第13話 三歩の距離
確認訪問まで、あと三日。
朝一番に、僕は地下の石床へ白墨で線を引いた。
一歩ごとに、細い目印。ポッチとモリの間の距離を測るためだ。
「今日は距離の検証をする」
「あたしは何をすればいい?」
「記録係を頼む。モリの様子と時刻を、声に出して読み上げてくれ」
「了解、隊長」
「隊長はやめろ」
「却下」
シルヴィアが砂時計の横に座り、羽根ペンを構えた。
モリは樽の脇で、毛布にくるまっていた。右腕の布は、昨日より小さくなっている。熱は下がり、金色の目に力が戻っていた。
ポッチは、床の影から静かに僕らを見ている。
「まず、二歩」
目印の上で、ポッチを移動させる。
モリの耳が、ぴくりと動いた。
「きゅ……」
「鳴いた。近すぎ、かしら」
「記録してくれ。『二歩。鳴く。耳が後ろへ倒れる』」
「はいはい」
次は四歩。
モリは、きょろきょろと周りを見回した。鼻をひくひくさせて、毛布を握りしめる。
「落ち着かない、ね」
「ああ。探してる動きだ」
五歩。
「ぎ……」
小さな声と一緒に、モリが毛布から這い出した。ポッチのほうへ、ずりずりと寄っていく。
「自分から近づいた」
「遠いと、近づく。近いと、鳴く」
僕はペンを走らせた。
最後に、三歩に戻す。
モリは、じっとポッチを見て、それから、ふう、と息を吐いて丸まった。
「……寝た」
「三歩が、一番いいのね」
「他の距離は、全部、落ち着かなかった」
三歩。
近すぎず、遠すぎず。
それは単なる数字じゃない気がした。モリにとって、「ここなら安全だ」と感じる距離が、そこにあるのだ。
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昼を過ぎて、検証は次の段階に入った。
「群れの匂い、か」
シルヴィアが、革袋から布包みを取り出した。
「実は、一昨日の朝、念のため持ち帰ってたの。巣の欠片」
「いつの間に」
「あんたがモリに餌を置いてる間。狩人の癖よ。現場のものは、拾っておく」
布を開くと、枯れた蔓と、折れた枝の切れ端が出てきた。端が黒く焦げている。
僕は、それをモリの前に、そっと置いた。
三歩のポッチを挟んで、反対側。
モリの鼻が、ひくひくと動いた。
次の瞬間。
「きゅい! きゅいっ!」
激しい鳴き声。モリが、枝の欠片に飛びつく。抱きしめるように握りしめて、ぼろぼろと涙をこぼした。
「……っ」
胸が、きしんだ。
「やめる?」
「いや。少しだけ待つ」
けれど、シルヴィアの手が、僕の袖を掴んでいた。
「待って。あたし、止めたい」
「分かってる。でも、これは確かめなきゃいけない」
「分かってるけど」
「三十秒だ。それで、反応を見る」
彼女は唇を噛んで、黙った。
モリは枝を握りしめたまま、泣き続けた。
そこへ、ポッチが動いた。
影の縁を、そっと越える。
三歩の距離を、ちょうど守ったまま、モリの正面に回り込んだ。
そして、止まった。
近づかない。触れもしない。ただ、そこにいる。
やがて、モリの嗚咽が、少しずつ小さくなっていった。
枝を握ったまま、ポッチを見上げている。
「……匂いだけじゃ、足りないのね」
シルヴィアが、ぽつりと言った。
「ああ」
僕も頷いた。
「群れの匂いは、思い出させるだけだ。安心させるわけじゃない。……むしろ、傷を開く」
「じゃあ、必要なのは」
「匂いじゃなくて、近くに『いてくれる誰か』だ」
記録帳に書いた。
『巣の欠片。反応:激しく鳴く、泣く。ポッチ接近(三歩)で沈静化』
『仮説:群れの匂いは慰めにならない。「そばにいる存在」が条件』
まだ、核心じゃない。
けれど、方向は見えた。
欠片を布に包み直して、モリの手に握らせてやった。
手放さなくていい。
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夕方、僕は記録の仕分けをしていた。
机の上に、紙束を二つに分ける。
見せる記録。モリの保護の経緯。傷の治療経過。ポッチの寄り添いの観察。
見せない記録。暗闇、冷たさ、鮮度の三条件。石の入手先。刻印の写し。
「これ、どうする?」
シルヴィアが、書き損じの紙を持ち上げた。
「ポッチの進化条件。偽の内容を書いて、わざと見せるって手もあるけど」
「偽の?」
「向こうが、条件を奪おうとした時。偽物を掴ませれば、時間が稼げる」
筋は、通っている。
けれど、僕は紙を見つめたまま、動けなかった。
「……やらない」
「どうして」
「嘘の記録は、僕が一番嫌いなものだ」
声に出して、自分でも驚いた。
「数字を出せない僕は、記録しか武器がない。その記録に嘘を混ぜたら、それは僕の見たものじゃなくなる」
「でも、守るためなら」
「分かってる。自衛にはなる。でも」
視線を上げる。
「書かないのは、嘘じゃない。見せないだけだ。そこまでは、いい。でも、偽物は書きたくない」
シルヴィアは、じっと僕を見ていた。
「……あんたらしいわね」
「面倒くさいか」
「ううん」
彼女は、くしゃりと笑った。
「そういうとこ、好きよ」
「……え」
「あ、いや、違う。人として、よ。変な意味じゃなくて」
「分かってる」
「本当に?」
「本当だ」
互いに目を逸らした。
耳の先が、赤い。
「と、とにかく!」
シルヴィアが、無理やり声を張った。
「記録は、あたしが預かる。本物は、あたしの部屋に隠すわ。誰にも見つからないように」
「頼む」
「任せなさい」
胸を叩いた拍子に、ゆさ、と大きく揺れた。
見ないように、書類の端を整えた。
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日が落ちる直前、階下から声がした。
「おい、お前ら。ちょっと降りてこい」
宿の主人だった。
声は低く、短い。ただ事じゃない。
僕とシルヴィアは、顔を見合わせた。
「モリを頼む」
ポッチの影へ向かって、小声で言った。
灰青色の体が、ぷるんと一度だけ揺れた。
階段を降りる。食堂の奥、入り口の扉の脇まで来て、足を止めた。
「出るな」
主人が、小声で止めた。
「通りの向こうだ」
扉の隙間から、そっと覗く。
夕焼けの終わりかけの路地に、人が立っていた。
灰色の外套。深く被ったフード。
「……来た」
シルヴィアが、小さく呟いた。
その顔から、さっきまでの色が消えていた。
「あたしが出る」
「待て。危ない」
「話をするだけ。あんたは、ここで見てて」
「でも」
「あたしが一番、あしらいが上手いの」
笑ってみせたけれど、握った手が、白かった。
「……頼む」
「頼まれた」
扉を押して、彼女は一人で外へ出た。
僕は、階段の影に身を潜めた。
足もとで、ポッチが影を伸ばしてくる。僕のすぐ隣、暗がりに寄り添うように。
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シルヴィアは、宿の前の石畳に立った。
背筋を伸ばし、弓を肩に掛けたまま、人物と向き合う。
「この宿に、用があるの?」
返事はない。
「ここは、あたしの知り合いが泊まってる場所。用があるなら、あたしが聞くわ」
人物は、動かない。
フードの影から、顔は見えない。
僕は、息を殺して観察した。
足もと。
立ち方に、癖がある。重心が、つま先に寄っていた。いつでも動ける立ち方だ。
手。
右手は、外套の外に出ている。けれど、左手は、外套の内側に隠れたままだ。ずっと、一度も出さない。
何かを、持っている。あるいは、何かを握っている。
そして、袖口。
夕暮れの最後の光が、袖の端を照らした。
金糸の刺繍。
翼を広げた鷲。その翼の端に、細い線が、一本多い。
「……っ」
声が漏れかけて、口を押さえた。
ギルドの、あの印だ。
僕の足もとで、ポッチの影が、ぴくりと震えた。
階段の下、別の影の中から、小さな気配が這い寄ってきた。
モリだった。
いつの間に、地下から上がってきたのか。ポッチの影の縁に、ぴたりと身を寄せる。
そして、自分から、ポッチの影の中へ、ずるりと入り込んだ。
「……モリ」
小声で呼ぶ。
返事はない。ただ、影の中から金色の目が二つ、じっと外を見ていた。
怖がっている。
けれど、ポッチの中なら、安心できる。
自分から、そう選んだのだ。
胸の奥が、じんと熱くなった。
けれど今は、それどころじゃない。
外では、シルヴィアが、一歩も引かずに立っていた。
「何も言わないなら、帰って」
人物は、ゆっくりと首を傾けた。
そして、懐から、一枚の紙片を取り出した。
宿の入り口の脇に立つ、主人のほうへ、すっと差し出す。
主人は、無言で受け取った。
人物は、それ以上何もせず、くるりと背を向けた。
足音が、しない。
石畳の上を、まるで影が滑るように、遠ざかっていく。
路地の角で、一度だけ、立ち止まった。
フードの下から、ちらりと、こちらを向いた気がした。
薄い唇が、動いた。
声は、聞こえなかった。
けれど、言葉の形は、はっきり見えた。
『また、明日』
そして、闇に消えた。
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シルヴィアは、しばらく動かなかった。
僕は階段の影から出て、彼女の隣に立った。
「大丈夫か」
「……手が、震えてる」
「見えてる」
「見ないで」
「見ない」
「……嘘ばっかり」
小さな声だった。
それでも、僕が差し出した手を、彼女は握り返してくれた。
「足音、しなかったわ」
「ああ」
「あたし、あんな歩き方、見たことない。狩人の足運びでもないし、ギルドの人間のでもない」
「袖に、あの印があった」
「見たの?」
「ああ。刻み目が、一本多い鷲だ」
彼女は、顔を上げた。
「やっぱり」
「やっぱり、って」
「あたし、知ってたかもしれない。……ううん。まだ、今は言えない」
僕は頷いた。
聞かない。聞くべきじゃない時が、ある。
「中に入りましょう」
食堂に戻ると、宿の主人が、紙片を手に立っていた。
顔色が、悪い。
「……おう」
黙って、紙を僕に差し出した。
受け取る。
折り目の硬い、薄い羊皮紙だった。
広げる。
短い文字が、数行。
僕は、最初の一行を読んで、息を止めた。
『確認訪問の日程を繰り上げる。明日、正午』




