第42話 黙っていても、言葉にして
悠斗が同じページを二度開いたところで、琴音が顔を上げた。
「探している箇所、見つからない?」
「いや。そこは見つかった」
「それなら、別の考え事?」
彼は本の端へ指を置いたまま、少し笑った。
「分かるんだね」
「ページを戻していたから」
2月の試験期間、二人は図書館の共同学習用の席で課題を進めていた。小声なら話せる場所だが、ずっと会話をするための席ではない。
机の上には別々の資料があり、飲み物を置ける場所でだけ休憩することにしていた。
悠斗は文章を書き終えたのに、最後の確認へ進めずにいた。頭にあるのは、後輩の企画だった。
理央が出した短い案へ、自分は何を返せばよいのだろう。
直す箇所は見つかる。だが全部を自分の言葉へ替えたら、彼女が作った意味が減る。何も言わなければ、頼りにならない先輩だと思われるかもしれない。
その不安は、琴音へ話せる内容だった。
しかし彼女も課題へ集中している。今、自分の気持ちまで聞いてもらうのは負担ではないかと考え、悠斗はまたページへ戻った。
琴音がペンを置いた。
「休憩、少し取ろうか」
「琴音も、休みたい?」
「うん。指が固くなってきた」
彼女は手を開いて閉じた。机に置いた時計を見ると、二人とも思っていたより長く作業していた。
悠斗はうなずき、資料を閉じた。
廊下の休憩できる場所へ移り、温かい飲み物を買った。
琴音はカップを持ち、壁の時計を一度見た。悠斗は自分の指もほぐしながら、何から話すか考えた。
「何かあるなら、聞く」
彼女が言った。
「でも、まだ整理できてない」
「整理する前でも、話していい」
悠斗は彼女を見た。特別回で、琴音が言ったことと同じだった。
今はそれを、彼自身へ向けてくれている。
「後輩へ、どう返すのがいいか迷ってる」
彼は話し始めた。
「助けたいけど、直しすぎると俺の企画になる。何も言わないのも違う。どこまで言えばいいか、分からない」
琴音はうなずいた。
「理央さんの案?」
「うん。本人のよいところを残したい。でも、俺が好きなものをよいところだと決めてるだけかもしれない」
言葉にすると、不安が少し具体的になった。何となく教える自信がない、ではなく、相手の選択を尊重できるかが心配だった。
琴音はカップを机へ置き、少し考えた。
「先に、どこを気に入っているか聞くのはどう?」
彼女は尋ねる形で言った。
「私たちが残したいところより、本人が何をしたかったかを知る。それから、聞き手に伝わるか一緒に確かめる」
悠斗はうなずいた。
「うん。その順番なら、話せそう」
「それでも迷ったら、私や白石くんにも聞けばいい。一人でよい先生にならなくていいと思う」
彼は少し笑った。
「また、一人で何とかしようとしてた」
「少し。でも、今は話してくれた」
琴音も笑った。
悠斗はカップを持ち直した。
「分かってもらえると、言わなくてもよいと思いそうになるね」
彼が言うと、琴音は顔を上げた。
「私も、分かることは増えた。でも、全部は分からない」
「うん」
「言わなくても分かることと、言ってほしいことは別だよ」
彼女は静かに続けた。
「考え事があるのは、見て分かった。でも、何を悩んでいるかは、聞かないと分からなかった」
悠斗はその言葉を覚えておこうと思った。
沈黙が心地よいことと、伝えたいことを黙って置くことは違う。4月には、話さなくても安心できる相手になれた。今はその安心が、話すためにも必要なのだと分かった。
「琴音には、不安だって言える場所でいてほしい」
彼が伝えると、彼女は少し目を伏せた。
「うん。そういう場所でいたい。私も、話せるようにしたい」
悠斗はうなずいた。
彼女が自分のためだけに用意された聞き役ではないことも、忘れたくなかった。彼女の困っていることや、疲れていることも聞きたい。
「琴音は、何かある?」
彼が尋ねると、彼女は少し考えた。
「課題は、予定どおり。でも、頭が動くのが少し遅い」
「休みが足りない?」
「睡眠は取った。作業の区切りを、後ろへ延ばしすぎたかもしれない」
悠斗は彼女のカップを見た。飲む前に何度も指をほぐしていた。
「今日は、帰る時刻を早める?」
「……そうしたい」
彼女は答えた。
「人の疲れには気づくのに、自分のことは後でいいと思っていた」
「俺と少し似てるね」
「それは、あまりよい共通点ではない」
二人は笑った。
琴音は手帳を開き、今日必ずする作業と、明日でもよいものを分けた。悠斗も同じように見直した。
「あと、30分で終わろう」
琴音が言い、悠斗も賛成した。
席へ戻ると、二人はまた静かに作業した。
さっきまでの沈黙とは、少し違っていた。悠斗の不安はなくなったわけではないが、何を先に聞くかが決まり、紙へ戻れる。
琴音も、終える時刻を決めたことで、必要な箇所だけへ集中していた。
悠斗は課題の最後の段落を直し、重複していないか確認した。それから理央へ送るためのメモを1行だけ書いた。
どの部分を一番届けたいと思ったか、次に聞かせてほしい。
解決案を一式作るより、今はその問いが必要だった。
琴音が隣で顔を上げた。
「そろそろ」
「うん。終わった」
彼は資料を閉じた。彼女も予定の箇所まで進め、残りを明日の欄へ移した。
鞄へ本を戻すと、琴音が机の上を確かめた。
「ペン、そちらにない?」
悠斗は自分の資料の下を見た。琴音のものはなく、代わりに、自分が探していた栞が出てきた。
「俺の栞はあった」
「私のペンを探しているんだけど」
「うん。捜索の途中経過」
彼女は小さく笑い、自分の手帳を開いた。ペンは表紙に挟まっていた。
「見つかった」
「俺のも。今日は二人とも、少し疲れてたね」
琴音はうなずいた。何か大きな問題があった日だけ休むのではなく、普段の作業にも区切りをつけてよかった。
廊下へ出てから、彼女が言った。
「帰ったら、何をする?」
「先に食事。その後、今日直したところを一度見る。琴音は?」
「私も食事。それから、明日の資料だけそろえる」
悠斗は、その予定を聞いてほっとした。早く帰っても自宅で無理を続けるなら、今日話したことが消えてしまう。
ただ、確認の電話を義務にはしなかった。互いに休めたかを、次に会ったとき聞けばよい。
「夜、連絡したくなったら送る。でも、返事は明日でも」
彼が言うと、琴音は同じようにすると答えた。
自動ドアが開き、外の冷たい空気が入った。琴音は手袋を取り出した。悠斗も上着の前を閉め、今日は寄り道をせず帰ろうと二人で決めた。
図書館を出ると、まだ少し明るかった。
琴音は寒いと一言言い、悠斗は風の弱い側へ歩こうかと聞いた。彼女がうなずき、二人で道を選ぶ。
手をつなぐ前に、彼は今日話を聞いてくれたことへ礼を言った。
「次も、迷ったら言う」
「私も」
琴音は答え、彼の手を取った。
歩いている間、二人はしばらく何も話さなかった。今の沈黙には、言い損ねた問いが取り残されていない。
悠斗はそのことに安心した。
話さなくてもよい相手であることと、話してもよい相手であること。
両方を持てる関係へ、少しずつ進んでいた。
駅の前で琴音が、明日は早く休むと伝えた。悠斗も勤務の後に無理をしないと答えた。
相手に察してもらうだけではなく、言ったことで守れる予定がある。
彼はその約束を、次の収録の時刻と同じくらい大事に覚えておいた。




