第19話 聞いてくれなかったこと
琴音が手帳を閉じた音で、悠斗は顔を上げた。
「収録、早くなったの?」
「うん。機材の予定が変わったから。早い時間が空いていたので、そこに入れてもらった」
悠斗は印刷した台本を、彼女の前へ置いた。予定より1時間早く始められれば、夕方が空く。下書きも、ほとんど仕上げた。
それを渡せば喜んでもらえるとまでは思わなかったが、少し安心してもらえるはずだった。
琴音は台本を受け取らなかった。
「誰が決めた?」
「俺が藤堂先輩に聞いて、白石くんにも確認した」
「私には?」
悠斗は言葉を止めた。
窓の外で、運動部の掛け声が遠く聞こえた。部室にはまだ二人しかいない。収録前に使うはずだった静かな時間が、急に狭くなった。
「その時間、琴音は空いてるって前に言ってたから」
「空いている時間を、何に使うかはまだ決めていなかった」
「でも、早く終わったほうが――」
「私が、そう言った?」
琴音の声は大きくなかった。だから悠斗にも、質問が一つずつはっきり届いた。
早く終われば、楽になる。疲れているなら、作業を減らす。空いている時間なら、使ってもよい。
自分の中では、全てがつながっていた。
そこに彼女の返事が一度もなかったことを、今になって気づかされていた。
「ごめん。先に聞けばよかった」
彼が言うと、琴音は目を伏せた。
「台本も、次は私がやると伝えたはずだけど」
「下書きがあったから、そのまま進めた。琴音が大変そうだったから」
「それは、聞いた」
彼女は机の上の紙を指でそろえた。受け取るためではなく、ばらばらになった端を戻すための動きに見えた。
「私が何を望んでいるか、どうして聞いてくれなかったの?」
悠斗はすぐに答えられなかった。
彼女は疲れている。だから負担をかけたくない。自分ができることは先にしたい。
同じ理由をもう一度言っても、質問への答えにならないと分かっていた。
「……困らせたくなかったから」
最後に出たのは、その一言だった。
琴音は彼を見た。
「何も言ってもらえない方が、困ることだってあるよ」
悠斗は椅子へ座れないまま、机の縁へ手を置いた。
「次から、ちゃんと確認する」
「次だけでなく、今の話をしてる」
「うん」
「私が何をしたいか、どうして決められるの。課題があるのは本当だけど、番組の準備もしたかった。全部なくしてほしいとは言っていない」
琴音はそこで一度息をついた。
「反省会も、やめるかどうか、二人で話すことだったと思う」
「休めたほうがいいと、思って」
「それも、私に聞けたでしょう」
悠斗はうなずいた。何を言っても、相手のためだったという説明へ戻ってしまう。
本当は自分も反省会へ行きたかった。琴音と話す時間を減らしたくなかった。それでも負担をかけるのが怖くて、相手が望んでいないかどうかを尋ねる前に取り消した。
彼はその部分を、まだ言えなかった。
琴音も言葉を探しているようだった。何度か口を開き、それから台本を見る。
「こういう変更があると、制作の段取りにも影響する」
彼女は言った。
「確認を省略して、効率がよくなったとは思わない」
悠斗には、その言葉が少し厳しく聞こえた。自分も時間を使い、できるだけ整えたつもりだった。
「効率だけを考えたわけじゃない」
「分かってる。だから、聞いてほしかった」
「でも、何を頼めばいいのか分からなくて」
「頼む前に、私がどうしたいか聞いて」
会話が同じ場所へ戻った。悠斗は自分の返事がどこで止まっているのか分からず、肩を落とした。
琴音は紙へ手を伸ばした。
「今日は、この時間でできる。台本も確認する」
「うん」
「ただ、変更はこれ以上しないで」
「分かった」
彼女の返事で作業は進められた。けれど、そのことで話し合いが終わったとは、悠斗にも思えなかった。
白石が来たとき、二人は台本を別々に読んでいた。
彼は空気の違いに気づいたようだったが、何があったのかとは尋ねなかった。機材の準備を確認し、収録を始められると伝えた。
悠斗は琴音へ一度顔を向けた。
「できそう?」
「うん。仕事はできる」
短い返事だった。
ブースへ入り、ヘッドホンをつける。今日の相談は、恋人ではない相手と予定を合わせるのが難しいというものだった。台本の中で、二人は相手へ意思を確かめる方法を話すことになっている。
悠斗は最初の一文を読み、そこで声が少し硬くなった。
琴音は予定どおり、相談した人の状況を整理した。相手が忙しいと分かっていても、会いたいと思うことを責めなくてよい。そのうえで、相手にも選ぶ余地を残す。
悠斗はその後を受けた。
「相手の都合を考えることと、自分の希望をなくすことは、同じではないと思います」
自分の声が、耳の中へ戻ってきた。
彼は台本を見つめた。今、自分ができなかったことを、人に伝えている。
琴音は途中で彼の言葉を遮らなかった。最後まで聞き、補足をし、相談者へ答えた。二人の私的な問題を、相談の回答に持ち込もうとはしなかった。
悠斗は返事をしながら、自分が早めた予定表の時刻を見た。琴音の確認印だけが、そこにはなかった。
締めまで録ると、白石が音を止めた。
「録り直したいところ、ありますか」
琴音は台本を確認し、内容は大丈夫だと言った。悠斗も同意した。自分が苦しいからといって、相談への回答が間違っているわけではなかった。
編集の確認は、いつもより静かだった。
紙の音を1つ外し、語尾が重なった箇所を短く直す。琴音の説明は明瞭で、悠斗の回答も必要な部分を残せた。
番組としては、公開できるところまでできている。
悠斗は保存された画面を見て、仕事が終われば解決する話ではないのだと改めて思った。
琴音が鞄を持った。
「今日は、反省会には行かない」
今度は彼女が自分で決めて、言った。
悠斗は引き止めたくなった。だがそこで「大丈夫だから」と言っても、彼女の意思をまた上書きするだけだ。
「分かった」
彼は答えた。
「話してくれて、ありがとう」
琴音は少しだけ顔を上げた。けれど笑わなかった。
「今日言ったこと、考えてほしい」
「うん」
「私も、整理する」
それだけ言って、彼女は部室を出た。
悠斗は台本を鞄へ入れず、しばらく机の上へ置いていた。自分が作った下書きには、細かな書き込みが増えている。琴音が直した言葉だった。
彼女がいなくても作れるようにしたつもりだった。
けれど二人で作る番組を、彼女がいなくてもよいものへ近づけてしまったのではないか。
その考えが浮かび、彼はようやく椅子へ座った。
白石は片付けを終え、必要な確認だけをして帰った。藤堂が戻ってきたとき、悠斗は変更した予定表を見ていた。
「早めた時間、問題あったか」
「時間自体は、大丈夫でした。俺が、早瀬さんに先に聞かなかったのが問題で」
藤堂はうなずいた。
「次からは、二人の確認が終わってから送ってくれ」
「はい」
会長は部室の鍵を誰が閉めるかだけ確かめ、別の机で自分の作業を始めた。
悠斗は携帯を開いた。
『今日はごめん』
それだけ打ち、送る前に止まった。何について謝っているのか、自分の中でまだ全部を言葉にできていなかった。
相手を怒らせたから。気まずくなったから。
それだけでは、次に同じことをする。
彼は文を消し、明日まず考えることをメモした。
琴音の意思を聞かなかったこと。自分の希望も言わなかったこと。
好きだから大切にしたい、だけでは、相手に届かない。
悠斗はその2行を残し、台本をしまった。今日は帰ってからも、彼女へ「大丈夫」とだけ送ることはしなかった。




