第18話 大丈夫の向こう側
琴音の返事は、少し遅くなっていた。
携帯の話ではない。目の前で、悠斗が次の予定を聞いたとき、彼女は手帳を開くまで一度、目を閉じた。
「ごめん。もう一度、言って」
「明日の確認、16時でいい?」
「うん。大丈夫」
7月下旬、試験前の部室だった。琴音の机には番組の台本と講義の資料が重なり、右端にまだ食べていないパンが置かれていた。
悠斗は時計を見た。昼はとっくに過ぎている。
「先に食べたら?」
「これだけ確認したら」
「その『これだけ』、さっきも言ってた」
琴音は紙から顔を上げ、少し笑おうとした。
「終わりが増えた」
「終わりなら、増えないほうがいいね」
「うん。そう思う」
彼女は資料を閉じ、ようやくパンの袋を開いた。悠斗は一つ安心し、それから自分の台本を見た。
今週、彼は相談の候補を先に読む役を引き受けていた。それは二人で決めたことだった。ところが琴音が疲れているのを見ると、その先の整理や台本の形まで、できるだけ済ませておきたくなった。
机に置いた紙には、彼女の担当部分の下書きもあった。
「これ、作っておいたから」
悠斗が差し出すと、琴音はパンを置いて受け取った。
「候補の整理?」
「それと、回答の流れも。読みにくかったら直して」
彼女は紙へ目を落とした。
「そこは、私がやる予定だったけど」
「うん。今週、大変そうだから」
「……ありがとう」
返事はあった。けれど彼女はその後、いつもならすぐ見始める紙を机の端へ置いた。
悠斗は、食べるのを邪魔したせいだと思った。
収録の準備は、予定より早く進んだ。
悠斗が作った下書きに、琴音は必要な修正を加えた。相談者が書いていないことを推測した表現が1つあり、彼女が印をつける。
「ここは、気持ちが分からないので、言い切らないほうがいい」
「そうだね。ごめん」
「謝ることではない。直せばいいから」
琴音は淡々と続けた。悠斗は、彼女の仕事が減っても楽しそうに見えないことに気づいていた。それでも、疲れているときは誰でもそうなると思った。
自分が何か言えば、彼女に元気な返事をさせるかもしれない。そう考え、必要なことだけ話すようになった。
ブースでは、いつもどおり相談へ答えられた。試験期間に好きな相手と会う時間が減り、不安だという内容だった。
「今忙しいからといって、相手を大事に思っていないとは限りません」
悠斗が言うと、琴音がうなずいた。
「ただ、予定が変わるときに、何も知らせないのは不安につながります。会えない理由と、次にどうするかを伝えられると、待ち方も変わると思います」
彼はその言葉を聞き、次の反省会をどうするか考えた。今週は短くするより、やめたほうが休めるかもしれない。
締めの後で、白石が録音を止めた。音声に問題はなかったので、二人は机へ戻った。
琴音は、収録中に話した部分をもう一度メモしていた。
「今回の回答、よかったね」
悠斗が言うと、彼女は小さくうなずいた。
「うん。分かっていることを言えたと思う」
分かっている、という言葉が、彼には少し硬く聞こえた。
片付けの途中で、藤堂が別の担当者へ声をかけた。来週の機材使用に変更があるらしく、白石と時刻を確認している。
悠斗は自分たちの収録を、少し早い時間にできないか考えた。そうすれば琴音は夕方を課題に使える。
今日はまだ決めず、後で相談しようと思った。だが琴音は席で講義の資料を開き、携帯に届いた連絡へも返事をしていた。
今、さらに考えることを増やさないほうがいい。
その考えを、彼は配慮だと思った。
「今日の反省会は、やめておこうか」
悠斗が言うと、琴音が顔を上げた。
「どうして?」
「その分、帰って休めるから」
「久瀬くんに、用事がある?」
「俺はないよ。でも、琴音が大変そうだから」
彼女は机の資料を見た。そしてゆっくり、紙をそろえた。
「そうだね。やることはある」
「今週の反省点は、俺がまとめて送る」
「……分かった」
返事を聞き、悠斗は決まったと思った。琴音が手帳を開き、今日の欄へ1本線を引くのが見えた。
そこに何が書かれていたのか、彼は尋ねなかった。
部室を出るとき、琴音は普段より早く鞄を持った。悠斗は一緒に階段を下り、駅へ向かう道まで歩いた。
「大丈夫?」
彼が尋ねると、彼女はうなずいた。
「大丈夫」
それで終わった。
悠斗は、自分も疲れているのかもしれないと思った。会話が減った理由を一つにできるなら、そのほうが気持ちは楽だった。
道の途中で、琴音が小さく口を開いた。
「最近、反省会が短いね」
「試験前だから。終わったら、またゆっくりできるよ」
「そうだね」
彼女は答えた。
悠斗は、その先に何かあるのを感じた。だが今、彼女に話を続けさせることが負担に思えた。
「無理して話さなくてもいいから」
そう言うと、琴音は歩く速さを少し落とした。
「……うん」
悠斗も止まりかけたが、彼女はすぐにいつもの速さへ戻った。
彼には、自分が何かを間違えたのか分からなかった。好きな相手を大切にしたいと思っているだけなのに、することの一つずつが、彼女を遠くへ押しているようだった。
途中の書店の窓に、彼が好きな作者の新刊が出ていた。琴音もそれを見たようで、一度足を止めかけた。
「あれ、気になってたんだ」
悠斗が言うと、彼女は表紙を見た。
「前に、好きだと言っていた人?」
「うん。今日、入ったんだと思う」
いつもはそこで、どんな本なのか聞かれた。新刊について話すと、読み終えたら教えてほしいとも言ってくれた。
悠斗は彼女が時計を見る前に、自分から歩き出した。
「でも、今日は寄らないで帰ろう。琴音も休んだほうがいいし」
彼女はすぐには動かなかった。
「……そうだね」
それから、彼の隣へ戻った。
悠斗は新刊の説明を、また今度しようと思った。その今度がいつなのかは、決めなかった。琴音も尋ねず、駅の案内が見えるところまで黙って歩いた。
角で別れるとき、彼女は鞄から小さな紙を出しかけた。悠斗が何かと聞く前に、それを戻す。
「渡すもの、あった?」
「急ぎではない。次にする」
「分かった」
彼はそのままうなずいた。次へ回せば今が楽になると思って、今日の会話からまた1つ、彼女の用意した時間を外した。
帰宅後、悠斗は反省点をまとめた。
回答の内容、言い直した箇所、次回までに確認すること。琴音が判断しやすいように、短く分けた。
送る前に「今日は会えてよかった」と付け足そうとし、やめた。彼女は休んでいるかもしれない。用事以外の言葉を添えると、返事をさせる気がした。
用件だけを送ると、しばらくして了承が届いた。
『確認した。ありがとう。次の分は、私がやる』
悠斗は画面を見た。
次も、自分が先にやっておけばよいと思っていた。琴音に、何がまだ残っているか尋ねればよかったのに、指は先に動いた。
『下書きまでは作ってあるから、大丈夫。無理しないで』
送信した後、長く返事が来なかった。
彼は本を開いたが、文章が頭に入らない。数ページ進んでも、何を読んだか思い出せなかった。
やがて、短い返事が届いた。
『分かった。私も大丈夫だから』
いつもなら、その後に本のことや講義の話が1行続いた。今日はなかった。
悠斗は携帯を置き、机に広げた下書きを見た。彼女が楽になれば、よいはずだった。
そのはずなのに、彼女が自分と話すことまで、減っている。
もう少し会いたい、と打って消した。今週を乗り切るまでは、余計な気持ちを伝えないほうがいい。
彼はそう決め、次の台本を開いた。
琴音がどうしたいのかは、その夜も聞かなかった。




