第11話 台本にない声
「久瀬先輩、少しだけ話してください」
白石に言われ、悠斗はマイクへ向いた。
「何を?」
「何でもいいです」
「何でもいいって言われると、何もなくなるね」
「今のままで、大丈夫です」
白石は画面を見ながら録音を止めた。悠斗はヘッドホンを持ったまま、隣の琴音へ目を向けた。
「俺、何の情報も伝えなかった」
「声を録ったから、目的は達成してる」
6月半ばの収録前だった。白石が機材の設定を少し見直したので、普段の声と台本を読む声を比べたいという。二人は順番に同じ短文を読み、その後、雑談も少し録った。
部室の窓から、湿気を含んだ風が入ってくる。ブースに入る前に、白石が窓を閉めた。琴音はその間に今日の相談を確認していた。
『好きな人の声を聞きたくなるのは、変でしょうか。用事がないのに電話するのは、迷惑ですか』
悠斗は文面を見て、先週のメッセージを思い出した。用件が終わっても、もう1行が来ると嬉しい。声なら、どんなふうに感じるのだろう。
「電話は、相手の時間も使うからね」
琴音が言った。
「うん。でも、話したいと思うのは変じゃない」
「今、話せるか聞けばいいのかな」
「話せなければ、別の時間でもいいって添えれば、断りやすいかも」
二人は相談への回答を短くまとめた。声を聞きたい気持ちと、相手が今電話できるかは、別々に考えてよい。電話が苦手な人もいるので、好きな相手なら必ず喜ぶとは言わない。
琴音が最後に、自分の用事だけでなく相手の話も聞く、と足した。悠斗はうなずき、そこへ線を引いた。
白石が2種類の音声を再生した。
1つ目は、悠斗が台本を読んでいる声。2つ目は、何でもいいと言われて困っている声だった。
「台本のほうは、少し口がマイクから遠くなっています。紙を見ると、顔が下がるので」
白石が説明する。
「自然に話しているときのほうが、音が安定してる?」
琴音が聞くと、彼はうなずいた。
「位置もありますね。声の出し方も違います」
悠斗は自分の声を聞いて、また居心地が悪くなった。最初の頃より慣れたつもりでも、雑談まで聞かれると逃げたくなる。
「自然なほう、情けなくない?」
「そんなことはない」
琴音がすぐに答えた。
「こちらのほうが、聞いていて楽」
悠斗は顔を上げた。
「白石くんの言っていた、音の安定?」
「それもあるけど。……作っていない声だから」
彼女は台本の端をそろえた。
白石は音質の違いを詳しく説明し始めた。悠斗はその話を聞きながら、琴音の「それも」の前に少し間があったことを思い出していた。
次は琴音の比較だった。台本を読んでいる声は明瞭で、語尾までよく聞こえる。雑談では、悠斗の言ったことに短く笑っていた。
たったそれだけの音なのに、悠斗には、彼女が隣に座っている今より近く感じられた。
「ここ、いいね」
思わず言うと、琴音がこちらを向いた。
「どこ?」
「笑ったところ。早瀬さんのこの声、好きだな」
白石が再生を止めた。
悠斗はその沈黙で、自分の言葉をもう一度聞いた。番組の話のつもりだった。けれど白石が話していた音の違いとは、少し違うことを言った気がする。
「聞きやすいっていうか、楽しそうで」
「……そう」
琴音はヘッドホンの片側を外した。耳が少し赤い。暑いのかもしれないが、窓はまだ閉じたばかりだった。
「笑い声は、音が急に大きくなるので、調整は必要です」
白石は真面目に補足した。
「でも、雰囲気が伝わるのはいいことですね」
「うん。それ」
悠斗は助かった気持ちで答えた。琴音は何も言わず、ヘッドホンを元に戻した。
収録で相談を読むとき、悠斗は顔を下げすぎないようにした。琴音も、台本の一文を短く区切る。少し直しただけで、相手の顔を見る余裕ができた。
「用事がないと話してはいけない、とは思わなくていいんじゃないでしょうか」
悠斗はマイクへ言った。
「声が聞きたい、というのも、話したい理由になります。ただ、相手が今できるかは、聞いてみないと分かりません」
「断られたときにも、話したい気持ちそのものを否定されたと決めないことが大切だと思います」
琴音はそう続け、少し間を置いた。
「今日は難しい、という返事なら、別の日を考えることもできます」
悠斗は隣を見た。彼女もこちらを見ていたので、相槌を声にせずうなずいた。
締めまで終わると、白石が手で丸を作った。悠斗はヘッドホンを外し、琴音と同時に息をついた。
「今日は、話しやすかった」
彼が言うと、琴音もうなずいた。
「顔を見られるからかな」
「早瀬さんが、今どう考えてるか少し分かる」
「全部は、分からないと思うけど」
「うん。分からないところは、聞く」
彼女は台本を閉じた。言葉を足さずに、口元を少し緩めた。
編集では、相談への回答の他に、冒頭の短いやり取りも使うことになった。白石は、収録前の音質比較は作業用として残し、公開用には入れないと確認した。
琴音は了承し、必要な箇所だけを聞き直した。
悠斗は配信の説明文を直していた。ふと横を見ると、彼女の手が再生ボタンの手前で止まっている。
「どこか直す?」
「ううん。比較用の部分だった」
「俺が何も言えなかったところ?」
「……その後」
悠斗は自分が笑い声を褒めた部分だと思い出した。そこまで何度も聞かれると恥ずかしいが、琴音は再生せずに別の作業へ移った。
彼も何も言わなかった。
代わりに、自分が聞き直す必要のある箇所を白石へ伝えた。紙を置く音が一度重なっている。白石がその前後を流すと、琴音は説明の途中で一度息をついていた。
「ここ、急がなくなったね」
悠斗が言うと、彼女はうなずいた。
「聞く側が考える時間も、必要だと言われたから」
自分の指摘を覚えていてくれたことに、彼は笑った。残した間が、ただの空白ではなく、相手を待つ時間に聞こえた。
部室に藤堂が戻ってきて、今週の学内イベントについて白石と話し始めた。機材を使う時刻が重なるので、収録予定を少しずらす必要がある。
琴音は手帳を開き、悠斗へ空き時間を聞いた。来週は彼の講義の課題と書店の勤務が重なっている。
「この日の昼なら、台本の確認はできる」
「収録は、夕方になるけど」
「そこも大丈夫。反省会は、短くなるかもしれない」
琴音のペンが一度止まった。
「分かった。無理はしないで」
「うん」
悠斗は自分の予定を見直した。番組を作るための時間は確保できる。なのに、今まで普通にあった収録の前後がなくなるのは、少し寂しい。
仕事なら、予定どおり短く終わるのはよいことのはずだった。
帰り道、二人は喫茶店へ寄った。今日は修正点が少ないので、番組の話はすぐに終わった。
琴音が勧めると約束していた本の題名をもう一度教えてくれた。悠斗は買った古本を読んでいるところだと答え、面白かった一節を、自分の言葉で説明した。
その途中で琴音が笑った。
悠斗は話を止めかけた。部室で聞いた録音と違い、今の声は一度しか聞けない。聞き直せないことが、少しだけ惜しい気がした。
「どうしたの?」
「いや。今の説明、変だった?」
「面白かった。久瀬くんが、その場面を好きなのも分かった」
彼は安心して続きを話した。
コーヒーを飲み終えた頃、琴音が来週の予定をもう一度確認した。昼の確認と、夕方の収録。反省会は、時間のある範囲で。
「来週も、話せるよね」
彼女は最後にそう言った。
「うん。ちゃんと来る」
「番組のことだけでなくて」
悠斗は少し驚いてから、うなずいた。
「本の続きも、話す」
琴音は笑った。その声を聞いた瞬間、忙しい来週にも楽しみが残ったと思えた。
悠斗はその理由を、番組がうまくいっているからだと考えていた。




