第12話 仕事が減っても嬉しくない
「仕事が減ったのに、嬉しくなさそうだな」
瀬戸陽介に言われ、悠斗はレポートの画面から顔を上げた。
「減ったわけではないよ。先に準備してもらっただけ」
「それなら、助かったんだろ」
「うん。すごく」
「その顔で言うと、全然伝わらないぞ」
6月の終わり、図書館の共同学習用の席で、二人は課題の仕上げをしていた。大声を出せる場所ではないので、陽介も声を落としている。その分、何気ない質問から逃げる場所がなかった。
悠斗の1週間は、講義と提出物と書店の勤務で埋まっていた。番組の台本を確認する時刻を何度か移したため、琴音が先に整理を進めてくれたのだ。
彼女から届いた資料は、いつもより説明が丁寧だった。確認してほしい箇所と、すでに二人で合意している箇所が分けられ、短い空き時間でも読める。
実際、とても助かった。
ただ、その紙を前に話す時間がなくなったことが、悠斗には引っかかっていた。
「明日、収録なんだろ」
陽介が聞く。
「うん」
「会えるじゃないか」
「それは、そうだけど」
悠斗は語尾を落とした。琴音に会うために番組へ行くわけではない、と言おうとして、なぜそんな説明が必要なのか分からなくなった。
陽介は追及せず、彼の画面を指した。
「その段落、同じ文が2回ある」
「え」
「考え事するなら、保存してからにしろよ」
悠斗は重複を消した。何を考えていたかは、画面に書かれていなかった。
翌日の収録は、問題なく進んだ。
相談者の好きな相手と趣味が合わない場合、一緒に楽しむ方法はあるか、という内容だった。琴音は、同じものを好きになる必要はないが、相手がなぜ好きなのかを知ることはできると話した。
悠斗も、自分の好きなものを紹介するだけでなく、相手に聞くことを勧めた。
「分からないから面白くない、と決めないで、一度教えてもらってもいいですよね」
彼はマイクへ言った。
「同じ本を読んでも、好きな場面が違うこともあります。そこが違うから、話が増える場合もあると思います」
琴音がこちらを見た。何の本を思い浮かべているか、彼女にも分かったのかもしれない。
「ただ、無理に全部を共有しなくていいと思います」
彼女は続けた。
「一人で楽しみたい時間もあるので。好きな相手だから、いつでも一緒にするべきだとは限りません」
悠斗はうなずいた。そう言える関係は、きっと楽だろう。
録音を止めると、白石が問題ないと伝えた。予定の時刻まで、まだ15分残っている。
「今日は、早かったですね」
白石の言葉に、悠斗は反射的に時計を見た。
よいことだった。今夜は勤務があり、帰宅後にも課題がある。短く終わるなら、その分を使える。
琴音は台本をそろえ、悠斗へ渡した。
「配信の説明文も、候補を書いておいた。後で読んで、気になるところだけ教えて」
「ありがとう」
「公開前の確認は、明日の昼までにできれば大丈夫」
「うん。必ず見る」
彼女はうなずいた。そして鞄を開き、別の薄い資料を取り出した。
「これは、番組とは別」
悠斗は差し出された紙を受け取った。来月、大学の近くで開かれる小さな展示の案内だった。言葉や手紙についての展示らしい。
「前に、こういうのは面白そうだって言っていたから」
「俺、言った?」
「古本市で。前の持ち主の栞が残っている本の話をしたとき」
悠斗は思い出した。誰かがどこまで読んだのかな、と話した。誰が書いたか分からない手紙にも、同じような興味がわくかもしれない。
「覚えててくれたんだ」
「関連しそうなものを見つけたから」
琴音は少しだけ視線をそらした。
「今は忙しいと思うので、終わってから見ればいい」
悠斗は案内を折らずに台本の間へ挟んだ。彼女が自分のためにまとめた資料には、番組のことだけでなく、後で楽しめるものまで入っていた。
役に立つから嬉しい、だけではない。
自分がいないときにも、この人は自分の言ったことを覚えていてくれた。
「早瀬さんも、興味ある?」
「ある。時間が合えば、行ってもいいと思ってる」
「じゃあ、課題が終わったら予定見てもいい?」
「うん」
彼女の返事を聞いて、悠斗は次の1週間が少し短くなったように感じた。
今日は喫茶店に寄れなかった。
琴音は無理をしなくてよいと言い、駅へ向かう角まで一緒に歩いた。悠斗は勤務前に書店で食事をする予定だった。普段ならそのことを簡単に伝えて終わるのに、今日は彼女の質問を一つずつ長く聞いていた。
「課題、あとどれくらい?」
「最後の見直し。陽介に同じ文章があるって言われたから」
「眠かった?」
「いや、少し考え事」
「それなら、終わった後で読むといいかも。一度離れると、見つかることもある」
悠斗はうなずいた。彼女は何を考えていたのかと聞かなかった。それが助かるようで、何かを言いたいようでもあった。
角に着くと、琴音が立ち止まった。
「来週は、反省会できそう?」
「うん。提出が終わるから」
「よかった」
短い返事だった。悠斗はその声に、さっき展示の案内をもらったときと同じ嬉しさを感じた。
「俺も、またゆっくり話したい」
彼が言うと、琴音は鞄の持ち手を握り直した。
「では、来週」
「うん」
彼女が反対側の歩道へ渡るまで、悠斗はその場にいた。急いでいるはずなのに、時計を見るのを忘れていた。
書店では、いつもどおり仕事をした。
客に尋ねられた本を探し、届いた文庫を棚へ並べ、レジの横の案内を入れ替える。よく知っている仕事なので、考え事をしなくても手は動く。ただ、曖昧なまま注文を受けないよう、いつもより意識して確認した。
勤務を終えた後、店長が新しい展示の案内をレジへ置いた。琴音にもらったものと同じだった。
「これ、俺も今日見ました」
「行けそうか」
「課題が終わったら、友達と」
友達と言ってから、悠斗はその言葉を心の中で繰り返した。
間違ってはいない。大学の仲間で、番組の相棒で、一緒に本を見る友達だ。
けれど、それで全部説明できた気がしなかった。
帰宅して鞄を開くと、台本から展示の紙がのぞいていた。悠斗は先に課題を提出し、保存を確認した。陽介へ終わったと送ると、すぐに「じゃあ、明日はいい顔して来い」と返ってきた。
彼は椅子にもたれ、琴音から受け取った紙を広げた。
なぜ、仕事が減っても嬉しくなかったのか。
収録はうまくいった。台本も読みやすい。相槌が重なるところも減った。番組として困ることは何もない。
それでも、自分がいない時間に彼女が作業を進めると、助かった後に、会いたかったと思う。
マイクを前にしなくても話したい。笑った声を聞きたい。好きな本の続きを教えたい。彼女が何に興味を持つのか、次も知りたい。
悠斗は机に肘をつき、顔を手で覆った。
「……そっか。俺、琴音のことが好きなんだ」
声に出すと、今まで別々だった出来事が一つにつながった。
傘の中で歩くのが遅くなったことも、返信を待ったことも、反省会の予定に彼女の名字を足したことも。
特別な出来事が一つ起きたのではなかった。自分が気づく前に、何度も彼女を選んでいた。
携帯が鳴った。
『明日の確認、よろしく。課題が終わっていたら、少し本の話もしたい』
悠斗は画面を見た。さっきまでと同じ文字なのに、返事を打つ指が止まった。
好きだと分かっただけで、明日の相手が変わるわけではない。そう思っても、いつもどおりの返事に少し時間がかかった。
『終わったよ。俺も話したい。明日よろしく』
送信した後、彼は机に伏せかけた台本を起こした。明日はいつもどおり、早瀬さんと呼ぶのだろう。
それでもその名前の後に、今日まで言わずにいた気持ちがある。
悠斗はもう、仕事が忙しいから落ち着かないのだとは考えなかった。




