第15話 デートの定義
待ち合わせの5分前、琴音はすでに入口にいた。
悠斗が近づくと、彼女は携帯の時刻を見てから顔を上げた。
「ちょうどよかった」
「遅れた?」
「ううん。私が早かっただけ。開場まで、まだ少しある」
7月の週末、小さな展示施設の前には同じように待つ人が何組かいた。ガラスの向こうに、手紙や言葉を扱う展示の案内が見える。
琴音は普段より小さな鞄を持っていた。収録用の分厚い資料がないせいか、肩の力も少し抜けている。
「荷物、少ないね」
「今日必要なものだけにした」
「台本もないしね」
「参考にするためのメモはある」
彼女が取り出した紙には、交通費と入場料、開館時刻と見たい展示の場所が整理されていた。
「台本に近いものはあった」
悠斗が笑うと、琴音は紙を折った。
「無駄に待つ時間が減るから」
「今、一緒に待ってるのは、無駄?」
彼女は少し考えた。
「今は、違う」
悠斗はそれ以上聞かなかった。好きな相手からの短い返事を、都合よく読みたくなるのを抑えながら、ただ嬉しく受け取った。
展示室には、古い手紙の複製や、言葉を届ける道具が並んでいた。二人は音声や会話に関わる箇所を中心に見て、その後はそれぞれ気になった展示へ足を向けた。
琴音は説明文を丁寧に読む。悠斗は先に実物を見てから文章へ戻るので、同じ順番では進まない。
それでも次の区画に行く前に顔を上げると、相手がどこにいるか自然に探していた。
短い葉書を展示したケースの前で、琴音が立ち止まった。大きな内容ではなく、到着を知らせる数行だけの葉書だった。
「用事だけでも、残るんだね」
彼女が小声で言った。
「待ってる人には、大事な用事だったのかも」
悠斗も声を落とした。
「着いたって分かると、安心するから」
「長い説明がなくても?」
「うん。相手によるんじゃないかな」
琴音はもう一度、その数行を読んだ。悠斗は傘を貸した日の連絡を思い出した。無事に着いたと知らせてもらっただけで、自分も安心していた。
別の展示では、文章を声に出したときの印象を比べる体験ができた。二人は順番にヘッドホンを使い、同じ文章でも速さや間の取り方が違うと受け取るものが変わるのを聞いた。
「白石くんに、話したいね」
悠斗が言うと、琴音はうなずいた。
「音の確認で、私たちが話したことにも近い」
番組の参考になった。二人で来る理由は、確かにあった。
けれど、彼女が隣の展示へ笑いながら進むのを見ていると、悠斗にはそれだけでない1日になっていた。
予定していた順番で見終わると、琴音は案内図を確かめた。
「あと1つだけ、見てみたいところがある」
「どこ?」
「企画展の横。現代の短いメッセージを扱う区画」
悠斗はうなずいた。最初の紙には書いていなかった場所だったが、見ていくうちに気になったらしい。
「いいね。俺も見たい」
「予定より、20分くらい増えるかもしれない」
「お昼、決めてないから大丈夫」
琴音は小さく笑った。
「決めておかない利点もあるんだね」
「早瀬――琴音が、そうしてくれたから」
言い直すと、彼女は案内図を持つ手を少し止めた。名前で呼ぶのが、まだ完全には自然になっていない。
悠斗も少し照れたが、取り消さなかった。
「じゃあ、そっちへ行こう」
琴音が言った。
追加した展示で、二人は短い文を何通りかの言い方に直す例を見た。丁寧にするほど距離が生まれる場合も、短くすると冷たく見える場合もある。
「お昼の実施状況って、ここに入る?」
悠斗が小声で聞くと、琴音が肩を震わせた。
「丁寧にした例ではないと思う」
「じゃあ、何の例?」
「緊張して、余計な説明を入れた例」
彼女の言葉に、悠斗は少し黙った。琴音がその顔を見て、自分も言いすぎたと思ったように口を閉じた。
「……そう。あの日、少し緊張してた」
彼が認めると、彼女は目を上げた。
「何か、あった?」
「考え事があって。でも、一緒に食べられてよかった」
琴音はうなずき、続きを聞かなかった。悠斗は正直に全部言えたわけではないことを意識しながら、それでも今の1行は嘘ではないと思った。
施設を出ると、予定より遅い昼になっていた。
近くの店を琴音が調べようとしたが、悠斗は来る途中に見た定食屋を思い出した。日差しが強くなってきたので、あまり遠くへ歩かず入れるところがよさそうだった。
「そこ、どうかな」
「予算は?」
「このくらいだった」
彼が伝えると、琴音はうなずいた。二人はガラスに貼られたメニューを見てから、中へ入った。
窓際の席で、彼女は最初に水を飲んだ。悠斗は向かいに座る姿を見ながら、今日は何をしているのか、急に意識してしまった。
二人で休日に待ち合わせ、展示を見て、今から昼食を取る。番組の資料を探す用事はあるが、それはもう終わっている。
デート、と呼んでもよいのだろうか。
「これ、どこまでが企画の資料探しなんだろうね」
琴音が先に言った。
悠斗は彼女の顔を見た。心の中を読まれたようで、返答が一拍遅れた。
「必要なところは、もう見たと思う」
「そうだね」
「でも、他も見られてよかった」
「私も」
彼女はメニューを開いた。
「二人で出かけても、仕事なら仕事の範囲になると思うけど。途中から用事がなくなったら、何になるんだろう」
「……休日、かな」
悠斗は無難な言葉を選んだ。琴音はその返答を聞いて、少し視線を落とした。
「休日なのは、最初からだけど」
「そうだね」
彼はそれ以上を言えなかった。自分はデートだと思いたい、と言えばよいのに、彼女が違うと思っていたら困らせる気がした。
定食が運ばれてきて、会話は展示の話へ戻った。どこが番組に使えそうか、どんな言葉の違いが面白かったか。琴音は次々に思い出し、悠斗は彼女が見ていたものを聞くのが楽しかった。
その気持ちは、難しく定義しなくてもはっきりしていた。
「今日は、来てよかった」
彼が言うと、琴音は箸を止めた。
「予定を変えたところも?」
「うん。あそこ、一人なら通り過ぎてたかもしれない」
「じゃあ、次も気になるところがあれば言う」
「俺も言う」
二人はうなずいた。
食事の後、悠斗は小さな店の並ぶ通りを少し歩きたいと言った。琴音は暑さを確かめるように外を見て、日陰の側なら、と答えた。
店先の絵葉書を眺め、書店の窓の新刊を見る。買うものはなかった。それでも彼女は時計を見る回数が少なく、悠斗も帰る時刻を急いで決めなかった。
横断歩道の手前で、琴音が鞄の中の紙を出した。朝作った予定表だった。
「実際には、だいぶ違った」
「書き直す?」
「後で、見たものだけメモする」
「予定表が、思い出の記録になるんだ」
彼女は少し考え、うなずいた。
「それなら、無駄にはならないね」
悠斗は笑った。琴音も笑って紙をしまった。
帰りの駅で、二人は別々のホームへ向かう。悠斗は最後に、今日のことをもう一度言いたかった。
「今日は楽しかった」
「うん。私も」
「また、こういうふうに出かけたい」
琴音は、すぐには返事をしなかった。代わりに彼を見て、口元を少し上げた。
「仕事の資料探し?」
悠斗は答えに迷った。
その間に、彼女は自分で笑った。
「どちらでも、いい。また誘って」
「うん」
悠斗はうなずいた。今日を何と呼ぶかは、また言えなかった。
帰宅して案内を鞄から出したとき、彼は琴音に短い礼を送った。返ってきたのは、彼女が予定表の裏に書いた展示のメモの写真だった。
最後の1行に、昼食と散歩、とある。資料になる部分だけでなく、その後の時間まで残っていた。
悠斗はその写真を保存した。
今度は、用事がなくても誘えるだろうか。画面を閉じる前に、彼は次の休日の日付を見た。




