第34話 おやすみを、声で
琴音のメッセージに返せたのは、送られてから4時間後だった。
悠斗は勤務を終え、店の裏で携帯を開いた。年末の書店は、帰省前に読む本や、家族へ渡す本を探す客で混んでいた。休憩の時刻も普段と少し違う。
『今日は、資料の確認が終わった。こちらは問題なし』
琴音からはそれだけ届いている。悠斗も公開前の確認を済ませた旨を返し、遅くなったと1行添えた。
返信はすぐには来なかった。
彼は、今度は琴音が用事の最中なのだろうと思った。自分が4時間見られなかったばかりなのに、相手からの返事は数分でも気になる。
その癖を、付き合ったからといってすぐに捨てられるわけではなかった。
彼は携帯をしまい、帰る準備をした。
年末は、二人の生活の時刻がずれていた。
悠斗は店の勤務があり、琴音は家族の用事と残った課題を昼に進める。どちらも無理をしているのではないが、携帯を見る時間が合わない。
以前なら夕方に終わった話が、夜を越えて次の日まで続いた。返事を忘れたわけではない。読み終えた頃には相手がもう休んでいる。
ある朝、琴音から少し長い文が届いた。
『返信が減っていることを、気持ちが変わったからだとは思っていない。ただ、話したいことが用件の後に残るので、一度、電話できる時間を決めたい』
悠斗はその文章を読んで笑った。
彼女らしい説明だった。それでも、その奥の希望はちゃんと分かった。
『俺も話したい。今夜なら、帰宅後の22時までの間に少し取れる』
彼は自分の時刻を伝え、彼女が難しければ別の日にしようと続けた。
返事が来たのは昼だった。
『21時半なら大丈夫。15分くらい、どう?』
悠斗は休憩中に了承を返した。往復するまで半日かかったが、決まった予定が一つ残った。
電話の前、悠斗は夕食と片付けを済ませた。
贈り物にもらった本の袋から、読みかけの文庫を出す。今日の仕事で気になった本と、琴音へ話したいことを短くメモした。
電話がつながると、彼女は最初に今、本当に大丈夫かと聞いた。
「うん。食事も終わった。琴音は?」
「私も。家の用事は、今日の分が終わった」
悠斗は安心した。無理に会話を始めるのでなく、二人が使える時刻を合わせたことが分かる。
しばらく近況を話した後、琴音が少し声を落とした。
「返信の時間を、また気にしかけた」
彼は聞く姿勢を変えた。
「遅かった日?」
「うん。でも、前に番組で話したことを思い出した。仕事中に返せないのも知っているし」
「俺も、同じ。自分が返せなかったのに、次は待ってしまう」
琴音が小さく笑った。
「知っているだけで、気にならなくなるわけではないんだね」
「うん。ただ、気になったときに別の考え方があるって、思い出せる」
悠斗は答えた。
相手に早く返すよう求めるのでなく、今の二人に合う連絡のしかたを考えたかった。
「毎日長く話すのは、今は難しいね」
彼が言うと、琴音は了承した。
「用件があるときは、返事が必要な時刻も書く。雑談は、次の日になっても大丈夫にしたい」
「分かった。仕事の時刻が大きく変わる日は、分かったら知らせる」
「私も。電話したいときは、先に時間を聞く」
二人は一つずつ決めた。義務の一覧にしたくはなかったので、できなかったときにも事情を話せる形にする。
毎晩何時に必ず連絡する、とは決めなかった。
琴音は、一つだけ確かめたいことがあると言った。
「短い返事が続くとき、何か困っているのか聞いてもいい?」
「もちろん。俺も聞く」
悠斗は答えた。
「早く返してほしいっていう意味ではなくて、話したいことがあって言えないなら、聞きたい」
「分かる。俺も、今までそういうことがあったから」
用件だけを送るのが相手の負担を減らすと思って、かえって何を考えているか見えなくした日があった。
「今は、ただ仕事で時間がずれてる。でも、別の理由があるときは、それも言う」
彼が伝えると、琴音は安心したように息をついた。
「うん。そこが分かれば、返事が次の日でも待てると思う」
悠斗は自分も同じだと返した。全ての行動を報告するためでなく、二人の間に話す必要のあることが残っていないか、聞く。その問いなら、携帯を見る回数を増やすより役に立ちそうだった。
彼は今の約束を短くメモした。明日から完璧に実行できるかは分からないが、迷ったときに二人で確認する言葉ができた。
「今の話、番組で使えそうだね」
悠斗が言うと、琴音は少し笑った。
「私たちの話を、そのまま使う必要はない」
「うん。考え方だけ、覚えておこう」
「返信の速度だけではなく、何を伝え合えているか」
彼女の言葉に、彼はうなずいた。
今日の連絡は遅かった。それでも、話したいという希望は届き、使える時刻を並べ、今こうして話している。
速さだけで見たら分からないものが、二人の間にはあった。
琴音は昼に見たものの話を始めた。家族の買い物について行き、知らない種類の紙を見つけたらしい。
悠斗は名前を聞き、あとで見てみたいと言った。彼も店で、普段読まない分野の本を案内した話をした。
15分の終わりに、まだ一つずつ話したいことが残った。
「続き、また今度でいい?」
彼が聞くと、琴音はうなずくような声で答えた。
「うん。次に会うときの話も、残しておきたい」
「俺も」
電話を切る前、おやすみと言い合った。
その一言が、いつもより近く聞こえた。
翌日、悠斗は帰りが少し遅くなった。
琴音から写真が1枚届いていたが、返事をする頃には彼女が休む時刻に近かった。今、電話をかけるほどの用事はない。
彼は文章を書き、途中で止めた。
昨日、おやすみの声が聞けて嬉しかった。琴音も、そうだろうか。
長い録音でなければ、相手が都合のよいときに聞ける。彼は一度だけ音声を録った。
「今日も、お疲れさま。おやすみ、琴音」
再生すると、番組の声よりずっと小さかった。少し恥ずかしかったが、送りたかったのは上手な声ではない。
彼は、今聞かなくてもよいと添えて送った。
それから携帯を置き、入浴と明日の準備を済ませた。返事が来るまで起きていようとは思わなかった。
翌朝、琴音から返っていた。
『声、嬉しかった。今朝も聞いた』
悠斗はその一文を読み、顔が熱くなった。
『内容、おやすみだけだったけど』
返すと、しばらくして次の文が来た。
『だから、安心して聞ける。返事を考えなくていいし』
彼は笑った。相談の回答より短く、用件より何も決めない音声だった。それでも、自分の気持ちはちゃんと届いていた。
年末の収録準備で会った日、二人は部室で公開前の確認をした。
琴音が携帯を机へ置いたとき、悠斗の送った音声の画面が一瞬見えた。彼女はすぐ伏せたが、彼は聞いてしまった。
「保存してる?」
「……消す理由がないから」
琴音は少し顔を赤くして言った。
「何度も聞くほどの内容ではないと思うけど」
「内容だけなら、そう。でも、声だから」
悠斗は返事ができず、台本へ目を落とした。
琴音はその反応を見て少し笑い、今度は自分から言った。
「今度、私も送っていい?」
「うん。聞きたい」
彼はすぐ答えた。彼女は小さくうなずき、公開の確認へ話を戻した。
作業は普段どおり終わった。用件の返事を済ませ、二人はその後でゆっくり飲み物を飲んだ。
悠斗は彼女の声を聞きながら、その約束が二人の年末を少し楽にしたと思った。
机の上の携帯は、しばらくどちらも開かなかった。




