第26話 恋人の名前、番組の名前
「それでは、早瀬さん、お願いします」
悠斗が言うと、琴音は台本から顔を上げた。
「……番組では、名字だけにすると決めたよね」
「そうだった」
「急に丁寧」
「意識したら、分からなくなった」
交際を始めてから、初めて通常の相談回を収録する日だった。
配信中の呼称の確認は、簡単に済むはずだった。配信中は番組上の名字を使い、私的な時間は名前で呼ぶ。その区別を二人で決めた。
ところが、ブースでマイクの前へ座ると、悠斗は普段の名前を言いそうになり、止めた反動で言い慣れない敬称をつけた。
琴音も同じらしく、台本の端へ「久瀬」と書いていた。
「忘れないように?」
「うん。いつもどおりにするための確認」
「いつもどおりって、こんなに難しかった?」
「今まで、確認しなくてもできていたから」
外で白石が音を確かめている。悠斗は彼に、呼称を少し間違えるかもしれないので、気づいたら止めてほしいと伝えた。
白石は余計なことを聞かず、台本の名字へ丸をつけた。交際については、二人が相談してから近い仲間にだけ伝えることになっていた。今日はまだ、その話をする必要はない。
「間違えても、録り直せます」
白石の言葉に、琴音がうなずく。
「そうだね。公開前に、確認もするから」
悠斗も肩の力を抜いた。恋人になったからといって、仕事まで完璧にしなければいけないわけではなかった。
今日の相談は、親しくなった相手への呼び方を変えてよいか、という内容だった。
相談の選定は交際前に済ませていたので、二人の状況に合ったことは偶然だった。だが、読むときに意識せずにはいられない。
「相手をどう呼べばよいか、迷うことはありますよね」
悠斗が言うと、琴音は短くうなずいた。
「親しくなったつもりでも、相手が同じ距離を望んでいるかは分からないので、聞いてみるのが一番確かだと思います」
「名前で呼んでもいい? とか」
「うん。断られた場合も、急に距離を置かれたと決めなくていい。名前で呼ばれるのに慣れていない人もいるから」
悠斗は彼女の横顔を見た。
告白の日、慣れないかもしれないと言いながら、呼びたいと伝えてくれた。あの言葉を思い出すだけで、口元が緩みそうになる。
「久瀬は、どう思う?」
琴音が問いを渡した。
「俺は、琴――」
言いかけて止まり、彼は台本を見た。
琴音も視線を落とし、肩が少し揺れた。
窓の外で白石が静かに録音を止めた。
「その直前から、もう一度いけます」
「ごめん」
悠斗が言うと、琴音は笑いを収めた。
「私も、次に言いそうだった」
「今度はゆっくり」
「うん」
録り直すと、今度は名字がちゃんと出た。ただし言葉が丁寧になりすぎ、最後まで敬語で意見を返してしまった。
白石が再生し、二人は自分たちの妙に他人行儀な声を聞いた。
「普段より、距離がありますね」
彼の指摘に、悠斗は笑った。
「戻そうとして、遠くへ戻りすぎた」
「ここまで離れる必要はないね」
琴音も笑い、それから台本を少し脇へ寄せた。
「呼び方だけ。話し方は変えなくていい」
「うん。分かった」
3度目は、いつもの会話になった。
収録を終えると、白石が次の企画の素材を確認しに行った。編集の下準備は二人でできる。
悠斗は画面の前へ座り、琴音に確認したい箇所を示した。
「琴音、ここ、もう少し間を取る?」
彼女が隣へ来た。
「うん、悠斗が返す前のところ?」
「そう」
自然に名前を呼び合えた。
二人ともそのことに気づいたが、最初は何も言わず、作業を続けた。何度も確認すると、また意識しすぎる気がした。
琴音が候補の文章を読み、悠斗が聞く。以前と同じ作業だった。ただ、相手を呼ぶ短い音だけが違う。
しばらくして彼女が小さく笑った。
「外では、普通に言えるね」
「マイクがないからかな」
「録音に残ると思うと、間違えないようにしてしまう」
「今までも録ってたのにね」
悠斗はうなずいた。交際が始まったことで二人の中には変化がある。しかし番組へ届いた相談は、自分たちの変化を披露するために来たものではない。
その区別を守りたい気持ちが、かえって固くなっていたのかもしれない。
「無理に前と同じ人にならなくても、相談へちゃんと答えることはできるよね」
彼が言うと、琴音は顔を上げた。
「うん。私たちが変わったことと、番組のルールを守ることは、両立できる」
その言葉で、悠斗は少し楽になった。
公開用の音声を、二人で最初から聞いた。間違えた名字は直り、相手の言葉を待つ間は残っている。相談した人へ向けた話として、不自然な部分はなかった。
「これなら、大丈夫だと思う」
琴音が言った。
「うん。次は、もう少し普通にできそう」
「間違えたら、また直そう」
彼女は確認の印をつけた。悠斗も同じ欄に印を入れる。二人が恋人になったことを聞き手が知らなくても、今日の相談への回答は変わらず届く。
夕方、藤堂が戻ってきた。二人は予定していた確認を済ませ、その後で少し時間をもらった。
交際を始めたことは、二人から一緒に伝えた。番組は今までどおり進めたいこと、私生活を告知に使うつもりはないことも話した。
藤堂は驚いたあと、笑ってうなずいた。
「二人がそうしたいなら、分かった。制作の分担で困ったら、その話は別に相談してくれ」
「ありがとうございます」
悠斗が言うと、琴音も礼を返した。
会長は詳細を尋ねず、公開の予定を確認する普段の話へ戻った。二人はその距離に安心した。
白石と千紗にも、直接、同じ方針で伝えた。白石は一度うなずいてから、今日の呼称の間違いに納得した顔をした。
「そこは、全部直しましたから」
「ありがとう。助かった」
千紗は、おめでとうと言い、告知の素材は今までどおり二人で確認してほしいと頼んだ。
「勝手に何か載せたりはしないから、安心して」
琴音がほっとした顔をしたので、悠斗も笑った。
交際したことを知る仲間が増えても、番組が2人の恋の報告にならなくてよかった。
喫茶店へ向かう途中、琴音は呼び方についてもう一度話した。
「名字を使うことが、少し遠く感じるかと思ったけど」
「収録中?」
「うん。でも、外で名前に戻ると、切り替わったのが分かる」
「今は、二人の時間って?」
悠斗が尋ねると、彼女はうなずいた。
「そういう感じ」
彼は歩く速さを少し落とした。琴音が鞄を持ち替えたので、彼も手を伸ばす。
彼女は今度、ためらわず手を重ねた。
「悠斗」
「うん」
「今日、最後の返しがよかった。相談した人に、聞くことを勧めるだけで終わらなかったところ」
「呼び方を断られても、理由を決めつけなくていいって話?」
「うん。私も、忘れないようにしたい」
悠斗は礼を言い、彼女が台本へ足した一文もよかったと伝えた。褒め言葉の言い直しは、今日はなかった。
店に着くと、いつもの窓際が空いていた。二人は向かいに座り、飲み物を選ぶ。
琴音が台本を出す前に、悠斗は休日の話を始めた。今度の勤務が終われば半日空くので、一緒に映画を見たいと言った。
彼女は手帳を開き、空いている時刻を伝えた。
「何を見る?」
「二人で決めよう」
悠斗が答えると、琴音は笑った。
「それ、今日の番組でも言ったね」
「ここでも、使えるから」
二人は上映予定を見ながら、知っている作品と知らない作品を挙げた。
名前で呼びかけるたびに、相手が普通に返事をする。特別だった短い言葉が、少しずつ日常の中へ入っていく。
悠斗はその変化を、何度も確かめる代わりに、次の予定へ残すことにした。




