第15話 確認担当者
扉が、開いた。
朝の光が、食堂の床に細長く流れ込む。その中に、一人の男が立っていた。
灰色の外套ではなかった。
仕立ての良い紺の上着に、磨かれた革靴。年は四十代半ば。几帳面に撫でつけた髪と、薄い眼鏡。腕に革の書類鞄を抱えている。
「育成師ギルド王都本部、貸与管理課のロウだ。レン・アシュベル殿は」
「僕です」
「ふむ」
ロウは、僕の頭から爪先まで、ゆっくりと視線を這わせた。
値踏みする目だ。審問の広間で、何度も向けられた。
けれど、今日は違った。
僕は、見ていた。
最初に気づいたのは、時刻だった。
「正午、と書状にありました」
「ああ。繰り上げの通知に、時刻の指定まではしていなかったはずだが」
「昨日の紙には、確かに『明日、正午』と」
「……そうだったか。些細なことだ」
些細じゃない。
夜明けに来た。正午まで、まだ何時間もある。僕らが準備を終える前に踏み込みたかった。そう読める。
「立会人として、同席させてもらうわ」
シルヴィアが、半歩前に出た。
「狩人のシルヴィア・クライン。この件の記録係よ」
「冒険者に立ち会いを許可した覚えはない」
「規程では、被貸与者は証人を一名同席させられる。違う?」
ロウの眉が、ぴくりと動いた。
「……よく知っているな」
「あんたが知らないなら、教えてあげてもいいわよ」
「結構だ」
低い声。ほんの少し、棘があった。
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食堂の隅の卓に、三人で向かい合った。
宿の主人は、カウンターの奥で黙々と皿を拭いている。聞き耳を立てているのは、背中で分かった。
ロウが、鞄から書類を取り出した。
僕は、観察を始めた。
呼吸。浅い。吸う息が胸の上のほうで止まり、吐く息が短い。緊張している人間の呼吸だ。
視線。僕の顔を見ない。見ているのは、僕の肩越し。食堂の奥、地下へ続く階段の方角だった。
手。書類を揃える指先が、わずかに震えている。紙の端が、小刻みに鳴っていた。
そして、汗。
朝の食堂は、肌寒いくらいだった。それなのに、彼のこめかみには、薄く汗が光っていた。
――この人は、怯えている。
僕に、ではない。
何か別のものに。
「では、始めよう」
ロウが咳払いをした。
「貸与個体E-4471の現況を確認する。個体をここへ」
「少し、お待ちください」
僕は立ち上がった。
階段を降りながら、深呼吸をする。
動かないための立ち方。慌てない顔。昨夜、教わったことを、一つずつ思い出した。
地下では、ポッチとモリが、三歩の距離で待っていた。
「ポッチ。来てくれ」
灰青色の体が、影を離れて僕の腕に収まった。
「モリは、ここで待っていてくれ。すぐ戻る」
「きゅい」
小さな返事。
その金色の目は、僕の肩越しの階段を、不安そうに見上げていた。
「大丈夫だ。三歩の距離は、変わらない」
そう言って、僕は階段を上がった。
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ポッチを卓の上に置くと、ロウの目が、すっと細くなった。
「これが、E-4471か」
「はい。名前は、ポッチと付けました」
「名前など必要ない。個体番号で結構」
「僕にとっては、必要です」
静かに言った。
ロウは、何か言い返しかけて、やめた。
ポッチは卓の上で、ぷるんと一度だけ揺れ、それからじっと動かなくなった。光の当たる場所を避けて、卓の影の端に寄っている。
「暗所に寄る習性があるのか」
「はい。光を避けます。通常のスライムとは正反対です」
「ほう」
「観察記録があります」
僕は、見せる分の紙束を差し出した。
ロウは、それを手に取った。ぱらぱらと捲る。字は汚い。けれど、日付と時刻と状態が、びっしりと並んでいる。
読み進めるうちに、彼の指が止まった。
「……保護個体の記録もあるな」
「はい。森で、傷ついたゴブリンの幼体を保護しました。右腕に火傷状の傷があり、化膿しかけていたため、薬草で処置しています」
「野生個体を、無届けで保護したと」
「負傷した野生個体の一時保護は、育成師の裁量で認められています。届け出は、治癒後でも可能なはずです」
「……」
ロウは、黙った。
その視線が、また階段のほうへ流れた。
「そのゴブリンは、どこに」
「地下です。安静にさせています」
「見せてもらえるか」
「負傷が癒えていません。人の目を怖がります。今、無理に引き出せば、傷が開きます」
「記録によれば、熱も出したとあるな」
「はい。昨日、下がったばかりです」
「……そうか」
ロウは、それ以上は言わなかった。
けれど、一瞬だけ、ほっとしたような息をついたのを、僕は見逃さなかった。
――見たくないのか。
幼体を、見たくない。
いや。見るのが、怖いのか。
その時、僕の胸の奥で、小さな引っかかりが、ひとつ、解けた。
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「単刀直入に言おう」
ロウが、書類を卓に置いた。
「ギルドは、E-4471の返却を求める」
予想していた言葉だった。
それでも、胃の底が、ひやりと冷えた。
「理由は」
「貸与個体の管理上の理由だ」
「僕は、半年以内に成果を出せば資格を保持できると、審問で言われました。その猶予は、まだ五ヶ月以上残っています」
「状況は変わった」
「何が、ですか」
「上の判断だ」
「上、とは」
「君が知る必要はない」
言葉が、冷たく落ちた。
けれど、僕はもう、怯えていなかった。
指先で、卓の下の膝を、そっと押さえる。
静かに、息を吐いた。
「では、書面を見せてください」
「何?」
「ギルドの貸与規程では、保留期間中の貸与個体の回収は、被貸与者の違反が確認された場合、もしくは被貸与者本人の申し出がある場合に限られます。僕は、そのどちらにも該当しません」
「……」
「返却を命じる正式な書面があるなら、拝見します。なければ、この要求は、規程外です」
食堂が、静まり返った。
ロウの目が、僕を睨んだ。
「君は、規程を暗記しているのか」
「育成師養成所の三年間、読み込みました。数字が出せない代わりに、決まりだけは、全部覚えています」
「……っ」
ロウの喉が、動いた。
「それ、書面はあるの?」
シルヴィアが、頬杖をついたまま、にこりと笑った。
「あたしは立会人だから、見ておかないと。記録に残さなきゃいけないでしょ? 『ギルド本部の指示により、規程に基づかない返却要求が行われた』って」
「待て、そういうつもりでは」
「じゃあ、どういうつもり?」
「……」
彼の額の汗が、一筋、頬を伝った。
「上の指示だ」
絞り出すような声だった。
「私は、命じられただけだ。書面は、まだ」
「まだ?」
「……用意が、間に合っていない」
言ってから、ロウはしまったという顔をした。
沈黙が、落ちた。
「つまり、書面のない指示で、動いているんですね」
「……」
「それは、誰の指示ですか」
「言えない」
即答だった。
ためらいも、取り繕いもない。ただ、恐怖が、そこにあった。
僕は、その顔を見つめた。
この人は、悪人じゃない。
命じられて、断れなくて、ここに来た。
それでも、彼を責める気にはなれなかった。僕が責めたい相手は、別にいる。
「分かりました」
静かに、頷いた。
「ポッチは、お渡ししません。規程に基づく書面が届くまでは」
「……強情だな」
「見たものを、信じているだけです」
ロウは、長い溜め息をついた。
肩が、ふっと落ちた。
「……分かった。今日は、引き上げる」
「ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いはない。次回は、一月後の予定だ。その時は、書面を持参する」
彼は立ち上がり、書類をまとめた。
袖が、卓の端に触れて、ふわりと捲れた。
覗いた袖口に、金糸が光った。
鷲と、その翼の端の、余分な一本の線。
やはり、そうだ。
この人も、あの印の下にいる。
「ひとつ、聞いてもいいですか」
「何だ」
「昨日の夕方、灰色の外套の人物が、この宿に来ました。ギルドの方ですか」
その瞬間だった。
ロウの顔から、すうっと血の気が引いた。
ほんの一秒。
けれど、確かに見た。
「……知らん」
声が、掠れた。
「そんな者は、私の管轄にはいない」
「ギルドの紋章を、袖につけていました」
「知らんと言っている!」
初めて、声が荒れた。
宿の主人の皿を拭く手が、止まった。
ロウは、はっとして、咳払いをした。
「失礼。……私は、これで失礼する」
足早に、扉へ向かった。
その背中が、震えていた。
扉が閉まる直前、彼は一度だけ、振り返らずに、小さく呟いた。
「……あの方には、関わるな」
扉が、閉まった。
馬車の車輪が、石畳を遠ざかっていく。
食堂に、静けさが戻った。
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「……やったじゃない」
最初に口を開いたのは、シルヴィアだった。
椅子に崩れ落ちるように座って、大きく息を吐いている。
「心臓、止まるかと思った」
「僕もだ」
「あんた、堂々としてたわよ。規程を暗記してるなんて、聞いてない」
「言ってなかったか」
「言ってない!」
「養成所では、それしか取り柄がなかったんだ」
「取り柄が、あったじゃない」
彼女は、くしゃりと笑った。
安堵が、体の中に、じわじわと広がっていく。
足が、ふるえた。
膝に力が入らない。僕は、卓に手をついた。
「大丈夫?」
「……少し、休む」
「あんたがへたり込むの、初めて見た」
「初めて、じゃない」
「そう?」
「昔は、よくへたり込んでた」
「ふうん」
シルヴィアが、肩を寄せてきた。
そっと、僕の頭に、手を置く。
「でも、今日のは違うわ。やり切った後の、へたり込み」
「……そうか」
「そうよ」
温かい手だった。
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主人が、カウンターから、ことりと皿を置いた。
湯気の立つ、粥だった。
「食え。顔が白い」
「ありがとうございます」
「礼はいい。……あの男」
主人は、窓の外を顎でしゃくった。
「顔色が悪かったな。幽霊でも見たような面だった」
「はい」
「お前の言った『灰色の外套』。あれが、怖かったんだな」
「たぶん」
「ふん。面倒な連中に、目をつけられたもんだ」
そう言って、彼はぶっきらぼうに付け足した。
「だがな。お前、いい面になったぞ」
「え」
「初めて来た時の、ひよっこの面じゃねえ」
それだけ言って、主人は皿洗いに戻った。
シルヴィアが、小さく笑っていた。
僕は、粥をすくった。
温かい。味が、よく分かった。
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地下に戻ると、モリが毛布から這い出して、僕の足にしがみついてきた。
「きゅい、きゅいっ」
「ただいま。大丈夫だ」
小さな頭を撫でた。
ポッチは、いつもの三歩の距離で、影の中に戻った。
宿の外に出たのは、昼を少し過ぎてからだった。
通りは、いつもの昼下がりだった。荷車の軋む音、子どもの笑い声。
その喧騒の向こう、路地の角に、一瞬だけ、灰色が揺れた気がした。
「……いた?」
シルヴィアが、小声で聞いた。
「分からない。見えた気がしただけだ」
「あたしも」
彼女の目が、鋭くなった。弓を持たない手が、背中のほうへ伸びかけて、止まる。
「でも、気配だけ、残ってる」
「ああ」
足もとで、何かが動いた。
ポッチの影が、石畳の上に、ぬるりと伸びていた。
僕の足もとから、ゆっくりと。
その先端が、一方向を指していた。
北東。
森の方角。坑道の、さらに奥。
「……ポッチ」
呼んでも、影は動かなかった。
ただ、じっと、遠くを向いている。
まるで、何かが、そこから呼んでいるように。




