第6話 傘の中の最適配置
悠斗は傘を持っていた。琴音は持っていなかった。
それだけなら、解決は簡単なはずだった。
「これ、使って。俺、駅まで走るから」
「どうして?」
「早瀬さん、濡れるでしょ」
「久瀬くんは、濡れないの?」
玄関の屋根を越えて、雨が舗道を強く打っている。返す言葉を探す間にも、足元の乾いている部分が少しずつ狭くなった。
5月の天気を、琴音は朝の予報だけで判断してしまったと言った。大学へ来たときには空が明るく、折り畳み傘を別の鞄から移さなかったらしい。
「俺は、すぐ着替えられるし」
「家まで、駅だけで着くわけではないでしょ」
「まあ、そうだけど」
「だったら、一緒に入ればいい」
琴音は傘を指した。悠斗は持っている傘を開く前から、その中に二人でいるところを想像してしまった。
いつもは机を挟んで座っている。廊下や書店では並ぶが、肩が触れるほど近くはない。
「少し狭いかも」
「一人が全部濡れるより、二人が少しずつ濡れるほうが、総量としては――」
「雨に対して総量を使うんだ」
「言い方の問題ではないと思う」
彼女は鞄を外側から内側へ持ち替えた。入る準備が整ったので、悠斗も傘を開いた。
屋根から出た瞬間、琴音が半歩近づいた。
肩が軽く当たり、悠斗は持ち手を握り直した。傘を彼女の側へ寄せると、自分の袖に雨が落ちる。
「傾いてる」
「早瀬さんの鞄が濡れるから」
「鞄は防水ではないけど、少しくらいなら大丈夫。久瀬くんの袖のほうが吸ってる」
琴音は傘の骨の先を見て、二人の位置を確かめた。
「もう少し中央へ」
「どっちが?」
「二人とも。できるだけ近いほうが、濡れる面積は減る」
悠斗は小さくうなずき、歩く幅を狭くした。すると彼女の肩が、さっきより長く袖に触れた。
「……最適配置、難しいね」
「傘が円で、人は円ではないから」
「そこから考える?」
琴音は返事をせず、前を向いた。髪の先に小さな雫がついている。悠斗はそれを払っていいか分からず、代わりに傘を少し前へ出した。
学内の通路を歩く学生が、屋根のある場所へ駆けていく。二人も急げばよかったが、同じ速さで足を出すのに慣れず、自然とゆっくりになった。
「段差」
琴音が言い、悠斗は足元を見た。水たまりを避けようとして彼が動くと、今度は彼女が半歩遅れる。
「ごめん」
「止まるとき、一言言って」
「うん。じゃあ、ここ、左へ」
「了解」
二人で傘を運んでいるみたいだった。悠斗は少しおかしくなったが、笑うと彼女を困らせそうで黙った。
「今、何か面白かった?」
「え、顔に出てた?」
「口元が」
「収録より、指示が多いなと思って」
琴音も小さく笑った。
「収録では、久瀬くんが急に左へ行くことはないから」
笑った分だけ肩がまた触れた。悠斗はそれを避けようとして、傘を外へ動かしかけた。琴音が雨の縁を見たので、彼はすぐに戻した。
駅へ向かう道は2つあった。商店の前を通る近道と、住宅の軒や街路樹が続く道だ。琴音は角で少し立ち止まった。
「あちらのほうが、歩きやすいかもしれない」
「少し遠いよ」
「でも、車の水が跳ねにくい」
言われて、悠斗は大通りを走るバスを見た。確かに二人でぎりぎりの傘を使っているときに、車の水まで避けるのは難しい。
「じゃあ、そっちにしよう」
琴音がうなずき、住宅の道へ曲がった。
細い道に入ると、雨の音が少し変わった。古い家の軒から落ちる水が、側溝を速く流れている。向こうから人が来て、二人は塀の側へ寄った。
悠斗が一歩先に出ようとすると、琴音はその場で待つほうがよいと目で示した。二人は、相手が通り過ぎるまで待ってから、また歩き出す。
「一人のときと違うね」
「幅があるから」
「うん。それもだけど」
彼は続きをうまく説明できなかった。自分だけが足元を避ければよいわけではなく、相手が立ち止まったことにも気づく必要がある。その不自由さを、面倒だとは感じなかった。
琴音は問い返さず、傘の内側から進む方向を確かめた。悠斗は今度、動く前に右へ寄るねと言えた。
いつもなら一人で通り過ぎる古いパン屋の窓に、閉店時刻の札が出ていた。琴音がその札を見たので、悠斗はよく買うのかと尋ねた。
「たまに。塩気のあるパンが好き」
「甘いのより?」
「甘いのも食べる。でも、昼はそちらのほうがいい」
「覚えとく」
彼女はこちらを見た。
「何のために?」
「いつか、買うことがあるかもしれないから」
「……そう」
琴音は前を向いた。傘に当たる雨の音で、返事が少し聞き取りにくかった。悠斗はもう一度聞かず、彼女の歩幅に合わせた。
琴音が番組以外の好みを話すとき、悠斗にはその答えを残しておきたくなる。台本へ書くような情報ではないけれど、忘れたくない。
そのことを不思議だとは、まだ思わなかった。
次の角で風が吹き、傘の縁から雨が入った。二人は同時に内側へ寄り、腕がぶつかった。
「ごめん」
「ううん」
琴音の指が、自分の鞄の持ち手を握り直した。その指が思っていたより近くにある。悠斗は突然、どこを見ればよいか分からなくなった。
沈黙の話をしたばかりなのに、今日は黙っていると余計なことを考えてしまう。
「明日の編集、何時だっけ」
「16時。予定に入れてなかった?」
「入れた。確認」
「3回目だと思う」
悠斗は前だけを見た。琴音が隣で笑った気配がして、顔が熱くなった。
駅前の屋根にたどり着くと、二人は同時に息をついた。
悠斗の左袖は少し濡れている。琴音の右肩も色が変わっていた。彼女は鞄からハンカチを出し、自分の肩を軽く押さえたあと、悠斗の袖を見た。
「やっぱり、傾けてたでしょ」
「最後の風のところだけ」
「途中も」
彼女は言い切ったが、責める声ではなかった。
「ありがとう。でも次は、もう少し言って」
「濡れたって?」
「うん。私だけ乾いても、成功ではないから」
悠斗は、雨を避けるだけの話にしては、その言葉が心に残ると思った。
自分が少し困るくらいなら構わない。そう考えて貸そうとした傘だった。けれど彼女は、それをよい解決だと受け取らなかった。
「分かった。次は言う」
琴音はうなずいた。
それから外を見た。雨はまだやまない。悠斗とは別の駅で降りる彼女は、到着後にも少し歩くはずだった。
「傘、そのまま持っていって」
悠斗が差し出すと、琴音はすぐには受け取らなかった。
「久瀬くんは?」
「駅から、ほとんど屋根がある。最後はコンビニを通るから、必要なら買える」
「それは、事実?」
「うん。走る作戦よりは、ちゃんと考えた」
琴音は傘を受け取り、持ち手を見た。
「じゃあ、借りる。明日の編集で返してもいい?」
「もちろん」
「乾かしてから持ってくる」
「そんなに急がなくても」
「返す用事があるほうが、忘れないから」
琴音はそう言って、傘を鞄の横へ立てかけた。明日はもう会う約束がある。それでも、彼女がわざわざ返す時刻を決めたのが、悠斗には少し嬉しかった。
改札を通り、ホームへ向かう階段で方向が分かれた。
「また明日、早瀬さん」
「うん。16時」
「4回目になったね」
琴音が笑い、そのまま階段を上がった。
悠斗は反対側へ歩き、壁の時計を見た。大学から駅まで、いつもより10分以上かかっていた。遠い道を選んだ分を引いても、歩くのが遅かった。
急がなければ、二人とも濡れるかもしれなかった。それでも傘の中で、もう少し先まで歩いてもいいような気がしていた。
電車の窓に映った自分は、雨に困っている顔をしていなかった。
帰宅後、琴音から短い連絡が届いた。
『無事に着いた。傘、ありがとう。そちらも濡れずに帰れた?』
悠斗は乾いた部屋で、その文章を二度読んだ。
『大丈夫。袖も乾いた。明日、よろしく』
送信してから、明日の16時をまた確かめた。5回目の確認は、彼女には知らせなかった。




