↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
恋する放送室  作者: 雨宮 弦


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
6/48

第6話 傘の中の最適配置

 悠斗は傘を持っていた。琴音は持っていなかった。


 それだけなら、解決は簡単なはずだった。


「これ、使って。俺、駅まで走るから」


「どうして?」


「早瀬さん、濡れるでしょ」


「久瀬くんは、濡れないの?」


 玄関の屋根を越えて、雨が舗道を強く打っている。返す言葉を探す間にも、足元の乾いている部分が少しずつ狭くなった。


 5月の天気を、琴音は朝の予報だけで判断してしまったと言った。大学へ来たときには空が明るく、折り畳み傘を別の鞄から移さなかったらしい。


「俺は、すぐ着替えられるし」


「家まで、駅だけで着くわけではないでしょ」


「まあ、そうだけど」


「だったら、一緒に入ればいい」


 琴音は傘を指した。悠斗は持っている傘を開く前から、その中に二人でいるところを想像してしまった。


 いつもは机を挟んで座っている。廊下や書店では並ぶが、肩が触れるほど近くはない。


「少し狭いかも」


「一人が全部濡れるより、二人が少しずつ濡れるほうが、総量としては――」


「雨に対して総量を使うんだ」


「言い方の問題ではないと思う」


 彼女は鞄を外側から内側へ持ち替えた。入る準備が整ったので、悠斗も傘を開いた。


 屋根から出た瞬間、琴音が半歩近づいた。


 肩が軽く当たり、悠斗は持ち手を握り直した。傘を彼女の側へ寄せると、自分の袖に雨が落ちる。


「傾いてる」


「早瀬さんの鞄が濡れるから」


「鞄は防水ではないけど、少しくらいなら大丈夫。久瀬くんの袖のほうが吸ってる」


 琴音は傘の骨の先を見て、二人の位置を確かめた。


「もう少し中央へ」


「どっちが?」


「二人とも。できるだけ近いほうが、濡れる面積は減る」


 悠斗は小さくうなずき、歩く幅を狭くした。すると彼女の肩が、さっきより長く袖に触れた。


「……最適配置、難しいね」


「傘が円で、人は円ではないから」


「そこから考える?」


 琴音は返事をせず、前を向いた。髪の先に小さな雫がついている。悠斗はそれを払っていいか分からず、代わりに傘を少し前へ出した。


 学内の通路を歩く学生が、屋根のある場所へ駆けていく。二人も急げばよかったが、同じ速さで足を出すのに慣れず、自然とゆっくりになった。


「段差」


 琴音が言い、悠斗は足元を見た。水たまりを避けようとして彼が動くと、今度は彼女が半歩遅れる。


「ごめん」


「止まるとき、一言言って」


「うん。じゃあ、ここ、左へ」


「了解」


 二人で傘を運んでいるみたいだった。悠斗は少しおかしくなったが、笑うと彼女を困らせそうで黙った。


「今、何か面白かった?」


「え、顔に出てた?」


「口元が」


「収録より、指示が多いなと思って」


 琴音も小さく笑った。


「収録では、久瀬くんが急に左へ行くことはないから」


 笑った分だけ肩がまた触れた。悠斗はそれを避けようとして、傘を外へ動かしかけた。琴音が雨の縁を見たので、彼はすぐに戻した。


 駅へ向かう道は2つあった。商店の前を通る近道と、住宅の軒や街路樹が続く道だ。琴音は角で少し立ち止まった。


「あちらのほうが、歩きやすいかもしれない」


「少し遠いよ」


「でも、車の水が跳ねにくい」


 言われて、悠斗は大通りを走るバスを見た。確かに二人でぎりぎりの傘を使っているときに、車の水まで避けるのは難しい。


「じゃあ、そっちにしよう」


 琴音がうなずき、住宅の道へ曲がった。


 細い道に入ると、雨の音が少し変わった。古い家の軒から落ちる水が、側溝を速く流れている。向こうから人が来て、二人は塀の側へ寄った。


 悠斗が一歩先に出ようとすると、琴音はその場で待つほうがよいと目で示した。二人は、相手が通り過ぎるまで待ってから、また歩き出す。


「一人のときと違うね」


「幅があるから」


「うん。それもだけど」


 彼は続きをうまく説明できなかった。自分だけが足元を避ければよいわけではなく、相手が立ち止まったことにも気づく必要がある。その不自由さを、面倒だとは感じなかった。


 琴音は問い返さず、傘の内側から進む方向を確かめた。悠斗は今度、動く前に右へ寄るねと言えた。


 いつもなら一人で通り過ぎる古いパン屋の窓に、閉店時刻の札が出ていた。琴音がその札を見たので、悠斗はよく買うのかと尋ねた。


「たまに。塩気のあるパンが好き」


「甘いのより?」


「甘いのも食べる。でも、昼はそちらのほうがいい」


「覚えとく」


 彼女はこちらを見た。


「何のために?」


「いつか、買うことがあるかもしれないから」


「……そう」


 琴音は前を向いた。傘に当たる雨の音で、返事が少し聞き取りにくかった。悠斗はもう一度聞かず、彼女の歩幅に合わせた。


 琴音が番組以外の好みを話すとき、悠斗にはその答えを残しておきたくなる。台本へ書くような情報ではないけれど、忘れたくない。


 そのことを不思議だとは、まだ思わなかった。


 次の角で風が吹き、傘の縁から雨が入った。二人は同時に内側へ寄り、腕がぶつかった。


「ごめん」


「ううん」


 琴音の指が、自分の鞄の持ち手を握り直した。その指が思っていたより近くにある。悠斗は突然、どこを見ればよいか分からなくなった。


 沈黙の話をしたばかりなのに、今日は黙っていると余計なことを考えてしまう。


「明日の編集、何時だっけ」


「16時。予定に入れてなかった?」


「入れた。確認」


「3回目だと思う」


 悠斗は前だけを見た。琴音が隣で笑った気配がして、顔が熱くなった。


 駅前の屋根にたどり着くと、二人は同時に息をついた。


 悠斗の左袖は少し濡れている。琴音の右肩も色が変わっていた。彼女は鞄からハンカチを出し、自分の肩を軽く押さえたあと、悠斗の袖を見た。


「やっぱり、傾けてたでしょ」


「最後の風のところだけ」


「途中も」


 彼女は言い切ったが、責める声ではなかった。


「ありがとう。でも次は、もう少し言って」


「濡れたって?」


「うん。私だけ乾いても、成功ではないから」


 悠斗は、雨を避けるだけの話にしては、その言葉が心に残ると思った。


 自分が少し困るくらいなら構わない。そう考えて貸そうとした傘だった。けれど彼女は、それをよい解決だと受け取らなかった。


「分かった。次は言う」


 琴音はうなずいた。


 それから外を見た。雨はまだやまない。悠斗とは別の駅で降りる彼女は、到着後にも少し歩くはずだった。


「傘、そのまま持っていって」


 悠斗が差し出すと、琴音はすぐには受け取らなかった。


「久瀬くんは?」


「駅から、ほとんど屋根がある。最後はコンビニを通るから、必要なら買える」


「それは、事実?」


「うん。走る作戦よりは、ちゃんと考えた」


 琴音は傘を受け取り、持ち手を見た。


「じゃあ、借りる。明日の編集で返してもいい?」


「もちろん」


「乾かしてから持ってくる」


「そんなに急がなくても」


「返す用事があるほうが、忘れないから」


 琴音はそう言って、傘を鞄の横へ立てかけた。明日はもう会う約束がある。それでも、彼女がわざわざ返す時刻を決めたのが、悠斗には少し嬉しかった。


 改札を通り、ホームへ向かう階段で方向が分かれた。


「また明日、早瀬さん」


「うん。16時」


「4回目になったね」


 琴音が笑い、そのまま階段を上がった。


 悠斗は反対側へ歩き、壁の時計を見た。大学から駅まで、いつもより10分以上かかっていた。遠い道を選んだ分を引いても、歩くのが遅かった。


 急がなければ、二人とも濡れるかもしれなかった。それでも傘の中で、もう少し先まで歩いてもいいような気がしていた。


 電車の窓に映った自分は、雨に困っている顔をしていなかった。


 帰宅後、琴音から短い連絡が届いた。


『無事に着いた。傘、ありがとう。そちらも濡れずに帰れた?』


 悠斗は乾いた部屋で、その文章を二度読んだ。


『大丈夫。袖も乾いた。明日、よろしく』


 送信してから、明日の16時をまた確かめた。5回目の確認は、彼女には知らせなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。