第14話 結論の書けないノート
琴音の鞄から、いつもより薄いノートが出てきた。
番組用のものには日付と相談の題名が書かれている。その1冊は表紙が無地で、机へ置かれるとすぐに手で伏せられた。
「今日の台本?」
悠斗が聞くと、琴音は首を振った。
「別の整理」
「授業?」
「……授業でも、番組でもない」
それなら、彼が続きを聞く理由はない。悠斗はうなずき、手元の資料を開いた。ところが隣のペンが一向に動かないので、つい気になってしまう。
7月の学生会館は、試験の前に提出物を片付ける学生でいつもより静かだった。部室でも、二人は収録の準備と学業を交互に進めている。
「何か、手伝える?」
「それは難しいと思う」
琴音は即答し、それから少し言い方を緩めた。
「自分で考えることだから」
「そっか」
悠斗はノートから目を離した。自分が恋心を自覚してから、何でも彼女の役に立ちたくなる。だが頼まれていないことを、勝手に引き受けるのは違う。
彼女が考えている間、彼は台本を声に出さず読んだ。今日の候補は、好きという気持ちがよく分からないという相談だった。
本人がそうだと気づくまで、他人には決められない。
当たり前の答えが、自分の今の状況にも関わるようで、悠斗は少し慎重にページをめくった。
昼休み、菜月が部室へ来た。琴音と一緒に資料を提出するという。悠斗はその間に食堂へ向かうつもりで鞄を取った。
入口で靴ひもを結び直していると、二人の声が聞こえた。
「今日の服、結局そっちにしたんだ」
菜月の言葉に、琴音が何か小さく答えた。
「朝、写真が3枚来たから、どこか出かけるのかと思った」
「同じ色か確かめたかっただけ」
「どれも違う色だったよ」
悠斗は立ち上がった。聞くつもりで残っていたと思われたくなくて、先に行くと声をかける。
琴音がこちらを向いた。薄い青のシャツを着ていた。涼しそうで、よく似合っている。
「その服、いいね」
口にしてから、彼は菜月の前だったと気づいた。
琴音は袖の端へ目を落とした。
「ありがとう」
返事は短かった。菜月が笑いそうな顔をしているので、悠斗は自分が変なことを言ったかと不安になった。
「じゃあ、また後で」
彼が部室を出ると、後ろで菜月の声が聞こえた。
「よかったね、そっちにして」
琴音の返事は聞こえなかった。
午後、二人で相談を取り上げるか検討した。
恋愛感情なのか、親しさなのか分からないという文面に、悠斗は安易な結論をつけたくなかった。先週までの自分なら、好きではないかと思う気持ちも分かる、と曖昧に言って終わったかもしれない。
「自分で確かめるには、どうすればいいんだろう」
彼が言うと、琴音はノートを開いた。
「相手といるとき、どんな行動をしているかは、手掛かりになると思う」
「緊張するとか?」
「それだけだと、人見知りの場合もある。会わないときに思い出すとか、連絡が来ると嬉しいとか」
琴音はそこで言葉を切った。悠斗は自分のことを並べられているようで、姿勢を変えた。
「……色々あるね」
「一つだけで決める必要はない。信頼しているから嬉しい場合もあるし」
「うん」
「収録の相手として、話しやすいというだけかもしれない」
悠斗は顔を上げた。
琴音は紙を見ている。今の例が自分たちのことなのか、ただ番組を作っているから出てきたのか、分からなかった。
彼女の気持ちを、自分の望むほうへ解釈したくなる。悠斗はそれを抑え、相談した人の話へ戻した。
「理由を全部証明しなくても、もう少し会いたいと思うなら、会ってみていいのかな」
琴音のペンが止まった。
「会ってから、分かることもある?」
「うん。今すぐ好きって名前をつけないと、何もできないわけではないから」
彼女はしばらく黙り、言葉を1行だけ書いた。
「ただ、相手を確かめるためだけに近づくのは、よくないと思う」
「そうだね。自分が一緒にいたいかも、大事だね」
琴音はその一文にも、短く線を引いた。
収録前の機材確認で、白石が二人へ簡単な問いを投げた。週末に楽しみにしていることを、ひと言ずつ話してほしいという。
「展示を見に行くこと」
悠斗が答えると、琴音もほぼ同時に同じことを言った。
白石は二人の音量を確認していたので、特に反応しなかった。
「もう一度、順番にお願いします」
「あ、ごめん」
悠斗が言うと、琴音が笑った。
「同じ内容だから、長さもそろいそう」
「俺、少し説明足そうか」
「音の確認なので、短くて大丈夫です」
白石の真面目な返答に、二人とも笑ってしまった。悠斗は琴音がこんなふうに声を出して笑うようになったのは、いつからだったか考えた。
最初の収録では、彼女が笑ったかどうか確かめるのに、顔を見る必要があった。今は隣で話をしていれば、声でも分かる。
琴音が笑いを収め、ヘッドホンをつけ直した。
「もう一度」
「うん」
悠斗はマイクへ向いた。恋心を自覚してから、彼女の楽しそうな反応が一つずつ大切になってしまう。
今日の相談には、自分の気持ちを急いで決めなくてよい、と答えた。琴音は、名前が分からなくてもその気持ちを否定しなくてよい、と補った。
それを話す彼女の声は、いつものように落ち着いていた。ただ、締めの言葉の後、台本の端を指で押さえたまま、少し長く黙っていた。
収録後の喫茶店には、菜月も途中まで一緒に来た。資料の返却だけ済ませると、彼女は別の予定へ向かった。
「二人とも、楽しそうだね」
別れ際に菜月が言う。
「番組のこと?」
琴音が聞き返すと、菜月は肩をすくめた。
「今のこと」
悠斗は返事をし損ねた。琴音もカップを持つ手を止めていた。
菜月が去った後、二人は少しだけ静かになった。悠斗は彼女にどう見えたのか気になったが、琴音へ聞くことはできない。
代わりに、今度の展示の集合場所を確認した。琴音は移動経路と開館時刻を書いた紙を出した。
「早すぎる?」
「ちょうどいい。ありがとう」
「昼食は、その後で決める。混雑が分からないので」
「うん。俺も何軒か見ておく」
彼女はうなずき、手帳を閉じた。端から無地のノートがのぞいていたので、悠斗は今朝の考え事を思い出した。
「朝の整理、進んだ?」
琴音は一瞬、彼を見た。
「まだ、結論がない」
「そっか」
「でも、考えるための材料は増えた」
「よかった」
彼はそこで聞くのをやめた。彼女自身が考えることだと言っていた。
琴音は代わりに、展示を見た後に感想を話す時間を取りたいと言った。悠斗は賛成した。資料をまとめるためだけでなく、面白かったことを聞かせてもらうための時間。彼女がその違いを口にしないまま予定へ残してくれるのを、彼はもう少し楽しみにしてよいと思った。
店を出るとき、琴音が傘を忘れかけた。悠斗が差し出すと、彼女は少し驚いた顔をした。
「今日は、持ってきてたんだね」
「前の失敗があるから」
「役に立ったね」
「忘れたら、持ってきた意味がないけど」
悠斗が笑うと、琴音も笑った。別れるまでに、また二度、彼女が笑うところを見た。
* * *
その夜、琴音は机の上で無地のノートを開いた。
左のページには、連絡、会う予定、話す時間、と短い項目が並んでいた。その隣に、信頼、習慣、という言葉があり、どちらにも線が引かれている。
彼女は右のページの端へ、ペンを置いた。
『好きなのかもしれない』
書いた後、一度線を引いて消した。
それから、少し下にもう一度、同じ言葉を書いた。
今度は消さなかった。
携帯に週末の集合時刻が表示されている。琴音はそこへ了承を返し、ノートを閉じる前に最後の1行を見た。
その横には、まだ理由も条件も追加されていなかった。




