第28話 理想の恋人をやめる日
悠斗が店の扉を開けると、琴音は携帯を伏せた。
彼も、自分の携帯を急いで鞄へしまった。
それから二人とも、相手が何を見ていたか尋ねられず、メニューを開いた。注文を済ませると、琴音のコーヒーが先に運ばれてきた。
10月末の喫茶店。収録の後ではなく、講義の空き時間に少し会う約束だった。今日は台本も必要ない。
「何か、調べてた?」
悠斗がようやく聞くと、琴音はカップへ目を落とした。
「少し」
「俺も」
「何を?」
彼は携帯を出すか迷い、それから正直に言った。
「気の利いた、デートの誘い方」
琴音は一度まばたきをした。
「……私は、感情を分かりやすく伝える方法」
悠斗は笑いそうになり、彼女をからかうのは違うと思って口を閉じた。琴音も自分の携帯を見て、少し笑った。
「二人とも、調べていた」
「今日の相談のせいかな」
彼女はうなずいた。
番組に届いたのは、理想の恋人像と実際の相手が違うという相談だった。
相談者は、もっと積極的に誘ってほしいと思う一方、今の恋人が穏やかな人だと知っている。自分の期待をどこまで伝えてよいか悩んでいた。
琴音は、実際にしてほしい行動と、漠然とした理想を分けようと提案していた。悠斗も、相手の性格を全部変えてほしいと言うより、一つの希望を伝えるほうが話せると思っていた。
そこまでは、番組への回答として二人でまとまっている。
ところが台本を読んでいるうちに、悠斗は自分が琴音にとって物足りない恋人ではないかと考えた。
彼女は準備が得意で、決断も早い。デートの店や移動を決めるとき、自分が迷っていると、その分を彼女が引き受ける。
もっと素早く、彼女が喜ぶ場所へ誘うべきではないか。
「それで、調べてた」
悠斗が話すと、琴音は顔を上げた。
「私は、そういうふうにしてほしいとは、言っていない」
「うん。分かってる。ただ、俺がそう思って」
彼はコップの水へ手を伸ばした。
「琴音も、何かあった?」
彼女は少し迷い、答えた。
「私は、もっと反応が分かりやすいほうが、悠斗は安心するのかもしれないと思った」
「反応?」
「嬉しいときに、嬉しいと言う。楽しいなら、もっと笑う。褒められたときも、説明を増やさない」
悠斗は彼女を見た。
今、彼女がちゃんとその気持ちを話してくれていることが、彼には嬉しかった。もっと大きな反応が欲しいと思っていたわけではない。
「琴音が笑うの、好きだけど。笑わなきゃと思って笑ってほしいわけじゃない」
彼が言うと、琴音の手が止まった。
「嬉しいなら、言ってくれると助かる。でも、今も伝わってることはあるよ」
「たとえば?」
「デートの予定を考えてくれることとか、読んだ本の感想を覚えていてくれることとか。今日も、空き時間に会いたいって言ってくれた」
琴音はカップへ視線を落とした。
「それで、十分?」
「十分かどうか採点するつもりはないけど、俺は嬉しい」
彼女はゆっくりうなずいた。
「私も、悠斗が迷うことを、悪いとは思っていない」
「そう?」
「選択肢を考えてくれるから、自分が知らないものも見つかる。最初のデートで店を変えたときも、そうだった」
悠斗は少し笑った。
「時間、かかるけど」
「時間がないときは、そう言う。いつも即決してほしいわけではない」
彼はうなずいた。自分が彼女に望まれていると思っていた姿を、本人は求めていなかった。
琴音も同じだった。
相手のためと思って作った理想を、相手に一度も確かめずに目指していた。
食事が来ると、二人は少し黙った。
悠斗は琴音がスプーンを持つ仕草を見た。いつもと同じように落ち着いていて、食べ始める前に小さく礼を言う。彼が好きになった人は、この人だった。
急に別の性格になる必要はない。
「一つ、してほしいことを言ってもいい?」
彼が尋ねると、琴音は顔を上げた。
「うん」
「予定を考えるとき、琴音が本当に行きたいところも聞きたい。俺が喜びそう、だけじゃなくて」
彼女は少し考えた。
「分かった。私からも、一つ」
「何?」
「迷っているとき、どこで迷っているか教えてほしい。任せたいのか、まだ自分で考えたいのか、分からないことがある」
「あ、それは言う」
悠斗はすぐにうなずいた。
「完璧な恋人になる方法、ではなかったね」
彼が言うと、琴音は少し笑った。
「今、目の前にいる恋人と話す方法だった」
「番組の回答、使えてる」
「先に答えを書いておいて、後から自分で確認してる」
二人は笑った。
翌日の収録では、二人とも回答を少し言い換えた。
理想を持つこと自体を否定せず、何を大切にしたいのか考える材料にする。そのうえで、相手が望んでいない姿を勝手に引き受けない。
「聞かれていない期待に、自分から全部合わせようとしなくてもいいと思います」
悠斗が言うと、琴音はうなずいた。
「希望があるなら、一つずつ話せる形にしてみる。もっと優しくして、より、次に会う日を一緒に決めたい、のほうが伝わる場合もあります」
「自分が相手にしてほしいことと、自分が相手のためにするつもりのことを、混ぜないのも大事かもしれません」
彼は続けた。
「どちらも相手に聞けると、思い込みで無理をすることが減るんじゃないでしょうか」
琴音はその後を受け、断る側にも希望を話す余地があることを伝えた。できない行動があっても、別の形で気持ちを示すことはできる。
収録後、白石は例が具体的で聞きやすかったと言った。
悠斗は礼を言い、琴音へ目を向けた。彼女も小さく笑った。それくらいの反応で、今日の手応えは十分伝わった。
部室の机で、琴音が学園祭の案内を広げた。
11月の企画で放送研究会が何を担当するか、藤堂から確認を頼まれたものだった。音響や展示の予定が並んでいる。
「ここ、見に行きたい」
彼女が1つの展示を指した。紙と印刷についての学生企画だった。
悠斗は案内を寄せた。
「琴音が?」
「うん。悠斗が興味を持つかは、まだ分からないけど」
「行きたい。琴音がどこを面白いと思うか、聞きたいから」
彼女は笑いかけ、それから自分の言葉で言った。
「一緒に行けると、嬉しい」
説明を足さない言葉だった。
悠斗はうなずいた。もっと上手な恋人になろうと調べた記事より、今の1行のほうが、自分に何をしてほしいか分かる。
「当日の担当が決まったら、空く時間を見よう」
「うん。無理なら、別の時間でもいい」
二人は案内へ印をつけた。
その後、担当表の空欄を確認した。琴音が計算した移動時間を、悠斗が実際の会場の場所と照らす。一人で全部調べるより、見落としが減った。
「ここは、まだ決められないね」
悠斗が言うと、彼女はうなずいた。
「担当が確定してから。先に約束して、できなくなるよりはいい」
「じゃあ、行きたいっていうことだけ、今決めておこう」
「うん。それは決まってる」
彼女は紙へもう1つ、小さな丸を書いた。悠斗は何をしたいかが分かっていれば、細かな時刻が未定でも不安にならないと思った。理想の行動を一式そろえるより、こうして一つ、本人の返事を聞けるほうがよかった。
放送研究会の仕事と、恋人としてしたいことが同じ紙にある。どちらかのために、どちらかを全部なくす必要はなかった。
その夜、悠斗は見ていた記事を閉じた。
代わりに次の予定へ、琴音が行きたい展示、と記した。気の利いた誘い文句は考えなかった。
彼女から届いたのは、展示の時間を確かめた短い連絡だった。その後に、今日は話せてよかった、とある。
悠斗も同じ気持ちを返した。
理想の恋人を演じる約束はしなかった。
次に分からなくなったとき、目の前の相手へ聞く。その約束なら、二人はもう何度も練習していた。




