第13話 名前のあとに続く言葉
悠斗は、昼食に誘うための文章を頭の中で3回直した。
1回目は、学食へ行かないか。それなら、普段と同じだ。
2回目は、予定がなければ一緒に。これもおかしくない。
3回目には、都合のよい時間に、無理のない範囲で、食事をしながら話せればと思って、という長い前置きがついた。
部室の扉を開く直前に、彼はその全てを忘れた。
「早瀬さん、お昼の実施状況は」
机で資料を見ていた琴音が顔を上げた。
「……何?」
「食べた?」
「まだだけど」
「俺も」
それから先を言えずにいると、彼女が手元の紙をまとめた。
「一緒に食べる?」
「うん。そう言おうと思ってた」
琴音は少し心配そうに彼を見た。
「疲れてる?」
7月に入ったばかりだった。悠斗は課題を提出し、勤務もいつもの日程へ戻っている。疲れていないはずなのに、今日は言葉を選ぶだけで余計な力を使った。
理由は分かっている。
先週、自分が彼女を好きだと認めた。それだけで、いつもなら何でもなく言えたことが、一つずつ特別になった。
会いたかったと言えば、気持ちが分かってしまうだろうか。今日の服が似合うと言ったら、急に何をと思われるだろうか。
迷っているうちに、琴音はもう鞄を持って立っていた。
「食べたら、少し休めると思う」
「うん。ありがとう」
彼女の心配に甘えたまま、悠斗は一緒に部室を出た。
食堂は昼の混雑が過ぎていた。二人はそれぞれ定食を選び、窓から少し離れた席へ座った。
琴音が冷たい水を一口飲む。髪をまとめるために指を上げ、そのまま輪を通した。収録のときにも見ている仕草なのに、悠斗は手元の箸へ視線を戻した。
「今日、台本の確認だけだよね」
「うん。収録は明日」
「なら、終わった後は早く帰ってもいいよ」
「大丈夫。もう元気」
「食べ始めたばかりだけど」
彼は返事に詰まった。琴音が眉を寄せる。
「久瀬くん、今日、少し変」
「そうかな」
「話す前に、毎回考えてる」
気づかれていた。
悠斗はご飯を飲み込んでから、水を飲んだ。マイクの前で相談に答えるときは、何を言えばよいか分かる。ところが今、相手は相談者ではなく、彼が好きになった本人だった。
何か言い訳を考えていると、琴音が明日の相談の話を始めた。好きな相手の前でいつもと違う自分になってしまう、という投稿が候補にあったらしい。
「……すごい偶然だね」
「何が?」
「いや。色々、相談が来るなと思って」
琴音は候補の要点を話した。気の利いた返事をしようとして、自分の意見ではないことまで言ってしまう。後から、それで気に入られても困ると思う、と。
悠斗は箸を止めた。
「普通に話すのが、急に難しくなるんだろうね」
「相手にどう見られるかが、先に来るから?」
「うん。でも、相手は昨日と同じ人なのにね」
口にしてから、彼は自分の言葉を聞き直した。
琴音は、昨日と同じだった。台本を丁寧に作り、食事をしながら次の予定を確認し、彼が疲れていると休ませようとする。
好きだと分かったのは自分の中の変化で、彼女が急に厳しい審査員になったわけではない。
悠斗は少し肩の力を抜いた。
「相手に好かれたいからって、自分じゃない返事ばかりするのも、寂しいね」
琴音は彼を見た。
「そうだね。好きになってほしい相手ほど、本当は知ってほしいはずなのに」
彼はうなずいた。その言葉も、普段の彼女らしかった。
部室へ戻り、二人で台本を確認した。
琴音が用意した冒頭の文章には、相談者を急がせない1行が添えられている。悠斗はそこを見つけ、よかったと言いかけた。
また、口が止まった。
彼女を褒めると、好意が知られるかもしれない。そう考える自分がいる。
しかし、自分が好きだからといって、琴音の仕事への感想まで隠す必要はない。今まで伝えていたことを急にやめたら、彼女は何が変わったのか分からないだろう。
「ここの1行、残したい」
悠斗は紙を指した。
「相手に合わせてばかりいる自分を、すぐ駄目だと言わないところ」
「うん。緊張するのは、悪いことではないから」
「早瀬さん、こういうところも考えてくれるよね」
琴音はペンを持ち直した。
「久瀬くんが、最初に受け止めるほうだから。回答の後にも、少し必要かなと思って」
悠斗は彼女の文章の中に、自分とのやり取りが残っていることを知った。嬉しくて、今度はそれを隠さず笑った。
「ありがとう。すごく話しやすい」
「それなら、よかった」
琴音も口元を少し緩めた。
白石が来て、収録の日程を確認した。悠斗は普通に受け答えできた。明日の準備も、先週と同じように進められる。
ただ、琴音が笑ったときに目が向くのは、意識しないようにしても直らなかった。
台本の整理が終わると、琴音が展示の案内を出した。課題が終わったら一緒に予定を見たい、と悠斗が言っていたものだ。
「来週なら、時間が取れそう」
「俺も。どの日がいい?」
二人で予定を並べた。まだ講義のある日を避け、週末の午前中にした。展示を見た後、昼食をどうするかは、そのとき決める。
琴音は終わる時刻も聞いた。悠斗はその日は勤務がないと答えた。どこかへ戻る時刻を気にせず、一緒に過ごせる日がある。そのことを彼女にも知っていてほしくて、普段よりはっきり伝えた。
悠斗は「番組の参考にもなるね」と言いそうになり、やめた。
参考になるかもしれないが、それが一緒に行きたい理由の全てではなかった。
「楽しみだね」
彼が言うと、琴音は案内を折った。
「うん。資料だけでは分からないものもありそう」
「終わった後、何が面白かったか聞きたい」
「展示を見ている間ではなく?」
「それも。後から思い出すこともあるでしょ」
琴音はうなずいた。
「じゃあ、時間を少し取っておく」
手帳へ書く彼女を見て、悠斗はまた嬉しくなった。自分が好きだと分かる前から、彼女はこうして話す時間を作ってくれていたのだ。
特別な人になったから、今までの会話が失われるわけではない。
彼は今日の最初に考えた昼食の誘い方を思い出し、少し笑った。
「何?」
「お昼の実施状況って、変だったよね」
「今、気づいたの?」
「途中で気づいてた。取り消す時間がなかった」
「次は、食べたか聞けばいいと思う」
琴音も笑った。悠斗は、その声を聞くために上手な言葉を作る必要はないのだと、少しだけ思えた。
帰り道、琴音が彼の体調をもう一度確かめた。悠斗は本当に疲れていないことを伝え、今日は少し考えすぎていたのだとだけ言った。
「考え事、終わった?」
「全部じゃない。でも、今は大丈夫」
「そう。困ったら話して」
その言葉に、悠斗はすぐにはうなずけなかった。困っている相手は、まさに目の前の人だった。
それでも、いつかは話すのだろうと思った。彼女にどう思われるかを考えるだけでなく、自分がどうしたいかも言わなければ、何も伝わらない。
駅へ向かう分かれ道で、琴音が明日も同じ時刻でよいかと聞いた。
「うん、琴音。また明日」
呼んでから、悠斗は自分の声に気づいた。
琴音も足を止めた。二人の間を、自転車が1台通り過ぎる。
「……今、名前」
「あ、ごめん。嫌だった?」
「嫌とは、言ってない」
彼女は鞄を持ち直した。
「少し、驚いただけ」
「じゃあ、呼んでもいい?」
琴音は短くうなずいた。
「うん。私の名前だから」
それは説明になっているようで、なっていなかった。悠斗は笑いそうになり、彼女も少し笑った。
「また明日、久瀬くん」
「うん。また明日」
彼女が歩き始めた後、悠斗は手のひらを鞄の持ち手で拭いた。少し汗をかいていた。
好きだとは、まだ伝えていない。
それでも今日は、頭の中でだけ呼んでいた名前を、彼女に届く声で言えた。




