第3話 生き物が嫌がる坑道
日の出前の森は、墨を流したように暗かった。
入り口の大木の根元に、人影がひとつ。腕を組んで、片足をとんとんと鳴らしている。
「遅い」
「日の出前、って言っただろ。まだ出てない」
「屁理屈。ちゃんと寝た?」
「寝た」
「目、見せて」
「大丈夫だ」
「見・せ・て」
覗き込まれる。昨夜より距離が近い。僕は半歩下がった。
「……昨日よりは、マシね」
「だろ」
「偉そうにしない。心配してないから」
「してないのか」
「してない! ほら、行くわよ」
ぷいと背を向けて、彼女は歩き出した。ポニーテールの先が、耳の赤さを隠しきれていなかった。
僕は布袋を肩にかけ直した。中でポッチが、ぷるんと一度揺れた。
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森に入って十分もしないうちに、シルヴィアが足を止めた。
「おかしい」
「何が」
「静かすぎる」
言われて、気づいた。
鳥の声がない。虫の音もない。夜明け前の森は、本来なら一番にぎやかなはずだ。
彼女は膝をつき、湿った土に指を這わせた。
「獣道よ。本当なら、ここは鹿と猪の通り道。足跡が重なって、泥がぐちゃぐちゃになってる」
「今は」
「ほら」
土は、ほとんど平らだった。古い足跡が、雨で崩れた形で残っているだけだ。
「新しいのが、一個もない」
「いつから?」
「雨の前から。少なくとも、三日は」
「三日で、獣が消えるか」
「消えない。だから、避けてるのよ。この先を」
彼女は顔を上げて、森の奥を睨んだ。
僕は袋の口を少し開けた。
ポッチが、いつもより速く這い出してくる。地面に降りると、迷いなく進行方向へ向かった。それも、獣道を外れて、木の根の影が濃い方を選んでいく。
「見ろ」
「何を」
「こいつ、日が当たる場所を一度も踏んでない。必ず影を繋いでる」
「へえ」
「しかも、速度が一定じゃない。奥に行くほど、速くなってる」
シルヴィアが目を細めた。
「引っ張られてる、ってこと?」
「分からない。でも、仮説はある。ポッチが求めてるのは、暗闇だけじゃない。あの石の周りにある、何かだ」
「何かって」
「それを確かめに行く」
「ふうん」
彼女は小さく笑った。
「あんた、語ってる時だけ、顔が変わるわよね」
「そうか?」
「目が生きてる。……いいと思う、そういうの」
さらりと言われて、反応が遅れた。
「……何だよ、急に」
「別に。ほら、行くわよ」
今度は、彼女の耳は赤くならなかった。僕の方が、少し熱かった。
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坑道の入り口は、森が途切れた岩場にあった。
崩れかけた木枠の奥に、黒い口が開いている。
岩肌の足もとに、あの小石が散らばっていた。艶のない黒。割れ口がざらつく。飼育棟で拾ったものと、同じだ。
「ここまでよ」
シルヴィアが僕の袖を掴んだ。
「奥には入らない。入り口だけ。いい?」
「分かってる」
「本当に?」
「約束する」
「……ならいい」
袖を放した彼女の指が、わずかに強張っていた。
見れば、横顔が硬い。さっきまでの軽口が嘘みたいに、唇が引き結ばれている。
「どうした」
「何でもない。ここ、嫌いなだけ」
「嫌いな理由は」
「今は聞かないで」
それ以上は、踏み込めなかった。踏み込む権利も、僕にはない。
僕は視線を、入り口の枠へ移した。
木枠の石の土台に、何かが彫ってある。
苔に埋もれて、ほとんど読めない。円と線が重なった、幾何学的な形。誰かが、道具で刻んだ跡だ。
「これ、人の手か」
「みたいね。でも、見たことない模様」
「古いな。苔の厚さからして、数十年じゃきかない」
「封印、とか?」
「……かもしれない」
言いながら、指先が勝手に動いていた。苔を払おうとして、止める。
触らない方がいい。理由は分からない。でも、そう感じた。
その時、ポッチが僕の足もとを離れた。
「あ、おい」
迷いなく、黒い石へ向かう。
覆いかぶさるようにして、一つ、取り込んだ。
しゅう、と細い音。
体の中心が、じわりと黒く濃くなる。
そして、変わった。
石を取り込んだ部分だけが、ほんの一瞬、脈を打った。
とく、と。
心臓みたいに。
「……今、動いた」
「え?」
「ポッチの体が、脈打った。石に反応して」
シルヴィアが身を乗り出した。
「見えなかった。どこ?」
「中心だ。ほんの一瞬」
もう一度見たい。
目の奥が、うずいた。【生態眼】を開けば、あの「線」が見える。今なら、きっと決定的な何かが。
使いたい。
こめかみが、じりっと熱を帯びた。
「レン」
低い声が、横から飛んできた。
「やめなさい」
「……まだ何も」
「顔に出てる。使おうとしてる顔」
図星だった。
「少しだけだ。一瞬でいい」
「その一瞬で、昨日あんな顔になったんでしょ」
「でも、今がチャンスなんだ。証明するには」
「証明より、あんたの目の方が大事」
遮られた。
真っ直ぐな目で、言い切られた。
「……っ」
「使わなくても、分かることはあるでしょ。あんた、さっき自分で言ったじゃない。ポッチは影を繋いで歩いてるって。あれ、目なんか使ってないでしょ」
言われて、はっとした。
そうだ。
あれは、ただの観察だった。数字も、線も、必要なかった。
僕は目を閉じ、一度深く息を吸った。
そして、肉眼だけで、ポッチを見た。
石を食べるたび、体の黒が深くなる。でも、全部を食べ尽くすわけじゃない。残した石は、触りもしない。
「……選んでる」
「何を?」
「食べる石を。全部は食わない。割れ口が新しいものだけを選んでる」
「古いのは?」
「無視してる。たぶん、空気に触れて時間が経つと、何かが抜けるんだ。だからポッチは、新鮮なものを求めてる」
「つまり、石には鮮度がある」
「ああ。持ち帰るなら、割りたてを、暗い容器に入れて運ぶ必要がある。光に当てたら、劣化するかもしれない」
「……へえ」
シルヴィアの声に、感心が滲んだ。
「目、使ってないのに」
「使わなくても、見えた」
自分で言って、少し驚いた。
使わなくても、見えた。
それは、これまで一度も思わなかった感覚だった。
その時だった。
ぱらぱらと、小さな音がした。
「――レン、下がって!」
腕を、強く引かれた。
視界が回る。気づけば、僕は彼女の背中に庇われていた。
次の瞬間、入り口の木枠の上から、拳ほどの岩が三つ、四つと落ちてきた。
どすん、と鈍い音。さっきまで僕が立っていた場所だ。
土煙が、ゆっくりと晴れていく。
「……崩れた」
「兆候はあったのよ。上から細かい砂が落ちてたの。気づかなかった?」
「見てなかった」
「でしょうね」
呆れた声。けれど、僕の腕を掴んだ彼女の指は、まだ離れていなかった。
小さく、震えている。
「……ありがとう」
「別に」
「震えてる」
「うるさい。見ないで」
乱暴に手を離して、彼女はそっぽを向いた。
「無茶するなって、言ったでしょ」
「ああ」
「次は、本当に怒るから」
「分かった」
「……ほんとに、分かってる?」
「分かってる」
くるりと、琥珀色の瞳が戻ってきた。ほっとしたように、少しだけ細められていた。
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帰りの足取りは、行きより重かった。
袋の中には、割りたての黒い石が十二個。
「何個にするか」で、僕は迷った。
多く持てば、ポッチの観察は進む。でも、坑道は崩れた。もう一度来られる保証はない。
「全部持って帰りたい」
「無理でしょ。重いし、また崩れたら」
「だよな」
「で、何個にしたの」
「十二」
「根拠は」
「ポッチが食べた量から逆算した。一日一個として、十日分。二個は予備。それ以上は、鮮度が落ちる」
「ふうん」
彼女は小さく頷いた。
「ちゃんと、考えてるじゃない」
「……当たり前だ」
「褒めてるの。素直に受け取りなさい」
「ありがとう」
「よろしい」
森の出口で、彼女は足を止めた。
「じゃあ、今日はここまで。あたしは見回りがあるから」
「また、会えるか」
「呼べば来る」
「どうやって」
「窓、叩くわ」
「それは普通に玄関から来てくれ」
「やだ」
くすりと笑って、彼女は森へ消えていった。
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屋根裏に戻ったのは、昼を回ってからだった。
窓に黒い布をかけ、部屋を暗くする。机に十二個の石を並べ、蓋付きの木箱に入れた。
ポッチは待ちかねたように、一個を取り込んだ。
しゅう。
体の中心が、黒く染まる。
とく、と脈を打つ。
さっきより、はっきりと。
僕はメモを取る手を止めた。
脈の間隔が、短くなっている。
二個目。三個目。食べるたびに、体が少しずつ重く、深くなっていく。
「……変わってる」
昨日までとは、明らかに違う。
見たい。
あの「線」が、どうなっているか。
目の奥が、じんと疼いた。
シルヴィアの声が、耳に蘇る。
――使わなくても、分かることはあるでしょ。
「……ああ」
分かってる。でも、これは使わなきゃ分からない。
賭けだ。
僕は一度、深呼吸した。
「三秒だけだ」
自分に言い聞かせて、目を開く。
【生態眼】が、開いた。
滲んだ視界に、ポッチの体内の線が浮かぶ。
昨日は、一本だった。暗い奥へ、ただ伸びていた。
今は――
「……枝が、できてる」
一本の線の先に、新しい分かれ目がある。
細い。まだ頼りない。でも、確かに、別の方向へ伸びようとしている。
その先は、まだ見えない。
「早すぎる」
声が掠れた。
進化には時間がかかる。条件を揃えて、環境を整えて、何週間も何ヶ月もかけて。それが、この世界の常識のはずだ。
なのに、ポッチは、たった二日で――
きりっ、と目の奥が悲鳴を上げた。
三秒。僕は慌てて目を閉じた。
涙が、一筋、頬を伝った。
暗闇の中で、ポッチの体が、ぷるりと揺れる音がした。
ひどく静かで、ひどく楽しげな、音だった。




