第31話 傘は2本あるけれど
玄関の屋根の下で、2本の傘が並んだ。
悠斗の黒い傘と、琴音の薄い色の折り畳み傘。どちらも雨を避けるためには十分だった。
11月の夕方、部室から出る頃に降り始めた雨は、止む気配がなかった。二人は駅まで一緒に歩くつもりで、靴の先を濡れた舗道へ向けた。
「今日は、ちゃんとあるね」
悠斗が言うと、琴音は傘の留め具を外した。
「予報を見て、鞄へ移したから」
「前のこと、覚えてる」
「私も。借りた後で、返した傘まで部室に忘れた人がいた」
「そこまで残ってた」
二人は笑った。初めて一つの傘で歩いたのは、5月だった。肩が触れるたびに位置を直し、琴音は濡れない配置を説明した。
今は二人とも傘を持っている。説明する必要も、困る理由もない。
悠斗が自分の傘を開くと、琴音はまだ折り畳んだまま立っていた。
「開かないの?」
彼が尋ねる。
彼女は自分の傘を見て、それから彼のほうを見た。
「一緒に入っても、いいけど」
悠斗は持ち手を握り直した。
「傘、あるよね」
「ある」
「壊れてない?」
「壊れていない」
琴音は少し眉を寄せた。
「一緒に歩きたいから、言った」
悠斗は笑いかけ、自分も照れた。彼女は、合理的な理由を探さずに希望を出してくれた。
「俺も、一緒がいい」
彼が答えると、琴音は傘をもう一度留め、袋へ戻した。
屋根から出る前に、悠斗は傘を中央へ持った。琴音が内側へ寄り、二人の肩が触れる。
以前より、位置を決めるのが早かった。
「今日は、最適配置の計算をしないの?」
彼が聞くと、琴音は口元を少し上げた。
「前に試したので、条件は大体分かっている」
「経験を使ってるんだ」
「でも、今日は計算で一つにしたわけではない」
「うん」
悠斗は短く答えた。その違いを、彼も大切にしたかった。
琴音は鞄を外側へ持ち替え、空いた手で悠斗の腕の辺りに触れた。傘を持つほうと反対の手だったので、彼はそちらを少し動かし、彼女の手を取った。
歩きにくくならない位置を、二人で探す。
「こうすると、狭くない?」
彼が尋ねる。
「少し。でも、歩ける」
「濡れたら、言ってね」
「悠斗も」
二人はうなずいた。どちらかだけ乾いていればよいという話には、もうしたくなかった。
雨の中の道は、5月より暗かった。
街灯の光が水たまりに映り、すれ違う学生が傘を上げて通る。悠斗も同じように少し持ち上げた。琴音はその動きに合わせ、一度手を離して鞄を寄せた。
通り過ぎてから、また彼女の手が戻った。
つないだまま動けないことを、我慢する必要はない。それは映画の日に少し覚えたことだった。
途中で風が変わり、傘の縁が一度大きく揺れた。悠斗は無言で傾けるのでなく、少し持ち替えると言った。
琴音は手を離し、彼が持ち直すまで待った。それから、こちらの肩へ雨が落ちると短く知らせた。
「このくらい?」
「うん。そこなら大丈夫」
彼女は答え、自分も半歩寄った。
言えば直せることだった。5月の二人は、相手が濡れないようにという同じ希望を持って、互いの位置を遠慮していた。
今も気遣いはある。ただ、気づいてもらうまで我慢しなくてよい。
琴音が、今度は悠斗の袖を見た。
「そちらは?」
「少しだけ。でも、風が落ち着いたら戻せそう」
「分かった」
彼女はその返事を受け取った。
琴音の鞄には、まだ乾いた傘が入っている。雨脚が強まったら、開けばよかった。
「寒くなったら、別々にもできるね」
彼が言うと、彼女はうなずいた。
「うん。今は、ここにいたい」
悠斗はその短い返事を、嬉しく受け取った。
道の角で、悠斗は近道と住宅街の道を見比べた。
「今日は、どっちがいい?」
「住宅のほう。車の水が跳ねにくいから」
「前と同じ理由だ」
琴音は少し笑い、それから付け足した。
「それと、少し長く一緒に歩ける」
悠斗は彼女を見た。表情は前を向いたままだが、耳の辺りが赤くなっている。
「それも、賛成」
彼が答えると、琴音は小さくうなずいた。
選ぶ道は同じでも、理由が増えた。その理由を、今日は2人とも言えた。
悠斗は歩幅を少し狭くした。初めてこの道を歩いたときも、同じように遅くなった。ただあのときは、なぜ急ぎたくなかったのか分からなかった。
今は分かる。隣の人と、もう少し一緒にいたい。
途中のパン屋は、まだ灯りがついていた。
琴音が窓へ目を向けたので、悠斗は寄るかと尋ねた。以前なら、休ませたほうがよいと思って先に帰ろうと言ったかもしれない。
「少し見たい」
彼女は答えた。
「じゃあ、入ろう」
二人は店の屋根へ移り、傘を閉じた。狭い入口で順番を譲り、店内へ入る。
琴音は明日の朝に食べる塩気のあるパンを選んだ。悠斗は甘いものを1つ取り、彼女に好みを覚えていると言った。
「そう。最初にここを通ったとき、話した」
「覚えててよかった」
「私も、悠斗がどんな本を好きか、少し分かるようになった」
彼は笑った。二人が覚えているものは、番組の予定や台本の修正だけではない。
それぞれ会計を済ませ、店先へ出た。琴音は買った袋が濡れないよう、鞄へしまった。
悠斗が傘を開くと、彼女はもう迷わず内側へ入った。
「私も、少し持とうか」
「大丈夫。今は軽いから」
「重くなったら?」
「言う。駅まであと少しだし」
琴音はうなずいた。その返事を信じてくれることも、以前より楽になっていた。
駅の屋根の下へ着くと、二人はそれぞれ肩を見た。
悠斗の左袖が少し濡れ、琴音の鞄の端にも雨がついている。以前と同じように完璧ではないが、どちらかがずっと雨を引き受けたわけでもなかった。
「成功?」
悠斗が尋ねると、彼女は少し考えた。
「雨を完全に避けることが目的なら、2本使ったほうがよかった」
「今日は?」
「今日は、これでよかった」
琴音は笑った。
悠斗も笑い、傘を閉じた。彼女の折り畳み傘は、一度も開かれなかった。
使わなかったことが無駄とは、彼には思えなかった。どちらも持っているから、必要なら別々に歩ける。そのうえで、今日は一緒を選んだ。
言い訳がない選択は、少し照れくさくて、嬉しかった。
ホームへ向かう階段で、琴音が一度止まった。
「5月のとき、遠い道を選んだのは、水が跳ねるだけではなかったと思う」
悠斗は彼女を見た。
「あのときは、まだ自分で説明できなかったけど」
「俺も、歩くのが遅かった理由、後から分かった」
彼が答えると、琴音は口元を緩めた。
「今日は、先に言えたね」
「うん」
二人は手を離した。帰る方向が違うことは変わらない。それでも、離す前に少しだけ握り返すことが自然になっていた。
電車へ乗ってから、悠斗は今日買ったパンの袋を見た。
琴音から、無事に乗ったという連絡が届く。傘を借りたときとは違い、彼女は自分の傘を持っている。その後の道も濡れずに歩ける。
『今日は、一緒に入れてよかった』
最後にそう添えられていた。
悠斗は同じ気持ちを返し、袖の濡れたところへ指を当てた。もう少しすれば乾くだろう。
雨の夜も、傘が1本しかないわけではなかった。
それでも一緒に歩く時間が、二人の選んだものとして残った。
帰宅して傘を乾かすとき、悠斗は次に雨が降ったら、また彼女へ聞こうと思った。
今日は、どう歩きたい、と。




