第24話 恋の答え合わせ
マイクの印は、消えていた。
悠斗はブースの机を見てから、琴音へ向き直った。彼女もヘッドホンを片付け、椅子を少し引いている。
9月の夕方、窓の外の明るさがゆっくり薄くなっていた。初めて収録した4月より、机の上の紙は整っている。二人が話すために必要なものは、ほとんど残っていなかった。
「ここで、話しても大丈夫?」
悠斗が尋ねると、琴音はうなずいた。
「うん。録音も、止まってる」
「確認した」
彼は笑いかけて、うまく笑えなかった。琴音も緊張しているのが分かる。自分が安心するために、軽い話へ逃げたくなったが、彼女はそのために時間を取ったのではない。
悠斗は椅子へ座り直した。立ったまま見下ろすより、同じ高さで話したかった。
「ずっと、琴音と一緒にいたかった」
最初に出た言葉は、昨夜書いた文章より少し長かった。
「最初は、番組の準備で話すのが楽しかった。俺が思いつかないことを言ってくれるし、自分の考えも聞いてくれるから」
琴音は黙って聞いていた。
「それから、本の話も、授業の話もしたくなった。反省会の時間が短いと、仕事は終わってるのに、まだ帰りたくなかった」
悠斗は一度息をついた。
「相談では、自分の気持ちを伝えていいって言ってたのに、俺が一番、琴音に言えてなかった」
彼女の指が膝の上で動いた。何かを整理するような動きだったが、悠斗は続きを待たせすぎないよう、先を話した。
「困らせたくないと思って、会いたいことまで隠した。それで、琴音がどうしたいかも聞かなくなった。あのとき話してくれて、ありがとう」
「……うん」
「今は、琴音のためだから、という言い方ではなくて、俺がどうしたいかを言いたい」
彼は彼女を見た。
「俺は、琴音と一緒にいたい。番組のためじゃなくて、俺がそうしたいから」
琴音が顔を上げた。
「それは、恋人として?」
悠斗はうなずいた。
「うん。琴音が好きなんだ。俺と、付き合ってほしい」
言い終えると、部室は静かになった。
彼は返事を急がせる言葉を探さなかった。やっぱり気にしなくていい、と取り消すこともしなかった。
伝えたかった1行は、もう彼女へ届いている。
琴音は目を伏せ、ゆっくり息をついた。
「私も、話そうと思っていたことがある」
悠斗はうなずいた。
「久瀬くんと話すのが好きなのは、収録の相手として信頼しているからだと思っていた。それは、今も本当」
彼女は机の端へ視線を向けた。そこには二人が毎回使う台本が、少しだけ残っている。
「でも、それだけなら、連絡が来るのを何度も確かめたり、会う日に服を迷ったり、別の人と楽しそうに話しているのを見て、寂しくなったりはしないかもしれない」
悠斗は黙って聞いた。
自分が知らなかった時間が、彼女の言葉の中にあった。彼女も自分と会わない場所で、考えていた。
「最初は、他の理由もあると思って、整理していた。でも、説明を増やしても結論が変わらないことはあるんだね」
琴音は少し笑おうとして、それから言葉を止めた。
「今も、好きな理由を全部、順番には言えない。話しやすいとか、待ってくれるとか、それだけでもないから」
「全部、言わなくても大丈夫」
悠斗はそこで一度だけ口を挟んだ。それ以上は代わりに言わず、彼女の返事を待った。
琴音は彼を見た。
「うん。説明できなくても、好きなのは本当」
彼女の声は少し震えていたが、言葉ははっきりしていた。
「私も、悠斗のことが好き。恋人として、一緒にいたい」
悠斗は息を止めた。
好きだと言われた。彼女が自分の意思で答えてくれた。それを受け取るだけで、頭の中がいっぱいになる。
それなのに、最初に口から出たのは別の確認だった。
「……今、初めて名前で呼んだ?」
琴音が少し目を見開き、それから笑った。
「そこを先に確認するの?」
「ごめん。でも、嬉しくて」
「私も、嬉しい」
彼女はそう言い、今度は視線をそらさなかった。
悠斗も笑った。昨夜、返事の候補を消してよかった。自分で用意した言葉では、今の彼女の声を聞けなかっただろう。
しばらく、二人とも椅子から動かなかった。
いつもなら次の作業を確かめ、帰る支度をする。今日はもう必要な確認が終わっているのに、別れる理由を探す気にはなれなかった。
「確認事項があるんだけど」
琴音が言い、悠斗は思わず笑った。
「うん。琴音らしい」
「変なことではない」
「聞くよ」
彼女は少し姿勢を正した。
「今、私たちは付き合うということで、よかった?」
「うん。そうしたい」
「私も。それと、番組では今までどおりにしたい」
悠斗はうなずいた。
「二人のことを、宣伝に使いたいわけではないから」
「うん。誰かに話すときは、二人で確認しよう」
琴音はほっとしたように肩を下げた。
「もう一つ」
「まだある?」
「名前で呼ぶの、まだ慣れないかもしれない」
悠斗は笑った。
「俺も最初、そうだった。ゆっくりでいいよ」
「でも、呼びたいとは思ってる」
その1行が、彼には告白の返事と同じくらい嬉しかった。
「じゃあ、俺も待つ」
「待つというほど、時間はかからないと思う」
琴音が真面目に答えたので、二人はまた笑った。
片付けを終え、部室の照明を消した。
悠斗は鍵を確認し、琴音は窓が閉まっているか見た。今まで何度も分担した作業は、恋人になっても急には変わらない。
廊下へ出ると、遠くの教室から人の声が聞こえた。二人が大切な話をしていた間にも、大学の夕方は普通に進んでいた。
階段を下りながら、悠斗は今日の反省会をどうするか尋ねた。
「行きたい」
琴音はすぐ答えた。
「私も、まだ一緒にいたいから」
「俺も。今日は、番組の話は少なくなるかも」
「もう、あまり残っていないと思う」
彼女は笑い、玄関へ向かった。
外は暑さが少しやわらいでいた。二人の影が並んで舗道へ伸びる。悠斗は歩き始めてから、彼女の手が自分のすぐ隣にあることに気づいた。
以前、傘の中で腕が触れたときは、どこまで近づいてよいか分からなかった。
「手、つないでもいい?」
悠斗が尋ねると、琴音は足を止めた。
彼女は自分の手を見て、それから彼を見た。
「うん」
少し開かれた手へ、悠斗は指を伸ばした。最初は指先だけが触れ、それからゆっくり、手のひらが重なった。
琴音の手は温かかった。彼女が小さく握り返す。悠斗は自分の力が強すぎないか気になったが、彼女はそのまま一歩歩き出した。
彼も隣へ並ぶ。
「歩きにくくない?」
彼が聞くと、琴音はつないだ手を少し持ち上げた。
「まだ慣れない。でも、嫌ではない」
「俺も」
「たぶん、歩く速さをそろえればいい」
「最適配置?」
琴音が笑った。
「今日は、計算しない」
悠斗も笑い、少しだけ速さを落とした。
喫茶店へ向かう角で、琴音が彼の名前を呼んだ。
「悠斗」
「うん」
「今日は、話してくれてありがとう」
彼は彼女を見た。
「琴音も、答えてくれてありがとう」
言い終えてから、どちらも照れて前へ向いた。
悠斗はつないだ手を見た。次に会うときは、何の用事も用意せずに誘いたかった。
店の灯りが見えた。琴音が扉の前で足を止め、手を離す前に少しだけ握り直した。
「今日は、何を飲む?」
彼女が尋ねた。
悠斗は笑った。二人になって最初に決めることは、今までと同じ、小さな選択だった。
「中で、一緒に考えよう」




