第10話 封蝋の中身
封蝋は、指の腹で押すと簡単に割れた。
中から出てきたのは、一枚の羊皮紙だった。折り目は硬く、文字は整いすぎている。
読み始める前に、深く息を吸った。
『育成師ギルド王都本部より、レン・アシュベル殿へ。
貴殿に貸与した個体E-4471について、保留期間中の経過確認を行う。
確認担当者が、五日後に貴殿の滞在先を訪問する。
当日は個体を同席させ、状態を提示すること』
役所の文面だった。冷たくて、感情がない。
そこまでは、予想できた。
問題は、最後の一行だった。
『なお、貸与個体は速やかに返却できるよう、準備をしておくこと』
「……返却?」
声が、乾いた。
半年は保留のはずだ。成果を出せば資格は残る。そう言われて、ポッチを渡された。
それなのに、返却の準備。
確認に来る人間は、成果を見に来るのではない。ポッチを回収しに来るのだ。
指先が冷えていく。
紙の下部に、署名があった。見覚えのある筆跡。インクの濃さ、払いの癖。
審問の日、乾ききった判決文に書かれていたものと、同じだった。
「やっぱり、あれは見間違いじゃなかった」
誰に言うでもなく呟く。
部屋の隅で、ポッチが影の中からじっとこちらを見ていた。
「大丈夫だ」
自分に言い聞かせた。
「お前は渡さない」
言ってから、気づいた。
渡さない。そう決めたところで、僕に何ができる?
資格は剥奪される。ギルドに逆らえば、モンスターに触れなくなる。数字の出ない目は、何の証拠にもならない。
また、同じだ。
あの時と同じ。扉の隙間から、ただ見ているだけ。
「……だめだ」
首を振る。
一人で考えよう。誰かに言えば、巻き込む。これは僕の問題だ。
僕は書状を畳んで、机の引き出しに押し込んだ。
その時、窓の布の端に、目が止まった。
黒い布の下辺に、うっすらと、茶色い汚れがついていた。
泥だ。
乾いた泥の筋が、指の幅ほどに。
「窓から、入った?」
屋根裏の窓は、三階の高さだ。しかも布は内側から釘で打ってある。外から開くはずがない。
釘は、全部、刺さったままだった。
それなのに、泥がある。
背筋が冷えた。
誰かが、触れたのだ。この部屋に。
「……ポッチ」
呼ぶと、影の中から、灰青色の体がぬるりと出てきた。
僕の足もとで、窓の方を向いて固まっている。
その時だった。
こん、こん。
窓が叩かれた。
僕は思わず、後ずさった。
「レン! あたし!」
聞き慣れた声だった。
肩の力が抜ける。布をめくって窓を開けると、シルヴィアが、息を切らして庇に立っていた。
「帰ったんじゃなかったのか」
「帰ろうとしたわよ。そしたら、あのおじさんが『あいつ、様子がおかしい』って。それで、屋根に登った」
「見てたのか」
「見てた。あんたが書状を読んで、固まって、引き出しにしまうところまで」
「……」
「入るわよ」
返事も待たず、彼女は窓枠を越えて入ってきた。
床に降りるなり、まっすぐ僕の前に立った。
「何が書いてあったの」
「何でもない」
「嘘」
「たいしたことじゃない。ギルドの確認が来るだけだ。僕が一人で対応する」
「一人で」
声が、低くなった。
「あんた、それ、本気で言ってる?」
「……ああ」
「顔、見せて」
「見せない」
「見・せ・て」
両手で顎を掴まれた。強引に、顔を上げさせられる。
琥珀色の瞳が、僕を睨みつけていた。
「泣きそうな顔して、一人でやるって何なのよ」
「泣いてない」
「泣いてる」
「泣いてない!」
声が裏返った。
そして、情けないことに、言い返した言葉のあとで、視界がぼやけた。
「……っ」
「ほら」
彼女は手を離さなかった。
「無茶するなって、何回言ったと思ってるの」
「これは、僕の問題だ」
「違う」
「僕が追放されて、僕が期限を切られて」
「違う!」
遮られた。
シルヴィアの声が、屋根裏に響く。
「あんたの問題じゃない。もう、違うの」
「え」
「あたしは見てた。あんたが三日かけて条件を絞るところも、地下で一人で待ってたところも、あの子が進化した瞬間も。全部、見てた」
彼女は、唇を噛んだ。
「見ておいて、『はい、さよなら』なんて言えるわけないでしょ」
胸の奥で、何かが軋んだ。
「だって、シルヴィアは」
「あたしは、あんたの仲間になる」
言い切られた。
「は?」
「仲間になるって言ってるの。ちゃんと、正式に」
「どうして」
「理由、聞きたい?」
「聞きたい」
彼女は、一度視線を落とした。ポニーテールの先を、指でいじる。
それから、顔を上げた。
「あんたの目が、ちゃんと見えてるから」
「……目なら、毎日痛い」
「そういう意味じゃない。分かってるくせに」
照れ隠しのように、むっと眉を寄せる。
「鑑定が白紙でも、数字が出なくても、あんたは大事なことを見つけてくる。進化の条件も、ポッチの消耗も、ギルドの紋章の線一本まで」
「それは、観察で」
「そう。その観察が、あたしには眩しいの」
声が、少し震えていた。
「あたしは、一度、守れなかったことがあるの。……仲間を」
「シルヴィア」
「聞かなくていい。今は、ちゃんと話せない」
彼女は首を振った。
「でも、あんたなら、もう一度、信じてみたくなった。だから、仲間になる。以上」
最後だけ、早口だった。
僕は、何も言えなかった。
今まで、誰かにそんなふうに言われたことがなかった。
ずっと、認めてほしかった。ギルドの上層部に。クロードに。数字に。
それが、今。
目の前の、自分より背の低い少女が、僕の「見る力」を、眩しいと言った。
「……いいのか」
「いいから言ってるの」
「危ないぞ。ギルドに目をつけられたら」
「承知の上。狩人は、危ない場所のほうが得意だから」
「報酬も、出せない」
「後払いで構わないわよ」
「後払い、で」
「そう。ポッチが大きくなったら、お肉、奢って」
「……それは、約束する」
「よろしい」
彼女が、満足そうに笑った。
その笑顔を見て、僕の目から、ぽろりと涙が落ちた。
「……あ」
「ほら、やっぱり泣いてる」
「違う。これは、目のせいだ」
「はいはい」
彼女は、僕の頭を、ぽん、と一度だけ撫でた。
「頼ってくれて、いいのよ。レン」
「……頼む」
「なにを」
「一緒に、考えてくれ。五日後のこと」
「待ってました」
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床に座って、書状を広げた。
窓の泥も、見せた。
「泥ね。……足跡じゃなくて、手の跡かも」
「手の?」
「窓の布を、指で押さえた形。釘の位置をずらして、元に戻した痕もあるわ」
「分かるのか」
「狩人だもの。痕跡の読み方は専門よ」
彼女の目つきが変わった。さっきまでの照れが消えて、獲物を追う目になる。
「手際がいいわね。いなくなる時の癖まで、整ってる。素人じゃない」
「ギルドの人間か」
「断定はできないけど。あの馬車の人物なら、納得いく」
僕は書状の署名を指でなぞった。
「審問の判決文と、同じ筆跡だ」
「じゃあ、あの時から、あんたを狙ってたってこと?」
「それは、まだ分からない。でも、返却を急いでる」
「ポッチを、取り上げたいのね」
僕は、足もとのポッチを見た。
影の中で、灰青色の体が、ぷるりと揺れた。
「なら、見せ方を考えなきゃいけない」
「見せ方?」
「確認の日、ギルドは『成果』を見に来る。鑑定に記録される成果だ。もし影潜みを見せたら、鑑定には載る。でも」
「奪われる?」
「可能性が高い」
シルヴィアが、眉根を寄せた。
「見せなかったら?」
「成果なしで、資格剥奪」
「どっちに転んでも、詰むじゃない」
「だから、考える。残り五日で」
しばらく、沈黙が落ちた。
蝋燭の灯りが、ぱち、と鳴る。
「見せる部分と、隠す部分を、分けられない?」
シルヴィアが、ぽつりと言った。
「分ける」
「ええ。影潜みって名前だけが鑑定に載るなら、取られる。でも、条件の解き方は、あんたの頭の中にしかない」
「……そうか」
僕は、目を見開いた。
「ポッチだけじゃ、意味がない。ポッチを進化させた条件がなければ、同じ個体は作れない。取り上げられても、僕が隣にいなければ、あの子は動かない」
「でしょ?」
「でも、それだけでは弱い。確認担当者が、条件ごと奪おうとするかもしれない」
「じゃあ、あたしが付き添って、記録を守る」
「頼む」
「任せなさい」
胸が、少し軽くなった。
問題は、何ひとつ解決していない。
それでも、一人で考えていた時より、ずっと息ができた。
「ねえ、レン」
「ん」
「今日、あたし、あんたの部屋で寝ていい?」
「は?」
「違う。ここで、見張るってこと!」
シルヴィアが、顔を真っ赤にして叫んだ。
「窓の外に、誰か来るかもしれないでしょ! あたしは、床で寝る。あんたはベッド」
「勘違いして悪かった」
「してない! してないでしょ!」
「してない」
「……ほんとに?」
「ほんとに」
互いに、目を逸らした。
笑いを堪える僕の横で、彼女も小さく肩を震わせていた。
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夜が更けた。
毛布にくるまった彼女が、静かな寝息を立て始める。
僕は、ベッドに横たわって、天井を見つめていた。
目を閉じる前に、ポッチを見た。
影の中で、小さく丸まっている。
「……なあ、ポッチ」
小声で、話しかけた。
「僕は、一人じゃなかったんだな」
返事はない。ただ、影が、ほんの少し、温かくなった気がした。
その時だった。
ポッチの体が、ぴくりと動いた。
影からずるりと這い出し、窓のほうへ向かう。
「……ポッチ?」
窓枠の下で、動きが止まった。
体の表面に、刻印がかすかに浮かぶ。ぼう、と。
北東。
その方角から、風が運んできた。
きゅい、と。
細い、細い声だった。
鳥ではない。獣でもない。
何かが、助けを求めているような、か細い鳴き声。
「……今の」
「ん……なに……」
シルヴィアが、寝ぼけ眼で身を起こした。
「聞こえたか」
「……うん」
寝起きとは思えない、鋭い目つきだった。
「子どもの、鳴き声」
「ああ」
「森から」
窓の外には、墨を流したような夜の森が広がっている。
その奥で、小さな何かが、確かに呼んでいた。




