第11話 群れを失った小さな声
結局、一睡もできなかった。
小さな鳴き声が耳から離れない。窓の外が薄青く染まるまで、僕はベッドの上で天井を見ていた。
ふと、床のほうへ目を向ける。
シルヴィアが、毛布にくるまって眠っていた。
夜明け前の淡い光が、黒い布の隙間から細く差している。その光が、彼女の寝顔をなぞっていた。
長い睫毛が、頬に影を落としている。普段は勝気に吊り上がっている目尻が、今は驚くほど柔らかい。ほどけかけたポニーテールが、赤茶色の波になって床に広がっていた。
薄く開いた唇から、すう、すう、と小さな寝息が漏れる。
「……こうして見ると、年上なんだな」
声に出してから、慌てて口を押さえた。
起きる気配はない。
安心して、もう一度だけ、見てしまった。
毛布の端が、肩からずり落ちていた。
狩人服の胸元が、寝返りのせいで少し緩んでいる。革の合わせ目が、ほんの指一本ぶん開いて、白い肌着の縁が覗いていた。
呼吸のたびに、おっぱいがゆっくり上下する。
押し込められた丸みが、息を吸うたびに革を内側から押し上げ、吐くたびに、ふにゃりと柔らかく沈む。谷間の影が、深くなったり浅くなったりした。仰向けなのに、重みで横へ流れて、まるく盛り上がっている。
「……っ」
喉が、ごくりと鳴った。
毛布の下では、ショートパンツから伸びた片脚が、無防備に外へ出ていた。むっちりとした太ももが、朝の光に白く浮かんでいる。膝を軽く曲げているせいで、裾が少し捲れ上がって、内ももの柔らかそうな付け根まで、あと少しのところだった。
見えそうで、見えない。
見てはいけない。そう思うほど、視線が吸い寄せられた。
その時、彼女の唇が、小さく動いた。
「……ん……レン……」
心臓が、跳ねた。
「……無茶、しないの……」
寝言だった。
眉をきゅっと寄せて、むにゃりと呟く。それから、毛布を抱き寄せるように身をよじった。ぎゅむ、と腕に挟まれた胸が、形を変えて、ぷるんと揺れた。
「……っ!」
僕は慌てて壁のほうへ寝返りを打った。
顔が熱い。夢の中でまで、僕の心配をしているのか。
「……仲間、か」
胸の奥が、じんわりと温かくなった。それと同時に、この人を、そういう目で見ている自分が、少し後ろめたかった。
背後で、衣擦れの音がした。
「……ん、ふあ……」
大きなあくびと、伸びの気配。
「……レン? 起きてたの?」
「い、今起きた」
「嘘。目の下、クマ」
「気のせいだ」
「ふうん」
振り返れなかった。
彼女が体を起こす気配。ぱさ、と毛布が落ちる音。
「……ねえ」
「何だ」
「こっち、向いて」
「向かない」
「何で」
「朝だから」
「意味が分かんない」
彼女はしばらく黙っていた。それから、はっとしたように息を呑んだ。
「……あたし、変な格好で寝てた?」
「してない」
「胸元、緩んでる……」
ごそごそと、革紐を締め直す音がした。
「……見た?」
「見てない」
「本当に?」
「見て、ない」
「今、ちょっと間があった」
「ない」
「嘘が下手」
低い声。けれど、怒っているというより、どこか恥ずかしそうだった。
「……見たなら、寝てる間に見るのは、ずるいからね」
「だから、見てない」
「……ふん」
ようやく振り向くと、彼女は髪を結び直しながら、そっぽを向いていた。耳まで赤い。
「行くわよ。日の出前に着きたいの」
「ああ」
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森は、昨日より静かだった。
シルヴィアが先に立ち、足もとの土を読みながら進む。
「こっち。小さな足跡が、散ってる」
「散ってる?」
「群れで動いてたなら、足跡は揃うの。でも、これはばらばら。何かから逃げて、散った跡」
しばらく行くと、木々の間に、崩れた枝の山があった。
巣だった。
枝と蔓で組まれた簡素な寝床が、いくつも踏み潰されている。
「ゴブリンの集落ね。三十匹はいたはず」
「それが、一晩で」
「ううん。数日前。血の跡が、乾いてる」
僕は、残骸の一つを見た。
枝の端が、黒く焦げていた。
獣の爪や牙の痕じゃない。炎のような、でも火事とも違う。表面だけが、薄く炭になっている。
「焼け焦げ……」
「何かが、ここを襲った。でも、獣じゃない」
シルヴィアの声が硬くなった。
視線が、森の奥、北東に向いている。
「……坑道は、あっち」
「ああ」
「近いわね」
「引き返すか」
「ううん。あんたが探してるものは、きっとこっち」
彼女は一度、深く息を吐いた。
「あたしが前に出る。レンは、後ろ」
「分かった」
その背中が、少しだけ小さく見えた。弓を握る手が、白い。
けれど、足取りは、止まらなかった。
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声は、倒木の根元から聞こえた。
きゅい、きゅい。
細くて、か細い。昨夜、窓から聞こえたものと同じだった。
僕は片手を挙げて、シルヴィアを止めた。
「待ってくれ。ここからは、僕が」
「危ないわよ」
「威嚇されたら、すぐ下がる。でも、近づく前に観察したい」
「……分かった。何かあったら、引っ張るから」
倒木の洞を、遠くから覗いた。
暗がりに、小さな影があった。
ゴブリンの幼体だ。人間の子どもより、ひと回り小さい。緑がかった灰色の肌。大きな耳。丸く見開いた、金色の目。
その右腕に、深い傷があった。
肘から手首にかけて、ただれた線。血の黒ずみ。焦げた皮膚の縁が、まくれ上がっている。
「ぎ、ぎい!」
僕の足音に気づいて、幼体が牙を剥いた。
小さな体が、洞の奥へずりずりと後ずさる。傷ついた腕を庇いながら。
僕は、足を止めた。
距離は、八歩。
ここから先は、踏み込まない。
そして、見た。
目の奥が疼いた。【生態眼】を開けば、きっと全部分かる。何を怖がっているか。何が足りないか。
でも、使わない。
使わなくても、見えるものがある。
幼体の目は、僕を見ていなかった。
僕の背後。森の奥。そのさらに向こう。
見ているのは、「何か」を探している目だ。
鼻が、ひくひくと動いている。空気の匂いを、何度も、何度も嗅いでいる。
「……群れを、探してる」
「え?」
後ろで、シルヴィアが小さく聞いた。
「威嚇してるのは、僕が怖いからじゃない。群れの匂いがしないのが、怖いんだ。仲間の匂いを探して、見つからなくて、混乱してる」
「だから、攻撃的になる」
「ああ。安全な場所が、分からなくなってる」
僕は、ゆっくりと膝をついた。
目線を、幼体と同じ高さに下げる。
懐から、干し肉を取り出した。昨夜、シルヴィアがくれたものの残りだ。
地面に、そっと置く。
それから、後ろへ、三歩下がった。
「何もしない」
声に出した。通じなくても、いい。
「ここで、待ってる」
「レン」
「待つのが、僕の仕事だ」
シルヴィアが、小さく息を吐いた。
「……あたしも、待つ」
二人で、そこに座った。
風が、枝を揺らす。遠くで、鳥が一羽だけ鳴いた。
幼体は、動かなかった。
僕も、動かなかった。
時間が、とても長く感じた。
ポッチを見ていた、あの三日間に似ている。動かないものを、ただ見る。何かを待つために。
見ているだけの時間は、もう怖くなかった。
やがて。
ぎ、と小さな声がした。
幼体が、洞から、ほんの少しだけ顔を出した。
干し肉を、じっと見ている。
それから、僕を見る。シルヴィアを見る。
おそるおそる、傷のない左手を、伸ばした。
指先が、肉に触れる。
引っ込める。
また伸ばす。
つかんだ。
ぱくり、と一口。
幼体の目が、まん丸になった。
「……食べた」
シルヴィアが、囁いた。
「ああ」
「やったわね」
「まだだ。傷を見ないと」
僕は、ゆっくりと立ち上がった。
「シルヴィア。薬草を」
「持ってきたわ。ほら」
彼女が革袋から取り出したのは、乾いた草の束と、小さな壺だった。
「煎じ薬は作れないけど、傷口を洗って、潰した葉を当てるくらいなら」
「頼む。僕が近づくと怖がる。君のほうが、動きが静かだ」
「任せなさい」
彼女は、そっと膝をついて、洞へ近づいた。
その姿勢が、とても綺麗だった。
背筋を伸ばして、体をほとんど揺らさずに、すう、と距離を詰めていく。
しゃがんだ拍子に、ショートパンツが太ももに食い込み、むっちりと盛り上がった肉が、朝の光に白く輝いた。胸元は、前屈みになるたびに、ゆさ、と重たげに揺れた。
――今は見るな。
僕は目を逸らして、幼体のほうだけを見ていた。
「大丈夫よ。痛いのは、すぐ終わる」
低く、柔らかな声。
彼女は水筒の水で、傷口を洗い、薬草を貼って、清潔な布を巻いた。
幼体は、びくびくと震えながらも、逃げなかった。
最後に、布の端をきゅっと結ぶと、彼女は幼体の頭を、ぽん、と撫でた。
「ほら。もう大丈夫」
幼体が、きゅい、と鳴いた。
さっきまでの威嚇の声とは、違う音だった。
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洞の前に、並んで腰を下ろした。
幼体は、僕とシルヴィアの間に、ちょこんと座っている。干し肉をちびちびと齧りながら。
「……この子、育てるの?」
「迷ってた」
僕は、正直に言った。
「ポッチだけで精一杯だ。確認訪問まで、あと五日もない。二匹目を育てる余裕なんて、ない」
「うん」
「でも、置いてこられなかった」
胸の奥が、きしんだ。
あの夜の記憶が、顔を出す。扉の隙間から、見ていただけの自分。
「助けられる命を、見ているだけで終わらせたくない」
「……そっか」
シルヴィアは、膝を抱えて、幼体の頭を見下ろした。
「なら、決まりね」
「え?」
「あたしたち、二人と二匹」
彼女は立ち上がって、腰に手を当てた。
「パーティ、名前つけるわよ。ほら、冒険者って、名前がないと始まらないの」
「いきなりだな」
「いきなりでいいの。ええと」
唇に指を当てる。
一瞬、彼女の目が、遠くを見た。
何かを言いかけて、飲み込んだ。ほんの少しだけ、肩が強張る。
「……ううん。何でもない」
「シルヴィア」
「聞かないで」
静かな声だった。
僕は頷いた。
「……ポッチ探索隊、とか」
「やだ。ださい」
「じゃあ、何がいい」
「あんたのせいで、頭が回らなくなったじゃない」
彼女は、くすっと笑った。
「仮でいいわ。『影の観察隊』。どう?」
「ポッチの影と、僕の観察」
「そう。あたしは、そこに混ぜてもらう」
幼体が、きゅい、と鳴いた。
「ほら、この子も賛成だって」
「賛成してるのか、それ」
「してるの」
「じゃあ、決まりだ」
僕は、手を差し出した。
彼女は、一瞬だけ目を丸くして、それから、がしっと握り返した。
「よろしく、隊長」
「隊長は、やめてくれ」
「却下」
「……よろしく、シルヴィア」
「よし」
彼女の手は、温かくて、少しだけ荒れていた。
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宿へ戻ったのは、昼前だった。
幼体は、僕が抱えた布袋の中に収まっていた。最初は暴れたけれど、シルヴィアが歌うように鼻歌を聞かせると、おとなしくなった。
地下の食料庫に、ポッチがいた。
樽の影の中から、灰青色の体がぬるりと出てくる。
幼体が、袋の中から顔を出した。
「ぎ……」
警戒の声。
ポッチは、動かなかった。
ただ、影の縁に、じっと留まる。近づきもしない。離れもしない。
幼体が、そろそろと袋から出てきた。
ポッチとの距離、三歩。
鼻をひくつかせる。耳を動かす。
ポッチが、ぷるん、と一度だけ揺れた。
「……挨拶、してる」
「分かるの?」
「分からない。でも、そう見える」
幼体は、きゅい、と小さく鳴いて、それから、疲れ果てたようにその場に丸まった。
数分もしないうちに、寝息が聞こえてきた。
「寝ちゃった」
「安心したんだな。やっと」
シルヴィアが、隣でそっと笑った。
その夜。
僕は、二匹の観察記録を、地下の灯りで書いていた。
幼体は、時々うなされて、小さく鳴く。傷が痛むのだろう。
ポッチが、動いた。
ずる、と影の中から体を伸ばし、幼体のそばへ近づいていく。
「ポッチ?」
灰青色の体が、幼体の右腕の傷に、そっと触れた。
覆うように、包むように、広がっていく。
冷たいはずなのに、幼体の呼吸が、少しずつ、深く、穏やかになっていった。
びくびくしていた小さな体から、力が抜ける。
「……これは」
息を呑んだ。
群れを失った幼体。
寄り添うポッチ。
その二つが、何かの条件に繋がりそうな気がした。
けれど、言葉にはならなかった。
ただ、指先が、メモに触れて止まった。




