下げた望月は、完全に背を向けてくる。今日も全身真っ黒で、夏日を吸い込みながら、校舎へ消えていった。
それから、しばらくはゴミ捨て場を漁った。けれど、まな板は見つからない。次第に生徒も登校し始めたので、諦めて、のど飴の袋だけをゴミの奥深くへ埋めた。
教室棟へ行く道中は、家庭科準備室が見える。なぜか、望月と田添が話していた。




