第2話 窓の外の狩人
窓の外に、少女が立っていた。
屋根裏の窓の下は、隣家の庇だ。そこから身を乗り出して、彼女は片眉を上げている。
「聞こえてる? その子、本当に育てる気?」
「……誰だ」
「質問に質問で返さない」
「先に聞いたのは僕だ」
「ふうん。意外と口は回るのね」
彼女は窓枠に指をかけ、あっさりと身を滑り込ませてきた。
「ちょっと、勝手に」
「雨宿り。外、まだ降ってるのよ」
嘘だ。さっき雨は上がっていた。ただ、彼女のポニーテールからは、確かに水が滴っている。
床に着地した彼女は、濡れた髪を片手で払った。
小柄だ。僕より頭ひとつ低い。
なのに、革の狩人服の胸元は、息をするたびに窮屈そうに押し上げられていた。濡れた布が肌に張りついて、おっぱいの丸みが、嫌でも目に入る。
「……っ」
僕は慌てて壁のメモに視線を飛ばした。
「どこ見てるの?」
「メモだ。観察記録の」
「白紙だけど」
「……さっき書いた」
「へえ」
彼女は口の端を上げた。が、すぐに自分の胸元へ目を落とし、ほんの少しだけ頬を染めて、外套の前をかき合わせる。
「見てないなら、いいけど」
「見てない」
「……ならいい」
妙な沈黙が落ちた。
「シルヴィア。シルヴィア・クライン。辺境で狩人をやってる」
「レン・アシュベルだ」
「知ってる」
即答だった。
「え?」
「あ、いや。ギルドの追放者は噂になるの。辺境じゃ特にね」
早口で流された。目が、わずかに泳いだ。
……本当に、それだけか?
引っかかったが、問いただす前に、彼女の視線が床に落ちた。
「で、これが例の子?」
部屋の隅で、ポッチは黒く染まった体を静かに丸めていた。
「スライムでしょ。しかも、暗がりにいる」
「分かるのか」
「狩人だもの。足跡と習性は専門よ」
彼女はしゃがみ込み、指を伸ばしかけて止めた。
「触っていい?」
「……そいつに聞け」
「ぷるぷるしてるだけじゃない」
「触れていい、の合図だ。逃げないだろ」
「へえ」
指先で突かれたポッチは、嫌がる様子もなく、ぷるんと震えた。
「冷たい。……でも、変な冷たさ」
「だろ」
つい、声が弾んだ。
「普通のスライムは光と熱を好む。でもこいつは真逆なんだ。暗闇で体が安定して、光からは逃げる。しかも、見ろ」
僕は机の黒い小石の欠片を指さした。
「さっき、これを食った。食べ物じゃない。鉱石だ。なのに溶かして取り込んで、体の中心が黒くなった」
「鉱石を、食べた?」
「ああ。それで、進化の線が、全部違う方向に――」
そこまで言って、はっとした。
シルヴィアが、目を丸くしてこちらを見ていた。
「……すまない。つい」
「なんで謝るの?」
「熱くなりすぎた。みんな、引くから」
「引いてないわよ」
彼女は首を傾げた。
「続けて。その線って、何?」
「……いいのか」
「いいから言ってるの」
短く返されて、喉の奥が詰まった。
誰かが「続けて」と言ったのは、いつ以来だろう。
「進化の道筋が、見えるんだ。数字じゃなくて、流れとして。普通のスライムなら、メタルやポイズンに繋がる。でもポッチは、そのどれにも繋がってない」
「鑑定には?」
「出ない。僕のは、もともと真っ白だ」
言ってから、後悔した。
けれど彼女は笑わなかった。
「ふうん。じゃあ、あんたが見たものを、信じるしかないわけだ」
「……そうなる」
「面白いじゃない」
彼女は立ち上がり、小石をつまみ上げた。窓際の月明かりにかざす。
「これ、どこで拾ったの?」
「飼育棟の、檻の底だ」
「王都の?」
「ああ。他の檻にはなかった」
「……ふうん」
その声が、少しだけ低くなった。
「艶なしの黒。割れ口が、ざらついてる。……見たことある」
「どこで」
「森の奥。古い坑道の入り口あたり。地面に似た欠片がいくつも転がってた。誰も近づかない場所よ」
「なぜ近づかない」
「崩れやすいから、って理由になってる。本当はね、獣も寄りつかないの」
「獣が?」
「そう。気配がないの。生き物が嫌がる場所」
僕は息を呑んだ。
ポッチは光を避け、生き物が嫌がる場所の石を食べた。
偶然じゃない。
「……行ってみたい」
「でしょうね」
「案内、頼めるか」
「それは、あんた次第」
あっさり言われた。
「条件でもあるのか」
「条件っていうか」
彼女は小石を机に戻し、腕を組んだ。
「ひとつ、聞かせて。なんで、その子なの?」
「選んだんじゃない。残されたのが、これだけだった」
「じゃあ、なんで育てるの。追放されたなら、逃げればいい。王都にも戻れない、モンスターにも触れない。それで困るの?」
「困る」
「どうして」
「……証明したいからだ」
口に出してみて、少し違う気がした。
「違うな。いや、証明はしたい。ギルドに認められたい。でも」
視線が、部屋の隅の黒い体に向く。
「こいつの見ている世界が、知りたい。誰も、見ようとしなかったから」
シルヴィアは、しばらく黙っていた。
「……ふうん」
「それしか言えないのか」
「うるさい。感想を整理してるの」
彼女は視線を逸らし、ポニーテールの先を指でいじった。
「ひとつだけ、言っておくけど」
「ん?」
「あんたの審問。書類が、おかしかった」
心臓が、ひとつ跳ねた。
「待て。なんで、審問の中身を」
「今は言えない」
きっぱりと、遮られた。
「確証がないの。軽々しく口にしたら、あんたまで危なくなる」
「危ない?」
「だから、今は言わない。でも、忘れないで。あんたが追放されたのは、無能だからじゃない」
胸の奥で、何かが軋んだ。
署名の乾いた判決文。急ぐ審問官。
あれは、見間違いじゃなかったのか。
「……教えてくれ」
「無理」
「どうして」
「無理なものは無理。……それより」
彼女がふと、僕の顔を覗き込んだ。
「あんた、目、どうしたの」
「……何がだ」
「さっきから、ずっと瞬きが多い。片目だけ細めてる」
ぎくりとした。
「別に、問題ない」
「嘘」
声が低くなった。
「さっき、無理して使ったんでしょ。その、見る力」
「少しだけだ」
「少しだけで、そんな顔になる?」
遠慮のない指が、僕の顎を持ち上げた。
近い。
雨と、草と、ほんのり汗の混じった匂い。吐息がかかる距離で、琥珀色の瞳が僕の目を探っていた。
「……赤い。充血してる」
「大丈夫だ。慣れてる」
「慣れていいことじゃないでしょ」
彼女は手を離した。そして、くしゃりと眉を寄せた。
「無茶するなって言ってるの」
「……え?」
「だから。そんな顔して、ひとりで抱えるなって」
言ってから、彼女の耳が一気に赤くなった。
「ち、違う。別に、心配してるわけじゃ」
「してるだろ」
「してない! ……いや」
目が泳ぐ。
「……心配してるって、言わせないで」
小さな声だった。
僕は思わず、吹き出しそうになった。
「笑わないで」
「笑ってない」
「顔が笑ってる」
「気のせいだ」
「あんた、さっきから嘘が下手すぎ」
互いに睨み合って、同時に息を吐いた。
張りつめていた何かが、ふっとほどけた気がした。
「……とにかく」
シルヴィアは咳払いをして、窓枠に手をかけた。
「今夜はもう寝なさい。目を休めて」
「分かった」
「明日、森の入り口で待ってる。朝いちばん、日の出前」
「案内、してくれるのか」
「勘違いしないで。……あんたの観察結果が面白そうだから。それだけ」
「それだけ、か」
「それだけよ」
言い切って、彼女は窓の外へ足をかけた。
振り返らずに、片手だけ上げる。
「一人でやろうとしないこと。いい?」
「……僕は、一人で」
言いかけて、飲み込んだ。
認められたい。その一心で走ってきた。誰かを頼るなんて、考えたこともなかった。
でも、今夜は――
「……分かった」
「素直でよろしい」
くすりと笑う声を残して、彼女は夜に消えた。
屋根を伝う軽い足音が、遠ざかっていく。
窓が、静かになった。
僕はしばらく、その場に立っていた。
「……なんなんだ、あの人」
独り言に、返事はない。
ただ、背後で何かが動く気配がした。
振り返ると、ポッチが窓のほうへ体を伸ばしていた。
ずるり、ずるりと、這うように。
窓の外。夜の闇の向こう。
黒く連なる森の方角を、じっと向いている。
「……お前も、行きたいのか」
ポッチの体が、ひときわ濃く、黒く染まった。
まるで、遠くの何かに、呼ばれているみたいに。
目の奥が、またじんと疼いた。
けれど、さっきの痛みとは違う。今度は、どこか懐かしい疼きだった。
僕は窓の外に広がる森を見つめた。
月に照らされた木々の奥。生き物が嫌がる、古い坑道。
「……明日、行こう」
小さく、そう呟いた。




