第5話 差し入れと、静かな夜
「……レン、いる?」
黒い布の向こうから、聞き慣れた声がした。
僕は手探りで窓に近づき、布の端をそっとめくった。夜気と一緒に、赤茶色のポニーテールが覗く。
「声が大きい。下に聞こえる」
「あんたが叫んだのも聞こえてたわよ。『わかった!』って」
「……聞いてたのか」
「屋根の上で。ちょうど来たところだったの」
彼女は片手に包みを、もう片方の手に小さな革袋を提げていた。
「差し入れ。あんた、ろくに食べてないでしょ」
「食べてる」
「最後に食べたの、いつ?」
「……昨日の、朝」
「それは食べてるって言わない」
即答だった。
「入れて。窓からでいいわよね」
「だめだ。光が入る。それに宿の主人が」
「じゃあ、玄関から行く」
「え」
言うが早いか、彼女の足音が屋根を伝って消えた。
数十秒後。階下から、野太い声が響いた。
「あん? 誰だあんた」
「保護者です」
「ほ、保護者ぁ?」
「あの子、三日もろくに食べてないんです。ちゃんと食べさせないと」
「いや、だがな、夜中に女を上げるのは……」
「十九歳です。あたし、あの子より年上ですから」
「……そりゃそうだが」
「お願いします」
沈黙。そして、長い溜め息。
「……静かにしろよ」
階段を上る足音が近づく。僕は頭を抱えた。
扉が開いた。
「お邪魔します。……暗っ」
「閉めてくれ。光が漏れる」
「はいはい」
扉が閉まる。真っ暗な部屋に、二人きりになった。
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「保護者って、何だよ」
「他に言い様がなかったの。文句ある?」
「あるに決まってる」
「じゃあ、次は何て言えばいい?」
「……質問に質問で返すな」
「あんたが先に返した」
くすりと笑う気配がした。
暗闇の中で、包みが解かれる音がする。途端に、香ばしい匂いが鼻を突いた。
ぐう、と腹が鳴った。
「……」
「……」
「聞こえた?」
「聞こえたわよ。しっかり」
「……忘れてくれ」
「無理。ほら、手出して」
指先に、温かい塊が触れた。包み葉の中の、焼いた肉だ。ポニーテールの匂いに混じって、脂の甘い香りが立つ。
一口かじった。
「……うまい」
「でしょ。昼に獲った野ウサギ。冷めないように、懐で温めてきたの」
「懐で」
「変な意味に取らないで」
「取ってない」
「今、一瞬止まったでしょ」
「止まってない」
「嘘が下手」
もぐもぐと肉を噛みながら、僕は言い返せなかった。
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半分ほど食べたところで、彼女が言った。
「で、検証結果は? 叫んでたってことは、何か分かったんでしょ」
箸を置いて、僕は居住まいを正した。
「分かった。三日で」
「聞かせて」
「ポッチの進化の鍵は、暗闇と冷たさと、石の鮮度。三つ揃って初めて、脈が安定する。どれか一つ欠けると乱れる」
「単独じゃだめなの?」
「だめだった。闇だけだと食いが早いのに動きが鈍い。冷たさだけだと一度は安定するのに続かない。同時に揃えた時だけ、一定のリズムになった」
早口になっているのが、自分でも分かった。
「石は割りたてじゃないと意味がない。空気に触れて時間が経つと、何かが抜ける。だから箱に入れて暗所保存して、床は濡れ布で冷やして」
「ちょっと待って」
「何だ」
「それ、獲物と同じ」
声の調子が変わった。
「同じ?」
「狩りでね、夜行性の獣を追う時、巣穴の条件があるの。暗くて、冷たくて、入り口が新しい土で湿ってる。そういう場所を、獣は『安全』って感じる」
「安全……」
「ポッチは、自分が『安全』だと思える場所を探してるのかもしれない」
はっとした。
「……そうか。進化は、安全な場所でしか起きない」
「あたしは進化なんて知らないけど。獣が脱皮したり、傷を治す時も、必ず身を隠すでしょ」
「それだ」
思わず身を乗り出していた。
「それなら、環境の優先順位が変わる。暗さと冷たさは、安全を作る条件だ。もし進化が、傷や脱皮みたいに無防備な時間を必要とするなら、邪魔をしないことが、最適化になる」
「……今、すごい顔してる」
「見えないだろ、暗いのに」
「声で分かるの。目が生きてるって」
静かな声だった。
「あたしの知識が、役に立った?」
「ああ。助かった」
「……そう」
短い返事のあと、ごそごそと衣擦れの音がした。
「なら、よかった」
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「見せて、その子」
彼女が、僕の隣に腰を下ろした。
屋根裏は狭い。床に膝を並べ、冷えた板の上のポッチへ顔を寄せる。
暗闇で、見えるのは輪郭だけだ。それでも、とく、とく、と一定の脈が、空気を震わせている。
「……落ち着いてる」
「ああ」
「不思議。見えないのに、分かる」
彼女が身を乗り出した拍子に、肩が触れた。
そして、むにゅ、と柔らかいものが僕の腕に押し当てられた。
おっぱいだ。
革の胸当て越しでも、はっきり分かる重みと弾力だった。
「……っ」
息が止まった。腕が固まる。
「あ」
彼女も気づいたらしい。気配が、ぴたりと止まった。
「……狭いのが悪い」
「僕は何も言ってない」
「言ってなくても、固まってる」
「固まってない」
「嘘」
彼女はそそくさと身を引いた。暗くて顔は見えないが、声がわずかに上ずっていた。
「近づきすぎただけ。他意はないから」
「分かってる」
「本当に?」
「本当だ」
「……なら、いい」
沈黙が降りた。
とく、とく、とく。
ポッチの脈だけが、規則正しく鳴り続けている。
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「ねえ、レン」
「何だ」
「あたし、坑道が嫌いって言ったでしょ」
「ああ」
「獲物が嫌がる場所には、必ず理由がある。ずっとそう思ってきたの。だから、あの場所のことは、気になるのに近づきたくない」
声が、少し硬くなっていた。
「でも、ポッチが食べてる石を見たら、ちょっとだけ考えが変わった」
「変わった?」
「嫌がられる場所にも、ちゃんと意味があるのかもしれない、って」
彼女はそれ以上、語らなかった。
僕も、聞かなかった。
踏み込めない領域があると、知っているからだ。
「……薬草茶、淹れていい?」
「え?」
「目の疲れに効くやつ。袋に入ってる。お湯、あるでしょ」
「宿の主人が、さっき水差しを置いていった」
「貸して」
小さな炭火を借りて、窓の布の裏で湯を沸かす。光が漏れないよう、彼女は身体で火を隠した。
しばらくして、木の椀が手渡された。
「熱いわよ」
「ありがとう」
口をつける。ほろ苦い、草の味がした。喉を通ると、目の奥の疼きがゆっくりと和らいでいく。
「効く」
「でしょ。辺境の薬草。目の血の巡りがよくなるの」
「いい薬草だ。誰が調合した?」
「あたしの知り合いに、詳しい人がいるの。変わり者だけど」
「変わり者」
「そのうち会うかもね」
いたずらっぽく笑う気配がした。
椀を両手で包みながら、僕はぼんやり考えた。
今の僕に、女性のことを考える余裕はない。
半年。期限は迫っている。ポッチの進化だけで頭がいっぱいだ。
……はずなのに。
どうしてか、ふと、まだ見ぬ誰かの顔が浮かんだ。
白衣、だろうか。それとも、森の木漏れ日。あるいは、剣を帯びた誰か。
ぼんやりとして、輪郭がない。
これから出会う、誰か。そんな予感が、なぜかした。
「どうしたの?」
「……いや。何でもない」
「ぼーっとして。茶、冷めるわよ」
「飲む」
僕は椀を傾けた。
三日分の疲れが、ゆっくりと溶けていく気がした。
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シルヴィアが腰を上げたのは、深夜に近かった。
「そろそろ行く。あんたは、ちゃんと寝なさい」
「分かってる」
「本当に?」
「寝る」
「……残りの肉、朝に食べて。干し肉も入れてあるから」
「ありがとう」
「別に」
扉に手をかけて、彼女が振り返る気配がした。
「ねえ、レン」
「何だ」
「一人でやろうとしないこと。もう一回、言っとくわよ」
「……ああ」
「それと」
少し間があった。
「頼ってくれると、嬉しい」
早口で言い捨てて、扉が閉まった。
階段を降りる足音が、軽く跳ねていた。
「……頼る、か」
椀の底に残った茶を見つめる。
認められたい、ずっとそう思ってきた。そのために、誰にも頼らず走ってきた。
でも、今日一日で、彼女の一言がなければ辿り着けない答えがあった。
少しだけ、そう思った。頼っても、いいのかもしれない。
その時だった。
とく、とく、と鳴っていたポッチの脈が、ふいに途切れた。
「……え?」
静寂。
さっきまでの鼓動が、嘘みたいに消えている。
僕は慌てて蝋燭を探し、小さく火を点した。
床の北側、冷えた板の上で、ポッチは完全に止まっていた。
石を取り込む気配もない。伸びも縮みもしない。ただ、黒く、深く、その場に沈んでいる。
そして、体の表面に、浮かんでいた。
円と、線の重なり。
一瞬じゃない。今度は、はっきりと。
刻印のような模様が、淡く、脈を打つように明滅している。
息を呑んだ。
「……始まる」
進化の、準備段階だ。
目の奥が、うずいた。
【生態眼】を開けば、この先が見える。いや、見たい。
でも、これは大事な局面だ。ここで視力を削れば、この先の観察が危うくなる。
僕は蝋燭を吹き消し、暗闇の中で、拳を握りしめた。




