第9話 影が歩く場所
町外れの廃倉庫は、屋根の半分が落ちていた。
差し込む午後の光が、床に斜めの帯を作っている。梁の影、柱の影、崩れた木箱の影。影の素材には困らない場所だ。
「ここなら人目もない」
「見つかったら、あたしが『狩りの獲物の解体場所を探してた』って言うわ」
「無理があるだろ」
「あんたの『観察です』よりマシ」
軽口を叩きながら、僕は床に白墨で線を引いた。
実験の目的は三つ。ポッチが影から影へ移れる距離。影の濃さによる違い。光の角度による違い。
布袋から出したポッチは、すぐに柱の影へ入った。
「まず距離だ。ここから始める」
床に、影と影の間隔を変えて木片を置いていく。ポッチは一つ目の影に入り、白墨の線の向こうの影を見つめた。
三歩。ぬるりと消えて、向こうに出る。
四歩。出た。
五歩。出た。
六歩。
ポッチが影の縁で止まった。体がもぞもぞと震え、引き返してくる。
「六歩はだめか」
「五歩までね」
メモに書く。
『影と影の間隔、五歩まで。六歩で停止』
「濃さはどうする?」
「濃い影と薄い影を、同じ間隔で並べる」
梁の影は濃く、崩れた屋根の隙間が作る影は薄い。三歩の間隔で試すと、濃い影には楽々と入るのに、薄い影の手前では動きが鈍った。入っても、すぐにはみ出してしまう。
「薄いと、滑りにくいんだ」
「水たまりの深さみたいなものかしら」
「近い。深い影ほど潜りやすい」
結果を並べると、ひとつの形が見えてきた。
潜れるのは、濃い影。移動できるのは、影が近い時だけ。つまり、影が途切れていたら、ポッチは動けない。
「戦うにしても、影のない場所じゃ使えないってことね」
「そうなる」
使える場所と使えない場所が、はっきりした。それだけでも収穫だ。
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二時間ほど経つと、日が傾き始めた。
廃倉庫の壁に、長い影が伸びていく。
「ねえ、レン」
シルヴィアが、屋根の隙間を見上げていた。
「日没前の影って、長くなるでしょ」
「ああ」
「狩りだと、この時間は獲物の動きが読みやすいの。影が伸びるから、遮蔽物と遮蔽物が繋がって見える」
「繋がる……」
はっとした。
「そうか。間隔が六歩でも、日が低ければ影が伸びて、途切れなくなる」
「でしょ?」
「やってみよう」
床の端の柱と、反対側の梁。昼間なら八歩は離れている。
夕日が傾いた今、二つの影は、床の上で一本の黒い帯になっていた。
ポッチを柱の影に置く。
ぬる、と体が沈んだ。
次の瞬間、八歩先の梁の影から、灰青色の体が這い出してきた。
「やった」
「ほら、言った通り!」
シルヴィアが拳を握る。僕は思わず笑った。
「助かった。この条件は、僕一人じゃ思いつかなかった」
「でしょ。……もっと褒めて」
「ありがとう」
「それだけ?」
「すごい」
「ふふん。よろしい」
得意げに胸を張った彼女は、すぐに自分で照れて、頬を掻いた。
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異変は、その直後だった。
何度か影を渡らせたあと、ポッチの動きが遅くなった。
「ポッチ?」
床の隅の影に入ったまま、出てこない。
覗き込むと、体が一回り縮んでいた。ぷるぷると震えるでもなく、ただ小さく丸まっている。
「縮んでる……」
「具合、悪いの?」
「消耗だ。影を渡るたびに、何かを使ってる」
僕は膝をついた。
さっきまで楽しそうに跳ねていた。夢中で試しすぎた。
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
「僕のせいだ」
「レン」
「進化したばかりなのに、回数を重ねさせすぎた。観察なんて名目で、無理をさせた」
「レン」
呼び方が変わった。低い、静かな声だった。
「落ち着いて。今は反省会じゃない」
「……ああ」
「この子に何が要るか、考えて」
その通りだった。
僕は一度、深く息を吸った。
影を渡るほど、縮む。縮んだ分を、何で補う?
「黒い石だ」
袋の木箱から、割りたての一つを取り出す。暗い影の中へ置くと、ポッチがゆっくりと包み込んだ。
しゅう。
体の中心が黒く染まり、縮んでいた輪郭が戻っていく。
ただし、半分ほどだ。
「全部は食べないのね」
「ああ。要る分だけ取ってる」
残りの石を、僕は木箱に戻した。
「石は、使うたびに減る。残りは六個。影潜みを多用すれば、すぐに底をつく」
「大事な時にだけ、使うってこと?」
「そうなる。それと、移動の回数と食べる量の記録を、取り続ける」
シルヴィアが、小さく頷いた。
「ちゃんと見てるじゃない。さっき、落ち込んでたくせに」
「……励まされたからだ」
「励ましてない」
「十分、励まされた」
「うるさい」
そっぽを向いた彼女の耳が、夕日に照らされて赤く見えた。
ふと、気づいたことがあった。
ポッチを何度も渡らせている間、一つだけ、動きが違う方向があった。北東。廃倉庫の壁の向こう、森の方向に伸びる影を渡る時だけ、ポッチは迷わず、速く、深く潜った。
「……北東の影の時だけ、速かった」
「え?」
「他の方向より、動きが活発だった。縮み方も、軽かった」
僕はメモを書き足した。
『影潜み。北東方向の影で活発。坑道との関係?』
シルヴィアの顔から、笑みが消えた。
「……また、あそこなのね」
「断定はできない。でも、何かある」
「嫌な予感がする」
「僕もだ」
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帰り道は、日没の薄闇だった。
町の中心に近づくと、広場のほうが妙にざわついている。
「待って」
シルヴィアが、僕の腕を引いた。
路地の角に身を寄せる。
広場の入り口に、一台の馬車が停まっていた。
黒塗りの車体。扉に、金の紋章。
翼を広げた鷲と、天秤。育成師ギルドの紋だ。
「ギルドの、馬車」
息が止まった。
王都を出た日の記憶が、一気に蘇る。審問の広間。冷たい水晶。署名の乾いた判決文。
そう、判決文の隅にあった、小さな印。
目を凝らす。馬車の扉の紋章の、鷲の翼の端に、細い刻み目が一本、余分にあった。
見覚えがある。
「あの印」
「どうしたの」
「判決文の隅に押してあった印と、同じだ。鷲の翼に、一本多く線が入ってる」
「……確かなの?」
「ずっと、頭に焼きついてた」
あの日、胸に引っかかったもの。その正体の端が、目の前にあった。
馬車の扉が開いた。
灰色の外套の人物が、ゆっくりと降りてくる。深くフードを被り、顔は見えない。背丈は、僕と同じくらいだろうか。
その人物は、広場を一度ぐるりと見回し、宿のほうを見た。
僕の宿の方向だった。
「……あたしたちのこと、探してる?」
「分からない」
足が動きかけた。
逃げたい。顔を合わせたくない。見つかる前に、屋根裏に戻って布を被りたい。
昔の僕なら、そうしていた。
けれど。
「シルヴィア」
「ん」
「もう少し、ここで見ていいか」
「え?」
「逃げたくない。知らないままでいるのは、もっと嫌だ」
彼女は目を丸くして、それから、にっと笑った。
「いいわよ。あたしが隣にいるから」
「頼む」
「その言葉、好きになってきたわ」
二人で、路地の影に身を潜める。
灰色の外套の人物は、広場の掲示板の前に立ち、何かを書き留めて、再び馬車に戻った。
馬車が、ゆっくりと動き出す。
その時、フードの下から、顎のあたりが一瞬だけ覗いた。
薄い唇が、笑っているように見えた。
遠ざかる車輪の音が、夜の底に消えていく。
「……行ったわね」
「ああ」
「どうする?」
「宿に戻る。ポッチを休ませたい。それと、記録を整理する」
「分かった。送るわ」
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宿の主人は、食堂の片付けをしていた。
「おう、帰ったか。飯は」
「あとで食べます」
「……そうか」
主人が、妙に歯切れの悪い顔をした。
「何かありましたか」
「いや。ない。ないんだが」
首筋を掻いて、視線を逸らす。
「まあ、いい。上がれ」
シルヴィアを玄関で見送り、屋根裏への階段を上がった。
扉を開ける。
暗い部屋に、ポッチを布袋から降ろす。蝋燭を点した。
ほのかな灯りが、部屋の中を照らした。
机の上に、見慣れないものがあった。
白い封筒。
宛名はなく、閉じ目に、赤い蝋が押されている。
蝋の印は、翼を広げた鷲と、天秤。
その翼の端に、細い刻み目が一本、余分にあった。
「……誰が」
部屋の鍵は、掛けて出た。窓の布も、そのままのはずだ。
宿の主人は、知らないと言った。
ポッチが、床の影から、封筒をじっと見ていた。
僕は震える指で、封蝋に手を伸ばした。




