第16話 私とも話してほしい
悠斗が中庭のベンチから手を上げると、琴音は一瞬だけ足を止めた。
彼の隣には、同じ講義を受けている女子学生が座っていた。二人で課題の資料を見て、発表で使う文章の読み方を確かめているところだった。
「琴音、今から部室?」
「うん」
「俺も、あと5分くらいで行く」
彼女はうなずいた。いつもなら近づいて話すのに、今日は通路の側に立ったままだった。
「分かった。では、先に」
「台本、机に置いてくれた?」
「置いた」
「ありがとう。すぐ読む」
琴音は小さく会釈をし、学生会館へ向かった。悠斗はその背中を見て、今日は歩くのが速いと思った。
「放送の人?」
隣の学生が尋ねた。
「うん。一緒に番組をやってる」
「名前で呼ぶんだ」
悠斗は資料へ目を落とした。
「同じ学年だから」
嘘ではないが、全ての理由でもなかった。彼は自分の気持ちを別の人に話すことを避け、発表の原稿を返した。
部室へ行くと、琴音は机の資料を整理していた。悠斗が挨拶をすると、顔を上げて返事はする。それでも、彼が椅子を引く前に次の作業へ戻ってしまった。
「待たせた?」
「予定の時刻には、まだなっていない」
「そっか」
彼は台本を開いた。7月半ばの収録では、付き合う前の相手へどこまで希望を伝えてよいか、という相談を扱う予定だった。
悠斗は候補の一つに印をつけた。琴音が前にまとめたものと同じ考えで、相手の予定を変えさせる前に、自分の希望を言って確認する、という回答だった。
「ここ、例を足す?」
「足してもいいと思う」
「一緒に帰りたい、とか?」
琴音の手が止まった。
「……そういうのでも、いい」
悠斗は彼女の反応を見た。自分の言葉が彼女への誘いに聞こえただろうか。少し期待してしまったが、彼女はすぐペンを動かした。
「相手が帰る方向や時間は、確認したほうがいい」
「うん。無理をさせるのは違うからね」
二人の会話は間違っていないのに、いつもより短かった。
悠斗は自分がまた緊張しているせいだと思った。好きだと分かってから、彼女の短い返事にも一つずつ意味を探してしまう。
言葉を整えようとすると、かえって会話が減る。それは前の収録で答えたばかりだった。
休憩のとき、菜月が琴音を呼びに来た。提出物の確認があるらしい。二人は廊下へ出て、悠斗は台本の整理を続けた。
しばらくして、白石が機材の確認を終えたと報告した。まだ琴音が戻らないので、悠斗は自分の声だけを録って音量を見る。
白石は画面に向かいながら、今日は少し緊張しているかと聞いた。
「声で分かる?」
「いつもより、句読点のところで止まるので」
「台本、丁寧に読もうと思って」
「普通に話すときの声で、大丈夫だと思います」
悠斗はうなずいた。琴音にも同じことを言われたのを思い出す。
戻ってきた彼女は、無地のノートを鞄へしまった。菜月は入口から手を振り、そのまま別の階へ向かった。
「遅くなって、ごめん」
「大丈夫。まだ余裕あるよ」
悠斗が答えると、琴音は机の端にメモを置いた。相談への例を2つ、短く書いたものだった。
一緒に話したい。少しだけ時間を取ってほしい。
悠斗は読んで、彼女を見た。
「こういう言い方が、自然かもしれないね」
「うん。希望を言うのは、相手を拘束することと違うから」
琴音の声は、さっきより少しはっきりしていた。
「断る選択肢があるように言えばいい?」
「そう。でも、断らせるために最初から全部取り消す必要はない」
悠斗は少し笑った。
「俺、よくやるね」
「少し」
「少しで済む?」
琴音も口元を緩めた。やっといつもの会話へ戻れた気がした。
収録は問題なく終わった。琴音は、好きな相手だからこそ遠慮する気持ちは分かるが、自分の希望を言葉にすることも関係を作るために必要だと話した。
悠斗は、その後を受けて、希望が通らなかったときに相手を責めないことも大事だと答えた。
収録を止めてから、彼はメモを整理した。机の端に、琴音のノートから落ちたらしい紙が1枚あった。
話したい回数、という見出しの下に、短い縦線が何本か書かれている。誰かの情報があるといけないので、悠斗は本文を読まず裏返した。
「琴音、これ、落ちたよ」
彼女が慌てて受け取った。
「ありがとう」
「相談の資料?」
「違う。自分の、無意味な計測」
「無意味なんだ」
「数を増やしても、気持ちは分からなかったから」
琴音は紙を小さく折り、ノートへ挟んだ。
悠斗は、それ以上聞かなかった。彼女がまた何かの結論を出そうとしているのかもしれない。今日は、その邪魔をしたくなかった。
片付けを終えたとき、千紗から告知の文章の確認を頼まれた。悠斗が短く意見を返している間、琴音は鞄を持って待っていた。
その姿を見て、彼は返事を急いだ。千紗は確認できたことに礼を言い、残りは自分がやると机へ戻った。
「待たせてごめん」
悠斗が言うと、琴音は首を振った。
「必要な話だったんでしょ」
「うん。告知だけ」
彼女は一度うなずき、視線を廊下へ向けた。
「誰と話していても、久瀬くんの自由だとは分かっている」
急な言葉に、悠斗は返事をし損ねた。
琴音は鞄の持ち手を握り直す。
「だから、何かをやめてほしいわけではない」
「うん」
「ただ……」
彼女はそこで黙った。悠斗は続きを代わりに言わず、待った。
「私とも、少し話してほしい」
琴音は小さな声で言った。
悠斗は彼女の顔を見た。今までの返事や、廊下へ出る前の表情が、一つの可能性として浮かんだ。しかしそれを嫉妬だと決めつけるのは、彼が望む方向へ読みすぎかもしれない。
分かるのは、彼女が自分と話したいと言ってくれたことだった。
「俺も、琴音と話したい」
彼ははっきり答えた。
彼女は少し目を見開き、それからうなずいた。
「……そう」
「今から、いつものところ行く?」
「うん。時間があれば」
「あるよ。今日は、そのつもりで来た」
琴音は口元を押さえかけ、やめた。小さく笑って、先に廊下へ出る。
悠斗はその隣へ並んだ。
喫茶店では、琴音が先に今日の講義の話をした。悠斗は中庭で話していた相手が、同じ講義の発表をする学生だったことを、話の流れで伝えた。
「原稿、読む練習?」
「うん。俺が人前で話すから、意見が欲しいって。でも、番組と発表は少し違うね」
「聞き手の目的も違うから」
琴音はそう言い、それから少し困った顔をした。
「先に聞けばよかった」
「何を?」
「何を話していたのか。勝手に色々考えるより」
悠斗はうなずいた。
「聞いてくれていいよ。言えないことなら、そう言うから」
「うん。私も、そうする」
二人はカップを持った。今日の番組で答えたことが、机の向こうにも少し使えた気がした。
悠斗は台本を鞄へ戻し、机の上を空けた。琴音も自分の資料をしまう。どちらかの仕事を確認するためでなく、話すために向かい合っている。その形になったことで、彼は今日の彼女の希望を、ちゃんと受け取れた気がした。
帰る前、悠斗は自分から本の話を始めた。彼女が前に勧めてくれた1冊を読み終え、伝えたいことがいくつもあった。
琴音はカップを置き、顔を上げて聞いた。彼が説明に詰まると、分かるまで待ってくれた。
悠斗はその時間に安心した。彼女の希望を聞いてから、一緒に過ごしている。それはただ偶然隣にいるときとは違う。
店を出た後、琴音は来週の反省会について、今度は「時間があれば」と付けずに尋ねた。
悠斗も、最初に「行きたい」と返した。
細かな予定を確認するのは、その後だった。




