第3話 目的のない本
琴音が書店の入口で立ち止まったのは、悠斗が予想していた理由とは違った。
「棚の配置が、店の案内図と少し違う」
「季節の特集が増えたからかな」
「それなら、案内図も更新したほうがいい」
「店員さんに言う前に、俺に1回任せて」
大学近くの書店は、入口こそ狭いが、奥へ進むと2つの通路に分かれている。悠斗は1年生の頃から通っていた。新刊の棚より、奥にある文庫の棚へ足が向くことが多い。
今日は琴音が番組づくりの参考にしたい本を探していて、悠斗が案内を申し出た。図書館にないのかと尋ねると、手元で繰り返し使う資料を1冊選びたいらしい。
「会話についての本、でいいんだよね」
「できれば、根拠の説明があるもの。成功するための決まり文句集ではなくて」
「条件、他にもある?」
「専門用語だけで説明されていないこと。音声で話す場合にも参考になること。価格は――」
「だいぶあるね」
琴音は携帯のメモを伏せた。
「買う前に整理したほうが、迷わなくてすむから」
悠斗は分かると言いかけ、自分はいつも棚の前で迷うために来ていることに気づいた。今日は案内役なのだから、せめて最初の棚までは迷わず進もう。
会話の入門書は、予想していた場所にあった。琴音が背表紙を見ている間、悠斗は通路を挟んだ棚へ視線を移した。朗読や文章を書くための本が並んでいる。
「こういうのも、参考になるのかな」
彼が指した1冊を、琴音は受け取った。目次を開き、視線を動かす。
「聞き手が知らない情報を、どこまで補うか。……これ、相談を読むときにも使えそう」
「違う棚だけど」
「目的は同じだから。関連するものを探すなら、隣の棚も見るべきだった」
「店の配置、意外と合理的?」
「それと案内図は別の話」
琴音が本の角をそっと指で押さえた。強く開かないように気をつけている。悠斗はその仕草に、自分の好きな場所へ一緒に来てもらった安心を感じた。
声を落として、二人は使えそうな項目を見せ合った。相手を見て話す、という文章に、マイクの位置も大事だねと悠斗が言う。琴音は、二人とも紙ばかり見ていた箇所を思い出したようにうなずいた。
「読めば全部直る、というわけではないけど」
「やってみないと分からないね」
「久瀬くん、今日はその言葉が早い」
「早瀬さんが条件をまとめてくれたから」
琴音は返事をせずに、もう一度目次を見た。少ししてから、1冊を買うと決めた。
目的の本が見つかれば、そこで解散してもよかった。
ところがレジへ向かう途中、文庫の棚で悠斗の足が止まった。好きな作家の短編集に、新しい帯がついていた。読んだ話の一節が大きな文字で抜き出されている。
琴音も隣で立ち止まる。
「それ、好きなの?」
「うん。会話が面白いんだ」
「恋愛の話?」
「それもあるけど、家族とか、友達とか。何も起きないようで、読んだ後ちょっと変わる感じ」
説明してから、悠斗は曖昧すぎたと思った。具体的なことを聞く琴音に、自分の言い方はいつも広い。
彼女はしかし、その本を見せてほしいと言った。
「どの話がおすすめ?」
「最初の話かな。いや、早瀬さんなら3つ目も――」
「条件に合わせなくていい。久瀬くんが好きな話を聞いてる」
悠斗は棚に置いた指を離した。
番組では彼女に提案を求めることが多い。彼女から自分の好みをまっすぐ聞かれるのは、少し不思議だった。
「じゃあ、最初の話。お互い勘違いしているんだけど、相手のために変な準備をするんだ」
「変な準備?」
「そこを言うと、読むとき面白くなくなる」
「なるほど」
琴音は目次だけを見た。物語の説明を要求する代わりに、表紙の絵を眺める。悠斗はそれが嬉しくて、同じ作家の別の本まで指してしまった。
「こっちは長いから、最初に読むなら今のほうかな」
「読んだ本、全部覚えてる?」
「全部じゃないよ。好きだったところだけ」
「私は、読んだ目的のほうを覚えているかもしれない」
彼女は抱えていた資料の表紙を指でなぞった。
「何のレポートに使ったか、とか」
「目的がない本も、たまにはいいよ」
琴音はうなずいたが、買うとは言わなかった。悠斗も勧めすぎないよう、隣の棚へ一歩下がった。
そこに、見覚えのある文庫があった。高校時代、悩んでいた友人へ貸した本だった。友人は本を読むより、自分の話を聞いてほしかったのだと、後から知った。
返してもらうときに「ためになった?」と聞いた自分の声を、なぜか今思い出した。
「どうしたの?」
琴音の問いに、悠斗は本から目を離した。
「前に、友達に勧めた本があって」
「面白くなかった?」
「いや、本の問題じゃなくて。相手が欲しいのは、こういう話じゃなかったかもしれないなって」
琴音はすぐに何かを判断しなかった。資料を抱え直して、彼の続きを待った。
「読むと楽になると思って。でも、そういうのって、こっちが決めることじゃないよね」
「そのときは、助けたかったんでしょ」
「うん」
「だったら、その気持ちまで間違いにしなくてもいいと思う」
琴音がそう言ったので、悠斗は少し困った。相談に答えていたはずの相手に、今日は自分が答えをもらっている。
「ありがとう」
「ただ、私の好みに合わせて推薦を撤回する必要もないから」
「あ、分かってる」
「あまり、分かっていない顔だった」
琴音は例の短編集を棚から取り、資料と重ねた。
「私は、読んでみたい」
悠斗はもう余計な説明を足さなかった。
会計は別々に済ませた。琴音が鞄から出した財布には、小さな紙のカードが入っていた。喫茶店のものらしい。悠斗が何気なく見ていると、彼女は近くのお店なのだと教えた。
「本を読むこともあるけど、普段は課題」
「やっぱり目的がある」
「コーヒーを飲む、という目的もある」
「それは俺も得意」
レジから離れるとき、琴音は店の案内図をもう一度見た。入口の特集棚の名前が、小さな手書きの紙で補われている。
「更新されてた」
「見落とし?」
「そう。案内図の責任ではなかった」
真剣に謝るみたいな口調だったので、悠斗は笑った。琴音も「本には言わないで」と言って、袋を持ち直した。
外へ出ると、通りを走る自転車のベルが聞こえた。桜の色が少なくなり、店先には新学期用のノートが並んでいる。
二人は大学へ戻る分かれ道まで、一緒に歩いた。悠斗は今日買った本をすぐ開きたい気持ちと、まだ話していたい気持ちの両方を持っていた。
「収録と関係ない話も、悪くないね」
琴音が信号の手前で言った。
「俺は結構好きだけど」
悠斗が答えると、彼女はこちらを見た。その頬がわずかに赤いのは、夕方の光のせいかもしれない。
「本の話?」
「うん。本の話も、そうじゃない話も」
「……そう」
信号が変わった。琴音は一歩出てから、悠斗の歩く速さを確かめるように振り向いた。
「読んだら、感想を言う」
「もちろん。合わなかったら、それも聞きたい」
「まず、読ませて」
袋の中では、必要な資料の隣に、悠斗の好きな短編集が入っている。
それだけのことが、部室で意見を褒められたときとは違う嬉しさになった。好きなものを1つ、彼女が持って帰ってくれる。
悠斗は別れ際、次の収録で使う台本の話をしなかった。
「最初の話、最後まで読むと、最初に戻りたくなるよ」
「まだ情報を追加するの?」
「今ので終わり」
琴音が笑った。今度は、口元だけではなかった。
悠斗はその顔を見て、次に案内するときは資料の棚だけで終わらなくてもよさそうだと思った。彼女のほうから勧めてもらう本も、読んでみたい。駅へ向かう姿を見送りながら、今度はそれを聞こうと決めた。




