第27話 手を出すタイミング
映画の予約時刻は13時だった。
琴音の手帳には、その横に何か小さな文字があり、悠斗が目を向ける前にページが閉じられた。
「何か忘れた?」
彼が尋ねると、彼女は首を振った。
「確認だけ」
「席は取れてるよ。2人分」
「うん。それは聞いた」
10月の日曜日、二人は駅の前で待ち合わせた。初デートで交換した栞は、悠斗の読んでいる本に挟まっている。琴音も今日はそれを手帳に挟んでいた。
「使ってくれてるんだね」
「本に使うつもりだったけど、今日はここを開く回数が多いから」
琴音はそう言って、鞄の口を閉じた。
悠斗は彼女の手元へ目を向けた。待ち合わせてから、まだ手をつないでいない。彼が先に伸ばせばよいのかもしれないが、彼女が手帳を出したので、そのままになっていた。
映画館まで歩き始めると、琴音も少し距離を詰めた。しかし腕が触れそうになると、また鞄の持ち手を直す。
悠斗は自分も同じことをしていると気づいた。何となく、自然なタイミングを待っていた。
自然とは、いつ来るのだろう。
「今日は、映画の前に何か食べる?」
彼は別のことを尋ねた。
「軽いものなら。上映中に眠くなると困るから」
「恋人と映画を見て、寝るのは避けたいね」
「恋人でなくても、見に来て寝るのはもったいない」
琴音の返事に、悠斗は笑った。いつもどおりの彼女だった。付き合い始めたからといって、何もかも恋人用の行動にする必要はない。
そう思ったのに、手だけはまだ、どうすればよいか迷っていた。
映画館の近くでパンと飲み物を買い、広場の席で食べた。
琴音が携帯で何かを確認する。画面の題名に「恋人」という文字が見えたので、悠斗は見ないよう顔を前へ向けた。
彼女も視線に気づき、画面を閉じた。
「……見えた?」
「最初のところだけ」
「別に、秘密ではない」
「うん」
琴音は飲み物を机に置いた。
「恋人らしい行動が、どういうものか分からなくて」
悠斗は彼女を見た。
「俺も、分からない」
「悠斗は、自然にしているように見えた」
「自然に見せようとして、少し考えてる」
琴音は一度まばたきをしてから、小さく笑った。
「同じだった」
彼も笑った。彼女だけが慣れていないのではないし、自分だけが失敗しないように気を張っているのでもなかった。
「何を調べてたの?」
悠斗が聞くと、琴音は少し迷い、答えた。
「映画へ行くときに、いつ手をつなぐか」
彼は返事を飲み込みそうになった。
まさに、自分が今考えていたことだった。
「決まった時刻、あった?」
「ない。上映前でも後でも、よいらしい」
「映画の開始と同時に、とかではないんだね」
「それだと、暗くなって見えない」
琴音は真面目に答え、それから自分で笑った。
「手帳に、開場してから、と書いてしまった」
「それ、さっきの確認?」
彼女はうなずいた。悠斗は笑いながらも、嬉しくなった。
彼女が考えていたのは、恋人らしく見えるためだけではない。自分と手をつなぎたいと思って、その方法を調べてくれていたのだろうか。
そう決める前に、聞けばよかった。
「琴音は、つなぎたい?」
彼が尋ねると、彼女はすぐには答えなかった。少し顔を赤くして、目を伏せる。
「うん。だから、調べた」
悠斗は自分の手を見た。
「俺も。恋人らしいかどうかより、俺たちがしたいかでいいんじゃないかな」
琴音は彼を見た。
「それは、そうだと思う」
「タイミングは、二人で決めていいし」
「上映時刻に、合わせなくても?」
「うん」
二人は笑った。答えが出たのに、すぐ手を取らなかった。今は食事の途中で、片手にはパンが残っていた。
「食べ終わってからにしよう」
琴音が言った。
「それは、合理的」
悠斗が返すと、彼女の肩が少し揺れた。
映画館へ向かう前、二人は机を片付けた。
悠斗が鞄を持ち、隣へ立つ。琴音は手帳をしまった後、自分から手を差し出した。
彼はその手を見て、彼女の顔を見た。
「今、いい?」
琴音が尋ねる。
「うん」
悠斗は手を重ねた。今まで自分から頼んでいたことを、今日は彼女が選んでくれた。
同じように手をつないでいるのに、そのことが新しく感じられた。
彼女の指が、少し遠慮しながら絡む。悠斗は握り返し、歩き始めた。
「これで、手帳の予定が変わったね」
彼が言うと、琴音はつないだ手を見た。
「前倒しになった」
「遅れるより、よい?」
「内容による。でも、これはよい」
悠斗は顔をそらして笑った。彼女は照れているのに、返事はちゃんとはっきりしている。
その強さが、やはり好きだった。
映画は、二人が予想したより静かな話だった。
派手な場面は少ないが、人が何気なく言った言葉の意味が、後になって変わる。悠斗は途中から物語に集中し、手をどうするかは考えなくなっていた。
終わって明るくなると、琴音も同じように画面を見ていた。彼女は一度息をつき、それから悠斗を見た。
「思っていた結末と、違った」
「うん。でも、俺は好きだった」
「私も。説明しすぎないところが」
二人は人の流れに合わせて外へ出た。館内では手を離していたが、通りへ出ると、琴音が自然に隣へ寄った。
悠斗は手を出し、彼女が受け取った。
次はどちらから、と決めなくてもよい気がした。
人の多い横断歩道では、二人とも少し手の位置を変えた。琴音が鞄を直したいと言うので一度離し、直し終えると彼女から戻した。
「荷物、多かった?」
悠斗が尋ねる。
「手帳を持ってきた分だけ」
「次は、いらない?」
「映画の感想をメモしたいから、いる」
琴音は即答した。悠斗は笑った。予定に頼りすぎない日でも、彼女が好きな道具までなくす必要はない。
「俺も、本を入れてきた」
「待つ時間に読むつもりだった?」
「うん。でも、今日は開かなかったね」
彼が言うと、琴音はつないだ手を一度見た。
「話していたから」
「そうだね」
二人は信号を渡った。余っていた時間は、何かを埋めるためでなく、二人で使う時間になっていた。
映画の感想を話すため、近くで少し座ることにした。琴音は結末よりも、その前に交わされた短いやり取りが気になったと言った。
「相手が分かってくれるのを待つのではなく、自分から一つ言ったところ」
「俺も、あそこよかった」
「全部を説明しなくても、変わることがあるんだね」
悠斗はつないでいた手を思い出した。今日の彼女も、全部を説明せずに手を出してくれた。それだけで十分、分かることがあった。
「琴音も、今日、そうだった」
「何が?」
「手を出してくれたの、嬉しかった」
彼女はカップへ目を落とした。
「……ありがとう」
「ありがとうは、俺のほうかな」
「そういうのは、どちらでもいいと思う」
琴音は顔を上げ、小さく笑った。
帰る前、彼女は手帳を開いた。
悠斗が見ると、開場の横に書いた1行へ、短い線を引いている。
「消すの?」
「その時刻である必要がなくなったから」
「別のところに書く?」
「今日は、書かなくて覚えておく」
琴音は手帳を閉じた。
悠斗はその答えに少し驚き、嬉しくなった。
駅までの道で、彼女はもう一度、自分から手を出した。
悠斗は何時か確かめず、受け取った。
映画の始まる時間には間に合った。帰る時刻にも無理はない。そこまで守れたら、あとは二人がしたい形を選んでよかった。
「次に見る映画も、考えよう」
彼が言うと、琴音はうなずいた。
「今度は、手をつなぐ時刻は書かない」
「じゃあ、俺が覚えとく」
「時刻ではなくて、私に聞くことを覚えて」
悠斗は笑い、うなずいた。
つないだ手の先で、彼女も小さく握り返した。




