第12話 名前のない小さな手
幼体の熱が上がったのは、夜明け前だった。
「ぎ……ぎ……」
苦しげな声で目が覚めた。地下の食料庫に駆け下りると、樽の裏で小さな体が丸まって震えている。
額に手を当てた。熱い。
「シルヴィア!」
「聞こえてる」
階段の上から、もう足音が降りてきていた。眠そうな顔のまま、手には水桶と布がある。起きるのが早い。
「傷は?」
「今、見る」
巻いた布をほどく。
火傷のような傷の縁が、赤く腫れていた。昨日より熱を持っている。化膿しかけていた。
「手持ちの薬草じゃ足りないわね」
「森にあるか?」
「ある。ただ、北東とは逆の斜面よ。急げば昼までには戻れる」
彼女はすでに弓を肩に掛けていた。
「あたしが採ってくる。あんたはここで冷やして」
「頼む」
「……うん」
彼女は一瞬だけ、嬉しそうな顔をした。
「無茶しないで。生態眼も」
「分かってる」
「本当に?」
「本当だ」
「よし」
階段を駆け上がる足音が、あっという間に遠ざかった。
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濡れた布を絞り、幼体の額と首に当てる。
地下の石床は冷たい。熱を逃がすには、いい場所だった。
「大丈夫だ。ここにいる」
小さな胸が、速く上下している。
目の奥が疼いた。生態眼を開けば、熱の原因も、傷の深さも、一瞬で分かるかもしれない。
「……だめだ」
奥歯を噛んで、堪えた。
今できることは、冷やすこと。水を飲ませること。それと、見ること。
肉眼で、見る。
傷の縁に、顔を近づけた。
焦げた皮膚の縁。赤く腫れた肉。その境目に、何かがあった。
細い線だ。皮膚の下に透けるような、薄い筋。
円と、線の重なり。
「……これ」
ポッチの体に浮かんだ刻印と、よく似ていた。
ずっと薄い。見ようとしなければ、見落とす程度の痕だ。けれど、傷の縁をぐるりと囲むように走っている。
背筋が、冷えた。
偶然か。それとも、この傷をつけた何かが残したものか。
僕はメモに、慎重に形を写した。
『幼体の傷縁に刻印状の筋。坑道の木枠・ポッチの体表と類似』
意味は、まだ分からない。
そこへ、影が動いた。
樽の陰から、ポッチがずるりと這い出してくる。
「ポッチ?」
幼体のほうへ、ゆっくりと近づいた。
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僕は、手を止めた。
ポッチを止めない。ここで割り込んではいけない、と思った。
ポッチは幼体の腕の傷に触れる直前で、ぴたりと止まった。
そして、冷たい体を、傷の上にそっと広げた。
覆うように。包むように。
幼体の呼吸が、少しずつ、ゆっくりになっていく。
「……冷やしてるのか?」
違う、と思った。
濡れ布のほうが、よほど冷たい。ポッチの体温はそこまで低くない。
それなのに、幼体の強張りが解けていく。
僕は、記録帳を開いた。
『朝。幼体、発熱。ポッチ自発的に接近。幼体の呼吸、深くなる』
時刻を書き、砂時計をひっくり返す。
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その日の午後、ずっと記録を取り続けた。
ポッチの位置。幼体との距離。幼体の様子。
『正午。幼体、浅く眠る。ポッチ、三歩の距離に留まる』
『一刻後。幼体、うなされて鳴く。ポッチ、すぐ傍へ移動。鳴き声が止まる』
『二刻後。幼体、寝息が落ち着く。ポッチ、ふたたび三歩に戻る』
並べて眺めた。
ポッチは、いつも寄り添っているわけじゃない。
幼体が不安で鳴いた時だけ、近づいている。落ち着いたら、離れる。
しかも、その距離はいつも同じだ。三歩。近すぎず、遠すぎず。
「……見守ってる、のか」
呟いて、はっとした。
昨夜、地下で自分が言った言葉だ。
『見ているだけ』と『見守る』は違う。
もし、ポッチがそれをやっているのだとしたら。
幼体は、群れの匂いを失っていた。仲間を探して、混乱していた。
そこへ、ポッチが現れた。近づきすぎず、離れすぎず、鳴けば寄ってくる存在が。
「群れの……代わり?」
声に出してみて、まだ足りないと思った。
仮説の入り口だ。確かめることは、山ほどある。
でも、確かに一歩進んだ。
「まだ決めつけるな」
自分に言い聞かせて、メモの端に書いた。
『仮説:群れを失った個体は、「群れの代わり」となる存在と距離を保つことで安定する? 要検証』
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昼を少し過ぎたころ、階段の上から足音がした。
シルヴィアが、息を切らして駆け下りてきた。
「採ってきたわよ!」
革袋の中には、見たことのない青い葉が、束になって詰まっていた。
「これ、熱を下げて、化膿を抑えるの。擦り潰して貼るだけ」
「ありがとう」
「走った甲斐、あった?」
「あった」
「じゃあ、手伝って。この子、暴れるかもしれないから」
二人で、傷に薬草を貼った。
幼体は、びくっと震えたが、ポッチの冷たい体が傍にあると、すぐに力を抜いた。
「やっぱり、効いてるわね」
シルヴィアが、小声で言った。
「何が」
「ポッチ。この子の傍にいると、あたしがやるより、効く気がする」
「僕も、そう思ってる」
僕は、記録帳を見せた。
彼女は、その場に座り込んで、じっくり読んだ。
読み終えて、顔を上げた。
「……ねえ、これ」
「ん」
「獣の群れでも、似たことあるわ。群れから離れた子が、年上の別の個体に懐くの。親でも兄弟でもない相手に」
「よくあるのか」
「たまにね。そういう時、懐かれたほうは、距離を一定に保ってる。近づきすぎず、遠すぎず」
「それだ」
つい、声が大きくなった。
幼体が、びくんと震える。
「あ、すまない」
「ふふ。熱くなると、すぐ声が大きくなる」
シルヴィアが、いたずらっぽく笑った。
「でも、それ、いいと思うわよ」
「そうか」
「うん。あんたの顔、生きてる」
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熱が下がったのは、その日の夕方だった。
幼体が、ぱちりと目を開けた。
金色の目が、僕を見て、シルヴィアを見て、それから、ポッチを見る。
「きゅい」
小さな、けれど確かな声だった。
「起きたわね」
「ああ。熱は?」
額に手を当てた。まだ少し温かいが、昨夜ほどじゃない。
「大丈夫そうだ」
「ごはんは?」
「干し肉の端を、ふやかして」
幼体は、傷のない左手で、器用にそれを受け取った。ぱくぱくと食べる。ポッチは三歩の距離で、静かにそれを見ていた。
その様子を眺めながら、僕はふと言った。
「名前を、つけたい」
「え?」
「いつまでも『幼体』じゃ、かわいそうだ」
シルヴィアが、目を細めた。
「何か考えてあるの」
「森で、拾った子だ。それと」
言葉を選ぶ。
「見守る、の『守り』を、取って」
「森と、守りで」
「モリ」
名前を口にしてみた。
幼体が、耳をぴくりと動かした。
「モリ」
もう一度、呼ぶ。
「きゅい」
「……気に入ったみたいね」
「そうか」
「ほら、返事した」
僕は、手を伸ばした。
今度は、幼体のほうから、小さな左手を僕の指に絡めてきた。
細くて、温かくて、少し湿っていた。
――この手を、離したくない。
そう思った。
「よろしく、モリ」
「きゅい」
シルヴィアが、横で小さく笑っていた。
「いい名前じゃない」
「ありがとう」
「あたしの案より、ずっといい」
「あれは、『影の観察隊』も悪くなかった」
「慰めなくていい」
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夜、食堂のカウンターで、宿の主人が薪を割っていた。
「ガキは起きたか」
「はい。熱は下がりました」
「そうか。……ふん」
斧を置いて、主人は声を落とした。
「なあ、お前。ここ数日、宿の周りに妙な人影がある」
「人影、ですか」
「ああ。灰色の外套。朝と夕方、通りの向こうに立ってる。何も買わず、何も言わず、ただこっちを見てる」
心臓が、跳ねた。
「ギルドの、人間でしょうか」
「知らん。だがな」
主人は、薪の山を睨んだ。
「ああいう目をした奴は、あまり好かん。お前のことを、獲物みたいに見てやがった」
「教えてくれて、ありがとうございます」
「礼はいらん。……飯は、ちゃんと食え」
ぶっきらぼうに、パンの皿を押しやられた。
食べながら、僕は考えた。
確認訪問まで、あと三日。
隠すのではなく、見せ方を決めなければいけない。
見せるのは、観察記録。モリの保護の経緯。ポッチの寄り添い。そこまでなら、嘘はつかなくていい。
隠すのは、進化の条件の核心。暗闇、冷たさ、鮮度。そして、モリの条件のこれから。
地下に戻ると、シルヴィアが、毛布を掛けたモリの傍に座っていた。
「方針、決めたの?」
「ああ」
僕は、考えを説明した。
彼女は、真剣な顔で聞いて、それから頷いた。
「分かった。記録はあたしが預かる。必要な時にだけ出すわ」
「頼む」
「ついでに、あたしの目でも見ておく。変な動きがないか」
「ありがとう」
「当たり前でしょ」
そう言ってから、彼女は小さく付け足した。
「あんたは、ひとりじゃないんだから」
胸の奥が、温かくなった。
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その夜遅く、僕は食料庫の小窓から、そっと外を覗いた。
地下の換気用の、細い隙間だ。通りの向こうまで、見通せる。
月は雲に隠れていた。
町は、静まり返っている。
その通りの向こう、街灯の届かない路地の角に、人が立っていた。
灰色の外套。深く被ったフード。
じっと、こちらを見ている。
息を殺した。
向こうは、僕に気づいていない。いや、気づいているのか。
フードの下から、薄い唇が、見えた。
笑っていた。
そして、人影は、すっと路地の闇に溶けて、消えた。
足もとで、ポッチの体が、ぴくりと動いた。
影の縁に張りついて、人影の消えた方向を、じっと見ている。
僕は、小窓から目を離した。
確認訪問まで、あと三日。
――もう、見られているのだ。




