第14話 弓を引く夜
地下の灯りの下で、僕は最後の仕分けをしていた。
明日の正午。残りは、一晩だけだ。
「見せるのは三つ」
指を折る。
「ポッチは『暗所を好む特異なスライム』として。影潜みは伏せる。モリの保護の経緯と、傷の治療記録。それと、ポッチが寄り添う行動の観察記録」
「隠すのは?」
「進化条件の核心。石の入手先。刻印の写し」
「石は?」
「木箱ごと、あたしの部屋の床下に隠すわ」
シルヴィアが、さらりと言った。
「いつの間に決めたんだ」
「さっき。あんたが書類を睨んでる間に、主人に床板を借りる話をつけたの」
「手回しがいいな」
「狩人は、巣を隠すのが得意なの」
得意げに鼻を鳴らす。けれど、すぐに僕の顔を覗き込んだ。
「で、あんたは寝る気、ある?」
「ある」
「嘘」
「……眠れる気がしないだけだ」
「正直でよろしい。じゃあ、付き合って」
「どこへ」
「裏庭。気分転換」
有無を言わせず、手首を掴まれた。
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宿の裏庭は、小さな菜園と薪置き場があるだけの空き地だった。
月は薄雲の向こうにある。壁の影が濃く、通りからは見えない。
シルヴィアは薪の山の陰から、一張りの短弓を持ってきた。
「あたしの予備。軽いから、あんたでも引ける」
「僕は戦えない」
「知ってる。撃てって言ってるんじゃないわ。構えて、見るの」
「見る?」
「狙う前に、まず相手の呼吸を見る。それが狩りの基本」
彼女は弓を僕に押しつけ、数歩下がった。
「明日、あんたは見られる側に回る。でも、そこで終わりにしないで。向こうも観察して」
「……観察」
「得意でしょ」
そう言われると、言い返せない。
僕は弓を握った。木が、手に冷たく馴染む。
「足は肩幅。重心は、真ん中。つま先に寄せない」
「寄ってる?」
「寄ってる。昨日の外套の人と、同じ立ち方」
はっとして、足を引いた。
「そう。あれは、いつでも動ける立ち方。あんたは、動かないための立ち方を覚えて」
「動かない?」
「どっしり構えるの。相手が何をしても、慌てない顔でいられるように」
僕は息を吐いて、膝の力を抜いた。
それから、ふと思い出した。
「あの人、足音がしなかった」
「ええ。狩人の忍び足は、足の裏を使うの。踵から下ろさず、爪先から体重を乗せる」
シルヴィアが、土の上を歩いてみせた。
本当に、音がしなかった。小柄な体が、猫のように滑る。
「でも、昨日のあれは、これより上」
「上?」
「呼吸まで消してた。歩く時は、普通、息が乱れるの。それがなかった。……人間の技じゃない、って思った」
声が、少し低くなった。
「ただ者じゃないわよ」
「分かった」
彼女は、無意識なのか、左手首をさすっていた。
袖口に隠れる位置に、うっすらと古い傷の筋が見えた。
「それ」
「あ」
彼女は慌てて袖を引き下ろした。
「古い傷。気にしないで」
「……ああ」
「いつか、話すから」
「待ってる」
「……ありがとう」
小さく、そう返ってきた。
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「構え、見せて」
言われるまま、弦に指をかけて引いた。
ぎ、と木が鳴る。
「肘が下がってる。肩も上がりすぎ。あー、見てられない」
ため息のあと、足音が背後に回ってきた。
「じっとしてて。直すから」
「頼む」
「動かないでよ」
背中に、体温が近づいた。
彼女の腕が、僕の両脇から伸びてくる。右手が僕の肘を下から支え、左手が、弓を握る僕の手に重なった。
小さな手だった。指の腹が硬い。弦を引き続けてきた手だ。
「肩、落として」
耳のすぐ後ろで、囁かれた。
息が、首筋にかかった。熱い。薬草と、汗と、夜露の匂いが混じっている。
「力、抜いて。もっと」
「抜いてる」
「抜けてない。あんた、すぐ全身に力が入るのよ」
背中を、そっと押された。
その瞬間、背骨に沿って、柔らかいものがぴたりと添った。
革の胸当て越しだ。けれど、押し当てられた重みは、はっきり分かった。ずしりと、あたたかい。僕が呼吸するたびに、その丸みが、背中の上でゆっくりと形をずらす。彼女が息を吸えば、ぐっと押し返してきて、吐けば、とろけるように沈んだ。
革紐が、きゅ、と軋んだ。
その下で、とくん、とくん、と、彼女の鼓動が伝わってくる。
……速い。
僕と同じくらい、速かった。
「……な、何」
「何も」
「今、固まったでしょ」
「構えを直されてるだけだ」
「そ、そうよ。指導。これは指導」
自分に言い聞かせるような声だった。
「引くわよ。せーので」
「ああ」
「せー、の」
二人で、弦を引いた。
弓が、きりきりと撓る。腕が震えた。僕の体重が、一瞬、後ろへ傾く。
背中が、彼女の胸にもっと深く埋まった。
「あ……」
小さな声が、耳の裏で零れた。
「重い?」
「ち、違う。いいから前を見て」
「分かった」
引き絞ったまま、数秒。
そのとき、肘を支える彼女の右手が、ずるりと滑った。
「あっ」
支えを失った僕の腕が、勢いよく後ろへ戻る。
肘が、彼女の脇腹をかすめて、その先へ。手の甲が、革のショートパンツの上端から、太ももの外側を、すうっとなぞった。
布越しじゃない。
汗に湿った、素肌の感触だった。
「ひ……ぁ……っ」
耳元で、息が震えた。
悲鳴じゃない。
喉の奥から、とろりと溶けるように漏れた吐息だった。長く、甘く、最後がかすれて消える。
彼女の体が、びくんと跳ねた。僕の背中に押しつけられた胸が、ぐにゃりと潰れて、その熱が、一瞬、強くなる。
「……っ」
「…………」
「わ、悪い」
「うごっ、動かないで!」
「でも」
「今、動くと、もっと、当たる……」
消え入りそうな声だった。
僕は、全身を石のように固めた。
背中に当たる胸の鼓動。耳にかかる、乱れた息。太ももの上で、彼女の脚が、小さくわなないている。
どれくらい、そうしていただろう。
「……もう、いい」
ぱ、と彼女が離れた。
涼しい夜気が、背中に流れ込んでくる。急に寒いと感じた。
振り向くのが、怖かった。
けれど、振り向いた。
シルヴィアは、両手で口を押さえて立っていた。
月明かりの下で、頬が真っ赤だった。潤んだ目が、僕を睨んでいる。肩が、上下に大きく波打っていた。
「今の」
「聞いてない」
「それ、あたしの台詞でしょ!」
「聞こえなかった」
「聞こえたでしょ! 顔に出てる!」
「出てない」
「出てる!」
地団駄を踏む彼女の外套が、ふわりとずれた。
肩から、白い細紐が一本、するりと滑り落ちた。
下着の肩紐だった。
彼女が気づいて、慌てて押さえる。けれど、一瞬、鎖骨の下の、柔らかな肌の影が見えてしまった。
「見るなっ!」
「見てない」
「嘘つき!」
「嘘じゃない、不可抗力だ」
「なら、ほら、後ろ向きなさい!」
背中を向かされた。
背後で、ごそごそと布を直す音。
しばらくして、大きな溜め息が聞こえた。
「……弦が、変なところに当たったの」
「弦じゃなかった」
「当たったの!」
「分かった」
「分かってないでしょ」
「分かってる」
それきり、二人とも黙った。
草の匂いと、遠い虫の音が、夜の底に残っていた。
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「ねえ」
しばらくして、彼女の声が、静かになった。
並んで、薪の山に腰を下ろしていた。
「さっきの話、ちゃんとしておく」
「さっきの?」
「あんたが、一人で背負いそうな顔をするたびに」
彼女は、膝を抱えた。
「あたしは、困るの」
「困る?」
「見てられないってこと。守れなかった時のことを、思い出すから」
短い言葉だった。
それ以上は、続かなかった。
「でも、今は違う。あんたは、一人で立とうとして、でも、ちゃんと『頼む』って言える。それを、あたし、見たから」
「……ありがとう」
「お礼はいらない。明日、ちゃんと見る側に立って」
「ああ」
「見られる前に、見てやりなさい」
挑発するような口調だった。けれど、横顔は優しかった。
僕は、さっき教わった立ち方を思い出す。
動かないための立ち方。慌てない顔。
「やってみる」
「うん」
その時、視界の端で、何かが動いた。
宿の向かいの屋根の上。
月が雲を抜けた瞬間、瓦の稜線に、人の形のような影が一つ、立っていた。
灰色の外套。
僕が息を呑む前に、シルヴィアが、膝の上の弓を静かに掴んだ。
「……いる」
「見えてる」
「撃たない。刺激したくない」
「ああ」
人影は、しばらくこちらを向いていた。
そして、雲が月を隠した次の瞬間、跡形もなく消えていた。
「……やっぱり、人間じゃないわ」
「確証はない」
「あたしの勘は、外れないの」
彼女は、それ以上は何も言わなかった。
僕は、弓を握り直した。
明日は、見られる側じゃない。
見る側に、立つ。
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夜明けが、遠くの空を薄く染めていた。
結局、眠れなかった。
けれど、不思議と、頭は冴えていた。
地下では、ポッチとモリが、並んで影の中にいた。三歩の距離で。
「行ってくる」
小声で告げて、階段を上がる。
食堂では、シルヴィアがすでに待っていた。
弓は持たず、いつもの革装束に外套を羽織っている。髪をきちんと結い直して、表情は凛としていた。
「準備は?」
「できてる」
「顔、いいわよ」
「そうか」
「うん。生きてる」
並んで、玄関の扉の前に立つ。
宿の主人が、カウンターの奥から、黙って頷いてきた。
その時。
馬車の車輪が、石畳を軋ませる音が聞こえてきた。
通りの向こうから、ゆっくりと、近づいてくる。
蹄の音が、止まった。
扉の外で、何かが降り立つ気配がした。
――こつ、こつ、こつ。
靴音が、扉に向かって歩いてくる。
僕は、握りしめた手の中で、爪を立てた。
隣で、シルヴィアが、小さく息を吸う。
扉の向こうで、足音が、止まった。




