第6話 眠る黒、揺らぐ温度
四日目の朝。ポッチは、まだ動かなかった。
冷えた板の上で、黒い塊のように沈んでいる。石を置いても、見向きもしない。
僕は記録帳を開いた。
『四日目。摂食なし。移動なし。体表の刻印、明滅は約十呼吸に一度』
数える。
とく、とは鳴らない。代わりに、円と線の模様が、ぼう、と淡く浮かんでは消える。
十呼吸。……また、十呼吸。
「規則的だ」
声に出して、メモに足す。
石の残りは七個。木箱の中で、暗所のまま保管している。ポッチが食べないなら、減りはしない。でも、鮮度は落ちていく。
進化には時間がかかる。分かっていたことだ。
けれど、動かない相手を一日中見ているのは、思っていたより堪えた。
「……待つしかないのか」
返事はない。ぷるりとも揺れない。
それでも、僕は椅子を引いて座り直した。
動かないものを、見る。
それは昔の僕が一番嫌った時間だった。クローゼットの中で、ただ見ていた、あの夜に似ている。
でも今は、違う。
見ているのは、何かを待つためだ。
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異変は、五日目の昼に来た。
窓の布の隙間から、熱が入り込んでくる。
「……暑い」
季節の変わり目だ。辺境の春は、急に暖かくなる。
屋根裏は、屋根瓦にいちばん近い。昼を過ぎるころには、息が詰まるほど蒸してきた。
濡れ布で床を拭く。北側の板は、すぐに温んだ。
そして、ポッチの刻印が乱れた。
ぼう、ぼう、ぼ、ぼう。
十呼吸に一度だったはずの明滅が、不規則に跳ねている。
「まずい」
水差しの水を板に撒く。濡れ布を重ねる。窓の布を二重にする。
効果は、ほんの数分だった。
「だめか……」
額から汗が落ちた。拭っても、止まらない。
頭の奥で、声がする。
――使えばいい。
生態眼を開けば、ポッチにとっての最適な温度が見える。どこまで冷やせばいいのか、あと何度の差なのか。
目の奥が、じんと熱を持った。
「……だめだ」
奥歯を噛む。
今は、使わない。この静止期の間、あいつの変化を見届けられなくなったら、本末転倒だ。
それに、シルヴィアの声が蘇る。
――頼ってくれると、嬉しい。
僕は、記録帳を閉じた。
「……聞きに行くか」
誰に?
階下にいる、一人だけだ。
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宿の一階は、昼どきの食堂だった。
カウンターの奥で、禿げ頭の主人が鍋をかき回している。
「あの」
「あん? 飯ならもう少し待て」
「いえ。お願いがあります」
主人の手が止まった。
「……お願い、だと?」
「冷たくて、暗い場所を、貸してもらえませんか」
言い切った。
胸が、どくどくと鳴った。頼むのは、苦手だ。断られたら、と考えるたびに喉が詰まる。
主人は、しばらく僕の顔を見ていた。
「あのスライムか」
「はい。今、屋根裏の温度が上がって、冷やせません。このままだと、あいつの状態が崩れます」
「ふん」
主人はお玉を置いた。
「お前、顔が真っ赤だな。ちゃんと寝てるのか」
「……すみません」
「謝るな。ったく」
ぼりぼりと頭をかいて、彼は店の奥を顎でしゃくった。
「地下に、食料庫がある。年中ひんやりしてる。窓はない、灯りもない。真っ暗だ」
「それは」
「使いたいなら使え。ただし、肉と野菜の棚には触るな。その奥の、空の樽の裏が空いてる」
「ありがとうございます!」
「大声出すな。鍋が揺れる」
ぶっきらぼうに言ってから、彼はぽつりと付け足した。
「……あの坑道の話、続きを教えてやる。昔は人が入ってたらしい。何を掘ってたかは、知らんがな。ある時から、誰も入らなくなった」
「いつからですか」
「さあな。爺さんの爺さんの代だ」
それ以上は、口をつぐんだ。
僕は深く頭を下げた。
数字も、鑑定もない。ただ記録と、頼みごとだけ。
それでも、動いてくれる人がいた。
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地下は、ひやりとしていた。
階段を降りた途端、肌が粟立つ。石の壁。土の匂い。真っ暗だ。
樽の裏に、人ひとりが座れるくらいの空間があった。
石の床は、冷たい。手を置くと、屋根裏の板とは比べものにならなかった。
「ここだ」
僕は慎重にポッチを抱えて運んだ。
そっと、石の床に下ろす。
ぷるん、と。
一度、体が揺れた。
それから、刻印が浮かんだ。ぼう、と淡く。十呼吸ごとに、ぼう、と。
乱れていたリズムが、静かに戻っていく。
「……よかった」
全身の力が抜けた。壁にもたれて、ずるずると座り込む。
暗い。冷たい。鮮度の落ちない石は、木箱ごと隣に置いた。
条件が、揃っている。
屋根裏よりも、ずっと。
「お前、安心してるのか」
返事はない。でも、黒い体が、さっきより深く沈んで見えた。
それが答えだと、思った。
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夕方まで、僕は地下に居続けた。
記録帳を膝に置き、蝋燭の代わりに小さな布越しの灯りだけを頼りに、観察を続ける。
十呼吸、明滅。十呼吸、明滅。
三十回ほど数えたころ、ふと、気づいた。
――十呼吸、ではない。
少しずつ、短くなっている。
十呼吸。九呼吸。九呼吸。八呼吸。
進化が、近づいている。
そして、もうひとつ。
明滅のリズムに、癖があった。
ぼう、ぼう、と二回、続けて光る。それから、間が空く。
その二回の瞬きが、同じ方向を向いているように見えた。
壁の向こうに、あの森がある方向。
「……何かに、合わせてる?」
背筋が冷えた。
ポッチの体が、壁のほうへ、ほんの少し傾いている。まるで、遠くから呼ばれているみたいに。
地下には窓も、風も、音もない。それなのに。
僕は、記録帳に書いた。
『刻印の明滅、二回ごとに北東を向く。呼応?』
その二文字を、鉛筆で何度もなぞった。
坑道は、北東の森の奥にある。
偶然、だろうか。
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屋根裏へ上がったのは、日が暮れてからだった。
食事のあと、書き物の道具を取りに戻ったのだ。
扉を開けると、昼の熱気が、まだこもっている。窓の布の隙間から、夜気が少しだけ入っていた。
こつ、こつ。
窓を叩く音。
「……レン」
息を呑んだ。
声が、いつもと違った。
黒い布を、そっとめくる。
月明かりを背に、シルヴィアが立っていた。弓の弦を握った指先が、白くなっている。
「どうした」
「……森が、おかしいの」
「森?」
「見回りの途中で気づいた。夜なのに、坑道の方向が」
彼女は唾を飲み込んだ。
「ほんのり、光ってる」
心臓が、強く打った。
地下の、あの明滅。北東。呼応。
「……シルヴィア」
「何」
「ポッチが、森のほうを向いてる。明滅のリズムも、おかしい」
「え」
「何か起きる。……近いうちに」
彼女は、僕の目を見た。
琥珀色の瞳に、夜の闇と、遠い光が映っていた。
「あたしは、あそこが嫌い」
「ああ」
「でも、あんたが行くなら、行く」
さらりと言って、それからはっとしたように口を結んだ。
「……今のは、護衛として。勘違いしないで」
「分かってる」
「本当に?」
「分かってる」
窓の外、遠い森の奥に、ほのかな青白い光が見えた。
あれが、何なのかは分からない。
でも、僕の中の何かが、はっきりと告げていた。
進化は、もうすぐだ。




